ブログNO.188
いかがわしい一須賀古墳群の解説
あり得ない「百済人の墓所」扱い
過日、読売TVの夕方の番組で、大阪府河内郡河南町の一須賀古墳群を紹介する番組が放映されたのを機に、久しぶりに古墳群と古墳群の説明に当たる府立「近つ飛鳥博物館」を訪ねた。が、相変わらず、事実とは思えない的外れな解説に終始している様が読み取れて、期待外れに終わった。館員らは親切で、説明も素人にも分かるように丁寧であっただけに惜しまれる。結果的に府民を騙すような解説をしていると言われても仕方がないのではないか。こんな博物館に巨額の税金をつぎ込んでいる府の姿勢に疑問を持ったし、日本の古代史のいかがわしさがもろに出ていることが感じられた。
放映は、何の知識もない「プロデューサー氏」と半知半解の「作家氏」が古墳を訪ねて、館の学芸員から説明を受けるという設定で行われていた。
まず問題だな、と感じたのは、館員の「この古墳群に葬られた人々は、(朝鮮の)百済から来た人々を葬っている」と言う説明と、作家氏の「この古墳群に葬られた人々は、大和政権と関係がある人々なんでしょうね」との言葉だ。
古墳群が「朝鮮からの渡来人が造ったものだ」という館員の説明は、別に館員の個人の意見でもないし、独創でもない。館が発行しているすべての冊子にそう書かれている。
まずこのことから検証してみよう。
第一に古墳群が築かれたのは5世紀から6世紀にかけて造られたという。「正確無比」とされる放射性炭素(⒕C)による年代測定など、理化学的な年代測定が一度でも実施されたうえでそう言っているのか。わからない。が、近畿の遺跡の年代はそれ以外の地域の年代と違い、事実とさほど狂ってはいないと見られるから、ほぼ間違いない年代ではないかと思われる。
近畿の遺跡の年代を推定する堺市の陶邑(すえむら)出土の須恵器の年代は、基本的に⒕Cの年代測定も参考にして推定されているからだ。
では、5世紀から6世紀にかけて、当時「倭(ヰ)国」と呼ばれていた(注1)古墳時代の我が国に、百済の人が数多く移り住んだことが事実として認められるのだろうか。
当時の百済は、東隣の新羅や北の高句麗に激しく攻められ、まさしく青息吐息の状態であった。倭国に支援を求めて王族を人質として差し出してもいた。倭国の官人が百済に多く派遣されてもいたことは同国などの史書『三国史記』や高句麗・好太王碑文の著述などで明らかだ。
我が国の『新撰姓氏録』には、百済からの渡来人が数多く記されている。が、ほとんどは7世紀中葉、百済が唐と新羅の連合軍によって滅ぼされ、我が国に逃亡先を求めてきた人々が記されていることが分かっている。
一方、朝鮮と倭(ヰ)国の九州を結ぶ対馬海峡は狭く、難なく利用されていそうだ。だが、地図で見るのと現実は大違いだ。この海峡は南からの巨大な潮流である黒潮が、狭くなった海で勢いを増し、おまけに北からは親潮が岸を洗う。危険な三角波が至る所で発生して、「大荒れする海」として名高い。手漕ぎや風頼りの小船で渡ることは不可能に近い。何百馬力と言う近代の船でないと渡れない海峡なのだ。
1970年代に角川春樹氏が商船大学のカッター部員ら約30人を集めて、渡航実験を試みた。が、もちろん失敗し、漕ぎ手は疲労困憊の末、付き添いの大型船に助けを求めた。渡ることはできなかった。
おまけに当時、朝鮮半島南部一帯は、黒潮を利用して日本列島を目指した東南アジアや中国大陸からの難民(渡来人)が、九州に上陸できずに一帯に住み着いた。そこで勢力持ち3世紀時点では倭国の領土となっていたらしい。
『魏志』韓伝には「韓は、東西は海、南は倭(ヰ)に接している」と、その事実を伝えている。朝鮮半島南部からは、倭国に祖型を持つ矛や刀、鏡、鎧や冑などが続々と発見されている。
ただ、九州から半島に渡るのは、比較的楽に行けたらしい。九州の西岸から出発し、五島列島経由で済州島を目指し、半島南岸を目指せば良かった。
要するに、百済人が半島南部の他国の領土に侵入し、危険極まりない海峡を渡って来たということはあり得ない事態である。まして「文化を伝えた」など事実とは考えられないことだ。
