このページでは会社を設立するまでの経緯やこれからやっていきたいことなどを、最初から順を追って解説しています。
震災を機に会社をつくった
株式会社未知の駅代表の諫山三武です。
15歳の時にひょんなことからヒッチハイクを覚え、全国津々浦々、お金をかけずに旅をするようになりました。
(東名高速道路・東京IC手前にて)
これまでたくさんの人たちとの出会いがありました。 トラックの運転手、旅行中の老夫婦、塾の経営者、水泳教室のインストラクターのお姉さん、田舎のヤンキー、ガチンコファイトクラブに出てたプロボクサー、さらにはW不倫で駆け落ち中のカップル、府中刑務所から出所したばかりのヤクザのお兄さんまで….。10年で計300台以上の車に乗せていただきました。
(旅行中の老夫婦の車にて)
(リンゴ行商人の車にて)
ヒッチハイクで乗せてくれた人たちからいろんな話を聞くのが好きで、大学卒業後、気がついたら編集者になっていました。
会社を設立したのは2013年3月11日のことです。
わざわざこの日を選んで法務局まで登記しに行ったのには理由があります。
株式会社未知の駅は2011年3月11日に起きた東日本大震災をキッカケにつくられた会社です。その日を忘れないために、という思いが込められています。
2011年、震災の年、僕は大学4年生でした。当時、毎日のようにテレビやネットで原発事故のニュースが流れてきました。そんな中、ふと疑問に思いました。
「そういえば普段自分たちが何気なく使っている電気や水はどこから来ているのだろう?」
考えてみれば、自分たちが使っている資源はどこから来て、ゴミや排泄物はどこに捨てられていくのか、実はよく知らない。これまで特に関心を払ったこともありませんでした。
震災後、樋口健二さんというひとりの写真家と出会いました。
60年代から公害、労働災害、環境汚染をテーマに写真を撮り続け、原発内部で働く被爆労働の実態を世界に伝えた方です。自分たちの電力を支えている人たちの中に、こんな劣悪な環境で命を削りながら働いている(働かざるを得ない)人たちがいるという事実を知りました。
(『原発崩壊』, 樋口健二, 2011, 合同出版)
(樋口さんの写真が表紙を飾った「週間金曜日」(2011年9月9日発売)特集「原発と差別」)
震災、そして被爆労働の実態を知ったのはあくまで1つのキッカケですが、これを機に、改めて自分たちの生活の1つ1つに裏側に関心を払ってみると、そこにはどこかの誰かの犠牲が潜んでいる可能性がある(しかもその範囲は現在だけでなく未来の子どもたちにも及んでいる)ことを想像するようになりました。
「だから電気を使うのはやめましょう」と短絡めいたことを言いたいのではありません。
70年代、福岡県で計画されていた豊前火力発電所の建設に反対の声をあげた作家・松下竜一さんは当時こんな言葉を残しています。
“電力会社と良識派を称する人々は、だが「電力は絶対必要なのだから」という大前提で公害を免罪しようとする。国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は偲んでもらわねばならぬという恐るべき論理が出てくる。本当ならこういわねばならぬのにーーだれかの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと”
まさにこの言葉の通り、今の自分たちの生活のあり方を問い直す必要があるのだと考えました。
でもこの大きな流れに巻き込まれて(図らずも加担してしまって)いる自分の生活をどうにか変えたいという気持ちはあるものの、一体何をどうしたらいいかサッパリわからない。
問題が根深く、大きすぎたのです。
ヒッチハイクで熊本を訪れる
そんなモヤモヤとしていた時、たまたまヒッチハイクでこんな出会いがありました。2011年の夏です。
