音楽史上最高のプログレ・ロック・アルバム50選

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クリムゾン・キングの宮殿からコーマトリアムまで

半世紀近い歴史があるプログレッシヴ・ロックは、最も独特で並外れた奇抜なロックのアイデアが誕生しやすい環境だった。例えば、バカげたコンセプト・アルバムやシンセサイザーの早期採用、過度に複雑な拍子記号、トールキンふうのファンタジー、未来に対する苦悩そして記憶のなかのイメージなどの発想はプログレから生み出されたものである。

2015年にラッシュが初めてローリングストーン誌の巻頭記事を飾ったお祝いとして、パンクが抹殺に失敗したこの愉快でデカダントなジャンルの最高傑作を紹介しよう。

50. ハッピー・ザ・マン『ハッピー・ザ・マン』(1977年)

ジェームズ・マディソン大学の寮で結成され、ワシントンDCを拠点に活動していたハッピー・ザ・マンは、1970年代に神聖視された、ほぼインストゥルメンタルのプログレ・アルバムを3枚制作した。サックスが駆り立てるジャズ・フュージョンの狂気(ザッパの『ワン・サイズ・フィッツ・オール』のよう)とシンセサイザー主体の瞑想的な緊張感が上手く交わり魅惑的な雰囲気を作り出している。ショーケース・ライヴの後、クライヴ・デイヴィスが「わあ、この音楽はよくわからない。私の理解を超えているようだ」とバンドに言ったらしいが、それでも彼はバンドとアリスタ・レコードの契約を結んだ。彼らのデビュー作はバンドの最もダイナミックな瞬間を示し、曲のタイトル(「スタンピー・ミーツ・ザ・ファイアクラッカー・イン・ステンシル・フォレスト」や「ニー・ビトゥン・ニンフス・イン・リンボ」)と同じくらい斬新な楽器の複雑な相互作用が強調されたものだった。by R.R.

49. ルインズ『ハイドロマストグロニンゲム』(1995年)

プログレッシヴ・ロックの宇宙の果てで輝くこの日本発のドラムとベースのデュオは、意味不明な叫び声と悪魔のようなグロウルに合わせた奇妙な韻律とリズムの調和しない爆音を正確に奏でることができる。ルインズの5枚目のアルバムは特に魅惑的であり、ヴォーカルのメロディやドローン・ドゥーム・メタル、パンクのテンポ、こだわり抜いたクリムゾンふうのプログレの断片を急速に変形し続ける彼らの曲に組み込んでいる。ルインズの首謀者である吉田達也に最も強い影響を与えたのは、マグマのクリスチャン・ヴァンデだ。吉田もヴァンデのようにバンドのために独自の言語を作りさえした。一方で実験マニアのフランク・ザッパやアヴァン・ジャズで人に恐怖を与えるジョン・ゾーン(彼のレーベルTzadik(ツァディク)からアルバムをリリースした)を模したような跡も見てとれる。『ハイドロマストグロニンゲム』を聴くに堪えないものだと評価した人もいるし、このアルバムはキング・クリムゾンやイエスのファンを間違いなく挑発させただろう。しかし、そうしたことがルインズが誰よりもプログレらしい性質を持つゆえんなのだ。by J.W.

48. FM『ブラック・ノイズ』(1977年)

ラッシュはさておき、カナダはプログレが繁栄するのに適した環境ではなかった。このジャンルの発案者の多くが姿を消していくなか、トロントを拠点に活動するFMは1977年にデビュー・アルバムをリリースした。一見すると、このバンドはそういったカナダの状況に逆らう動きをたくさんしてきように感じられる。今でも『ブラック・ノイズ』はプログレ時代後期における最も独創的なアルバムのひとつであり、シンフォニックなシンセサイザーの印象と輝くようなニューウェーブのメロディが催眠術のように混ざり合い、さらに外科用包帯で顔全体を覆い隠してステージに立つナッシュ・ザ・スラッシュことジェフ・プリューマンによって電子マンドリンとヴァイオリンを交互に使用する珍しい手法が取られた。オープニング曲の「フェイサーズ・オン・スタン」はフロントマンでベーシスト兼キーボード奏者のキャメロン・ホーキンスによるクセになるようなサビのおかげで、AMラジオでマイナー・ヒットとなったが、FMが自分たちのデビュー作の深い宇宙の魔法に触れることはなかった。「このアルバムには時代を超えたクオリティがある」とホーキンスは2014年、ミュージック・エキスプレス誌に語った。by R.R.

