放送内容
- ■ダイジェスト動画
- ■まとめ記事
■ダイジェスト動画
■まとめ記事
(2024年8月15日の放送内容を基にしています)
シリーズ 「新・ドキュメント太平洋戦争」。1941年から45年まで、日本が繰り広げた戦争を、兵士や市民など個人の視点から辿り、追体験していく。
その手がかりとなるのは、「エゴドキュメント」と呼ばれる日記や手紙だ。
1941年の開戦以来、海の向こうで続いてきた戦争。1944年、ついに市民たちの暮らす町に爆弾が降り注ぐ。
3万人の日本人が暮らしていたサイパン。アメリカ軍が上陸し、日常は一瞬で破壊された。
戦局打開のためとして日本は遂に一線を越えた作戦「特攻」に乗り出す。犠牲となったのは、若者たちの命だった。
そして、首都・東京の空にアメリカの爆撃機が姿を現す。戦火が銃後へと拡大し、若者たちが追い詰められていく1944年。絶望の空の下、人びとは何を綴ったのか。
<銃後の市民たちの思い>
1941年、太平洋戦争が開戦した直後、破竹の勢いで占領地を広げていった日本。市民たちは熱狂の渦の中にあった。
まったく、我が海軍の強さ、驚く他なきなり。
(農家・野原武雄48歳 日記)
この時に生まれた合わせたことは、とても幸福なことであると思う
(小樽市潮見台国民学校6年生 絵日記)
しかし、わずか半年後、ミッドウェー海戦を機に太平洋で敗北を重ね、日本の勢力圏は縮小。死守すべき領域として、絶対国防圏を設定した。
そして、1944年1月。
首相・東條英機(当時)「敵の焦っておる今こそ、敵を徹底的に叩いて、これを破局に追い込むに逸すべからざる好機であります」
銃後では、防空訓練が頻繁に行われ、本土空襲への警戒感が高まっていた。
開戦以来日本の勝利を信じてきた主婦・金原まさ子。4歳の一人娘の身を案じるようになっていた。
防空常会へ連れて出席。焼夷弾落下を家の中へ想定する。
可愛い住代!空襲の被害の下、あなたをどうかして守りたいけどなあ。
(主婦・金原まさ子 日記)
その頃、アメリカでは最新の戦略爆撃機「B29」の生産が急ピッチで進んでいた。それまでの爆撃機の能力を遥かに凌ぐ、5000キロ以上の長距離飛行が可能だった。その出撃拠点として、アメリカが狙っていた場所がある。日本の本土をB29の攻撃圏内に捉えられる島。日本が絶対国防圏の要衝としていたサイパン島だ。
<“日本の防波堤”サイパンで暮らす少女>
当時サイパンは、日本の「委任統治領」だった。沖縄本島のわずか10分の1の小さな島に、およそ3万人の日本人が暮らしていた。
東北や沖縄などから、より豊かな暮らしを求めて人びとが移り住み、主に製糖業で身を立てていた。
この島で育った女性の貴重な手記が残されていた。
佐藤多津、14歳。父の三郎、母のとよと山形から移り住んだ。
手記は、両親との穏やかな日常から始まる。
父は毎朝口笛を吹きながら、私の自転車の点検をするのが日課でした。
『気をつけてな!』 『いってきまーす』と、自転車を押しながら道路に向かうと、『気をつけてね』と母の声。
(佐藤多津 手記)
製糖会社に勤める父と、料理が得意な母の一人娘として大切に育てられた。
一輪挿しにハイビスカスの花を挿して机を飾りました。
母も私の部屋に来て、「たこちゃん(多津)、机の上が女の子らしく素敵になったわね」と喜んでくれました。
当時、多津の家族が訪れていた場所がある。
島の北東部にある「月見島」。サイパンに移住した人びとは、月を眺めながら祖国を懐かしんだ。
日曜日には月見島の海岸ヘピクニックに行きました。
お弁当やお菓子、果物などを沢山持って、とても楽しい一日でした。
たとえ、アメリカが攻めてきても日本軍が守ってくれる。一家は、そう信じていた。
サイパン島は日本の防波堤なのだから、日本軍が放置する訳がない。
(佐藤多津 手記)
6月。多津が、ニワトリにエサをやろうとしていた、その時だった。
