家族像はどんな形でもいい
私は若い頃、オーストリアの哲学者、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの熱烈な愛読者でした。
ヴィトゲンシュタインは著書『哲学探究』(邦訳:岩波書店)のなかで、「家族的類似」という考え方を提唱しています。
たとえば「家族」という単語は、使う人によってさまざまに異なるものを意味するでしょう。でも私たちが「家族」という語を使うときは、必ずしも顔や性質がそっくりである必要はありません。そこに何かひとつでも共通の特徴があれば、「家族」的関係を認識していると考えます。
・「家族」に限らず、あらゆる語に明確な定義というものは存在しない。
・語の意味とは、部分的な共通性によって成り立っている。
これがヴィトゲンシュタインの言語哲学の概念です。
この家族的類似と対照的なのが本質主義です。「家族」を例にとれば、法律で定める本質的な特徴によって定義されるという考えになるでしょう。
たとえば、「男と女が結婚していたら家族」「家と家が姻戚関係になるのが家族」「血縁関係があるのが家族」「同居して生計を共にするのが家族」などなど、決められた要件を満たしたとき、初めて家族になるということです。
まるで、個人と個人の間に愛が生まれるためには、相手が何かのカテゴリーに当てはまるのが必須条件であるかのように、家族も“条件つき”です。
私たちが現在やろうとしているのは、この本質的特徴の要件を緩和すること。結婚する本人同士が「私たちは家族的関係になった」と感じたとき、その二人の家族像を尊重する環境をつくることです。
どんなかたちでもいい。
どんなつながりでもいい。
家族の一員になった人が、それを「家族だ」と認識できるようにすることが大切です。これが、哲学における家族的類似が意味するところであり、台湾の同性婚合法化についての私の考えでもあるのです。