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シリコンバレーで狂ったように働いていた大学生が日本で就職したら、尖りすぎて全然うまくいかなかった話

エネルギーだけでとりあえず起業することと、本当に筋のいい「事業家」になることは、まったく違います。

かつての僕は前者でした。

いま僕は「プレックス」というベンチャー企業を経営しています。創業から6年、メンバーは370名を超え、今年度の売上は60億を見込んでいます。

周りの方から「めっちゃ順調だね」「なんでそんなうまくいってるの?」と言っていただくこともあるのですが、決して最初からうまくやれたわけではありません。

とくに学生時代から新卒にかけての自分は失敗ばかりで。志と態度だけはデカいけれど、突き抜けたものはなんにもない人間でした。

このnoteでは、かつて「勢いだけで起業した若者」だった僕が、失敗を通して「事業家の考え方」を身につけるまでの話をしたいと思います。事業づくりに興味のある学生や社会人の方にとって、少しでも役に立てばうれしいです。

2秒で起業を決める

初めての起業は、大学3年生のとき。

友人3人と一緒に「子ども向けの英会話教室」を立ち上げました。

僕がもともと、留学生と日本人学生を集めた「国際交流会」を主催していて、それが結構うまくいっていたんです。

そこで知り合った留学生の友人に「シュンさん、わたし、英会話教室で英語教えてみたい。そういうの夢だった」と言われて「おー、じゃあやるか!」と、2秒で起業を決めました。

子ども向けにしたのは、僕が家庭教師をやっていた家の子どもが「英語もやってみたい」と言ってくれたからです。その家のお知り合いで5人ぐらいお客さんを集めて「いったんはじめるか!」という感じでスタートしました。

人との繋がりと勢いだけの、典型的な学生起業。

しかし、口コミですぐに5人集まったので「お、いいぞいいぞ」と、最初こそ順調な雰囲気だったのです。

半年で誰もいなくなった

教室をひらいたのは大塚でした。

学習塾の先生をしていた友人に頼んで、場所を間借りさせてもらいました。最初は生徒5人。そこから口コミで広めようとしたのですが、当時は営業もマーケティングも全然わからず、、。

しかも「英会話教室」は思った以上にレッドオーシャンだったのです。他社との差別化要素もない僕らでは、まったく人が集まりませんでした。

途中で、生徒のお母さんが「私も習ってみたい」と言ってくれて、主婦層の方々にも教えることになりました。それで3、4人だけ生徒が増えたのですが、そこからは増えることなく、経営はどんどん苦しくなっていきました。

子どもは辞めてしまうし、主婦の方も2、3ヶ月で満足してしまうんです。みんな「絶対に英語をやらないといけない」という強い目的があるわけではないので「こんなもんか〜」で終わってしまう。

生徒がだんだん減っていき、メンバーの給与もほとんど払えなくなりました。

最初は「シュンさんついて行きます!」「がんばりましょう!」と言ってくれていた2人も、半年で「ごめんなさい、やっぱりなんかちょっと事情があって……」と言って離脱してしまいました。

気づけば仲間がみんないなくなって、大塚のビルの1室でたったひとり。「うわー、終わった……」と思いました。

音大生向けにシフトチェンジ

ただ、そのまま終わりたくはなかったので、2週間ぐらいで別の仲間を集めて再チャレンジすることにしました。

子ども向けや主婦向けだと「英語をやらないといけない」という動機がなく、続かない。ターゲットを変えればうまくいくんじゃないかと思ったのです。

そんなとき、たまたまNHKの交響楽団の動画を見ていたら、指揮官がドイツ語で音大生に指示をしていました。でもその音大生の人たちが、あんまりドイツ語をわかっていなさそうだったんです。

「これだー!」と思いました。
「次は音大生向けに、ドイツ語とかイタリア語を教えてみよう」と。

それで早速、ギターを背負って池袋の音大に行きました。で、学食で横の人に「こんにちはー」と話しかけたんです。「ドイツ語とかイタリア語を教えようと思うんですけど、どうですか」と。

もちろん5人中4人ぐらいには無視されましたが、たまに話してくれる人もいました。「私、これからイタリアに留学して歌曲を歌いに行くから、そのためにイタリア語をしゃべれるようになりたい」「ドイツ語しゃべれるようになりたい」という人が結構いて。

