フランツ・フェルディナンドが世界を制した本当の理由 メンバーが結成20年を総括

フランツ・フェルディナンド、2003年撮影(Photo by Joe Dilworth/Avalon/Getty Images)

ニック・マッカーシー(Gt)脱退後のアルバム『Always Ascending』(2018年)からディーノ・バルドー(Gt:元1990s)とジュリアン・コリー(Key, Gt:ミャオ・ミャオ名義でも活動)が加入、5人編成へと増員したフランツ・フェルディナンド。昨年オリジナル・メンバーのポール・トムソン(Dr)が脱退を宣言、後任としてヘクター・ビザークやザ・ガール・クライド・ウルフなどで活躍してきた女性ドラマー、オードリー・テイトを迎えた彼らが、大規模な欧州ツアーに先駆けて初のベスト・アルバム『Hits To The Head』をリリースした。

バンド結成から20年、そしてフロントマンのアレックス・カプラノス(Vo, Gt)は3月20日で50歳と、ダブル・アニバーサリーを迎えて再び上昇ムードのフランツ。アレックスとボブ・ハーディー(Ba)に、彼らがグラスゴーのクラブ・シーンに顔を出し始めた90年代から、バンド結成~現在までの長い歩みを振り返ってもらった。

※追記:フランツ・フェルディナンド、11月に東京・大阪で来日公演が決定。チケットプレゼントを実施中(詳細は記事末尾にて)。



フランツ結成前夜
「差を生むのは、楽器を弾く指の背景にあるアイディアだ」

―フランツ・フェルディナンドのヒット・シングルをたっぷり含むベスト盤『Hits To The Head』は、あなた方がシングルを愛していることの証とも言えると思います。若い頃、特に魅了されて何度も聴いていたシングル盤を、何枚か思い出してもらえますか?

アレックス:僕の場合、マッドネスの「One Step Beyond」とかになるんじゃないかな。アダム&ジ・アンツの「Kings Of The Wild Frontier」とか。他にブロンディのシングルも数枚持っていた。当時の新曲だけじゃなくて、古いシングルも結構買ってたよ。学校の帰り道にオックスファム(飢餓救済をきっかけに発足した国際協力団体)が出していた店があって、ビートルズやローリング・ストーンズのシングルを10ペンスという手頃な値段で買えたんだ。だから子供の頃は、その辺のものもたくさん持っていた。昔のロックンロールのシングル盤も好きだった。今でも45回転のEP盤は大好きだ。音楽の魅力がそこに凝縮されている。音楽を聴くのに最高の手段だと思うよ。

ボブ:僕はアレックスより少し歳が下だから……80年代だとまだアナログ・シングルをウールワース(スーパーマーケット)で買えた頃で、最初に買ったレコードは、ジャイヴ・バニーという、オールディースやサーフ・ミュージックをサンプリングしてつなぎ合わせるのが売りの変わったアーティストなんだけど、当時はそれがめちゃくちゃキャッチーで大好きだった。




―地元で盛んだったノーザン・ソウルのシーンに触れたのは何歳ぐらいのことですか?

アレックス:1992年頃じゃないかな。20代前半だね。グラスゴーのGoodfootというナイトクラブでよくオールナイト・パーティーが催されてて、けっこう通った。クラブに行ってハウス・ミュージックを聴くのと近いものがあったね。曲を作ったアーティストが誰かはわからないけど、踊って楽しむ、という。アティチュードも、踊りも、音楽性も、全部好きだったよ。

―僕が初めてアレックスの曲を聴くことになったのは、90年代にウルセイ・ヤツラというバンドの大ファンだったからです。彼らとあなたのバンド、ザ・ブリスターズがスプリット・シングルを出したのはもう27年ぐらい前だと思いますが、今それに入っていた「A Dull Thought In Itself」を聴き直しても不思議と古臭くなくて、すでに「アレックスだ!」と感じさせる個性が萌芽していますね。

アレックス:ワオ! それを知ってる人がいるなんて信じられないよ。そのシングルはなんせ500枚しかプレスしてないからね。しかも、そのうち300枚はまだ僕の家のベッドの下で眠っている(笑)。確かに、リフとかを聴くと、フランツの予兆ともとれる部分があるかもね。型にはまらない曲の構成だけど、ポップでキャッチーだっていう。それに、ウルセイ・ヤツラが好きだったと聞いて嬉しいよ。彼らとは仲が良かったし、僕も彼らの大ファンだったから。ボブも結構早くからライブを見に行ってたよね。

