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芸術は漠然だ!~斉と公平太のムダに考えすぎ~

読まれない記事にも価値がある?!「路線経路」的な思考法

2019年4月9日

◆コラムの閲覧数

読まれない記事に価値はあるのだろうか?

「もちろん、ありますよ!」

「じゃあ、閲覧数が1でも?」

「いや~さすがにそれはちょっと、、やっぱりある程度はないと、、」

「ある程度って、どれくらいや!」


という会話が頭の中で聞こえてきた。

このコラムのアクセス数を僕と中日新聞プラス担当者は見ることができる。読者の皆さんも表示される「FB」と「B!」のシェア数は見えているはずである。

プロのユーチューバーのように、動画の再生回数が収入と直結している場合は、アクセス数をシビアに考えざるをえないだろうが、このコラムの原稿料とアクセス数とは無関係だ。

だからといって「アクセス数、そんなの関係ないぜ!」というわけにはいかない。アクセス数が少ないと中日新聞側に対して申し訳ないと思っている。大の大人として自分のFBページにリンクを貼って宣伝しているのだが、それ以上のことはできない。すまん。

◆「○○万部突破」

「すまんじゃねーよ!アクセス数が多い方が良いに決まってんだろ!もっとアクセス数が伸びるような面白いこと書けよ!本だって、なんだってたくさん売れてるベストセラーが面白いんだよ!」

そうなのである。

よく本の帯に内容の紹介とは別に「○○万部突破」というコピーがついていたりする。

「価値がある本だから、沢山売れた。」
 
「沢山売れている本は価値のある本だ。」


このような考えは、ある意味間違っていないのだが、完全には同意できない部分もある。

つまりは

「売れてない本でも良い本あるヨ!」


という意見だ。

だが、この売れてないけど、「良い」の根拠は何か?というと、いまいち漠然としている。

「自分がいいと思っているから、それでいいんだよ」

というと、

「綺麗ごと言うなよ。売れてないやつの負け惜しみだろ!」

と切り捨てられてしまう。

それでも「動画の再生回数が多い」「いいね!が多い」「売れているもの」というものに対して個人的には、どうもしっくりこない感じが、ずっとある。

しかし、「売れてなくても良いものは良い」と思いたい半面、冒頭で書いたように「閲覧数1で良い」という考えを肯定できる言葉が見つけられずにいた。

だが、2017年3月にそのことについてやっと自分なりの答えを見つけたのだ。

◆再生回数1回でも価値があるということとは

それは、岡本太郎記念館で開催されるグループ展の搬入作業に行くために「Yahoo! japan」の「路線」で経路を検索していた時の事だ。

「出発」に最寄り駅の名前、「到着」に施設名の「岡本太郎記念館」を入力して、日時を設定する。

すると、
「○○駅」ー「○○駅」ー名古屋駅ー品川駅ー渋谷駅ー表参道駅(出口A5)ー「岡本太郎記念館」

と出ててくる。

このとき
「この経路で検索しているのは俺だけだろうな」

と、ふと思ったのだ。そのときは搬入期間中で施設は休館なので、なおさらそう思ったのだろう。

そして、その直後ある考えが浮かび、「あ!」と思わず声をだしてしまった。

それは、

「この経路が仮にYouTube動画だとすると、再生回数は1回」

だが、この「経路」は、僕にとっては重要な「価値」があるということだ。

論理的ではない考え方かもしれないが、そのときそう思ったのだ。

それ以降、僕にとって作品制作は自分自身にとっての「路線の経路」を作っていくことなのだと考えるようになった。

たとえ、だれにも読まれなくても、当人にとっての「路線の経路」ならば、それは必要なものだ。けして綺麗ごとではない。

このような態度は「単なる言い訳」、「エゴ」や「自己満足」に見えるかもしれない。そうかもしれない。それはそれで、素直に認めようと思う。

だが、このような僕の「路線の経路」に共感してくれる人がいるかもしれない(いないかもしれない)。

僕も先人たちの「道標」を、自分の「路線の経路」にするために、本を読んだり作品を鑑賞したりする。これが俺流「路線の経路」的な価値なのである。

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