イタリア人とドイツ人の知り合いもいたので「これはいける!」と思って「音大生向けの多言語教室」というふうにコンセプトを変えました。都内のいろんな音大に行ってお客さんを集めたら、なんとか28人まで増えたんです。

けっきょく儲からず、いったん就活

しかし、やってみてわかったのは、この規模で教室をやってもぜんぜん利益が出ないということでした。料金を安くしていたので、かなり頑張って30人集めても、利益は月に30万円ぐらい。

「これだと、がんばって伸ばしても限界あるな……」と思いました。

起業は、大学を1年休学してやっていました。自分がサラリーマンに向いていない自覚はあったので、就職したくなかったんです。でも、英会話教室の失敗を経て「いったんどこかの会社に入って、事業をつくって伸ばす能力を身につけないとダメだな」とも思いました。

それで、就活をすることにしました。

リクルートやコンサル会社のインターンに行っていろいろ見ていたときに、たまたま「エス・エム・エス」という会社を見つけました。エス・エム・エスは医療や介護などのヘルスケア業界でめちゃくちゃ伸びていて、しかも新卒採用の人数が少なかったのです。

「リクルートに入って、たくさんの新卒の中で100%勝ち抜く自信はない。でも、ここならチャンスが掴めるんじゃないか……」

そんな下心もあって、狙い撃ちでエス・エム・エスを受け、無事に内定をいただくことができました。

「エンジニアといったらシリコンバレーでしょ!」

就活は3週間ぐらいで終わらせました。まだやりたいことがあったからです。

それはシリコンバレーに行ってエンジニアになることでした。

当時、2013年14年はITバブルでした。AirbnbやUberが流行っていた時期です。学生でもIT起業家が本当にたくさんいて、リクルートに会社を売却したりしていたんです。

僕は文系でエンジニアリングができませんでした。でも「これから起業するとしたら、ITができないとちょっと厳しいだろうな」と思っていました。

で、「エンジニアと言ったらやっぱりシリコンバレーでしょ!」と思ったんです。

ばかみたいな理由ですが本当にそれだけで、シリコンバレーに行こうと決めました。もちろん周りの反応はさんざんでした。「こいつ何言ってんだ?」「上智の文系のくせに無理だろ」という感じです。

まずはどうにかシリコンバレーに行くために「トビタテ!留学JAPAN」という留学支援の制度に応募しました。

面接で「シリコンバレーでエンジニアとして働きます!」といったら「黒崎さん文系ですけどやったことあるんですか?」と聞かれて、「ないです。ただ、このあとの半年間本気でコミットして、できるようになります!!」と答えて。

いま考えると無茶苦茶ですが、1期生で応募がとても少なかったこともあり、運よく合格して留学できることになったんです。

渋谷のITベンチャーで修行

とりあえず9ヶ月後にはシリコンバレーに行くことが決まりました。

それで早速「ゼロプロ」というゼロからプログラミングを習うイベントに参加しました。コードを書いてみたら、けっこうおもしろくて。Facebook機能にミクシィの足あとをつける拡張機能を作ったら、入賞して賞状をもらいました。

「俺、プログラミングめっちゃ好きだな……!」と気づきました。

そのイベントにはいろんなIT企業が参加していたので、手当たり次第に「インターンさせてください!」とお願いしにいきました。軒並み断られたのですが、唯一、とある渋谷のITベンチャーの社長だけがおもしろがってくれたんです。「いいじゃん。シリコンバレーがんばってよ」と。

それで、面接を受けるチャンスをもらいました。

面接してくれたのは、東工大出身の超天才エンジニアの方でした。そんな人に、超初心者の僕が「シリコンバレーに行ってエンジニアやりたいです」なんて言うので、当然ドン引きされました。「やばいやつが来た……」みたいな。

でも「とりあえず宿題でこれやってみて」と課題をもらえたので、それを全力でやりました。仮想サーバーでサイトを立てて動くようにする、というものでした。「どうやってやるんですか?」と聞いたら「ググれ」と言われて。

で、いろいろ調べてやってみたら、意外とできたんです。2週間後ぐらいに持っていったら「うん、うん、動くね」「いいんじゃん」と言われてなんとか合格になりました。

そのエンジニアの先輩にはとてもお世話になりました。

僕がバグを出しまくっても全然助けてくれないので「先輩、なんで教えてくれないんですかー!」と言ったら「お前な、シリコンバレー行くんやろ。英語で説明されても絶対わかんないし、まず自分で考えないと誰も教えてくれないから。シリコンバレー行ったら死ぬよ」と言われて。「確かにそうだな」と思いました。

