「日本人はおしゃれ」というのは世界的にも認知されているようだ。
それはいいが、その一方で「捨てましょう」ブームによる衣類の捨てブームもまた激しい。
日本人が「整理すべき物」の筆頭は「服」。
20年位前までは、古着屋に服を持っていけば、結構な金額で服を買い取ってくれた物だが、今ではどんなブランドが付いていてもほとんどタダ同然、どころか処理料を請求されるくらいだ。
にもかかわらず、ユニクロの売出しには行列が出来、地方都市にもファッション誌の切り抜きみたいな人々がいる。
どんな山奥にも。
どう考えても買いすぎだろう。
服に自己主張の概念がありすぎる。
身体を守るものという本来の役割を大きく逸脱している。
「人と違う物を着なければならない」あるいは
「突飛だと変な人だと思われてしまわない?」
「だけどおしゃれと思われたい」
様々な思いと売りたい企業の思惑の中で、気が付くと一枚一枚服を買ってしまうのだろう。
だから私はいつも同じものを着ている。
服がダメにならないからだが、息子の同級生の母はいつも違うしまむらの服を着て、私を貧乏そうと言わんばかりだ。
いつも違うお召し物を着て、デカイ家に住んでいるその女性の夫は東電の社員だ。
原因は「着物」文化に起因しているのではないかと思う。
戦後しばらくまで着物文化が根付いていた日本ではあけてもくれても「着物」というスタイルを一貫してきた。
着物は反物一本を男性から子供まで、全ての体型の人に合わせて作り上げる。
お嫁に行くときは籠一杯の衣装を嫁道具に持ち、それを自分が着るのはもちろん、子供が生まれれば子ども用に仕立て直し、更に布巾、おむつ、褌、最後は雑巾にまで使いまわし、ボロボロになったら焚き物として最後は処分したのだそうだ。
着物には細かいサイズが無く、前のあわせ、腰でのたくし上げ、肩の調整などで誰もが着ることができる。
ということは「フリーサイズ」なので「誰でも着れる」から、生地さえ気に入れば買ってくれる人がいたということだ。
そんなわけで「需要」があり「財産」として価値があった。
時代劇を見ていると「古着屋」と売る人との駆け引きが時々取り上げられる。
江戸時代には古着屋は蕎麦屋より多かったそうで、人々が気軽に着物を交換していたことも考えられる。
また「着たきり雀」という言葉があるように「時々は着物を替える事は良いこと」という風潮も生まれていたかもしれないし、元禄文化では日本人の繊細な美意識から美しい着物も沢山織り出されていたはず。
アニメの「ほたるの墓」ではお母さんの衣装を売ってお米に替えるシーンがあり、戦後しばらくまでは着物は高く売れたようだ。
このような状況だと、余裕のある人は「気分転換に取り替える」事も出来たのではないだろうか。
ところが、欧米の「洋服」という衣類は身体に合わせて型を取り、ほかの人と服の共有をすることがとても難しい。
持主にとってはとても着易いけれど、ほかの人が着るならばそれなりの調整をしなければならないし、ヨーロッパの人は服に微調整をすることは当たり前だと思っていて、男性でも針を持って縫い物をしたりする。
また、一日の中に春夏秋冬があるため、衣類によって、体温の微調整をする。
よくヨーロッパでカーデガンを腰に巻いたりしているのを見かけるのは、体温の微調整をしているのだそうだ。
そして、日本人がヨーロッパで新しい服を着ていると「あるのに、何故買うの?」と言われるのだとか。
「やたら買うことは愚かしいこと」と捉えられているので、イギリスなどでは古着の肘にパッチをつけてまでも着倒し、それは当たり前と取られているらしい。
ところが日本では古い服を着ているのはみっともないという価値観が蔓延している。
少しでもすれているのはみっともない。
靴下に穴が空いているのもみっともない。
だからやたら買わなくてはならない。
いつまでも同じものを着るのもみっともない。
だから穴が空いたり、すれてもいないのに捨ててしまう。
こんな服飾文化なので、耐久性のあるいい商品は売れない。
安い服を次々に買うだけなので、いいデザイナーとは実用性のあるいい服を作る人ではなく、見た目かっこいいだけの服を作る人になってしまった。
タレントが描いた落書きから、けばけばしくて華美なフリルなんかを付けた服でも起こして、服に仕立てたような物も売れてしまう。
レースやフリルのある服は洗濯や手入れが難しく、主張も強すぎて他の服とあわせにくく、着にくい服なのだが。
日本人は服と言うアイテムとその背景を知らず、それどころか外国人がやたら重ね着するのはかっこ悪い、野暮ったい、とまで言う人がいる。