当時、東京から実家・福岡までヒッチハイクで帰省しようとしていると、途中、滋賀県の草津PAでひとりのおじさんが車に乗せてくれました。彼は「熊本の南阿蘇に電気も冷蔵庫もなしで自給自足の生活をしている農家の友達がいて、その友達が進めているログハウスの建築を手伝いに行く」と言いました。「そこに何かヒントがある」と直感しました。
ほぼ反射的に「僕も連れてってください」と言うと「おう、いいよ」と二つ返事で決定。その場で目的地が福岡から熊本に変更となり、その日の夜遅く、実際に熊本まで行き、僕はそこで1泊2日過ごさせていただくことになりました。
これが僕と「パーマカルチャー」との初めての出会いとなりました。
(滋賀県の草津PAで乗せてもらった車の中での様子)
いきなり友達にくっついてやってきた見ず知らずのヒッチハイカーを快く泊めてくれた熊本の農家さんは「パーマカルチャー」の実践者でした。
「パーマカルチャー」(Permaculture)とは、Permanent(永続的な)+Agriculture(農業)+ Culture(文化)の3つの言葉を約めた造語です。日本語では「恒久的持続可能な環境を作り出すためのデザイン体系」と知られています。例えば「野菜と野菜の間にハーブを植えれば、虫がその臭いを嫌って寄り付かない(=農薬を撒かなくていい)」とか、「庭で育てているサトイモとシンクの排水パイプを繋いでおけば、皿洗いで流れた水でそのまま水やりできる(この場合、洗剤は使いません)」といったように、自分たちの生活に必要なものを自分たちの生活の場から調達し、そこで出たゴミや排泄物をその土地で循環させていくように生活環境をつくるデザイン手法のことです。簡単に言えば自給自足なのですが、そのやり方が非常に工学的かつ倫理的なのです。70年代にオーストラリアでビル・モリソンとデビット・ホルムグレンという2人が地球上のあらゆる環境問題を解決するために考え、体系的にまとめ、それが世界に広がっていきました。ここではパーマカルチャーについて詳しくは触れません。気になる方はぜひ調べてみてください。
(少量の木々で効率よく火が炊ける手作りロケットストーブ)
(シンクで使った排水がサトイモに流れる)
(勝手に成長していくサトイモ)
(天気がよかったので外で朝ごはんを食べた)
都会で生活していると、あたかも水や電気やガスは大手インフラ会社から引いてくるのが当たり前で、家も不動産屋に行って賃貸契約でもしないと住めないと思ってしまいがちです。一方、この熊本の農家さんのように、それらを自分の手でつくりだしていくような人もいます。
彼はもともと東京在住で、引越しして田舎暮らしをしながら農業や建築などさまざまなことを覚えていきました。トライ&エラーを繰り返しながら、自分の建てたい家をつくりだしていく姿を見て「やりながら考える」「必要なものを自分の手でつくる」という生き方もあることを知りました。
また、その農家さんは「オフグリッド」といって、「ここからここまでは自家発電、ここからここまでは九州電力が電気を引く」といったように、供給源をそれぞれ分けていました。日常生活で使う分のエネルギーはソーラーパネルでまかなえても、ログハウス建設のために使う機械のエネルギーはまかなえない。つまり完全自給ではないのです。ここがとても重要なポイントで、0か100かの発想ではなく、少しずつ、自分たちのできる範囲からゆるやかにシフトしていこうとする、そういう「しなやかな暮らし」があることを教わりました。社会と断絶して山で仙人のような暮らしをするのではなく、社会と関わりながらも、その関わり方を少しずつ変えていこう、という姿勢です。
自分もすぐに田舎に移住してパーマカルチャーをやりたい、という衝動的な気持ちもありましたが(何より楽しそう!という憧れがありました)、そうではなく、ひとまず東京での自分の暮らしを起点に「今ここからやれること」を考えてみることにしました。
ZINE『未知の駅』を創刊する
自分にできることは何だろう?