あと、その人はアニメが好きだったので「お前が覚えるのはプログラムじゃなくてアニメだ。アニメは世界共通言語だ。外国人と仲良くなるにはこのアニメを観ろ」と言われてめちゃくちゃアニメを観ました。

「先輩、あのアニメおもしろかったですね」「だろう?」みたいな会話をしつつ、半年が経って、プログラミングも少しはできるようになりました。3つぐらいアプリを作らせてもらって、基本的なものは一通り動かせるようになって……。

で、とりあえずシリコンバレーに飛んだんです。

Googleで門前払いされる

僕はシリコンバレーに行ったら「GoogleやFacebookなどの一流企業で働く!」と勝手に考えていました。

しかし現実はそんなに甘くありません。

向こうに着いた瞬間に、AppleとGoogleの本社に友達経由で行かせてもらって、「僕インターンしたくて」と打診したんですが、もちろん無理でした。秒で落とされるわけです。「そもそも募集してないから」と。

そりゃそうです。「スタンフォードとかハーバード出身じゃないとほぼ入れません」みたいな会社です。「何こいつ?」という感じでシュッと一蹴されました。

働き先がないまま、2週間、1ヶ月と時間が過ぎ「あ、やばい」と思いました。これじゃレポートも出せないし、留学した意味なくなるかも……と。

「ピーンチ!」と思って、2000人ぐらいいろんな人に会いました。アプリ系のイベントが色々あったのでそれに毎回出て、直接交渉してインターン先を見つけようとしました。でも、なかなか見つかりませんでした。

ハッタリをかましまくる

いよいよ困ったので、エス・エム・エスで面接をしてくれた方に「いまシリコンバレーにいて全然インターン先見つからなくて、どうしたらいいでしょうか……」とメッセージを投げまくりました。

そうしたら、その方のお知り合いが、ヤフージャパンのアメリカ法人の「YahooJapan America」という投資会社でCEOをされていて。ありがたいことに、会わせていただけることになりました。

そして「今度スタートアップピッチがあるから、連れてってあげようか」と言ってもらえたんです。

僕はそれまで、アメリカのいろいろなイベントに行ってわかったことがありました。それは「アメリカではとにかく話を『激盛り』しないといけない」ということです。

「すいません、僕あんまりできないんで……」と謙虚な姿勢でいくと、もう速攻「あ、こいつできないんだ」で終わってしまう。

「余裕でできますよ」という態度でいることが大事でした。できなくてもそういう態度でいかないと会話に入れてくれない。「これはどうやら日本と違うっぽいぞ」と気づいていたんです。

そこで僕は「”YahooJapanAmericaの人”として、ピッチ会場に参加させてほしいんです」と頼みました。

投資会社の会員証を作ってもらって、それを首から下げて、ドヤ顔で歩きながらみんなのピッチを聞いたんです。「いいね、君のプラン何?」「うんうん。グッドグッド」と言って回って。

それで「僕、ちょうど今のインターンがもうすぐ終わるから、次のインターン先を探してて。僕はこういうことできるけど雇わないか?」みたいな話をしたんです。

天才のインド人社長に出会う

当時、アメリカではウーバーやエアビーなどのCtoCビジネスが流行っていました。その流れで「学生の家庭教師をやるCtoCのプラットフォーム」を作っているベンチャーがありました。

僕は日本で英会話教室をやった経験をめちゃくちゃ盛って「教育ビジネスのことなら自分に聞けば間違いない」みたいに話していました。

すると、そこの社長が「おもしろいね、日本人でそんなこと言うやつ初めて見た」と言ってくれたんです。「ちょっと一回話そう」と、後日ブルーボトルコーヒーに呼び出されました。

彼は、UCバークレーに通いながら1年目はヤフー、2年目はグーグルで働いて、3年目に主席で早期卒業し、4年目で資金調達をして起業したハイパー天才インド人でした。「ああ、こういう人がシリコンバレーを作るんだな……」としみじみ思いました。