製糖工場のサイレンが、けたたましく鳴り出しました。急に爆音が聞こえてきました。
敵機は見る見るうちに低空飛行で近づいてきます。
私と母はサツマイモ畑に腹ばいに伏せました。機銃掃射を浴びせてきました。
(佐藤多津 手記)
アメリカ軍は、圧倒的な戦力で、多津が暮らす島の南西部から上陸を始めた。多津の家族が住んでいた街は、がれきの山と化した。
民間人は、軍に協力することを求められ、「敵に投降してはいけない」と、教え込まれていた。
多津の家族は、敗走する日本軍と共に、北へと逃げていくことになる。
<激戦は中国大陸でも>
危機に陥った絶対国防圏の要衝・サイパン。この時日本軍は、太平洋の防衛に戦力を割けない理由を抱えていた。
中国大陸で、50万以上の将兵が激戦を続けていたからだ。
点在する敵の拠点を制圧する一大作戦。その戦果は銃後にたびたび報じられていた。
長沙を占領し、更に南下し続けていた我軍は、ほとんど制したと言ってよいだろう。
近時の朗報である。
(作家・伊藤整 日記)
支那戦線は在支米空軍の基地を攻撃せられつつある。
勇戦奮闘の皇軍将士の労苦を想い、唯(ただ)感謝にたえない。
(徴用工・竹鼻信三 日記)
今回、中国での作戦に従軍した兵士の日記が見つかった。
福岡県の商業学校を卒業後、徴兵された大下敏郎、23歳。銃後には報じられなかった、戦場の現実を密かに綴っていた。
食糧も装備も不足する中、およそ2400kmを徒歩で移動する作戦だった。
皆 疲労の極。緊張を欠いた者がぽとりと倒れる。
呻吟(しんぎん)暑さ、血染む繃帯(ほうたい)、頭痛あり。
前進 歩度早し。ここの道にも死体がころがって、異臭が漂っていた。
連日の強行軍 十里(40㎞)が普遍になった。
(大下敏郎 日記)
大下が見た戦場を記録した写真も見つかった。
突撃していく日本兵たち。粘り強く抵抗を続ける中国軍に苦戦を強いられていた。写真には駅の前で爆撃を受けて亡くなった、中国の人びとが映し出されている。
従軍カメラマン撮影
凄惨な戦場で、大下の部隊は秩序を失っていく。
戦後、大下は手記にこう記した。
捕虜四名つれて帰る。命だけは助けて呉(く)れという。
中隊長に報告する。殺せの一言。
田の中に二人共押し伏せて、銃にて胸と頭部、もう一人は頭部を射つ。
これで終わった。気持ちは動塡(どうてん)。人間の命の儚(はかな)さを知る。
(大下敏郎 日記)
日本軍は、中国大陸に戦力を割いたまま、太平洋でアメリカと対峙していた。
<サイパン島 追い詰められる少女の家族>
この年の6月、サイパンではほとんど雨が降らなかった。
親子三人でジャングルをさまよっていた14歳の佐藤多津。水を求めて山間の水源地を目指していた。
その水源地にアメリカ軍は、攻撃を加えていった。上陸から2週間で島の半分を制圧した。
父は「水源地は死人の山で、水を汲むどころではないそうだ」と言って、私の前を歩き出しました。私の後ろは母が歩いています。
水は一升瓶にもう半分しか残っていません。何回も身を伏せた際にこぼれてしまった。
(佐藤多津 手記)
追い詰められた多津の家族は、島の北部にあった洞窟に逃げ込む。そこは、兵士や民間人でひしめき合っていた。
アメリカ軍は洞窟に空から爆弾を落としてきた。
バーン、バーン、ドカンと三回すさまじい音。
父親に抱かれて泣いている男の子、見ると父親の首は飛んでなくなっていました。
まさに地獄そのもの。
(佐藤多津 手記)
ここで、生死の選択を突きつけられた住民もいた。
アメリカ軍の攻撃で大けがを負った小村ミサキ。夫の末松が、その時のことを手記に残している。
いよいよ最後だ。「ここで残って自決するか」妻に聞く。
「歩けるだけ歩いて、生きられるだけ生きます」と言う。
(小村末松 手記)
小村夫妻は、サイパンの日本人が祖国を懐かしんだ「月見島」へ向かった。
月見島近くの防風林までたどりつく。十五夜の満月だ。
(小村末松 手記)