そう考えた時、東京に戻って来て最初にとった行動が「トークイベント&上映会」の開催でした。
いきなり電気を止めよう、というのではなく、まずこの出来事や自分の思いを誰かと共有したい、というところから始めてみたわけです。
東京・下北沢に「気流舎」という書店があります。そこで震災の話、ヒッチハイクで熊本へ行きパーマカルチャーと出会った話などをお客さんたちに話し、その農家さんから借りて来たパーマカルチャーのDVDを上映し、みんなでこれからの暮らしを考えてみよう、という場をもちました。このイベントは少人数ながら、とても盛り上がりました。同じイベントを大学や学者向けの研究会などでも発表していくようになりました。
(下北沢「気流舎」のトークイベントにて)
(イベントに参加してくれた人たち)
「一緒に考える場をつくりたい」という思いはさらに強くなり、今度は「ZINE」(ジン)の制作にも取りかかりました。
「ZINE」とは少部数の自費出版本のことです。近頃、若者たちの間でこのZINEをつくるのが流行っていることは知っていました。同人誌、ミニコミ、リトルプレスなどいろんな呼び方がありますが、なんとなくZINEってかっこいいなと思い、友達でZINEをつくっている人に話を聞いて、どうやって制作し、いくらで印刷し、どこで売るのか、など詳しく教えてもらいました。
大学4年生、文章をまともに書いたこともなければデザインのノウハウもありませんでした。AdobeのIndesignという組版用のソフトがあることを知り、とりあえず1ヶ月間の体験版をダウンロードし、買ってきた参考書を読みながらせっせとつくったのが、ZINE『未知の駅』創刊号でした。発行部数500部。両面印刷した紙を25枚重ねて真ん中2箇所をホッチキスで留めただけの「紙の束」ですが、これを半分に折ってあげると冊子になるというわけです。テーマは「Alternative Lifestyle(=もう1つの生き方)」。
(ZINE『未知の駅』創刊号)
気がつくと周囲の友人たちが面白がってくれて「私も原稿書きたい」「デザイン手伝ってあげる」「校正ならできるよ」と声をかけてきてくれました。
初めて出版した約100ページにおよぶ『未知の駅』は、およそ3ヶ月で完売しました。吉祥寺「百年」、新宿「模索舎」、下北沢「気流舎」、中野「タコシェ」京都「ガケ書房」(現在ホホホ座)など、各地にあるユニークな書店をはじめ、地方で自分と同じように草の根的に活動している人たちのコミュニティ(鳥取「汽水空港」やガイア水俣など)と繋がりができはじめたのもこの頃です。
(製本作業を手伝いに来てくれた友達)
編集者になる
さて、ZINEをつくっていたら、就職しないまま大学を卒業してしまいました。
それでも勢いに任せ2号、3号とZINEを不定期に出版し続け、発行部数も1000部に増やすことにしました。1000部にしたらしたで今度は在庫が大量に余ってしまい部屋に段ボールがたくさん積んである生活を送る羽目になってしまいました。1000部はもはや「リトル」プレスではないと痛感しました。ちなみに当時は自分で自分のことを「編集者」だとは思っていませんでしたので、巻末の奥付には「製作責任者」と書いていました。
そんな自分が本当の編集者になるターニングポイントが訪れました。
2013年の出来事です。『未知の駅』Vol.4 (特集:食べる)の時でした。
(『未知の駅』Vol.4"特集:食べる" のため玉村豊男さんを取材させていただいた時の様子)
長野県東御市で「ヴィラデスト」というワイナリーを経営しながら作家活動も行う玉村豊男さんを取材させていただいたことをキッカケに、「雑誌の編集をやってみないか」と声をかけていただいたのです。聞くと、新潮社から90年代に出ていた「SINRA」というワイルドネイチャー系の雑誌を復刊させ「自然との共生」をテーマにポスト311における新しい生き方を提案したいというのです。「ぜひやらせてください」と返答し、2013年の暮れから復刊企画会議に関わるようになりました(復刊したのは2014年4月です)。自分で会社を設立したのもこの年のことです。ZINE作家、編集者、経営者、いずれにおいても起点は311でした。
(雑誌「SINRA」2016年3月号"特集:オオカミよ、森に帰れ")
「SINRA」は残念ながら2018年3月に休刊となってしまいましたが、それまでの間に編集者として日本各地いろんなところを取材させていただきました。「自然との共生」や「森羅万象」がテーマなので、どこに行ってもすべて自分の関心あることばかりでした。出羽三山の山岳信仰、絶滅したニホンオオカミ、宮崎の神楽、孤島の限界集落(高知・鵜来島)など、今まで無知だった日本の土着文化について約4年間、現地へ足を運び、現地の人から話を聞き、自分の目で見て、いろいろ勉強させていただきました。
(宮崎県の高千穂神社で取材した神楽の様子)
振り返ってみると、この数年間は「もう1つの生き方」というテーマを掘り下げると同時に「編集者」という具体的な技術職を底上げしてきた時期だったように思います。商業誌に限らず、大学で新入生に配られる冊子、会社案内パンフレット、書籍に使う地図データなどをつくる一方、英語の翻訳、取材・原稿執筆、テープ起こしなど、これまでにさまざまな仕事をこなしてきました。いろんなトークイベントや大学の非常勤講師として呼んでいただき、喋る機会も年々増えていきました。
