なぜ私は二千円札の連番をコレクションしたのか?
2019年5月3日
◆2千円札の連番!
皆さんは2千円札を手にした事はあるだろうか?僕は2008年ころ「2千円札の連番」を収集していたことがあった。
証拠写真がないので嘘だと思われるかもしれないが、今回はこのことについて書いていこうと思う。
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2008年、私はその当時住んでいた名古屋の本山にある三○○○J銀行で、「万札だと買い物するとき、お店に迷惑をかけるといけないから」と思い両替をしようとしたとき、両替機のボタンの中に
「2千円札」
の表示があることに気がついたのだ!
「え!?そんなボタンあるんだ!」と嬉しくなって、よせばいいのにボタンにタッチ、1万円を2千円札5枚に両替した。すると機械からはピン札の2千円札が連番ででてきたのだ。
僕はこの「2千円札が連番」であることに何か言いしれぬ魅力を感じてしまい、その後この支店で1万円札を2千円札に両替しては、連番の2千円札を、コレクションしていった。
しかし、収集していたとはいえ、いかんせん貧乏で、預金残高が0円になったとき、2万円分10連番ワンセットを残して手放してしまった。そのワンセットも2010年に展覧会で展示したのちに、もっとお金に困って、結局使ってしまった。
後にもう1度2千円札の連番が欲しくなり、2010年その同じ支店で2千円札に両替したのだがもう連番ではでてこなかった。
◆新券に両替すると連番
今回のこのコラムのために、2019年3月12日(金曜)名古屋市内の三○○○J銀行某支店で1万円札を2千円札に両替しようと両替機の前に行くと衝撃の事実が!
「2千円札のボタンが無い!!」
ということで、しょうがなく千円札10枚にしたらなんと、でてきたお札は連番なのである。機械の上に「新券でます」と表記があったのだが、新券だと連番がでるのだ!
画像を見て欲しい。
DR112411P
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でも、やはりコラム用に2千円札の画像が欲しいので窓口で両替してもらうことにした。
◆2千円札に窓口で両替
窓口用の両替依頼書には2千円の項目あり、試しに新券希望にチェックを入れて、番号を呼ばれて内心「なんか恥ずかしいな~」と思いながら窓口に向かった。
依頼書と1万円札をだすと受付の人に
「すみません。もう2千円札の新券はありません」
と言われてしまった。やっぱり、、。
「新券じゃなくてもいいので、2千円札ください。すみません」
と言って、出してもらった。これは番号はバラバラだ。
D440743P
B252908E
X894299R
V065646P
D145371Q
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もう2度とあのときと同じ番号の連番の2千円札を手にいれることは不可能だろう。
「あのとき手ばなさなきゃよかったかな~」と今でも思っている。
ちなみに。2千円札の10連番に、希少価値があるかどうかは知らない。たぶん、そんなにはないだろう。仮にあったとしても希少価値があると思って集めていたわけではない。
では、なぜ僕は2千円札の連番に魅力を感じていたのだろうか?その理由を考えてみる。
◆2千円札の連番の魅力の理由とは
まず2千円札は通貨である。通貨が価値として成立するために様々な要素があるが、
(1)共通認識としての価値の共有
(2)偽造できない
(3)社会的信用
大雑把にこの3つに着目したい。
まず(1)「共通認識としての価値の共有」だが、ここでひとつのケースを紹介したい。新札が発行されるというニュースが発表されたときにネットで話題になった古いブログがある。
モーニング娘。田中れいなさんの2012年5月22日のブログ
https://ameblo.jp/tanakareina-blog/entry-11257230858.html
要約すると、夏目漱石の旧千円札と、野口英世の千円札を並べて、旧札が偽札なのではないかと疑っている内容のブログである。
ふだん目にすることの少ない旧千円札は、外部情報として価値付けが弱いためにおきた誤解だと思われる。これは(1)価値の共有のケースにあたる。
そしてつぎに(2)「偽造できない」だが、モノ自体が「偽造しづらい」ということと「偽造すると罰せられる」という社会のルール、法律がある。