「で、きみは何したいの?」と聞かれたので、

「日本から、留学の費用もらって来た。俺はここでインターンして成果を出したいんだ。ただ、ビザが勉強するためのやつで正式に働けないから、報酬はタダでいいし、めちゃくちゃがんばるよ」

と話しました。

すると「おもしろいね。じゃあテストをしよう」と言われました。「ちょうどUCバークレーでの事業拡大が終わったから、アメリカのすべての大学の中から、次に事業展開する大学を10校、提案して。期間は2週間」と。

彼に渡されたのは「家庭教師CtoCの利用状況のデータ」でした。それを見ると「留学生」かつ「数学・物理科目」のユーザーが多く、課金額も高いことがわかりました。ビザの関係上バイトができない留学生が、よくサービスを利用していたんです。

そこで僕は「留学生の比率が高く・マスマティック系が強く・人口ボリュームが多い大学」を調査するために、いくつかのサイトを組み合わせて「アメリカ全ての大学の生徒数や留学生比率、学科ごとの人数がわかる」データベースを作成しました。

その資料を持って提案したんです。

すると「悪くない」と言ってもらえて、家庭教師CtoCのベンチャーに入れてもらえることになりました。

真っ暗な部屋で発狂するまで働く

それからは毎日、泊まり込みで働きました。

案内されたのは、ちょっと広い会議室ぐらいの部屋。

部屋の真ん中には、3人ほど寝られるベッドがありました。壁向きに机がセットされてて、ブラインドがあって、みんなずっとコードを書いていました。

部屋に「おはようございます」と入っていって「今日のカリフォルニアはいい天気やなあ」とか思っていると「シュン、ブラインド閉めろ」と言われるんです。「なんでブラインド閉めるんだ?」と言ったら「PCの画面に光が入ったらコード書きにくいだろ」と言われて「OK、OK…」と言って閉めました。

真っ暗な部屋で、ずっとコードを書いていました。

疲れたら、レッドブルのやばい版みたいな、2,30倍に濃縮されたオニオンドリンクみたいなのをみんなで飲むんです。「ああー、目ぇ覚める」とかやって、また8時間ぐらいぶっ通しでコードを書く。

そのうちめちゃくちゃ疲れてきます。そうすると、真ん中のベッドで3時間ぐらい気絶するように寝て、そして起きてまた書く……。

これを毎日、繰り返します。

仕事中は、いまが何時かもわかりません。6日も経つともう発狂しそうになります。「あーっ」と思いながら「1日ちょっと抜ける」と言って家に帰って、1日だけ休んでまた戻る。そんな環境でした。

翻訳システムを自作して食らいつく

周りにはインド人しかいませんでした。英語もインド訛りなので、ぜんぜん何を言ってるかわかりません。

だから、代表の音声はいつも録音していました。

録音したものをYouTubeにアップすると、YouTubeの中に字幕がつくんです。なので、音声を夜YouTubeにアップして、字幕のところをぜんぶJavaScriptで保存して、そのあとに翻訳する。こういうプログラムを自分でつくって対応していました。

「きのうの話わかったよ。このプログラムつくったから」とコードを見せて。「おまえの英語はよくわからないけど、おまえのプログラムはグッドだ」と言われてなんとかやりとりしていました。

当時は今みたいに便利なAIツールもありません。生きるためにいろんなものを自分でつくりました。よくわからないことを指示されながら、なんとかやって、とにかく生きのびる。つらかったけど、いい経験でした。

天才の無限コミットが価値観の基準になった

そうやって死ぬ気で働いていたら、最終的にはすごく評価されるようになりました。

「無給でこんなに働けるなんてジャパニーズはすげえ!」「俺は今後も絶対にジャパニーズを雇う!」と社長はいつも言っていました。「シュン、お前はすごいからなんでも買ってあげるよ」と、パソコンもヘッドフォンも全部買ってもらって。めちゃくちゃお世話になりました。

シリコンバレーに行っていちばんよかったのは「天才の基準値」を知れたことです。

超優秀な人たちが、事業に無限コミットしている。1日16時間、普通の人の390日ぶんぐらい、休まず働くんです。僕も働くほうだと思っていましたが、次元が違いました。UCバークレーを主席で卒業して大学4年生で出資を受けるような天才が、毎日16時間、1日も休まずにやるんです。

