ネット遺族会

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なぜ未だに斎藤知事の辞職を求めている人がいるのか不思議なのだが、おそらく「人が死んでいる」からであろう。局長の怪文書はお粗末な内容であるし、天下りの年齢制限に不満を持っただけである。動機が不純だ。しかし、問答無用で死は美しい、と考える人がいる。生きるのが苦しい、生きていても意味がないと普段から愚痴っているのに、誰かが死んだとなれば「命の価値」が誕生し、弔い合戦が始まる。生きていると命の価値がないのに、死んだ瞬間に発生するのである。生者は醜いが、死者は美しい。生きているときの腐臭が消える。死んだら神様である。「家族」とか「遺族」というのは象徴的な記号であるし、極端に言えば実在していない。われわれは赤の他人に価値など無いと考えているが、「赤の他人の家族」となると、唐突に人間愛が立ち上がる。どんなに醜い人間でも家族は美しいらしい。これは「家族」というのが観念的だからであろうし、特に「遺族」ともなれば、生者の生臭さが消えて、いい匂いがする存在なのである。家族も遺族も実在していると言うかもしれないが、生臭い一個人を超越した大文字の存在である。つまるところ理想的な家族像が突拍子もなく浮かんでくるのである。どこにそんなハートフルな家族があるのか、という意味で、実在していないのである。そういう絵空事だけが怪物として彷徨している。死者だけに与えられる「命の価値」を生きている人間に取り戻せればよいと思うが、しかし生者の生々しい顔を思い浮かべると、価値などないという結論に辿り着く。
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