(刑法の第16章)上記画像のようにアプリケーションでも取り込めないようになっている。
偽造しづらい「同じものを再現できない技術で作ってある」ということを絵画や彫刻などの美術作品にあてはめて考えてみる。
作品を見て
「こんなの俺でもつくれるじゃね~か!」
というのは良く聞くフレーズである。
「自分で再現できないもの」つまり「偽造しやすいか」「しづらいか」が見る人の価値基準の1つとしてあるようだ。
偽造しづらさのビジュアル化、紙幣特有の質感「透かし」「ホログラム」によって共通認識としての価値の共有がないとしても、
「通常の印刷では再現できなさそうだな、できたとしてもこりゃ赤字だね」
という、モノ自体の説得力によって「価値がありそうだね感」を醸し出すことができる。
海外の紙幣を見ても何となく本物の紙幣だとわかるのは、紙幣のもっているフォーマットもあるが、この偽造しづらさのビジュアル化もあると思う。
そして(3)の「信用」だが、もし、モノ自体の説得力の無い場合でも、入手した場所、人などの社会の中の信用関係というものが価値を成立させる場合もある。
「スーパーの割引券を渡された場所がその割引券の使えるスーパーのレジ」というような場合だ。
この「スーパーの割引券」における「スーパーのレジ」が、美術作品でいえばギャラリーや美術館にあたるだろう。
街で見知らぬ人がいきなり、声をかけてきて見た事の無い種類の券を、「これ1万円の金券だけど、8000円と交換しない?」と言われたときに、その「券」のモノ自体で判断できる説得力がない場合は交換しないはずである。
◆究極の本物「番号」
しかし仮に「共通認識」や「信用」もあり「偽造できなさそうな説得力」の3つの要素をもった本物と全く同じ「偽札」があったとしても、再現できないことがある。それは番号だ。同じ番号のお札が2枚あった場合そのどちらかは「偽札」なのである。つまり本物かどうかということの究極は「番号」なのだ。
僕が「連番」に魅力を感じた理由は、この「番号」の重要性と「連番の再現のしづらさ」という点である。だが、これでは「2千円札」であることの理由にはなっていない。「千円札の連番でもいいじゃないか?」という話になってくる。
◆「2千円札」の批評性
では「2千円札」であるということの魅力は何か?それは、美術批評に例えるなら「共通認識」「社会的信用」という価値付けより「作品自体の評価」が上だという見方である(建前かもしれないが)。つまり有名な美術作家の作品だから「良い」or「悪い」と批評すべきではない、作品で判断しろ!ということだ。
この例でいけば、2千円札は目に触れる機会が極端に少なく、他の紙幣に比べれば、有名ではないのに本物として存在している。これは2千円札自体が正当に批評されているからではないだろうか。
「いや銀行で両替しているから、社会的信用の範囲やないの?」というかもしれない。しかし、仮に自分がコンビニの店員だとして「2千円札」で代金を支払われて「あ、これ偽札だ!」と警察に届けるだろうか?いや届けないないだろう。
「これ、あんまり見た事無いけどたぶん本物だな」と思うだろう。
「あんまり目にしないという点では旧札も同じではないのか?」と言うかもしれないが、旧札は偽造防止技術がアップデート前のものである。つまり「2千円札」の方が、偽造しづらさのビジュアル化においては上なのである。
つまり「2千円札」は他の紙幣より外部情報による価値付けが弱いのに、偽造防止技術が新しいため、モノ自体の説得力が高く、正当に批評されているということになる。さらに、これが連番になれば、さらに再現不可能の価値がプラスされるということである。
以上が、僕が自問自答してだした「2千円札の連番」に魅力を感じていた理由の答えである。
◆お金をテーマにした美術作品数あれど、しかし、
批評家からは、お金のテーマにした作品は特に新しくはない。「そういうのもうあるじゃん」と、言われそうである。
赤瀬川源平の偽札事件、アンディ・ウォーホールもドル紙幣の作品を作っている。近年でも、お金を作品にしたものは多々ある。
しかし、現在は「メルカリ」で 現行紙幣を売り買いするような現象(債務超過者をターゲットにした出品、現在は禁止されている)やビットコインなど仮想通貨もあり、お金の価値云々をテーマにした作品を現実のほうがはるかに超えてしまった。
ちなみに「2千円札の連番」もヤフオクに普通に出品されているが、僕はそれを落札しようとは思わない。今は、普通に自由に使えるお金が欲しいだけなのである。