独学の価値を認めなければ。教育費の高騰問題。

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悠仁親王が場合によっては東大に推薦で入ることができたとか、あるいは、結果として筑波大学に入ることになったが、これも下駄ではあろうし、まあこれは皇族なので構わない。問題なのは、世間全般にこういうプチブルが蔓延していることである。どれだけ多くの人が下駄を履いてアリバイ的に教育を受けているか、ということである。そして、昔の世の中と比べると独学が否定されている風潮に慄然とする。独学のマイナス点を列挙するのは容易い。人に教えてもらったほうがスムーズではあるだろう。だが、教育費の高騰に対する問題からしても、独学を否定するのはディストピアに暗然とするわれわれの絶望をさらに陰鬱に染める行為である。どうやって独学すればいいかというのは、ここでは語るまい。独学は独学であるから、試行錯誤しつつ、自力で登攀するだけである。効率の良し悪しは別として、自力で山頂に辿り着くことが否定されなければよい。登頂した経験のある補助員をつけて至れり尽くせりで山頂まで登りましたというのがチヤホヤされるとしたら、どこの王族のつもりか、という話である。悠仁親王は皇族だからいいが、そうでないプチブルが似たようなことをやっている(もしくは断念している)のである。人間の生まれつきの資質より、後天的な教育を重視するのは、コンプレックスをこじらせた結果である。そもそも動物的な本能として、われわれは知性に魅力を感じないし、たとえば勉強ができると女にもてるかというと、むしろ逆であろう。それこそ不気味だと思っているわけだ。忌み嫌っている奇形児に嫉妬するのはなぜか、という話である。後半生で名誉欲をこじらせて、馬鹿だが勲章は得ておきたい、という歪んだ感情があるらしい。ともかく、介助付きで山頂まで登るのもいいが、プチブル的な教育費が人々を苦しめているのだから、よく考えてもらいたい。
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