それはやっぱり衝撃的でした。「ちょっとこれは勝てないな、すげえな……」と。この基準値の世界で起業して、弱肉強食バトルしてるのは本当にすごい。
自分のなかの価値基準というか、マインドセットが一気に変わったなと思います。

アメリカに残るか、日本に帰るか

そして1年後、僕は日本に帰ってエス・エム・エスに入社することになります。

もちろんその会社からもオファーはもらっていました。アメリカは年収がちょっと高いので1千万ぐらいでオファーをもらいました。楽しそうだなと思ったし、めちゃくちゃ迷いました。

帰国した理由は色々あるのですが、いちばんは「自信がなかったから」です。

当時はビジネスのことなら、社長ともまあまあ対等に話せていました。自分も学生の頃に少しはビジネスをしていて、アメリカでも同年代であれば、ビジネス面ではフェアに戦える感覚がありました。

ただ、エンジニアとして戦えるかというと、それは難しそうでした。

周りの人たちはみんな3歳ぐらいからパソコンを使っているわけです。僕はエンジニア歴たった1年。まあまあいい線までは来られたものの、あと3年やったとしても、隣にいるエンジニアたちには勝てる気がしませんでした。「追いつけたら超ラッキー」ぐらいのレベルだよな、とわかっていたんです。

しかも、インターンをしていたのがスタートアップだったので、正式な就労ビザが出せなくて。1年ごとに更新のインターンビザだけだったんです。だから、もしその会社がうまくいかなくなったら、僕はアメリカの藻屑となって日本に強制送還されることが確定していました。

エンジニアの道で天才になるのは無理。シリコンバレーには世界中の天才が集まってくる。そもそもこのビジネスで勝てるかどうかもまだわからない。

そう考えたとき、アメリカで戦うほどの能力が自分にはない、と思ったんです。

本当に悩んだのですが「それならいったん日本に戻って、ビジネスやるか」と。悔しかったですが、このままアメリカでチャレンジできる自信がなかった。自分から降参して負けたような感覚でした。

それで3月の末に帰国して、すぐにエス・エム・エスで働き始めました。

シリコンバレーのベンチャーは2年後に潰れた

実はシリコンバレーで働いた会社は、この2年後に潰れました。

だから結果的に、帰国の判断は正しかったんです。

Facebookでその知らせを見たときは、衝撃でした。あんなに優秀な人が、あんなにコミットしても、会社がうまくいかないときってあるんだ……と。

努力量だけでなく、どこで努力をするか。つまり「マーケットの選定」がすごく大事なんだ、と思いました。

逆にエス・エム・エスは、みんな19時半には帰るんです。それでも会社は伸びています。事業部はいくつかあって、みんなほとんど条件は同じでしたが、やっぱり伸びている事業と伸びていない事業がありました。

事業へのコミットメントもそうですが、もしかしたらそれ以上に「どの市場、どのビジネスモデルで戦うのか」が大きいのかもしれない。そう強く感じました。

「アメリカ戦闘モード」のまま日本の会社へ……

日本に帰ってからの話に戻ります。

アメリカでは態度が大きくないと生き残れなかったので、遠慮せず思ったことはすぐ言うし、1日16時間ひたすらパソコンと向き合っていました。で、まずいことに僕は「アメリカ戦闘モード」フルスロットルの状態で日本に突入したんですよね。

入社初日の会社案内。

バーっといろんな事業部を案内してもらって。最後に「黒崎くんどうだった?」と聞かれたので、僕はなんの悪気もなくこう答えました。

「あ、めちゃくちゃ改善点あって。ボロボロっすね! これから変えていくの楽しみです!」

場がシーンと静まり返りました。完全にやばい奴です。

アメリカではもちろん、みんな16時間イヤホンをつけながら働きます。僕はエス・エム・エスでも「絶対に成果を出そう」と思っていました。だから集中するためにイヤホンをして働きました。当然、めちゃくちゃ怒られました。

たとえばプルプルプルと電話が鳴っていても、

「黒崎君、黒崎君、黒崎君!」
「あ、はい?(イヤホン外す)」
「電話鳴ってるよ」
「ああ、でも別の人がとったほうが時給とか安いですよ」

こんなやり取りをしていました。そりゃ怒られます。

信じられないぐらい嫌われた

上司にも周りにも、バチバチに嫌われました。

「そういう話じゃないんだよ!」「君はちょっとできるけど全然ねえ、人としてなってないんだよ!」と。怒鳴り声が他のフロアまで聞こえるぐらいさんざん怒られました。

僕は「えっ、なんかめちゃくちゃごめんなさい……」「でも俺が言ってること間違ってなくない?」みたいな感じでした。「平成モンスター」「宇宙人」「クレーム製造機」など、散々なあだ名をつけられました。笑

