続幕 三の章 鬼哭啾々
第10話 何者でもない唯一の己
「鬼、とは隠れるとかいて
十二月十日の木曜日、暁人は教室でぼうっと日本妖怪史の授業を聞き流していた。
妖怪史という授業は、溟月島特有の単位科目である。陰陽師と妖怪の自治区であるが故、妖怪への理解は、必須だった。
「とはいえ実際の鬼はそんなに怖くないよね。彼らは体格こそ優れて威圧的に感じることもあるが、実際話してみると気さくでいい奴だし、涙脆いやつが多いんだ。先生は今は人に化けてるが普段は鴉天狗なのはみんな知っているだろう? だが鬼の友人が何人かいてね。一人、親友と呼べる男は聞き上手で、ぜひみんなの前で講義してくれと頼んでいるんだが……なかなか、口説いても折れてくれないんだ。おっと、話がそれたね」
授業に身が入らない。普段、妖怪史は日本妖怪西洋妖怪問わず好きで聞いて真面目にノートを取るが、今日はシャーペンが動かなかった。
暁人は心ここに在らずという有様で、腑抜けた顔をしていた。
端的に言えば実家でのことが尾を引いていた。
いくら家督がかかっている、一族の存続がかかっているとはいえ、実の家族が、一人の命が奪われたのである。
それを素直に弔うことすらできないヒトの醜さが、その剥き出しの欲と醜悪が、暁人の中でしこりになって痛みを発していた。
「ちょい、暁人。集中しなよ」
隣から焜がペンで突いてきた。
「悪い……」
今は切り離さなくては。今日は暫くぶりに仕事が入っている。しかも、結構な捕物だ。集中しなくては、自分が死ぬ。
それは嫌だ。妹を守れなくなるとか、友達に会えなくなるとか理由は色々あるが、死にたくない。死にたくないから、死にたくない。生きる理由なんて、多分ヒトそれぞれだが、突き詰めればそれだけで十分である。
死にたくないなら、死に物狂いで生き延びればいいだけだ。世界はいつだって残酷で、そして純粋で、野生的で、無邪気なくらいに単純である。
暁人は頭を切り替えて、板書をノートに写した。速読速記のコツを、叔父から聞いたことがあり、彼はそれが得意だった。
なかなかに味のある字面は、名家の血筋ゆえか。彼の字は達筆とクラスで評判だった。
このモヤモヤを、焜に相談してみようか。暁人はそう思い、先生の目を盗んで話しかける。
「依頼先までの間、少しいいか?」
「別にいいけど」
焜は特に否定するでもなく、暁人の意思を汲んだように頷いた。
そうして二人は放課後を迎え、バスに乗って在川区のさらに東、法泉区に向かう。
桜坂区と在川区の沿岸部と、法泉区全域は巨岩に覆われていない港湾エリアである。唯一外海と接する玄関口であり、法泉区は特に旅客船が行き来する場所だった。無論立ち入りの検問は厳しいが、それでもオカルトライターや民俗学者といったフィールドワーカーは、この地に来たがる。あるいは、入民パスを取得した者が、移住してくることも。
暁人たちはバスで桜坂駅まで行き、そこから電車に乗り換えた。移動中の溟月鉄道線の客車で、向かい合った席の対面に座る焜に話題を切り出した。
「お前ってさ、一族のしがらみを……どう思う?」
「どうって?」
「……。……祖父が死んだ時、一族の親族たちはみんな家督争いに終始して、誰も祖父さんの死を悼んじゃいなかった。その光景が異様で、忘れられないんだ。幸い妹は終始不機嫌だった俺の方が印象深かったらしくて、あんま気に病んじゃいねえみたいだけど」
焜はストローで好物のいちごミルクを啜って、
「私には親族がいないからわからないし、野生上がりだからそういうしがらみがない世界で生きてきたから何も言えない。でも、人間らしいなとは思う」
「人間らしい?」
「感情的で乱暴者かと思えば、途端に欲を打算に置き換えて行動する狡猾さはいかにも人間だなって。でもお祖父さんも、一人でも真剣に悲しんでくれた人がいたんなら、浮かばれたんじゃないかしら。少なくともあんたは、本気で悲しかったんでしょ。だから今、そんな顔してるんだろうし」
「顔? そんなわかりやすいか、俺」
