李 中さんは自分の曲でお好きなのはどれなんですか。先日の東京レインボープライドで歌われた曲とかとても良かったですけど。
中村 「明後日の方へ」ですね。元々、KAKUTAという劇団の、コロナ禍でなかなか舞台を踏めなかった劇団の若手たちによる二〇二一年四月の公演の劇中歌として書いたものです。最後に歌を歌いたいという話になり、縁があってオファーをいただいたんですけど、色々やりとりする中で、出演者のみんなで歌詞を作ろうということになって、歌詞の断片を集めたのですが、その歌詞をどうして書いたのかを尋ねた時に、コロナ禍での不安や苛立ちを少しずつ話してくれて、ムシャクシャしていても、みんな辛いのだから自分だけ怒ってもしかたないと思って怒れなかったとか、家族が亡くなってしまってお見舞いで花を貰ったけれども、花を見ても喜べなかったとか、その内容の方に胸を打たれてしまって、そのエピソードの方を歌にするのはありか?という提案を受けてくれて出来た歌です。笑うことも苦しいって言うこともしづらい、明日も見えないし昨日にも帰れない、今日何をすればいいかわからない、そんなときでも、どこかに目のやり場が欲しいということを歌おうと思って、「明後日の方へ」が出来ました。あの歌が自分にも必要だと思って、東京レインボープライドで歌ったんです。
李 「昨日進んで今日戻り 明日一回休みでも 僕らは行くのさ 明後日の方へ」って歌詞がとても印象的でした。
中村 ありがとうございます。あと、最近大切にしている曲は、二〇二二年に出したアルバム『妙齢』に入っている「あいつはいつかのあなたかもしれない」でしょうか。
李 PVを拝見したんですが、なにかニュースがあったときに、反射的に批判したり擁護したりするけれども、それはいつか自分に返ってくるかもしれないという強いメッセージ性を感じました。
中村 セクシュアリティを公表してからは、事実と違うことも平気で語られるし、そういう経験も「あいつはいつかのあなたかもしれない」を書いた理由のひとつではあります。SNSは自由になんでも書けるのだから、いま苦労しているひとに優しい言葉をかけることもできるのに、なぜそう使えないのか。でも、自分がつらすぎてやむにやまれずひとに噛みついてしまうひともいるのかなとも思う。そういうひとが少しでも罪悪感があるのなら、「あのとき自分は悪いことをしたけれども、次はもっと違うかたちで言葉を使いたい」と思ってくれないかなと思って作った歌です。
李 そういうひとたちに、中さんの言葉はもったいないほど優しすぎると思います。
中村 期待している部分があるんでしょうね。ネット上で批判をしてくるひとも、直接話が出来る機会があったら、違った表現になる気もするし。
李 最近、ずっとネット上で私への誹謗中傷をしていたひとを訴えて勝訴したんです。そのひとはトランスヘイターで、私がトランス差別はよくないよねという発言をしたら、すごく噛みついてきた。あげくの果てに私の小説を読みもせずパクりだとも言い出して、それは作家として看過しえない発言なので提訴しました。その裁判がこないだ勝訴したんですけど、ネット上で勇ましい発言を繰り返す被告人が法廷に出てきてみたら、六〇代の女性で夫には先立たれ、年収も二百万しかなく、年金ももらえないという自分の生活の不如意の中で心の拠り所がSNSになってしまってツイッター廃人と化したと。それで、ひとを傷つけることでしか自分の存在を確認できなくなったひとたちが誹謗中傷をするんだなと痛感しました。
中村 「ツイッター廃人」という言葉すら拠り所なのかもしれないですね。
話が飛びますけど、自分がデビューした当時は「性同一性障害」という言葉があったから、そう公表して、現在は「トランスジェンダー」と言っていますけど、もっと細かくセクシュアルマイノリティについて知ってもらいたいというひとからは、「トランスセクシュアル」とちゃんと言ってほしいと言われたことがあります。「トランスジェンダー」は性別移行を求めない意味があるということが『大辞林』に載っているという話で、実際見てみたら本当にそうなっていました。そういう意味で使っているわけではないので対応はしませんでしたが。
「ツイッター廃人」とか、自分に名前を付けることで、そういう人格になってゆくみたいなことが過去にあって、二十歳の頃に車の免許を取りに行って合格したときに試験場の前に献血の車が止まっていたんです。二十歳になるまで血液型を知らなかったので、免許も取れて気持ちが大きくなっていたこともあり、血液型でも調べてみようと献血したんです。それでわかった血液型をひとに言ったら「わかるー」とか「だからあんたはこうなんだね」と家族に言われたりして、あまりいい気持ちはしなかった。なのに、世間一般で言うその血液型っぽい行動を取るようになった気もします。思い込みかも知れないんですが、名前をつけられるって、意外とそれに影響されてしまうんだなと思います。
李 「トランスジェンダー」ではなく「トランスセクシュアル」と言ってほしいという話は、まず失礼だしアップデートされていないという印象を受けます。「トランスジェンダー」「トランスセクシュアル」に加えて「クロスドレッサー」や「トランスヴェスタイト」といった言葉があり、それらが使い分けられていた時期もあったと思いますけど、現代はもうそういう言葉はあまり使わないと思います。当事者が自分を規定する時に使う分にはいいけど、「こう名乗ってほしい」と外野が言ってくるのは乱暴だと思います。
「トランスジェンダー」はもちろんのこと「LGBT」のような言葉もすごく浸透して変化しています。それに追いつけないと感じるひともたくさんいると思います。私は『ポラリスが降り注ぐ夜』の中で「アセクシュアル」と「ノンセクシュアル」という言葉を使っているんですけど、これは二〇一八年の日本語環境でその使い分けがあったからです。ただ、近年は「アセクシュアル」と「ノンセクシュアル」ではなくて英語圏で言う「アセクシュアル」と「アロマンティック」が普及してきていて、NHKのドラマでも取り上げられるようになりました。そういった言葉の変遷についてなにか思うことはありますか。
中村 たとえば「トランスジェンダー」と「トランスセクシュアル」の違いを明確にしてほしいと言ってきたひとは切実なのかなと思いました。たぶん、そのひと自身がセクシュアリティに悩んでいて、そのひとの周囲のひとたちとのやりとりで何か嫌な経験をされたのではないかと思いました。ただ、それはそのひとの世界での悩みだと思うので、関わるひとたちの間でわかり合えればいいわけです。言葉が変わってゆくことについても、それで誤解がうまれるならそれを解けばいいし、また、誤解があっても迷惑でなければほっといていいかなと思う時ももあります。親密になった仲なら「そういう言い方はやめて」と言ったりもしますけど。ともあれ、それはそのひとが周りのひとたちとの間で育んでいけばいいと思っているから、特に返信したりはしなかったんですけど。見方を変えると、信頼されてるのかなとも思った。私の発言や活動に関心を持ってくれているのかもしれなくて、だから、もっと明確にしてほしいということなのかなと。
李 言葉にしがみつくんですよね。私はあのひとたちとは違ってこっちだ、そしてこっちが本物なんだと。
中村 みんな本物だし、比べたりせず己を生きればいいんですけどね。
李 琴峰『言霊の幸う国で』刊行記念対談として、シンガーソングライター・役者として活躍する中村 中さんとの対談を一挙掲載します。文学と音楽、フィールドこそ異なれど、表現者として生きること、自分の望むあり方を目指す覚悟が静かに熱く伝わってきます。ご覧下さい。