上陸から3週間、アメリカ軍は、島のほぼ全域を制圧しつつあった。
万事休す。
断崖の上に立ち はるか海の彼方を眺めながら、最後の一本の煙草を喫(の)んだ。
月見島がすぐ下に見える。
「飛び込むんだ」。妻を押して、私も飛び込んだ。
しかし、夫は死にきれず、妻のミサキは瀕死の重傷を負う。
ただ水ばかり欲しがる。その水もない。
どうしたら内地に帰れるのか、戦争に負けた場合でも帰れるか、しつように聞く。
息づかいも荒いし、目もとろんとしている。十七時永眠。
(小村末松 手記)
7月7日、日本軍の組織的抵抗は終わり、将兵4万人が戦死。民間人の死者は1万人に上った。
島が陥落する直前、軍の高官が語った言葉が記録されている。
「女子供玉砕してもらいたし。皇軍とともに戦い、生死苦楽を共にするになれば、誠に大和民族の気魂は、世界及び歴史に示されることが願わしい」
(陸軍省医事課長 大塚文郎 備忘録より)
大本営発表「サイパン島の在留邦人は終始、軍に協力し、おおむね将兵と運命をともにせるもののごとし」
多津の家族は、月見島の周辺に身を潜めていた。その後も、絶望的な逃避行を続けていく。
月に照らされて黒光りのする沢山の遺体を眺めていました。
(父の言葉)「飛び込んだ人達が、打ち寄せられたんだ。我々にはどうすることも出来ない」「どうせ我々も早いか遅いかの違いで、あの運命をたどるのだ」
(佐藤多津 手記)
<迫る空襲 引き裂かれる親子>
サイパン島が陥落し、本土空襲が迫る中、国民に大移動が呼びかけられた。
内務省防空局長「足手まといとなる、老人や子供たちを地方に出てもらい、重要都市の防衛体制を強化する」
「学童集団疎開」。46万人の子どもが親元を離れ、地方での避難生活を余儀なくされていく。
これが最後の別れとならないともかぎらない。父兄たちは恥を忘れ、子どもにしがみついて離れない。
(教員・浜館菊雄 「学童集団疎開」)
その夜、多勢の学童が一時(いっとき)に居なくなった高円寺の街を、一人でしずしず歩いてみた。
子供達がいなくなると、こんなにも淋しくなるものかと驚いた。
(歯科医師・碓氷元 「戦時庶民日記」)
学童疎開の日々を綴った80年前の記録が見つかった。
ニュースを聞きました。天皇陛下 お勅語をくださったそうです。
私は、一生懸命に聞きましたが、わかりません。
(疎開児童・久保田(旧姓:上原)栄子 絵日記)
小学4年生だった上原栄子さん。東京の郊外に疎開した。上原さんが通った国民学校では、絵日記を書くのが日課。残されていた日記は、合計22人分、3000ページに及ぶ。
いよいよ今日、集団疎開で家を離れます。
お風呂へ二度入って、身を清めてから、出発しました。
(疎開児童・西川幸江 絵日記)
子どもたちはまだ、事の切実さをうまく飲み込めずにいた。
疎開して始めての音楽の時間。
お空の天じょう、松の木が日影をつくってくれた下で、楽しい音楽をやった。
(疎開児童・乙葉裕子 絵日記)
床をしく時はてい電中で、「あら おねまきがない」「まくらがない」などいいながら、うるさくてねむれない。
(疎開児童・梛野徳子 絵日記)
<すさむ人心と“一撃講和”>
国民の間にあった「この戦争に勝つ」という確信が、揺らいでいく。
総理大臣として国民に総力戦を求めてきた東條が、退陣したのだ。
内閣総辞職とは、なんなる無責任ぞや。
何たる弱腰であろう。信頼出来ぬ指導者達である。
(鉄道員・小長谷三郎 日記)
社会に、苛立ちと不安が広がっていく。
いろいろな噂頻々。
東條総理大臣が自殺をし、戒厳令が敷かれるとか。
サイパン玉砕以来、人心が荒んだような気がする。
(主婦・金原まさ子 日記)
国の指導者達は、絶望的な戦局の中でも引き返すことはなかった。
防衛総司令官/東久邇宮稔彦 陸軍大将「陸海軍の航空戦力を統合して、アメリカ軍に一撃を加え、その時機に和平交渉をするのがよい」
「一撃講和」。残された国力を結集してアメリカに決戦を挑み、大損害を与えて講和に持ち込むという考えだった。