ボブ:そうそう。まだ地元のブラッドフォードに住んでた頃、好きでアルバムを2枚くらい持っていた。あと学校の仲間と一緒にシェフィールドまでライブも観に行った。確か17歳の時だったと思う。で、その仲間のひとりの父親が音響スタッフだったんで、そのおかげでゲストリストで入ってライブが観れた。これほどイカしたことはないと思ったよ。

アレックス:ウルセイ・ヤツラはいいバンドだった。彼らの名前が聞けて嬉しいよ。


ザ・ブリスターズ/ウルセイ・ヤツラのスプリット・シングル(1995年)※discogsから引用



―その後、ザ・ブリスターズはザ・カレリアに名前を変えて、1997年に『Divorce At High Noon』をリリースしますが。このアルバムをプロデュースしたモノクローム・セットのビドにインタビューした時、彼は「最初からアレックス・カプラノスは明らかに才能があって良い曲を書いていたけど、バンドの音楽性と合っていないレーベルにいたので、うまく売り出されなくてかわいそうだった」と言っていました。実際、ザ・カレリアは良いバンドだったと思うのですが、あの時点でブレイクできなかったのは何故だったと思いますか?

アレックス:おいおい、ちょっと待ってよ。今の質問にいろんな意味で度肝を抜かれているんだけど(笑)。まず、君がビドにインタビューしたことがあるってこと。彼は凄くいい人だし、君がモノクローム・セットのファンでもあるとわかって嬉しいよ! 僕も大好きなバンドだから。ビドとはここ数年話をしていないから、連絡しないと。そして、君が持っているカレリアのアルバム、それは初回盤じゃないか! フランツが成功してから再発されたけど、ジャケットのデザインが違う。

ビドが言った通りで、カレリアが契約したのはロードランナー・レコードで、言ってしまえばヘヴィ・メタル・レーベル、当時一番売れてるアーティストはセパルトゥラだったと思う。偉大なバンドだ。ただ、僕たちがやっていた音楽とはまるで違う。何が起きたかというと……ロードランナーは、ブリットポップが流行っているっていうんで、そういうバンドと契約したくてグラスゴーに来たんだけど、間違って僕たちと契約してしまった(笑)。ブリットポップのバンドを獲得したと思ったら、実はモノクローム・セットやノエル・カワードに影響された、へんてこなグラスゴーのバンドだったと言うわけ。ロードランナーじゃなくても、あのバンドをうまく売り出すのは難しかったと思う。凄くニッチなバンドだったから、せいぜい売れても知る人が知るカルト・バンド止まりだろう。クレスプキュールとかからリリースした方が良かったのかも。


ザ・カレリア『Divorce At High Noon』1997年の初回盤ジャケ写真 ※discogsから引用



―そのカレリアのアルバムから、フランツの最初のシングルまで6年もかかっています。その間、アレックスはヤミー・ファーやアンフェタミーニーズでも活動していたわけですが、あなたの音楽の好みはどんな風に変わり、広がってきたのでしょうか?

アレックス:自分が温めていたアイディアを形にしていった、という感じかな。カレリアのアルバムの頃は、完全に横道に外れて、ジャズ風のノエル・カワードっぽい音楽をやっていた。そこから、最初にブリスターズでやっていたようなギター・サウンドに戻った。ブリスターズを始めた頃の方がフランツの音に近かったと思う。それと、自分のアイディアを絞った時期でもあった。カレリアの失敗で、音楽で食べていくのを一回諦めた。1999年には27歳になっていたから、「今から音楽で成功するのはもう絶対に無理」だと思ったんだ。だから、それからは純粋に音楽を作る喜びを追求するようになって、自分のアイディアをひたすら探究した。

あと、カレリアの後、僕はエレクトロニック・ミュージックも聴くようになった。ガイデッド・ミサイルというレーベルからリリースした曲で「The Only Difference」というのがあったんだけど(1999年のコンピレーション『Hits & Missiles』にカレリア名義で収録)、当時ハマっていたものが音に出ていると思う。TR-808やプログラム・ビートにギターを被せる、という。あの曲の別ヴァージョンが後に、フランツの2枚目のアルバムに入っている「Outsiders」という曲になった。もし、君がもっとレアな掘り出し物を手に入れるなら、次はこれだろうね。かなり希少だから(笑)。


ヤミー・ファーは2019年、ベスト盤『Piggy Wings』がモグワイ主宰のロック・アクションからリリースされた

―普通、いくつもバンドを経てきた人が新しいバンドを組む時は、テクニックのすぐれたミュージシャンを集めようとすると思うのですが、フランツはそういう始まり方をしていないですよね。ボブはベース初心者だったし、最初のリハーサルでは、ニックがドラム、ポールがギターだったとか。どうしてそのような感じでバンドを始めたのでしょう?