47. クラック・ザ・スカイ『クラック・ザ・スカイ』(1975年)

アメリカのロック・バンドはプログレへの熱意がないと思われており、限界を押し広げるようなバンドはたいていビジネス・チャンスを掴み損ねた。その最たる例が、ウェスト・ヴァージニアの生意気な連中クラック・ザ・スカイだ。彼らは変幻自在なデビュー作で完全な傑作を作り上げた。シンガーでリーダーのジョン・パルンボに率いられ、バンドは重いハードロックのリフ(「ホールド・オン」)やトゲのあるアート・ポップ(「サーフ・シティ」)、フュージョン・ファンク(「シーズ・ア・ダンサー」での素晴らしいブレイクダウン)、長編のバラッド詩(「シー・エピック」)などを上手く使いこなした。ローリングストーン誌が「スティーリー・ダンや10cc、ザ・チューブスのデビュー・アルバムのように、クラック・ザ・スカイのデビューも、独創的でユーモアに富み洗練された70年代半ばのアンニュイなヴィジョンがあることを披露するものだった…」と大絶賛するレヴューを掲載したにもかかわらず、彼らが得たのは一部地域の熱心なファンだけだった。だが、そんなファンに支えられてクラック・ザ・スカイは音楽を続けることができたのだ。2012年には15枚目のアルバム『オーストリッチ』がリリースされた。by R.R.

46. カルメン『ファンダンゴ・イン・スペース』(1973年)

フラメンコ調のプログレッシヴ・ロックは、1973年当時でもかなりバカげたアイデアだった。しかしロンドン中心に活動を行うカルメンは、ロサンゼルス出身のシンガー兼ギタリストのデヴィッド・アレン(妹でキーボード担当のアンジェラ・アレンが補佐していた)のヴィジョンを追求し、そんな革新的な融合をデビュー・アルバムでやってのけた。(本作はデヴィッド・ボウイの共同制作者トニー・ヴィスコンティによりプロデュースされ)音楽がメロトロンやロックのリズム、サパテアード(アンダルシア地方の伝統的な音楽・ダンス)の脚さばきを精神異常者の世界観に溶け込ませるなか、フロントマンが魅力的な甲高い声で闘牛やジプシーの物語を歌った。しかし、そう長くは続かなかった。ほかに2枚のアルバムをリリースした(さらにサンタナやジェスロ・タルのオープニング・アクトを務めた)後、カルメンは1975年に解散した。『ファンダンゴ・イン・スペース』は世間から忘れ去られていったにもかかわらず、新しい世代のミュージシャンの心を動かしていた。オーペスのフロントマン、ミカエル・オーカーフェルトは2012年のメタル・ハマー誌で次のように述べた。「これは素晴らしい。フラメンコ調のプログレ・ロック・フォークのクレイジーなアルバムなんだ!この作品にはタップダンスとカスタネットが使われている。俺がこの曲を聴かせた人は皆、驚いてぶっ飛んだよ」。by R.R.

Translation by Deluca Shizuka

音楽史上最高のライヴ・アルバム ベスト50

Photo: (Michael Ochs Archives/Getty Images)

最高のものを求めていたのなら、あなたはそれを手に入れた!