大本営の参謀が戦争指導の方針を記した日誌。
最早、希望ある戦争指導は遂行し得ず、残るは一億玉砕に依る敵の戦意放棄を俟つあるのみ。(「機密戦争日誌」より)
防衛研究所戦史研究センター 所蔵
<学生たちは軍の工場へ>
東京武蔵野市に、飛行機製造の中枢、中島飛行機があった。ここに東京中から学生が集められた。
10代の女学生たちも次々に動員されていく。戦争を継続するため、前年の倍の生産を求められた。
映画『制空』/半田製作所
勤務のあと、日々ピアノを奏でる女学生がいた。高等科3年の川田文子。学業を中断し、工場の寮に住み込みで、働いていた。
文子は、工場勤務を機に、日々の記録を書きとめはじめる。
エンジン製作の現場で、見たこともない部品や機械に、向き合った。
15日、みぞ堀り
機械の調子わるい
機械の速度に合わせて、バランスを取って仕事をしなくては
早く一人前の工員になる
(川田文子 日誌)
提供 立命館大学国際平和ミュージアム
日誌の隅に、文子の個性をうかがわせる記述があった。
衣服欄。今日の衣服7月2日、ツーピース。
3日、黄色のワンピース。白ブラウス。
勇ましい中に清潔な服装にしたい。
工場ではおよそ3000人の学生が汗を流した。
恋文の受け渡しがあったりして、女学生らしいひそかな秘密も楽しみのひとつ。
(武蔵野女子学院・細野八重 「あの日を忘れないために」)
初恋だ。何につけても気になるのは彼女の態度だ。
ハチマキを彼女に借りる決心をして、成功した。
頭に巻こうとした所、何と、憧れ続けた正真正銘の匂い。
もうこれで空襲で死んでもいいとさえ感激した。
(早稲田実業学校・重原正三)
しかし、学生らしい時間を過ごす余裕は、次第に消えていく。
1日12時間の勤務や、徹夜の作業を課せられることも頻繁になった。
睡眠不足の深夜勤のときなど、立ったまま気が遠くなり、一瞬、眠ってしまうのだ。
覚醒剤のヒロポンが配られるようになった。
(自由学園・羽田澄子)
何よりもつらかったのは、生理用品のないことだ。ワラ半紙のやや薄めのものを貰ってきたり、ボロ布を何度か洗って使ったこともあった。
(武蔵野女子学院・村山美代子 「あの日を忘れないために」)
前向きに仕事に取り組んできた文子にも異変が起きる。
音楽(の練習)なし
昨夜より少しお腹の工合(ぐあい)わるい
夜熱39度。大腸カタルとのこと。
力がでない。
(川田文子 日誌)
体調不良を押して働き続けた文子。戦争を続けるという国策が、若者たちを追い詰めていく。
<特攻 人間魚雷「回天」に乗った若者>
10月。アメリカとの決戦をもくろむ軍の指導部は、ついに一線を超えた作戦に出る。
「特攻」だ。
軍はこの特攻に、もう一つの狙いを持っていた。
僚友に最後の別れを告げる勇士たちは、従容としてむしろ死所を得たる喜びに燃えていた。(「神風特別攻撃隊」日本ニュースより)
出撃直前の若者の姿を記録し、ニュース映画やラジオで繰り返し報じた。
サイパン陥落後、不安や苛立ちを覚えていた国民を奮い立たせようとした。
ああ ラジオは又 若鷲の崇高な体当り攻撃による大戦果が発表されている。
ああ何も言えぬ!頭(こうべ)を垂れるのみ。
(主婦・金原まさ子 日記)
日本ほど美しい戦いぶりをしたものは、人類あって以来かつて無かった。
ああ、祖国日本よ。国民はみな祖国の神聖さを守り、そのためには、生命を捧げようとしている。
(作家・伊藤整 日記)
空の特攻がはじまった翌月。山口県の大津島から、新たな特攻部隊が出撃する。
海軍が魚雷をもとに開発した、人間魚雷「回天」。1.5トンあまりの爆薬を搭載し、潜水艦から出撃する特攻兵器だ。
当初は「脱出装置」が検討されたが、性能が低下するとして見送られた。搭乗員は、直径1mの空間の中、外が見えない状態で敵艦に突撃する。
極秘の訓練施設に、10代から20代の若者たちおよそ1400人が集められていく。
