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芸術は漠然だ!~斉と公平太のムダに考えすぎ~

ラーメントッピング「ドッカンねぎ」は芸術だ!

2021年11月30日

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丸源ラーメン「野菜肉そば」に「ドッカンねぎ」をトッピングしたもの


◼︎「野菜肉そば」に「ドッカンねぎ」のトッピング!


上の画像は丸源ラーメンの「野菜肉そば」に「ドッカンねぎ」をトッピングしたものであります。「ドッカンねぎ」という呼称は、僕がふざけて書いているのではなく、メニューに本当に表記されている名称です(下の画像参照)。

丸源ラーメン、メニュー表のトッピングの欄


僕は個人的にラーメンチェーン店「丸源ラーメン」を美味しいと思っているのですが、これは僕個人の感想であって、中日新聞WEB内での連載コラムですので、特定企業を宣伝したりする意図はないと初めに断っておきます。決してステマではありません。

しかしながら、今回は「ドッカンねぎのトッピングは芸術だ」というテーマで書いていきます。「芸術的」なのではなく「芸術」なのです。けっして比喩として「素晴らしい」という意味で「芸術」という言葉を使っているわけではありません。

ラーメン評論家と某ラーメン屋の騒動が記憶にまだ新しい今、ラーメンについて書くのは危険そうですが、なぜ、このネギのトッピングが「芸術」なのか、説明していきたいと思います。完全におじさん構文ですが、お許しください。

僕は、数年前から近所の丸源ラーメンをわりと利用しているのですが、先日初めて「野菜肉そば」に「ドッカンねぎ」のトッピングで注文しました。「ドッカンねぎ」が、どんなものか知らずになんとなく注文しました。本当になんとなくです。すると、この下の画像のようなラーメンが運ばれてきました。

◽️ネギのインスタレーション


丸源ラーメン「野菜肉そば」に「ドッカンねぎ」をトッピングしたもの


「え!こんなにネギが沢山のっかってるんだ!」(声には出さず心の中で)
とびっくりしました。メニューにはラーメン等の写真は載っていますが、トッピングの写真はないのです。名前と値段の文字だけです。

この山盛りのネギを見て、何らかの『美』を感じとりました。そして直感的に
『これは立体作品、美術作品、ネギのインスタレーションだな、』と思いました。
(ちなみに「野菜肉そば」に「ドッカンねぎ」のトッピングは美味しかったです、というのが僕個人の感想です。)

でも、もしかしたら、たまたま、その日だけ、偶然山盛りだった可能性もあるかと思い、毎回毎回こんなに山盛りなのかどうなのか確かめるために、数日後、同じ店舗に行き、同じものを注文しました。

それが下の画像です。

丸源ラーメン「野菜肉そば」に「ドッカンねぎ」をトッピングしたもの


運ばれてきたラーメンを見て、思わず

「わ!すごい!」

と思わず声を出してしまいました(私ワクチン2回接種済みでマスクをしておりまして、店員さんとソーシャルディスタンスの状態で)。

それは、2度目ながらも、実際に山盛りのネギを目の前にしてしまうと、その美しさと迫力に、そしてやっぱり偶然じゃなかったんだ、という驚きで声が出てしまったのです。

すると店員さんが、僕の驚きの声に対して

「ここまで崩さずに持ってきましたよ〜」

と言ったのです。

この発言により、この「ドッカンねぎ」が美術作品であるということが、確定したのです!意図されたものだということです。

ここでさらに説明しなければならないのは、これは丸源ラーメンチェーン店の全店舗で「野菜肉そば」に「ドッカンねぎ」のトッピングを注文したら、必ずこのようになるというわけではなさそうだ、ということです。「ドッカンねぎ」とネットで画像検索したり、インスタグラムのハッシュタグ『#ドッカンねぎ』で見る限り、量は同じくらいなのですが、盛り付け方は、この僕が食べたものと同じような「山の形」というわけではなさそうなのです。