アレックス:ボブ、テクニックがない、と言われてるよ(笑)

ボブ:(ふざけて怒るふりをする)

アレックス:さっきも言ったように、あの頃は何より楽しくやりたいと思っていたわけで、音楽を作ること自体は楽しかったし、どうせやるなら友達とやりたいと思った。ボブにベースの弾き方を教えたのも、「絶対に楽しいからやってみろよ」と言って僕から誘ったんだ。みんなでいろんなバンドや音楽の話もした。バンドにとっては技術的な巧さよりも、アイディアや発想の方が重要だと今でも信じている。誰だって練習さえすれば楽器は弾けるようになる。そこまで難しいことじゃない。練習をたくさんすればいいだけのこと。差を生むのは、楽器を弾く指の背景にあるアイディアだ。音楽というのは、僕たちに何かを感じさせて、生きることが何かを教えてくれるから心を掴まれるわけで、単に指が速く、巧く動かせるからじゃないんだよ。

Translated by Yuriko Banno

RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE

 

Black Country, New Roadが語る「脱退」とその先の人生、若者が大人になること

ブラック・カントリー・ニュー・ロード(Photo by Rosie Foster)

 
今からお届けするのは2月1日に行ったブラック・カントリー・ニュー・ロード(Black Country, New Road、以下BCNR)のインタビューでの会話だ。その前日の1月31日、バンドは結成時からのメイン・ヴォーカルで作詞を担当してきたアイザック・ウッドの脱退を発表した。

正直、このタイミングでの取材は難しいかなと延期や中止の可能性も覚悟して臨んだが、インタビュイーの二人──タイラー・ハイド(Ba)とチャーリー・ウェイン(Dr)はとても穏やかに、新作について、そしてアイザックやバンドのことについて答えてくれた。

まだ20代前半の彼らの成熟に驚かされるのは、人間性についてばかりではない。むしろその音楽こそ彼らの驚異的な成長を物語っている。2月4日に発売された2ndアルバム『Ants From Up There』は、わずか1年前にリリースされた前作『For the first time』からの飛躍的な進化を物語る作品だ。彼らの音楽的な才能──アイデアの豊富さやそれを実現する演奏や作曲の技術力の高さが遺憾無く発揮されており、このアルバムを20代前半の若者たちが、著名なプロデューサーを雇うといったことをせず、ほぼ独力でバンドとして作り上げたことは驚嘆に値する。

Z世代(BCNRがしばしば抗ってきたラベリングだ)の若者たちによる極めて冒険的で志の高いチェンバー・ロック……音楽的にはまずはこのように表現できるこの作品が、しかし本当の意味で素晴らしいのは、技術的な洗練以上にポップ・ミュージックとしてのリスナーとの感情的な繋がりを強く求めているからだ。このあとの本文にもある通り、僕はこのアルバムを大きく言えば「若者が大人になること」がテーマの作品だと思った。だから文脈は違っていても、インタビューの最後に、タイラーが人生について話してくれたことには何らかの意味を感じた。

今この文章を書く手元には『Ants From Up There』のCDのボックスと付属のブックレットがある。その中には、ワイト島でのレコーディングの時期に撮ったと思われる7人の親友たちの本当に楽しそうな写真がいくつも収められている。ポップ・ミュージックは、人生から生まれてくる。『Ants From Up There』を聴く時、あなたはきっとずっと、そのことを思い出す。


左からアイザック・ウッド(Vo,Gt)、ジョージア・エラリー(Vln)、ルイス・エヴァンス(Sax)、メイ・カーショウ(Key)、タイラー・ハイド(Ba)、ルーク・マーク(Gt)、チャーリー・ウェイン(Dr)


―素晴らしいアルバムを届けてくれてありがとうございます。前作についてメンバーのどなたかがミックステープに喩えていてなるほどなと思ったのですが、対して今回のアルバムは全体のスルーライン(物語の要素をまとめる一貫したテーマ)を意識したという意味でも、バンドの新しい1stアルバムと呼べる作品になったと思います。

チャーリー:うん、僕もそう思う。もちろん前作も気に入っているけど、当時は曲のコレクションを作ること以外はあまり意識していなかった。でも今回は、スルーラインを持たせて、一つの大きな作品としてアルバムを作り上げることが目標だったから、それを感じ取ってもらえてすごく嬉しいよ。

―全体的に前作よりも遥かに構築的で、アコースティックな楽器のサウンドが強調されています。前作から今作に至る一番大きな変化は何だったと思いますか?