「少なくとも、今はスカしてないわね。年相応の男の子って感じ」
暁人は右手で頬に触れた。スカしていると時々言われるのは、表情筋が死んでいるから、と自嘲することが時々あったが、そんなことはないらしいと、この時ようやく自覚した。
そして、焜の発言は妙に達観した物言いだったが、腑に落ちるものだった。
野生で生きてきた彼女は、その苛烈さを知っている。世界の純粋すぎる残酷さを。狐は野生下では六、七年生きられればいい方だという。人間で言えば小学校に上がってまもないくらいの年齢で、彼らは事故や病、天敵に喰われ、死ぬのだ。
無論彼らと人間の時間を同一に語ることはできはしないが、それでも、そこにあるあまりにも酷な時間の断層を、彼女はそれでも二十年、生き延びた。
二尾になり、化ける術を経て、今に至るのだと、聞いている。
妖怪の歳の取り方は当然人間とは違うのだ。彼らの六十年、七十年は人間で言えば高校生くらいだが、そこに至る生涯における経験は、決して、平坦ではない。まして焜は寄る辺のない野生上がりと言われる妖怪だ。その苦労は、並大抵のものではない。
彼らには彼らの苦労があり、それはおそらく、人間だってそうだろう。
暁人が醜悪と切って捨ててしまえる親族だって、相応の心労がある。傲慢で傲然に見える態度も、そこに至る苦労があったからこその自信の表れであり、揺るがぬ信念の表出である。
時折暁人が焜からスカしていると言われるのも、多分、それだろう。表情が生きていてなおそう言われるのだとしたら、知らぬうちに、どこかで染み付く貴族趣味が顔をのぞかせ、彼女を不快にさせているのだ。それは治すべき悪癖だ——ようやく、実感としてそれが伴う。
貞夫も、明子も、芽衣も、そしてこちらに理解がある次男・遼太郎も、優秀すぎ、そして奔放な兄に——暁人の父に、振り回されたのだろう。
だからこそ、これ以上その血を色濃く引く暁人をどこかで嫌悪していた。それがあの、妙にへりくだった卑屈ともいえる態度であり、貞夫の敵意だったのだ。
暁人の当主賛成派も、恐らくは若い彼をどうにかして籠絡し、傀儡にする算段がどこかにあったかもしれない。あるいは、畏れからくる、純粋な服従だったかもしれない。それはもう、想像の域を出ないから、なんとも言えることではないが。
「少し考えりゃ、わかることだったんだな。みんな……苦労してんだ」
「暁人だってそうでしょ。普通高校生で両親がいないなんて、滅多に聞かない。この島でも。……暁人、野生上がりの教訓を一個教えてあげよっか」
「なんだ?」
「あらゆる不幸せは他人との比較から生まれるのよ。奢りも、傲慢もね。世界は誰のためにも存在しない。ただそこにあって、この世はせいぜい三千世界の借宿みたいなもの。いずれはみんなここで旅支度を終え次第、去っていく。自分の宇宙を見定めなさい。あんたは、一体、何者なの?」
……俺は。
「俺は、……俺は、唯一無二の俺でありたい。他人に侵害されることも、奪われることもない、ただ一つの俺に」
「そう。私も同じ。だから私は最強を目指す。他人と比較した最強じゃない。己の弱虫を倒し続ける真の最強に」
「すごいな、……お前は、その真理にとっくに気づいてたなんて」
「私の凄さ、やっとわかった? せいぜい、私のバディに相応しい男になりなさい。いつか背中を預ける時が来た時に、安心して任せられるくらいには」
電車が駅で止まった。
法泉駅。ここからは徒歩で、廃ビルに向かう。移動先はかつてオフィス街だった封鎖地区で、現在は立ち入り禁止区域である。故にバスもタクシーも寄りつかない——が、半グレ集団などが屯したり、あるいは闇市が開かれているという不穏な噂もあるスラム街である。
今日の仕事は手配犯である三等級呪術師・
暁人は溟人こそ祓うとはいえ、術師を殺した経験はまだない。焜は何度か、あるらしいが。
「行くわよ」
焜がそう言って、席を立った。暁人もすぐに後に続き、電車を降りた。
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