では、一須賀古墳群が百済人と関係がない被葬者を葬っているとすると、誰が葬られているのだろうか。考えられるのはまず、中国南部から南九州に渡来し、鉄を国の中心に据えて勢力を伸ばし、ついには列島全域を支配して「年号」まで創って発布していた熊曾於族(熊襲。隼人族)だろう。このブログを読まれている方々はもう察しがつこう。
「九州倭(いぃ)政権隠し」「大和政権一元論」といういかがわしい「古代史づくり」を目論んで大和政権が作った史書『日本書紀』では、熊曾於族はその実態が全く隠され、ただの蛮族であったかのように記述された人々だ。
彼らは縄文時代末ごろから弥生時代にかけて、黒潮を利用して中国から逃亡してきた人々の子孫である。弥生時代中頃には、鉄の知識や馬の利用、須恵器の作り方など当時の大陸の最先端の技術と知識を持った人々と合流した。
彼らは自らの墓として、中国で数多く出土している「偏室墓」(図2=山東省出土。上が上から見た平面図。下は横から見た断面図。漢代のものという。「文物」から)と全く同じ形の「地下式横穴墓」を採用していた。(図1)は、「地下式横穴墓」の一般的に使われている図である。が、断面図の入り口に円墳が築かれていることはカットされている。この入り口は地表に顔を出している。図のままでは大雨や台風の時、大量の水が玄室に流れ込んで墓としての用をなさない。
そこで実際は、地表の入り口に土饅頭(円墳)と排水用の溝を作って雨風の災を防いでいた。この伝統は地下式横穴墓から崖墓(横穴墓)に引き継がれ、横穴墓群の崖の上には一基だけ円墳状の土饅頭が築かれているケースが多い(写真=福岡県鞍手町、古月横穴墓群で。崖墓群の上に一基だけ円墳が築かれている)。熊曾於族の墓であることを示す「標識」とされているようだ。
重要なことは、この「地下式横穴墓」の築造年代が大きく間違えられて伝わっている事だ。7世紀とか5世紀とか言われているが、あろうことか⒕Cの年代測定値をひた隠しにし、市民に知られないようにしているようだ。
地下式横穴墓からも鉄製品の刀や蛇行鉄剣、金メッキした馬具、須恵器などが大量に出土している。「蛮族であった。5世紀ごろに朝鮮から伝わった鉄の存在など知らなかったはずだ」という『日本書紀』の記述からくる「ニセ情報」に合わせて、無理やり築造時期を遅らせて、市民に伝えようとしたと考えられる。
中国での「偏室墓」は、古いもので紀元前8世紀の春秋時代のものもある。南九州の「地下式横穴墓」もおそらく、大半は遅くとも紀元前後の遺構であろうと思われる。
九州は日本列島全域と同様、火山の島である。知識さえあれば豊かな鉱物資源を利用して当たり前だ。そして、中国では須恵器は紀元前2000年以上前から、鉄器は紀元前500年頃の戦国時代から盛んに造られていた。
一須賀古墳群のほとんどは円墳であるという。百済人の墓ではなく、5世紀末から6世紀にかけて、全国を支配下に置いた熊曾於族の古墳である可能性が高い。古墳群からもおびただしい数の様々な馬具も出土している。地下式横穴墓や崖墓(横穴墓)と同じだ。金製品、銀製品も同様である。
だが、すべての出土品が大陸由来のものでなく、朝鮮製だと説明されている。
近つ飛鳥博物館が発行している「官報」を見ると、基本的に韓国の研究者による成果をよりどころにしているケースがほとんどだ。遺物に関して、日本全国の研究者の成果や中国の研究者の成果を参考にした発表はとんと見受けられない。偏りが甚だしい。
『日本書紀』だけを歴史解明の手段と考えている人々の危うさがあり、府民に誤った歴史を伝えることに巨額の税金を使う「いかがわしさ」がそこにある。
とりあえず大和政権の最初の年号「大寶」(701年)に先行する九州年号(522年、「善記」から始まる)の研究、そして「倭国」から始まり、「その別種である日本」への権力移動を記述している中国の史書『(旧)唐書』などの研究から始められたらいかがか。年号を発布できるのは政府とか「その折の権力」だけである。よいお年を。
注1 日本は古くは「倭国」と呼ばれていた。これを「ワ」国と読むのは明らかな間違いである。中国の「正史」はすべて「漢音」で記されており、「ヰ」としか読めない。後漢の字典「説文解字」がきちんと解説している。「ワ」は南方の読み「呉音」であり、漢音とは全く違う読み方である。また「奴国」を「ナ国」と読む読みも存在しない。漢音で「ト」であり、『魏志』の場合「戸口」「門口」の意味で使われている。(2024年12月)