タイラー:いくつかあったと思うけど、一番大きいのは「誰のために音楽を書いたか」だと思う。私たちはこれまでずっと「自分たちのために音楽を書いている」と答えてきた。でも、今思うと最初のアルバムは完全にはそうではなかった。基本的にはギグでのパフォーマンスを元に曲が作られていたから、オーディエンスのリアクションを意識していた部分があったと思う。でも今回は(コロナ禍の影響で)ライブができなかったから、自分たちの判断力と分析力をもっと磨いて、何もかも100%を自分たちで判断しなくちゃいけなかった。バンドの間でたくさんディベートをして、全員が賛成するまで続けた。それが一番大きな変化。前回の何倍も頭の中で色々と練って作られたアルバムだと思う。



―スルーラインという点について、僕個人がアルバムから受け取ったのは「少年性をパッケージすること」や、そのための「儀式」、そして「死」といったイメージでした。改めて、あなた方がアルバムを作っている時に考えていたスルーラインについて、メッセージという面から教えてもらうことはできますか?

チャーリー:歌詞的には、あまりスルーラインは定義できないな。メンバー全員がそれぞれ違う意見を持っていると思うし、これがテーマだ、というハッキリしたものはないから。でも音楽的には、もしかしたら歌詞のスルーラインとも繋がるのかもしれないけど、アルバム全体で、悲しみや希望、ノスタルジアが表現されていると思う。僕らは、自分たちの友達と一緒に、自分たちの友達のために、アルバムの音楽を書いた。だからリスナーの皆がアルバムを聴いて、彼ら自身やその友人の経験と結びつけてくれたら嬉しいな。

―そうしたフィーリングは、どこからきたものだと思いますか?

タイラー:曲を書いている時は意識してなかったんだけど、アルバムをレコーディングする前、ツアーの間に書いた曲をメンバーの前で演奏していて初めて、「今はノスタルジックな音楽を作ってるんだな」って気づいたんだよね。そして、皆が曲に繋がりを感じてくれた。一人で曲を作っている時点では、その曲がどんな意味を持っていて、それを聴いて他の人がどんな気持ちになるのかは分からない。外に出して人の反応を見ることで、それに気づかされるんだよね。

―新作はワイト島の「Chale Abbey Studios」でレコーディングされたそうですね。ロンドンから離れた環境で、バンドと親しいエンジニアで離島に籠ってレコーディングをするという判断は、勢いに乗るバンドとしては大胆な選択だったと思います。同じタイミングで、ヒット・メーカーと働くことを選ぶバンドもいると思いますが、なぜ今回のような方法を採用したのでしょうか?

チャーリー:まず、レコーディング前に分かっていたことの一つは「ロンドンではレコーディングしたくない」ということだった。なぜかはわからないけど、メンバー全員がロンドンでレコーディングをするのは違うように感じていて、どこか海に近い田舎町に行きたがっていた。ワイト島は海を渡らないと行けないから、ロンドンから切り離された感じがすごく良かったんだ。

あと、もう一つ分かっていたのは「プロデューサーを雇いたくない」ということ。できるだけリアルなライブ・サウンドにしたかったからね。最終的にはサウンド・エンジニアのセルジオがプロダクションを手がけてくれて、彼と(Chale Abbey Studiosのエンジニアの)デイヴィッド・グランショウが、僕らが作ったサウンドをより良いものに進化させてくれた。セルジオは、すごくエネルギーとアイデアを持っていたし、これまでアルバムに関わったことが無かった分、お互いにとって新しい経験を得ることができたという意味ですごく良かったと思う。一方のデイヴィッドは経験豊富で、僕らの若いサウンドをキュレートしてガイドしてくれた。二人のおかげでレコーディング全体がすごく落ち着いて、リラックスして取り組めたよ。

Translated by Miho Haraguchi

 
 
 
 
 

RELATED関連する記事

 

MOST VIEWED人気の記事

 

Current ISSUE

S