つまり、この店舗の厨房の人の裁量や技術力によって、独自にこのように盛り付けされている、マニュアルでやっているわけではなく、店員さん個人の判断でやっているという可能性が高いのです(あくまでも僕の推測です)。この辺が作品だと思うとこなのです。

そして、もう1つの重要なポイントなのですが、これは大盛りの山とは違います。これは、トッピングが山の形に盛り付けしてあるということです(大盛りと山盛りとの意味の混同を避けるために、山の形という表現を使用しました)。

この山の形の盛り付けの必然性は、スープに浸かったり湯気の影響が大きくなったりすると、ネギのシャキシャキしたフレッシュ感がなくなるから、スープと接する部分を少なくするために、ネギを上に高く積んだ結果、山の形になったのではないかと僕は推測しています。味のためにやっていると思うのです。

「ネギのフレッシュさを保ちたいのなら、最初からラーメンにのせないで、別の皿にネギを分けて持ってきて、食べる時に客が自分でのせながら食べればいいんじゃないの?」

という反論もあると思います。
実際、トッピングを別の皿に盛り付けしてくるセパレートタイプで出すラーメン屋もあります。

しかし、やはり、セパレートタイプと山盛りでは味が違うと思います。自分でチョビチョビと、ネギを足しながら食べてしまったら、店員さんの作品ではなく、僕と店員さんとのコラボになってしまいます。ということで、ラーメンにのせて持ってくるのが作品だということです。

ここで大盛りとの違いについてですが、増量メニュー、いわゆる大盛りで山の形になっているものをネットで見たりしますが、量を多くするのが目的なら、どんぶりを大きくした方が食べやすいと思います。量を多くした結果として、大盛りが山の形になるのと、ドッカンねぎが山の形に盛られるのとでは、事情が違うのです。先に書いたように画像検索では山の形じゃない「ドッカンねぎ」が出てきます。

見栄えのためでなく、味のための形体という必然の結果が、食べる前の視覚的に見るだけの段階では味には関係ない、視覚と味が切り離された状態で認識される。そして、食べる段階ではそれが崩されるということも、山の形と味が切り離されていると言えます(脳に残った山の形のイメージが味に影響するかもしれませんが)。これが僕が「ドッカンねぎ」を美しいと思った理由です。

「味のために山の形にしているというのは、全部お前の妄想じゃアホ!!」という反論もあると思います。

これに対しては、この反論通りで、仮にそうだとしてもやはり、この盛り付けは芸術なのです。

それは仮に、ただ単に『チェーン店で決められた規定の量のネギをのせているが、各店舗で違いがあり、僕の食べた店舗ではたまたま山の形で出していた』
としても芸術なのです。

それは、いかなる理由であっても「意図的に山の形にしている」からです。

もっと細かく言うならば、『意図的に高く積み上げた結果、重力の影響で構造的に山の形になる』ということです(彫刻作品、立体作品は自覚的であれ無自覚であれ、重力が作品の中に取り込まれてしまいます)。

これは、わざとやっているけど、わざとらしくない形ということです。

「いや、あんた厨房で、ラーメンにネギのせてるとこ、見たわけじゃないんだから、味が理由じゃないにしても、もっと意図的に本気で山の形にしてるかもしれんよ。あんたがそう感じているだけで、わざとらしいかもよ」

という意見もあると思います。これも仮にそうだとしても、ネギの1つ1つの形や、位置をコントロールできないはずです。そういう部分では自然の形なのです。

西洋美術史 美術出版社


ここで唐突ですが、丸源ラーメンのドッカンねぎと芸術について考察する上で避けては通れない「人為的であることとは何か?」について考えていきます。


◻️人為的であること


芸術や美術とは何か、と考えるときに美術出版社の西洋美術史に書かれた、

「__実生活において直接的な機能をもつとは考えられない、つまり美術的作品が現れるようになる。__」
(西洋美術史 美術出版社  旧石器時代の美術の項目から引用)

という一節を思い出します。

この『実生活において直接的な機能をもたない』ということを美術の定義だと仮に考えたとして、さらに、その前段階として、『人為的であるのか』ということが問題になるのではないか、と思うわけです。