心と身体の問題を考える
調子が悪い、と思い始めたのは2017年のことでした。
突然、頭に円形脱毛ができ、左半身が帯状疱疹になりました。
どういうわけか眠れないし、不整脈で心臓も落ち着かない。自分では元気なつもりなのに、身体が危険信号を送ってくるのです。
20代前半からZINEやら雑誌やら元気モリモリでやってきたけれど、30歳手前にして一度「止まれ」のサインが出たのです。これを機に2017年は仕事の量を減らし、自分と向き合う時間を多めにつくるよう心がけました。
この頃からヨガや禅や薬草やヒーリングの世界に関心をもつようになっていきました。
もともと近所の寺に毎朝座禅に通っていたし、ZINEや雑誌の取材で瞑想、マインドフルネスなど、あるいはスピリチュアルな世界には興味がありました。
1年間ヨガを続け、温泉に頻繁に通ったこともあり、体調は元通りになり仕事も復帰しました。元通りどころか、前より引き締まって、より健康な身体になったような気がします。心身のバランスの保ち方を意識するようになりました。自分がこれまで気づいてないところで溜め込んでいた感情など1つ1つの小さな物事と向き合い、整理していくようなやり方を、いろんな人たちから教わりました。
そんな時、これまた不思議なご縁で、ブルガリア大使館からのお仕事でブルガリア取材に行く機会がありました。
2018年5月のことです。
ブルガリアはヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する国でセルビア、ギリシャ、トルコなどと隣接する国です。いざ行くことになって初めて知ったのですが、ブルガリアは「ヨーロッパの薬箱」と言われるほど薬草文化が盛んで、昔から傷ついた人々が薬草で手当をしていたそうです。また、ブルガリア人なら誰でも知っているかの有名な預言者ババ・ヴァンガを生んだスピリチュアル大国でもあります。
この頃から、心と身体に関する分野に興味が徐々に湧いてきました。
ヨガと温泉通いを続けつつ、整体を受けたり、ヒーラーさんのセッションを受けたり、インドを旅してアーユルヴェーダのトリートメントを受けたりと、いろいろなことを試すようになりました。同年代の友人知人たちを見ていると、同じように苦しんでいる人が少なくありませんでした。会社のストレスで鬱になったりPTSDになったり、何をやるにも途中で挫折してしまい実家で1年半引きこもっている人もいました。日本では「頑張る」ことは支持されても、「休む」ことはなかなか支持されない傾向にあります。有給も産休も取りにくい。学校でもこうした心と身体のケアの仕方をまともに教わったことはありませんでした。
何かに傷つき、緊張し、こわばっている部分を癒やしたりほぐしたりしてあげるような時間や場所が、誰しも人生には必要なのではないか感じました。
いまどうしてそんな病気や不調が身体に出ているのか。それは一体何に対する反応として出てきたものなのか。ではなぜ自分はあの時そう反応したのか。そしてなぜその反応がまずかったのか。そうやって自分に問いかけ、向き合う作業はなかなか簡単なものではありませんが、そんな時に役に立ったのがヨガや薬草・薬膳など、自然の力でした。
英語でSurrenderという言葉があります。これは「〔感情などに〕身を任せる[委ねる]」とか「明け渡し」といった意味があります。なんでも自分の力でやろうとするのではなく、流れに身を任せ、あらゆる執着を手放していく、ということです。
これまで原発、反公害運動、パーマカルチャーといったような大きな社会問題について考えようとしてきましたが、それよりもまず自分の心と身体を見つめ直すことが先なのではないかと考えました。新聞やネットで流れてくる事件よりも、どこかで何かに悩んでいる他人よりも、いまここにある自分の身体こそ、自分たちの現実をつくりかえていく最も重要なチャンネルだと思ったのです。
他者を変えようとするのではなく、まず自分が変わっていく。そのための補助役となるような仕事がやりたいです。
今これを書いている現在(2018年11月8日)、会社設立から6期目です。あと3ヶ月もすれば7期目を迎えます。
これまで編集・制作を主に手がけてきましたが、これを続けながらも、次のステップとして「心と身体」をテーマに新たなチャレンジをしていきます。
「Alternative Lifestyle(=もう1つの生き方)」というテーマは変わりません。どうしたら自分たちが無理なく、楽しく、おいしく、気持ちよく生きていけるか。到達したいのはそこです。
震災にせよ身体の不調にせよ、あらゆる危機は「もう無理だよ~、どうするの~?」とメッセージを送ってきます。
こうした危機の声に耳を傾けていくことが、いわばこの会社のミッションといえるかもしれません。
学生時代からZINEをつくり起業し、今に至るまでの経緯や、これからやっていきたい分野の話をさせていただきました。
大変長くなってしまいましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。
もし何か一緒にやれることがあれば一緒にやっていきましょう。