ライヴ・ショーの熱狂をそのままアルバムに収めるのは不可能だが、それは努力が足りないからではない。ジミヘンがモンタレー・ポップでギターに火をつけたライヴから、フェラ・クティとジンジャー・ベイカーのために200人弱がアビイ・ロードでスシ詰め状態になった演奏を収めたもの、さらにジョニー・キャッシュの『アット・フォルサム・プリズン』から『チープ・トリックat 武道館』といった、最高のパフォーマンスがなされたライヴ・アルバム50枚を紹介しよう。

ローリングストーン誌は、大部分が多重録音で作られたアルバム(ニール・ヤングの『ラスト・ネヴァー・スリープス』など)や完全なフェイク(重要作品だがビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーの『チープ・スリル』)は除外し、印象的な瞬間が収められた作品や出世作、伝説的なジャム・セッションなどに絞って選出を行った。

50位 ザ・リプレイスメンツ『The Shit Hits the Fans』(1985年)

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禁酒前のポール・ウェスターバーグ、クリス・マーズ、ボブ・スティンソン、トミー・スティンソンの4人は、ツイン/トーン・レコードからカセット版のみでリリースされたアルバム『The Shit Hits the Fans』のなかで、音楽史上最高の酒場バンドとして、最悪の酒場バンドとしての両方の一面を見せている。1984年、オクラホマシティの教会を改装したライヴ会場で吊りマイク2台を使って録音された24曲(うち19曲はカヴァー)には、ブルース、メタル、ソウルそしてビールを引っかけたようなでたらめな演奏が違和感なく混在している。「俺がポールか誰かにショーを録音してもいいか聞いた」と会場BoweryのマネージャーでDJのロスコー・シューメイカーは、ザ・リプレイスメンツのオーラル・ヒストリー『All Over But the Shouting』で振り返った。「“何で?俺たちはくそだよ”とウェスティらしい返事が返ってきた」。バンドはコミカルなブレイクダウンの間に、後にニルヴァーナやウィルコなどのポップを愛するパンクロッカーに影響を及ぼすことになったアルバム『Let It Be』時代を象徴する傷ついたスラック・ロックを披露した。『Sixteen Blue』や『Can’t Hardly Wait』の曲での正確で激しいテイクは、ジャクソン5の曲『アイル・ビー・ゼア』やレッド・ツェッペリンの曲『ミスティ・マウンテン・ホップ』のまったく誠意が感じられないカヴァーで相殺されている。バンドはこのアルバムで、R.E.M.やU2、シン・リジィ、ザ・ローリング・ストーンズを完全に台無しにするカヴァーを終始繰り広げた。by Reed Fischer

49位 リトル・フィート『ウェイティング・フォー・コロンブス』(1978年)

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リトル・フィートを再び返り咲かせた…まあ皆さんご存知のアルバム『ウェイティング・フォー・コロンブス』は、1977年8月にロンドンとワシントンDCで録音されたものである。録音の6ヶ月後にリリースされたこの作品はバンドのベストセラー・アルバムとなり、いつの間にかリトル・フィートの信頼を回復させていた。このライヴ・アルバムを制作するという計画を進めたのは、作曲センスが衰えたとしてバンド内で孤立していたプロデューサー、ローウェル・ジョージだった。『ディキシー・チキン』や『トライプ・フェイス・ブギー』などの曲を聴けば分かる通り、このアルバムは、彼らが今もなお有り余るほどのエネルギーと生演奏スキルに恵まれた、ニューオーリンズのファンクシーンにおける最強のバンドであることを見せつけるものだった。後にローウェルが効果を高めるために自分のリードヴォーカルとギターソロの大部分を多重録音し、細部までこだわった魅力的で力強いエッセンスをアルバムに加えた。本当にこのアルバム『ウェイティング・フォー・コロンブス』は時間をかけて着実に評価を高めていった。2010年のハロウィンにはフィッシュがライヴ・カヴァー・バージョンを演奏し、この作品に敬意を表した。by Richard Gehr

48位 ダニー・ハサウェイ『ライヴ』(1972年)