例えば、動物の骨でできた「世界最古の笛」というものがあり、「人間が作った」か「動物が噛んだ穴」か、と議論されているものがあります。専門家ではないので詳細や正確なことは書けませんが、ここで僕が注目したい点は「動物が噛んだもの」は笛ではないということが議論の前提であるという点です。

「いや、ディジュリドゥみたいな楽器もあるだろ!」という意見もあると思います。ですので、人間が吹いたら笛ということにします。どちらにしろ人為的である、人間が関与しているかどうかということが問題になっているというわけです。

芸術であるかどうかという、その前段階として人為的であるかどうかということが問われるのです。

「いや、お猿さんやゾウさんが描いた絵だって芸術だろ!!」

という反論もあると思います。それもその通りだと思います。動物の描いている絵も芸術だと思いますが、しかし、それを見て芸術かどうかを判断したりしているのは、人間だということです。やはり人為的なのです。

「ハトがピカソとモネの絵を見分けることができるという記事読んだことあるで!鳥も判断しとるで!」

これも、ピカソとモネは人間なので、人為的です。

「人工知能の作った作品はどないや?」
ということもあると思いますが、それもやはり、それを見て美術かどうかを判断したりしているのは人間です。

「じゃあ、人工知能が鑑賞者になれば、良いということやな」

これは確かに、人工知能が人工知能に鑑賞させるために描いた絵なら、人為的ではないかもしれません。しかし、人工知能を作ったのは人間なので、やはり人為的だと思います。

『じゃあ「人工知能が作った人工知能」が描いた絵を「人工知能が作った人工知能」が鑑賞すればええんやな?』

という意見もあると思いますが、これはまだ実現されていないので、わかりません。

「大自然の美しさ、風景、夕焼け、空に浮かぶ雲、青空、それはどんな芸術でも及ばないよ!!」

これも、全くその通りですが、やはりそれを判断しているのも人間なのです。人為的な行為なのです。大自然の景色を写真で撮影して作品にしたりするのも人為的なのです。

それでは、鑑賞行為を除いた物自体が、自然か人工かということに限定した場合、見た目で、これ自然だ、人工だ、という区別はすぐにつくか?というと、そうでないものもあります。「え!これ自然にできたの!人工物みたい」というようなものや、「これ人間が作ったとは思えない!」というものもあります。。

ただ、人間が自然に寄せることはできますが、自然が人工物に寄せるということはなかなかないと思います。本当に人工物かどうかは別として、固定観念として「自然っぽい形」「人工っぽい形」というものがあると思います。また、人工物かどうかの判断として状況的なことも含めて、技術的、物理的に自然には無理な形というのもあると思います。

人為的ではないですが、、蜂の巣や蜘蛛の巣、鳥の巣には「作為的」なものを感じます。作為的という言葉は悪い時に使うことが多いみたいですが、蜂の巣が悪いわけではありません。動物が意図して作っているというような意味で使いました。

「動物や虫の擬態の模様についてはどうなのか?」

これらも何か意図的なものを感じますが、これは個々の動物の意志でやっているわけではないと思います。だから作為とは言えない、しかし結果的には、見る側からは意図してそうなったように見えます。動物の巣も模様も、生存のためのという目的から考えることができるので、個々の生物の意思とは関係のないにも関わらず、何らかの意図を感じるのです。

「雪の結晶はどうや?雪は生き物ちゃうで。」

確かに、雪の結晶の形には何の意図もないはずです、それなのに、むしろ人工物に近いと感じることもあります。これについては、なぜそう感じるのかわかりません。法則性を読み取るのが比較的簡単な形だからかもしれませんが、これは僕の個人的な考えなので、本当のところはどうなのかわかりません。

動物の生存のための形と無生物の自然現象が作り出した形と人間の作ったものとの違い、これらは学習によって認識しているのかもしれませんし、もっと細かく分けて考える必要があるかもしれません。

