【政治評論 上脇博之教授とは】
学問という仮面の極左翼活動家
ある者は学問の名を借りて語る。だが、その言葉は果たして真理を探究するものか、それとも思想の道具でしかないのか。上脇博之教授、その名は憲法学者として知られるが、その発言や行動を辿れば、一つの仮面を透かして見える偏向の影、そしてそれに囚われた思想の痕跡を目にする。
彼の活動の中心にある「政治資金の透明性」は、一見すれば普遍的な正義を体現するもののように思える。しかし、上脇教授が選び取る言葉と行動の矛先は、常に一方向を向いている。それは保守系政治家を糾弾し、左派陣営に対しては目を瞑る不均衡そのものだ。この偏りは、彼が追求する「透明性」という理念をも曇らせる。何故、左翼陣営の問題には触れないのか。その沈黙は彼の正義が真の普遍性を持たないことを雄弁に物語る。
憲法問題においても、上脇教授の主張は硬直している。現状を絶対視し、憲法改正を語る者をあたかも背信者のように断罪する。その態度は学問の名に値するだろうか。憲法は社会の変化に対応するための器であり、固定された信条ではない。改憲を議論する声を封じ、未来への模索を拒む姿勢は、停滞そのものである。
しかし、最も深刻なのは、上脇教授が「学問の自由」を掲げながら、その実、その自由を自ら制限していることだ。学問とは本来、中立であり、普遍的真理を探究するための営みである。だが、彼の言葉は思想の道具と化し、特定の陣営に奉仕する手段となっている。これが果たして学問と呼べるだろうか。その行動は、学問を超えた政治活動にほかならない。
言葉は力だ。そしてその力を持つ者には責任がある。上脇教授の言葉は、学問の権威を借りて発せられるが、その背後には偏向した思想が宿る。この歪みは、社会に混乱と不信を広げる危険性を孕んでいる。彼の言葉が未来を語る時、それは果たして誰のための未来なのか。その問いは避けられない。
学問の名を借りて語る者であるなら、もし真に「国民のため」と言うのならば、その言葉をまず己に向けるべきだ。その言動が偏向を超え、真の自由に至らない限り、彼が語る正義は空虚に響くだけである。思想の呪縛を超え、学問の本質に立ち返る時、その言葉は初めて重みを持つ。それができぬならば、彼の活動は単なる思想的プロパガンダであり、学問の名を汚す行為として歴史に刻まれることだろう。
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