新兵器を初めて見る。
今日は課業中も、家の事、近所、友人の事を想ひ出して困った。
間もなく死ぬ 死。死。
(搭乗員・松田光雄 日記)
あらゆる欲望を捨てなければならない。
我等には死も生も、愛も、悲しみも、喜びも、あってはならない。
(搭乗員・佐野元 日記)
最初に出撃命令を受けた若者の、120通にのぼる手紙が見つかった。
今西太一、25歳。慶應義塾大学を卒業後、海軍に入隊した。国際貿易や英語などを学び、世界を舞台にした仕事に就くのが夢だった。実家は京都の和菓子屋。母はすでに亡く、父と4歳年下の妹を気遣い、たびたび手紙を送っていた。
今西は父親に「ある望み」を打ち明けていたことが分かった。
華子女をもらって戴きとう存じます。
と言っても、全く短かい契りにはなります。
彼女へ捧げる私の誠は、この淡い契りも充分幸あるものたり得ると、確信させるのであります。
(回天搭乗員・今西太一 手紙)
今西の大甥/正藏さん「結婚したかったんですよね。ある一人の女性をすごく愛しておられたんでしょう。『死にたい、死にたい』ではないですから。死にたくないけど仕方がないっていう、結局はそこにいくんですよね」
父・浅次郎は縁談を取り付けるため奔走したが、叶わなかった。
あのようになるのは最初から予想していたところでありました。
と言っても、流石に少しは淋しい気にもなりましたが。
息子のためならどんなことでもと言うお父様に、甘えて 甘え過ぎました私。
何卒お許し下さい。あのお願いも、他所の夢として、今は楽しく励んでおります。
(回天搭乗員・今西太一 手紙)
今西は、上官から短刀を受け取り、11月8日、太平洋へと向かった。
父と妹に宛てた遺書を残している。
お父様 フミちゃん 太一は本日、回天特別攻撃隊菊水隊の一員として出撃します。
何一つ不幸を知らぬままに大きくして戴いた私。ここに感謝のうちに散ってゆきます。
御父様とフミちゃん、それに私の三人のあの写真と一緒に突撃します。
(回天搭乗員・今西太一 手紙)
11月20日午前4時54分、今西の回天が潜水艦から出撃。51分後、大きな爆発音がしたと、記録に残っている。
空と海の特攻で、およそ6000人が命を落としたとされるが、正確な人数は分かっていない。
<サイパン島 少女の目の前で父母は撃たれた>
アメリカ軍がサイパンを占領して3か月。
日本本土まで飛行可能な、あの新型爆撃機「B29」が配備された。
私たちの機体はとても美しい。皆、子どもみたいに興奮している。
(B29パイロット・チェスターマーシャル 「Sky Giants Over Japan」)
しかし、アメリカ兵たちは、警戒を緩めるなと、釘をさされる。
山岳地帯に5000~6000人のジャップが、立てこもっている。
特に危ないのが、北のスーサイドクリフへと続くジャングルだ。
やぶの中からジャップに見られているような気がして薄気味が悪かった。
(B29パイロット・チェスターマーシャル 「Sky Giants Over Japan」※原文の表現のまま使用しています)
島のジャングルでは、14歳の佐藤多津が両親と身を潜めていた。
今日も日が暮れようとしています。全然雨が降らない。
天水を頼りに生きてきた私達には苦痛で、心身ともに疲れ果てていました。
(佐藤多津 手記)
ある日、父親の三郎が一枚の紙を手にする。民間人に対し、命を保証するので投降するよう、アメリカ軍が促すものだった。
疲れた今の逃避行から逃れ、保護して欲しい気持ちもありました。
でも敵は、女ならばいたずらをし、子供と一緒に並べてブルドーザーでひき殺すと聞いていたので、絶対に敵に捕まってはいけない、不幸にも捕まるようなことになったら、自決しようと話し合いました。
(佐藤多津 手記)
アメリカ軍は、投降を呼びかけても応じない日本人に猜疑心を募らせていく。
敵は民間人をおとりにして、我が軍を開けた場所に誘い出す。
民間人の背後から発砲してきた。