色々書きましたが、美術作品というものは人為的であることが、美術の定義よりさらに前の大前提としてあります。人為的であることであれば、美術ということでありませんが、その可能性を秘めています。現代社会は人為な物に溢れています。ここに『実生活において直接的な機能を持たない』という定義を被せると、美術が生まれるわけですが、『実生活において直接的な機能を持たない』というものも、現代社会には溢れていますが、それら全てが美術かというと、そういうわけでもありません。『実生活において直接的な機能を持たない』ものを商品として売るということを目的化しているということは、『実生活に直接的な機能を持っている」からです。

だから、『実生活に直接的な機能を持っているもの』を『実生活において直接的な機能を持たない』ように扱うという手法も出てくるのですが、そのような手法も既に目的化され、直接的な機能を持っているのです。

なので、

『世の中、人為的なもの、作為的なものだらけで疲れちゃうよね〜もうわざわざ美術館とかギャラリーに行って、クソわざとらしいもの見たくないよね〜、そんなとこ行くのやめて、山にソロキャンプに行こうよ〜、って誘ったらソロキャンプじゃなかったです!というわけで、1人でキャンプ行ってきます!』

ということになります。しかし、

「山は山でもラーメンの上のネギの山の中で、脳内キャンプしようじゃないですか!!」

ということなのであります!!。
人為的であり『実生活において直接的な機能を持たない』美術作品でありながら、ネギという自然と重力の制限が生み出す美しいネギの山へ(しかも食べることも可能)。

ということです!!!

と、言うようなことを考えながらラーメンを食べて、ごちそうさま〜と、お店の外に出た時、夜空をふと見上げると、今まで何度も来店しているのにその存在に全く気がついてなかった丸源ラーメンの看板が目にとまったのです。

丸源ラーメンの看板


「こ、これは、、もしや、」



丸源ラーメンの看板のアップ、たぶん『ねぎ肉そば』の絵


「これは、ドッカンねぎがのったラーメン、、、。」

そうなのです。このラーメンの絵、間違いなくドッカンねぎがのったラーメンの絵です。丸源のホームページでメニューの画像を確認しましたら、『ねぎ肉そば』がこの絵にそっくりだったので『ねぎ肉そば』で間違いないと思います。
______
『ねぎ肉そば 名物の「熟成醤油ラーメン肉そば」にねぎをたっぷりトッピング。ねぎをスープにひたしながら、お召し上がりください。』(丸源ホームページより引用)__

丸源ラーメンの看板とドッカンねぎの比較


だいたい、お菓子のパッケージの写真でも、小さく「これはイメージで実際の商品と違います」的な言葉が印刷されてますし、ハンバーガー屋さんのメニューで、写真ではふっくらしたハンバーガーでも、実際はペシャンコだったりしますが、世の中そういうもんだよね〜ということで、流されていくのですが、この看板のラーメンは絵ですし、絵だからフィクションだよね〜イメージだよね〜ということで許されそうなところなのに、そうじゃねえだろ!!と。

「看板に偽りなし」

です。この絵画の中のラーメンは実在するリアルなラーメンなのです!
そういう意味で、この看板の絵も、絵画のフィクショナルな側面を裏切るような批評性を持った平面作品と言えるのです!

あくまでも個人の感想です!

そして私は、もしも、もしも、『ねぎ肉そば』『ドッカンねぎ』トッピングをしたらどうなるのか、とんでもないことになるのでは、、そんなことを考えてしまうのです。今度、丸源ラーメンに行ったら注文してみたいと思います。



補足
__
ラーメンの画像は店員さんに掲載して良いか確認して載せています。
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丸源ラーメンのホームページ 
https://www.syodai-marugen.jp/menu/ramen/
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『実生活において直接的な機能を持たない』という観点から、『石器』や『ガルゲンベルグのヴィーナス』について書いた過去のコラムのリンク。

『新説!珍説?美術の始まりは175万年前の「石器作り」?』
2020年2月21日
https://plus.chunichi.co.jp/blog/saitou/article/591/9329/
『ガルゲンベルグのヴィーナスブーム到来?!』
2021年1月28日
https://plus.chunichi.co.jp/blog/saitou/article/591/9903/

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