10 私達の故郷は東京から車で3時間程度の、関東地方のある田舎町。 恵の実家に結婚の承諾をもらいに行った時の事。 行く数日前 恵の口から初めて父親が他界していた事を知らされた。 数年前 それまでの心労がたたって亡くなったらしい・・・。 その頃の話を掻い摘んで話した恵の母・・・。 恵は自営業だった家庭の厳しさ、そして貧しさを高校生という思春期の頃に経験したらしい。 あの頃の朗(あか)るい笑顔の裏にあったもの・・・。 それを想像すると私の胸はキリキリと痛んだ。 『今度こそ娘は幸せになれますよね?・・・・』 帰りの車を運転する私の耳に、老母の言った言葉がいつまでも響いていた。 『娘をお願いしますよ・・・慶彦さん・・』 『慶彦さん・・慶彦さん・・』 「あなた・・あなた・・」 ゆっくり瞼(まぶた)を開く私の目に、いつもの光が射してきた。 「あなた 朝ですよ、早く起きないと仕事に遅れますよ」 「・・・・・・・・・」 「夕べはお楽しみだったんですか?私も1時頃までは起きてたんですが・・」 「ん?・・んん ・・おは・・よう・・・」 「もう朝食の用意は出来てますよ」 ようやく頭が回りだした私は一つ大きな伸びをした。 そして目の前の笑顔にホッとした。 朝食を急いで口に運ぶ私。 その様子を洗い物をしながら背中で感じる恵。 味噌汁に口を付ける私の目に、細い腰の下の大きな膨らみが映る。 波多野って言う人知ってるよね?・・・思わずその言葉が出かかった事に自分自身がビックリする。 そんな私に気付かない恵の背中。 ゴクリ・・私は味噌汁と一緒にその言葉を飲み込んだ。 「今夜も帰りは遅いのですか?」 毎朝 出かけに掛かる恵の言葉。 しかし 今朝のその言葉には悪戯っぽい響きが含まれている。 2晩続けての午前様は・・・・・ そんな言葉が聞こえてくる前に私はドアを開ける。 「行ってらっしゃいませ、気をつけて」 その優しい響きに私は笑顔で振り向いた。 “絵のモデルをした事があるかい、ヌードの? それも卑猥な” そんな事を聞いたとしてどうするのだ。 あったとしても、それは過去の事ではないか。 あの日 恵を幸せにしようと誓った日。 震える肩を抱きしめながら、結婚を申し込んだ日。 あの時 恵がしょってきた全ての歴史・・それらを全部受け入れようと誓った日。 そしてそれを改めて胸に刻んだ老母の涙を見た時・・。 私は所詮臆病者だったのか?・・・いや 違う。 違うのだ。 強くなったのだ。 私は愛する者を手に入れ、そして それを守る為 強くなったのだ。 そう・・あんな絵の事はもう気にしない・・・・塩田の顔を浮かべ、奴に宣言した。 そしてもう一度、愛する恵の顔を思い浮かべた。 気が付いたら、私の目に駅の姿が見えてきた。 その日の夜だった。 今夜はなるべく早く帰ろう・・・そんな事を考えながら、残務をこなしていた私の携帯電話が震える。 『山本、昨晩は悪かったな、遅くまで』 「おお 気にするな」 『大切な愛妻にしかられたか?』 「はは 俺が帰ったらグーグー寝てたよ」 『ははは そうかそうか、でも それが倦怠期の始めの一歩やぞ』 塩田の無邪気な笑い声が耳に届く。 『ところで山本、・・・波多野の事やけど・・』 笑いの匂いの消えた塩田の言葉を、すぐに打ち切る。 「塩田 もういい。・・・もういいよ その事は」 『・・・・・』 「恵でも・・・恵じゃなかったとしても・・もういいんだよ・・所詮 過去の事だから・・」 『・・・そうか・・・・わかった・・・・・でも』 その言葉の続きを打ち切るように私は、今 忙しい身である事を告げた。 そして 電話を切った。 それから約1ヵ月後、事件は起こった・・・・・。 |