(米海兵隊の報告書より)
アメリカ軍の銃口が、民間人に向けられていく。
その日、僅かな水を手に入れた母のとよが、鮭の缶詰を開け、ささやかな食事を作った。
母が「ほら、たこちゃん、夕食よ!我が家の晩餐よ」と、にこにこしながら、湯気の立っている鍋を置きました。
私が「お父さんから」と言うと、「大人はいいんだよ。早く温かいうちに食べなさい」と父に言われ、私から頂きました。
親子三人は久しぶりに温かい食事でくつろぎ、私はいつの間にか眠ってしまいました。
(佐藤多津 手記)
それが一家での最後の食事となった。
用足しをしたいと母が歩き出したので、私もそれに続き避難場所から十メートル程離れた時、木々の間からこちらへ近づいて来る人影が見えました。
前に立っていた母が倒れました。
(佐藤多津 手記)
母のとよは、至近距離からアメリカ兵に発砲され、命を奪われた。母の遺体をジャングルに残したまま、多津は父とふたり、逃げまどう。
1か月後。再びアメリカ軍の襲撃を受け、父・三郎も命を落とした。
父の遺体にとりすがり、もう涙も出ませんでした。
遺髪をむしりとりながら、傷の跡を調べました。
けい動脈に穴があいていました。
私は父にそっと毛布を掛けてあげました。
(佐藤多津 手記)
その後、多津はアメリカ軍に捕まり、収容された。手もとには、両親の遺髪だけが残った
<B29が東京へ 市民の暮らしは・・・>
今から80年前の1944年11月1日。
サイパンを飛び立ったB29が、初めて東京の空に姿を現した。
突如、警戒警報が鳴り渡ったかと思うや、たちまちそれが空襲警報扱いに変って、すさまじくひびき渡り、たちまち緊張に包まれた街々!
(主婦・金原まさ子 日記)
この日を境に、昼夜を問わない警報が日常となっていく。
子どもたちの疎開先でも、B29が空を横切る。
音楽。オルガンの音が飛行機の爆音で、よく聞えない。
飛行機雲が大変いっぱいついている。気持の悪いのや、きれいなのがある。
あの一本が敵機で、もう一本が敵機を追った、勇ましい日本の飛行だったのだ。
(疎開児童・田島よし子 絵日記)
学童疎開は、空に怯えながらの生活に一変した。
防空壕を決めた。・・・これからずっとここへはいるのだ。
(疎開児童・鈴田裕子 絵日記)
先生は、「ここがみんなの死に場所だ。ここをはかばだとおもっていなさい」とおっしゃった。
私はなんだかへんな気がした。
(疎開児童・乙葉裕子 絵日記)
家が思い出されて、悲しくて悲しくてたまりませんでした。
(疎開児童・西川幸江 絵日記)
しかし、警報は鳴っても、なぜかB29は、爆弾を落とさなかった。
空襲の災害を極度にきらっているのに、何事もなく過ぎると「ナーンだつまらぬ」という気持ちになる。
住代には空襲は面白いと言ってあるので大よろこび。
(主婦・金原まさ子 日記)
アメリカ軍は、爆撃目標を絞りつつあった。飛来していたのは、写真偵察機だったのである。全国各地の軍事施設を撮影し、ジオラマまで作って、攻撃をシミュレーションしていた。
ターゲットナンバー、357。中島飛行機・武蔵製作所。
あの女学生、川田文子たちが働く工場が、標的に決まった。
<戦火は海を越えた>
真珠湾攻撃から、およそ1000日。111機のB29が東京を目指す。搭乗員たちは、初めての爆撃を前に緊張していた。
この日が来た。不安が加速してくる。
顔には出ていないかもしれないが、正直、怖くてたまらない。
北西方向に、見えてきた。高く空にそびえ、美しく雪をいただいた富士山だ。
(B29パイロット・チェスターマーシャル 「Sky Giants Over Japan」)
空からは、中島飛行機がよく見えた。
突如、白というより銀色に輝く見慣れぬ型の飛行機が一機頭上を過ぎた。
非常に美しく軽快に。私は海を渡る白鳥を仰ぎ見る気持ちであった。
(帝国第一高等女学校 教員・坂口正代 「あかね雲」)