当時の上司とはものすごく仲が悪くなって、ストレスで上司が座っているほうの顔にだけめちゃくちゃニキビができたりしていました。

「日本で働くってこうなんだ」と思いました。そういえば大学生のときも、飲食バイトがぜんぜん続かなかったんです。アメリカはなんだかんだ楽しくて忘れていたけど「自分って働くのマジでむいてないんだった……」と。

でも「かならずこの上司を超えてやるぜ」と思っていました。

新規事業をやれるはずだったのに

最初に内定をもらったときは「入社したら新規事業をやれる」と聞いていました。

ところが僕がアメリカに行っている間に状況が変わって。1年目のメンバーに新規事業を任せ続けた結果、うまく立ち上がらないケースが多かったんです。だから「きみの代から、一年目で新規事業は任せないことにした」と。

「えーっ、俺、何のためにシリコンバレーから戻って来たの?」と思ったのですが、仕方なくマーケティングの部署に配属されることになりました。

それで何をやったかというと、ひたすらいろんなLP(ランディングページ)をつくる仕事でした。

1年で300枚はLPを作りました。

僕は自分でいろいろ動いて仕事をつくるのが好きです。いきなり海外へ行ったり、エンジニアをやったり。そういうことをやりたいと思って入社しました。なのに、蓋を開けたらLP300枚。

いつ事業がやれるかわからないなかで、業務も小さくロックされるのが、つらくてつらくて仕方がありませんでした。

とにかくやめたかった

そんな感じなので、最初の数ヶ月は、会社を辞めることばかり考えていました。

LPもたいして当てられませんでした。「こんな細かいことやりたくない」と思いながらやっていたし、よくわからないままやっているので、コンバージョンも全然上がりません。何の変化も感じられず……。

それが半年間ぐらい続きました。

あと、会社として6年振りの新卒だったので、毎月の歓送迎会の幹事も毎回やっていました。110人ぐらいの規模です。「このレイヤーの人はちょっと多く会費を払う」みたいな支払い傾斜Excelもつくって、集金も100人分やっていました。

しかもエス・エム・エスは退社時間が決まっていて、19時半に帰らないといけなかったんです。「こんなんでパフォーマンス出すの無理だろ……」と思いながらやっていました。

まずは「15文字」を当ててみろ

そんなとき、転機が訪れました。

マーケティングの部署に、2人の新しい上司がきたんです。ひとりは金融畑の出身で、楽天で新規事業を当てた経験のあるすごい人でした。そしてめちゃくちゃ怖かったです。ずっと貧乏ゆすりしながらタバコを吸っていて「俺は軍歌が好きなんだ」という怖すぎる人でした。

でも、彼がすごくいい上司で。成果さえ出せば自由にやらせてくれたので、僕は大好きでした。

もうひとりは、1つ上の代の先輩です。京大卒で、WEBマーケティングが天才的にうまい人でした。

彼に言われたのが「まず15文字だけを変えて当ててみろ」ということでした。

LPをクリックする前の、広告の文章の15文字。「変数がいきなり多いとしんどいから、まずはその15文字だけを変えて検証してみな」と言われたんです。

最初は「えー」と思いました。LPでも小さいと思っていたのに、今度は「15文字だけ」になって、ますますやれることが小さくなってしまった。でも、上司の指示なのでいったんちゃんとやりました。

すると、ある導線からの申し込みが4倍になったんです。

広告文の検証をひたすらやる中で、お客さんや事業のことを深く理解するようになりました。誰に対して、何を刺せばいいのか。それを考えてキーワードを改善したら、ちゃんと結果に現れたのです。

「こんなに小さな変数でも、正しく動かすと、こんなに大きな事業インパクトを出せるんだ!」と衝撃を受けました。

そこからはコツを掴んで、いくつも当てられるようになってきました。広告文を当てられるようになり、その先のLPでも一貫したコミュニケーションがとれるようになったことで、LPも当てられるようになりました。