自分の勉強不足を知らず、消費文化に飲み込まれているのがかっこいいのか。
活動的な女性の服飾文化を作り上げたシャネルは晩年はシンプルな黒のワンピースだけしか持っていなかったと言う。
「豪華すぎる文化はやがて無駄をそぎ落としてシンプルに向かう」と彼女は言った。
華美な衣類は洗練されていない証。
江戸時代から開国、文明開化、戦争と、日本は激変の歴史を経て、現在に至る。
ところが明治の開国あたりまでしか歴史は教えられず、一番肝心の太平洋戦争は「忌まわしい過去」として葬り去り、見ようともしない。
おかげでほとんどの日本人は歴史オンチ、自国の文化オンチ。
8月15日は何の日と聞いても分からないバカがいるくらいだ。
しかも結構な年齢でもね。
衣類についてもおなじ。
着物と洋服と言う文化の違いすら検証せずにやたらと買い込み、持て余している。
その割りにアングロサクソン人に合わせた服は、その体型の違いを残酷なまでに現してしまう。
同じ洋服を着たら、絶対彼らにはかなわない。
ヨーロッパの町にはマネキンのようなかっこいい人々が闊歩している。
彼らが着ているものはごくごくシンプルで地味。
それなのに見とれるほどかっこいい。
憧れて日本人が服を着てみても、本当に存在感がない。
小さいので、彼らと対等の印象を持つためには猿回しの猿のような服でなければ対抗できない。
海外の人が日本人をおしゃれとおだてるのは、「やたらと買ってくれるカモ」として褒めおだてておけばいいと思ってるんだろう?という気がする。
さて、こんな情けない日本人だが、ヨーロッパ人に負けない服がある。
着物だ。
日本人が晴れ着を着ると、ヨーロッパの人の中でも引けをとらずに輝く。
小柄で顔の大きな日本人を実に美しく魅せてくれる。
激しく動くと崩れてしまうので、しとやかな動きが必須なのだけど、動きを抑えた動作がまた美しい。
そして太い帯がコルセットの代わりに背骨を支えるので、背筋が通って凛とした動きを出す。
同じ着物を肩幅が広くガッチリした、小顔のヨーロッパ人が着ると、どうにもかっこがつかない。
着物だけが悪目立ちしすぎてしまう。
着物は美しい。
特に日本人によく似合う。
なぜ、この文化を捨ててしまったのかと残念でたまらない。
それはいいが、その一方で「捨てましょう」ブームによる衣類の捨てブームもまた激しい。
日本人が「整理すべき物」の筆頭は「服」。
20年位前までは、古着屋に服を持っていけば、結構な金額で服を買い取ってくれた物だが、今ではどんなブランドが付いていてもほとんどタダ同然、どころか処理料を請求されるくらいだ。
にもかかわらず、ユニクロの売出しには行列が出来、地方都市にもファッション誌の切り抜きみたいな人々がいる。
どんな山奥にも。
どう考えても買いすぎだろう。
服に自己主張の概念がありすぎる。
身体を守るものという本来の役割を大きく逸脱している。
「人と違う物を着なければならない」あるいは
「突飛だと変な人だと思われてしまわない?」
「だけどおしゃれと思われたい」
様々な思いと売りたい企業の思惑の中で、気が付くと一枚一枚服を買ってしまうのだろう。
だから私はいつも同じものを着ている。
服がダメにならないからだが、息子の同級生の母はいつも違うしまむらの服を着て、私を貧乏そうと言わんばかりだ。
いつも違うお召し物を着て、デカイ家に住んでいるその女性の夫は東電の社員だ。
原因は「着物」文化に起因しているのではないかと思う。
戦後しばらくまで着物文化が根付いていた日本ではあけてもくれても「着物」というスタイルを一貫してきた。
着物は反物一本を男性から子供まで、全ての体型の人に合わせて作り上げる。
お嫁に行くときは籠一杯の衣装を嫁道具に持ち、それを自分が着るのはもちろん、子供が生まれれば子ども用に仕立て直し、更に布巾、おむつ、褌、最後は雑巾にまで使いまわし、ボロボロになったら焚き物として最後は処分したのだそうだ。
着物には細かいサイズが無く、前のあわせ、腰でのたくし上げ、肩の調整などで誰もが着ることができる。
ということは「フリーサイズ」なので「誰でも着れる」から、生地さえ気に入れば買ってくれる人がいたということだ。
そんなわけで「需要」があり「財産」として価値があった。
時代劇を見ていると「古着屋」と売る人との駆け引きが時々取り上げられる。
江戸時代には古着屋は蕎麦屋より多かったそうで、人々が気軽に着物を交換していたことも考えられる。