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ダニー・ハサウェイは、ギタリストのフィル・アップチャーチ、ベーシストのウィリー・ウィークス、ドラマーのフレッド・ホワイトといったシカゴ・セッションのベテランで構成されたバックバンドを従えて、この素晴らしいライヴセットで生き生きとしたスイングを披露し、観客を熱狂させた。彼がローズ・ピアノを激しく弾きながら12分バージョンの『ゲットー』を演奏し終えるとファンはすぐに盛大な拍手を送り、キャロル・キングの曲『きみの友だち』をゴスペルの陽気な歌声でカヴァーすると、ある女性は喜びの悲鳴を上げた。一方で、クインシー・ジョーンズとのコラボ映画『ハーレム愚連隊』のサウンドトラック・アルバムから1枚目のシングルとして1972年にリリースされた『リトル・ゲットー・ボーイ』は、発売前に肯定的な評価を得ることができた。このアルバム『ライヴ』はチャートの20位以内に入り、ハサウェイにとって初のゴールドディスク認定アルバムとなったが、完璧主義者で有名な彼はいつも通り自己批判を行った。「もちろん売り上げについてはうれしいけれど、アルバム自体は自分が求めたレベルには達していない。次の作品のためにもっと自分自身に磨きをかけなければ」とブルース&ソウル誌に語った。だが不運にも彼にそのような機会は訪れなかった。このアルバムは13分にわたる『エヴリシング・イズ・エヴリシング』の演奏で締めくくられているが、この曲は彼の統合失調症との闘いや1979年に33歳で自殺した彼の結末をさりげなく予見しているかのようだった。by Mosi Reeves

47位 ブギ・ダウン・プロダクションズ『Live Hardcore Worldwide』(1991年)

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1973年のヒップホップの誕生から1979年のシングル『Rapper’s Delight』のリリースまでの間、ヒップホップはもっぱらライヴで演奏するものだと考えられていた。しかしインターネット時代が到来するまでのこの期間はだいたいテープ交換や違法録音という形で記録が残っている。だから、ライヴ時代の最も鮮明な記録(1986年発売のシングル『South Bronx』)だけでなく、この1991年にリリースされた革新的なアルバムでなされた大幅な改造を聴いてみたければ、ヒップホップの歴史研究家、ブギ・ダウン・プロダクションズのKRS・ワンを頼るべきである。KRSはニューヨークやパリ、ロンドンで録音されたこのアルバムのなかで、ラスト・ポエッツなどの先人による話し言葉の詩やレゲエ称賛者の叫び、『I’m Still #1』を崩した感じで歌うラップ初期の時代のような観客を喜ばせるフリースタイルなどのバラバラなものを上手くつなぎ合わせている。by Christopher R. Weingarten

46位 シン・リジィ『ライヴ・アンド・デンジャラス』(1978年)

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1978年、当時超人気バンドだったシン・リジィは、同じグラム・ロック界の旅人デヴィッド・ボウイやT.レックスの作品を手掛けたことで名声を博したプロデューサーのトニー・ヴィスコンティと一緒に作品作りをすることを決意した。時間が限られていたのでライヴ・アルバムを作るという案に落ち着いた。そうしてでき上がったアルバム『ライヴ・アンド・デンジャラス』は批判を集める結果となり、『ダンシング・イン・ザ・ムーンライト』のような比較的メロウな曲ですら誰ひとり魅了することができなかった。ではどうして、このアイルランド出身バンドの作品は未だに話題にされるほど効果的に人を惹きつける存在になれたのだろうか。雑な部分を取り除くためにこのアルバムの75%はスタジオで録音されたとヴィスコンティは主張したが、バンド自身はその発言を強く否定している。「俺たちはすごくうるさいバンドだ」と、ギタリストのブライアン・ロバートソンは2012年、ギター・プレイヤー誌に語った。「そのなかでも俺はいちばんうるさい。だから俺のギターがいまいましいドラムキットの上で血を噴き出すほどうるさくなったら、君はギターをどうやってギターを交換する?」by Maura Johnson

Translation by Shizuka De Luca

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