その白鳥の腹の中には、4500キロの爆弾が詰まっている。
「扉を開けろ」
東京の目標に向けて爆弾を送り届けた。
いま 下にいる人たちはどういう思いだろう。
(B29パイロット・チェスターマーシャル 「Sky Giants Over Japan」)
中島飛行機で働く学生たちは、束の間の休憩をとっていた。
食堂で昼食中にズシン、ゴーという音と共にぐらぐらと揺れ、しばらくして電灯が消えた。
(早稲田実業学校・前田弘)
次の瞬間、キーンと乾き切った、何かきな臭い感じが宇宙全体を包むと同時に、ドドドーンと鼓膜も破れる、重々しくしかも鋭い轟音。
(帝国第一高等女学校 教員・坂口正代)
東工場から煙が出ている。二、三か所燃えて煙が上がっている。
(早稲田実業学校・前田弘)
女学生の川田文子は、工場で、勤務中だった。
24日、空襲警報、待避。
(川田文子 日誌)
この日以降、連日のようにB29が飛来する中、文子たちの勤務は続いた。
そのさなか、文子は母親に便りを出している。
(実家の)牛込はまだ無事のようですが、きっと来襲して来ると思います。
お母様達も何処かに疎開なされたら良いと思います。
できるだけお気を付け下さい。私も十分気をつけます。
四日の晩は帰ります。
では又、さようなら。
(川田文子 手紙)
<空襲 奪われた少女の未来>
12月3日。文子は、同級生の藤岡千鶴子と工場の食堂にいた。
警戒警報が鳴りわたった。
あわてて食事のあとを片付け、川田(文子)さんは壕の方へ走ってゆかれた。
「先に行くわね」と一声かけられて。
ガラガラゴオーッというような、空気を振動させる投下音。
(文子の同級生・藤岡千鶴子 「自由学園23回生の記録」)
工場一帯に566発の爆弾が降り注ぐ。
煙が広がってきて息苦しく、頬が熱くなってかっかとしてきた。
皆、金魚のように口をパクパクさせて・・・喉と胸が焼けつくように痛い。
(早稲田実業学校・前田弘)
爆弾が、文子のいた防空壕に直撃した。
爆風で壕が崩れて中にいた方々は、圧死のような状態となって掘り出されつつあった。
川田さんは防空頭巾の中のお顔も、着ていらした洋服も泥だらけになって横たえられ、私は、ただ呆然とその有様を見つめ泣いていた。
(文子の同級生・藤岡千鶴子 「自由学園23回生の記録」)
千鶴子たち同級生が、文子を遺体安置所へ運んだ。
先生もかけつけられ、たまたまその日持ち合わせていらした真新しい口紅をあけて、川田さんの唇にそっと紅をおひきになった。
きれいにぬぐわれた川田さんのお顔は、いつものように美しく静かであった。
(文子の同級生・藤岡千鶴子 「自由学園23回生の記録」)
勤務をはじめてから、文子が毎日欠かさず、つけた日誌。12月3日で終わりを迎えた。
銃後が戦場となったこの年、多くの若者が、未来を奪われていった。文子のいた工場では、125人が亡くなった。
空襲のあと、所長の訓示が、新聞に大きく取り上げられた。
爆弾はいずれも重要部を外れています。
これが神国の所以であり天佑であります。
生産に何等の支障もないのです。追撃又追撃の増産です。
(中島飛行機武蔵製作所 所長)
<それでも戦争は続いた>
1945年、更に多くの民間人を巻き込みながら、戦争は続いていく。4月、沖縄本島にアメリカ軍が上陸。サイパンで起きた悲劇が繰り返される。そして、B29の特殊部隊が広島、長崎へと飛び立っていく。
<サイパンで両親を失った少女は・・・>
サイパンで両親を失った佐藤多津。ことし(2024年)1月、93歳で息を引き取った。
戦後、帰国したあと、家庭を築き、孫やひ孫にも恵まれた。
晩年になっても、毎年のように、サイパンに通い続けた。
多津さんが亡くなる直前につぶやいた言葉がある。
佐藤多津の長女/北原多美子さん「『ここの道をね、抜けていくとね、サイパンのビーチにつながるような気がして』って言ったんですね。やっと両親に会えてるかな」
サイパンには、両親の遺骨がいまも眠っている。