また「着たきり雀」という言葉があるように「時々は着物を替える事は良いこと」という風潮も生まれていたかもしれないし、元禄文化では日本人の繊細な美意識から美しい着物も沢山織り出されていたはず。
アニメの「ほたるの墓」ではお母さんの衣装を売ってお米に替えるシーンがあり、戦後しばらくまでは着物は高く売れたようだ。
このような状況だと、余裕のある人は「気分転換に取り替える」事も出来たのではないだろうか。
ところが、欧米の「洋服」という衣類は身体に合わせて型を取り、ほかの人と服の共有をすることがとても難しい。
持主にとってはとても着易いけれど、ほかの人が着るならばそれなりの調整をしなければならないし、ヨーロッパの人は服に微調整をすることは当たり前だと思っていて、男性でも針を持って縫い物をしたりする。
また、一日の中に春夏秋冬があるため、衣類によって、体温の微調整をする。
よくヨーロッパでカーデガンを腰に巻いたりしているのを見かけるのは、体温の微調整をしているのだそうだ。
そして、日本人がヨーロッパで新しい服を着ていると「あるのに、何故買うの?」と言われるのだとか。
「やたら買うことは愚かしいこと」と捉えられているので、イギリスなどでは古着の肘にパッチをつけてまでも着倒し、それは当たり前と取られているらしい。
ところが日本では古い服を着ているのはみっともないという価値観が蔓延している。
少しでもすれているのはみっともない。
靴下に穴が空いているのもみっともない。
だからやたら買わなくてはならない。
いつまでも同じものを着るのもみっともない。
だから穴が空いたり、すれてもいないのに捨ててしまう。
こんな服飾文化なので、耐久性のあるいい商品は売れない。
安い服を次々に買うだけなので、いいデザイナーとは実用性のあるいい服を作る人ではなく、見た目かっこいいだけの服を作る人になってしまった。
タレントが描いた落書きから、けばけばしくて華美なフリルなんかを付けた服でも起こして、服に仕立てたような物も売れてしまう。
レースやフリルのある服は洗濯や手入れが難しく、主張も強すぎて他の服とあわせにくく、着にくい服なのだが。
日本人は服と言うアイテムとその背景を知らず、それどころか外国人がやたら重ね着するのはかっこ悪い、野暮ったい、とまで言う人がいる。
自分の勉強不足を知らず、消費文化に飲み込まれているのがかっこいいのか。
活動的な女性の服飾文化を作り上げたシャネルは晩年はシンプルな黒のワンピースだけしか持っていなかったと言う。
「豪華すぎる文化はやがて無駄をそぎ落としてシンプルに向かう」と彼女は言った。
華美な衣類は洗練されていない証。
江戸時代から開国、文明開化、戦争と、日本は激変の歴史を経て、現在に至る。
ところが明治の開国あたりまでしか歴史は教えられず、一番肝心の太平洋戦争は「忌まわしい過去」として葬り去り、見ようともしない。
おかげでほとんどの日本人は歴史オンチ、自国の文化オンチ。
8月15日は何の日と聞いても分からないバカがいるくらいだ。
しかも結構な年齢でもね。
衣類についてもおなじ。
着物と洋服と言う文化の違いすら検証せずにやたらと買い込み、持て余している。
その割りにアングロサクソン人に合わせた服は、その体型の違いを残酷なまでに現してしまう。
同じ洋服を着たら、絶対彼らにはかなわない。
ヨーロッパの町にはマネキンのようなかっこいい人々が闊歩している。
彼らが着ているものはごくごくシンプルで地味。
それなのに見とれるほどかっこいい。
憧れて日本人が服を着てみても、本当に存在感がない。
小さいので、彼らと対等の印象を持つためには猿回しの猿のような服でなければ対抗できない。
海外の人が日本人をおしゃれとおだてるのは、「やたらと買ってくれるカモ」として褒めおだてておけばいいと思ってるんだろう?という気がする。
さて、こんな情けない日本人だが、ヨーロッパ人に負けない服がある。
着物だ。
日本人が晴れ着を着ると、ヨーロッパの人の中でも引けをとらずに輝く。
小柄で顔の大きな日本人を実に美しく魅せてくれる。
激しく動くと崩れてしまうので、しとやかな動きが必須なのだけど、動きを抑えた動作がまた美しい。
そして太い帯がコルセットの代わりに背骨を支えるので、背筋が通って凛とした動きを出す。
同じ着物を肩幅が広くガッチリした、小顔のヨーロッパ人が着ると、どうにもかっこがつかない。
着物だけが悪目立ちしすぎてしまう。
着物は美しい。
特に日本人によく似合う。
なぜ、この文化を捨ててしまったのかと残念でたまらない。