全部やりきったときには、毎月200件だった申し込みを、同じ予算で4000件まで増やすことができました。

すると「申し込み後の導線をどうするか」「インサイドセールスのスクリプトをどうするか」といったことも気になってきました。ただマーケティングをするのではなく「商流をつくる」感覚が掴めてきたんですよね。

15文字の広告文でクリック率を上げる。→LPまで変えてコンバージョンを上げる。→申し込み後の無料体験を改善する。→無料体験から有料化の導線をひく。→そこから、どう使い続けてくれるか考える……。

そうやって一貫性のあるコミュニケーションをつくれると、1回きりの売上だけではなく、いわゆるライフタイムバリューまで上げられます。この感覚は、今でもすごく活きています。

小さなものを動かせない人は、大きなものも動かせない

ひとつ小さな仕組みを動かせるようになると、その先の先の先までずっと動かせるようになって、大きなインパクトが出せる。

そう気づけたのは、僕にとってすごく大きなブレイクスルーでした。

それまでは、とにかくいろんな場所に行き、いろんな人に会い、いろんなものを触りまくって、なんとなく自分の中で「前に進んだ感」を得ていました。でも、本当に進んでいるかはよくわからなかった。ただおもしろそうなことをやっているだけだったんですよね。

でも、マーケティングの成果が出たことで、はじめて「戦略的になにかを動かして、確実に前へ進める感覚」を得ることができました。

最初は「つまらない仕事」だと思っていたけれど、ただ自分が気づいていないだけだった。小さいものが動かせない人は、大きいものも動かせない。逆に、ひとつ動かせるようになって、それをちょっとずつ大きくしていけば、動かせる範疇がどんどん広がっていくんだーー。

そのことにようやく気づいたんです。

成果を出したけど嫌われる

毎月200件くらいだった申し込みが、4000件まで増えた。そのころは事業部の数字さえ最大化すればいいような目標設定だったので、個人の実績は昨対比2000%達成でした。

ところが、みんなからはますます嫌われることになりました。

それもそのはずです。僕の後工程を担当する人たちは、なんの連絡もなくいきなり20倍の量の申し込みがきて、対応に追われるわけです。だから「自分だけ評価されて」「俺らにどう影響すると思ってるんだ」と言われていました。

でも当時の僕は「それはあなたたちの問題でしょ。僕の仕事はこの数字を伸ばすことですから、そこに文句言うのは違うんじゃないですか」……という感じだったんです。

「全員のKPI」を頭に入れて動いたら、うまくいった

でも、途中でさすがに気づきました。「たしかに自分は一人で成果を出しているだけで、うまくみんなのパフォーマンスを最大化できてないな」と。

それで考えた結果「同僚も上司も、みんな自分の『顧客』だと思って、全員のKPIを上げてあげよう!」と決めたのです。

当時、エスエムエスでは、全員の目標とKPIが一覧できるようになっていました。そこで、周りにいる上司も部下も同僚も含めた、全員の目標とKPIを頭に入れたんです。そのうえでコミュニケーションを取って、みんなの成果を上げるような動きをしました。

そうすると、めちゃくちゃ感謝されるようになったんです。

「これだ!」と思いました。

そうやって生き残るすべを理解して、2年目からはめちゃくちゃ成果が出ました。会社からも評価されるようになり、横串のマーケティング部署に配属され、4つの事業部を見るようになりました。

再び起業し、6年で急拡大

それからも紆余曲折ありましたが、3年目には念願の新規事業をやらせてもらえることになりました。

そこで「在宅介護のマッチング事業」の立ち上げをして、軌道にのせたところで追加投資の交渉をしたのですが、どうしても予算が下りなかったので会社を辞める決断をし、独立することにしたんです。

そして物流業界でふたたび起業し、6年かけて、年商約60億、メンバー約370名まで拡大しました。

(*起業後のストーリーはこちらのnoteにまとめています。)

事業の幅も広がり、いまは「人材紹介」「SaaS」「M&A仲介」の3事業を展開。今後もインフラ産業を中心に、さらにできることを増やしていき、将来的には日本を支えられる会社になっていくつもりです。「売上3000億円」を本気で目指してやっています。

