【短編小説】理想の身体(1)

2024年12月13日 22:44

※この小説は文芸誌未発表、単行本未収録です。現状唯一読めるのは「De-Silo Label」というレーベルの書籍ですが、この書籍は非売品であり、1万円寄付した人への返礼品としてのみ贈呈されるものです。ここでファンクラブ限定コンテンツとして配信します。
※比較的強烈なトランス差別言説が作中で出てくるので、読む方はご注意ください。

--

 探知機が鳴ると、警備員たちが一斉に女性トイレへ駆けつけた。けたたましいブザー音に混じって、違う、私は男ではありませんわ、と悲鳴が聞こえてきた。
 花夏(かな)は顔色一つ変えずサラダをフォークで突き続け、彩生(さお)は口に入れた冷奴を飲み込んでから、悲鳴の方角をおもむろに振り返った。が、トイレは社員食堂の外なので、私たちの席からは見えなかった。
「またですの?」
 うんざりする表情で、彩生は言った。「女性のふりをする殿方は、まあなんて多いですこと。今月で三人目じゃないかしら」
「今のは経理部の泉さんの声ですわね」
 花夏は顔も上げず、興味なさそうに言った。「あの野太い怒号を聞けば分かりますわ。彼は身体男性に違いないですもの。前から男っぽいなと思っていましたわ」
「言われてみれば、確かに顔の形が雄々しくて逞しかったですわね」
 ダイエットティーを啜りながら、彩生は花夏に同意した。「そう言えば先月、経費精算の書類を彼女、じゃなくて彼に手渡したけど、あのとき彼の手はとてもごつごつしていましたわ。今思えば、あれは確かに身体男性の手でしたの。なんで気づかなかったのかしら。まぁまぁ、怖いですこと」
「上司から尻を触られた時も、絶叫して激怒していましたわ」
「そうでしたのそうでしたの、実に男っぽかったですわ。本物の女性でしたら、肺活量が小さくてそこまで大声は出せないはずですし、怒るにしても、そんな威圧的な怒り方はしないと思いますわ。水音(みなと)、そう思わなくて?」
 急に名前を呼ばれ、私は慌ててカレーライスを飲み込み、「はい、私もそう思いますわ」と話を合わせた。二人の背後で、「●●栄養女子大学監修 理想の身体女性のための栄養バランスメニュー!」と表示している液晶モニターがちかちかしている。
 彩生は顔をしかめ、私を心配そうに覗き込んできた。「水音、どうかしましたの? 今日はあまり元気がないですわね」
「そうですわよ、水音。ほら、食事もだいぶお粗末ですもの」
 花夏も私のカレーライスを指さし、心配そうに言った。「理想の女性身体を保つための栄養が足りていませんわよ」
「大丈夫ですわ。今日は女の子の日ですもの、体が少し弱っているだけですの」
 私は嘘を吐いた。本当は生理はもうしばらく来ていないが、このことを二人に知られるわけにはいかない。生理がなくても女性として認めてもらえるのは、初潮前の少女か、妊婦だけだから。
「女の子の日」と聞くと、彩生も花夏も顔を綻ばせて喜んでくれた。
「おめでとうございますわ。女の子の日は、身体女性の証ですもの」
 言いながら、花夏は自分の大盛サラダから葉っぱをたっぷり取って、私の皿に押しつけてきた。「女の子の日は、鉄分を補充しなければなりませんわ。身体女性は守るべき、大事な大事な宝物ですもの」
 心の中で溜息を吐きながら、私は花夏の好意を受け入れ、野菜に口をつけることにした。
 二十一世紀の最初の二十年間、女のふりをする身体男性の存在が社会問題化した。「トランスジェンダー」(この言葉は今や古語辞典にしか載っていない)と自称する彼らの多くは生物学的男性にもかかわらず、心は女だと言い張って、女性トイレや更衣室といった女性スペースに侵入しようとした。女子スポーツにも参加し、メダルを片っ端から奪い取った。...

続きを読むにはプランへの参加が必要です

参加する

このサロンのオーナー

李琴峰

芥川賞作家・李琴峰の公式ファンクラブ。李琴峰関連の最新情報を入手したり、ここでしか読めない作品を読んだり、メンバー限定の音声や動画コンテンツを視聴したり、李琴峰やほかの読者と交流したりすることができます。

サロン詳細をみる