確定した未来にピン留めする

起業に失敗した大学3年生のころの自分には、ここまで会社を伸ばすことも、大きな未来を解像度高く描くことも、できなかったと思います。

そこからいきなりエンジニアになり、シリコンバレーでなんとか生き抜いて……。

お世話になったYahooJapan Americaの方からは「あそこから本当にインターンするところまでいったの、君ぐらいだよ」と言われました。そのぐらい、普通は無理なことだったそうです。

でも僕はずっと「絶対にできる」「必ずなにか抜け道が見つかる」と思っていました。目的を達成することだけが「確定した未来」としてピン止めされていました。

描いた未来がどんなに現状と乖離していても、絶対に未来の基準を下げないこと。それがとても大切だったと思います。

理想の未来と、自分の現状が離れているとき、人はどうしても理想を下げて現実に近づけてしまいます。でも、未来をピン止めして、確実に自分を改善して近づけていくほうが、僕は好きです。

大きな事業をつくるとは、そういうことだと思います。

今までまったくなかったものを生み出すわけなので、現状から考えていたら、なにもできません。

ただし「どうやって山に登るか?」というハウツーは、しっかり現実感のあるものでないといけません。エス・エム・エスで学んだような「小さなことから変えていき、大きなことを動かす」「一人ではなく、組織全体で勝つ」みたいな動きが絶対に必要です。

確定した未来にピン留めする。
自分を改善し、確実に現実を変える。

この2つの能力が揃ったことで、僕はやっと「事業家」になれたと思います。

「生きづらさ」は才能の原石

ここまで膨大な振り返りに付き合っていただき、ありがとうございます。

ここから先の話は、大勢の人に響くかどうか、正直わからないのですが……。

でも、すごく伝えたいことなので書きます。

ここまで話したように、僕は一般的にはかなり生きづらいタイプだと思います(自分で言うのもあれですが)。

自分で勝手にいろいろ考えるし、行動もする。それゆえに、周りと違うことが多々ある。大勢で飲み会に行ってもあんまり楽しめない。けれど、自分でなにか考えてひたすらやるのはめちゃくちゃ楽しい。

そういう人は、社会や会社に馴染むような行動を求められる環境にいると、かなり生きづらいです。

でも、そういう人には、事業づくりの才能があるんです。

もちろん自分勝手にやるだけではうまくいきません。でも、現状の社会に対してなにかしら不満がある人は「自分がもっといい仕組みをつくってやる!」という反骨心を持っています。

そういう人が、本当にちゃんと社会と向き合えば、かならずいい事業をつくれます。

だから、もし僕と似たような生きづらさを抱えている人がいたら、ぜひそのまま突き抜けてほしい!と強く思うのです。

本気で仲間を探しています!

僕は新卒の頃と比べたらずいぶん人間的になりましたが、根っこの部分はずっと変わっていません。

でもプレックスにいると、毎日みんなと話すのが心から楽しいんです。会話の感覚が合う。自分を抑圧することなくフルスロットルで動ける。それは、同じように「自分で考えて動くタイプ」の人たちが、身近にたくさんいるからです。

周りに全然仲間がいないと「自分が間違ってるのかな……」と思います。でも、同じような仲間たちと会えると、ものすごく楽しい。「この人、話が通じる!」という嬉しさをお互いに感じるので、超盛り上がるんです。

プレックスにはそういう人たちがたくさんいて、会社のコアを作っています。

で、なにが言いたいかというと、そんな僕らに共感してくれる仲間を本気で探しています。

こういうタイプの人に採用市場で出会うのはかなり難しいです。正直にいうとこのnoteを書いた目的の8割ぐらいは、そういう人に僕らの会社を見つけてもらうためです。

だからお願いします!「この気持ちわかる」「なんかおもしろいな」「事業づくりやりたいかも」、なんでもいいです。心が動いた人はぜひ、一度お話しさせてください。「届け〜!!」という念を込めて、カジュアル面談のリンクを貼っておきます!↓↓↓

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!

そして、かつての僕に関わってくださったすべての方々、本当にありがとうございます……!! ここまでやってこれたのは、間違いなく皆様のおかげです。これからもがんばりますので、どうぞよろしくお願いします!

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参加させてもらったスタートアップピッチ
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お世話になった天才インド人CEO
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Noisebridgeというハッカーハウスにて
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シリコンバレーの街並み

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シリコンバレーで狂ったように働いていた大学生が日本で就職したら、尖りすぎて全然うまくいかなかった話|黒崎 俊 / プレックス代表取締役
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