「人権と報道」概論
報道被害をめぐる議論の中には、事件被害者や地域住民の報道被害は気の毒だが、「加害者」の場合は仕方がない、といった主張がある。少年や精神疾患患者が被疑者となった事件では、「被害者に比べ、加害者の人権ばかりが守られている」として、「実名報道」で制裁する動きも強まっている。ここで問われるのが、報道による制裁の是非だ。
マスメディアにいったん報道されると、それがいかに誤った情報でも、読者・視聴者はそれを「事実」「真実」と受けとめる。被疑者の場合、その影響は重大だ。大事件では、警察に逮捕されると、名前、住所、年齢、職業から、生い立ち、学歴、家族構成、さらには性格や暮らしぶりまで、プライバシーが根こそぎ報道される。それらの情報は、事件と結び付けて報じられ、「犯人像」として描かれる。
容疑が無実であっても、報道で形成された「犯人イメージ」は、裁判の証人、裁判官、時には弁護人にまで「犯人」の予断を与え、冤罪を晴らすうえで大きな障害になる。
また、「有実」の場合も、被告に不利な心証が裁判官に形成されることがある。報道内容が細部で事実に反していたり、証拠として法廷に提出されなかったりしたものまで「犯人の印象」として残り、「悪質な犯行」として情状判断、量刑に影響を及ぼすからだ。
無実・有実にかかわらず、「容疑者」として名前を報道されると、本人だけでなく、家族までも大きな被害を受ける。「犯人の家族」として見る「世間の目」にいたたまれず、転居・転職・転校を余儀なくされたり、子どもがいじめにあったり、中には本人、親が自殺に追い込まれるケース(★15)もある。
無実の場合、長い裁判の果てにようやく無罪が確定し、冤罪を晴らしても、なお世間から「疑惑」の眼差しを向けられる例は少なくない。有実の場合、刑期を終えて社会復帰しようとしても、なかなか職を得られず、事件を知る人々の冷たい視線にさらされる。
こうした報道被害はすべて、裁判が始まる前にマスメディアが下す「有罪判決」による不当な社会的制裁だ。無実の場合はもちろん、有実の場合も、証拠に基づかず、裁判での反証にさらされない報道の一方的な断罪は、一種の私刑=リンチにほかならない。報道する側が「制裁」を否定しても、大量に発信された「犯人視」「悪人視」情報は、結果的に重大な社会的制裁の機能をもってしまう。それは時には報道された人の社会的生命を奪う「死刑」となり、いつまでも続く「無期懲役」刑となっている。
「被害者の人権がないがしろにされ、加害者の人権ばかりが守られている」と強調する一部のメディアは、神戸・児童殺傷事件で逮捕された少年の顔写真を掲載(FOCUS)し、98年に起きた堺・通り魔事件では少年の実名・顔写真を載せた(新潮45)。(★16)
しかし、この論理にはいくつもの飛躍やごまかしがある。まず被疑者=加害者とする犯人視。それ自体が、裁判に基づかないリンチ正当化の主張だ。冤罪の可能性もある捜査段階で、「被害者感情」を理由に「実名による制裁」を加えるのは筋違いといえよう。
また、「被害者の人権」をないがしろにしているのも、ほかならぬメディアだ。被害者や家族の了承なしに、被害者の実名や顔写真を掲載し、マイクやカメラを向ける。そうした報道被害を与えておきながら、「被害者に比べて加害者の人権ばかり…」というのは、あまりにも身勝手ではないだろうか。そもそも松本サリン事件の河野さんも、「ロス疑惑」の三浦和義さんも、被害者だった。被疑者の人権と被害者の人権は対立するものではない。どちらも大切に守られなければならない基本的人権である。
★15 1985年8月、岐阜県内の男性が、知人の版画家の「変死」に関して警察の事情聴取を受け、翌日の新聞に「傷害致死の疑いで取り調べ」と実名報道された。版画家の死は病死だった。犯人視報道された男性は、報道への抗議の遺書を残して自殺した。
★16 高山文彦編著『少年犯罪実名報道』(文春新書、2002年、720円)参照。「新潮45」に少年の実名を載せて堺・通り魔事件ルポを書いた著者の「少年実名報道」に関する主張、ルポをめぐる民事訴訟の判決文などを掲載している。
報道被害は、なぜ起きるのか、なぜ繰り返されるのか、なぜ改められないのか。その原因を考えてみよう。そこには、メディアと犯罪報道の構造的問題がある。
(1) “有罪断定の報理”
第1の原因は、犯罪報道が警察・検察の捜査情報に依存して行われ、「逮捕=犯人」を確定した事実のように伝えていることにある。
新聞の地域版やテレビのローカルニュースで報じられる窃盗や傷害事件、交通事故などの報道は、警察発表文の丸写しに近い。殺人や誘拐事件などでは記者も現場で独自取材をするが、それも警察発表の真偽を自分の目で確かめるためではなく、捜査情報を補強する方向でしか行われない。警察が捜査を誤ると、自動的に誤報が生ずるのも当然だ。
日本では、記者が身柄を拘束された被疑者に面会取材できず、本人の言い分を聞けない。そのことも、警察情報を鵜呑みにした報道の要因になっている。
しかも、記事は「警察発表」と「独自取材」の区別が明らかにされず、「捜査当局の調べによると…」として書かれる。情報源や取材過程が読者に示されない。松本サリン事件では、各社ともに東京本社の記者が警察庁幹部から得た「毒ガス発生源は会社員宅」との情報が、あたかも現地警察の公式見解のように大きく報道され、読者・視聴者はそれを信じた。
被疑者逮捕は捜査・裁判の一過程であり、容疑・起訴事実も捜査段階の警察・検察の見解にすぎない。被疑者は公正な手続きに基づく公開の裁判で、法と証拠に基づいて有罪が立証され、確定するまでは無罪とみなされる。それが近代刑事訴訟法の大原則「無罪推定の法理」(★17)だ。警察情報を確定した事実のように伝える犯人視報道は、この人権原則に反した“有罪断定の報理”に基づいて行われている。
★17 1789年、フランス革命「人および市民の権利宣言」9条は、「すべての人は、有罪と宣告されるまでは無罪と推定される」と宣言した。また、1948年、国連総会で採択された「世界人権宣言」11条1項は、「有罪の立証があるまでは、無罪と推定される」と規定した。
(2) 犯人探しの特ダネ競争
第2の原因は、犯罪報道を「読者・視聴者の関心に応えるため」と称して、大々的に扱う日本のメディアの伝統的体質、そこから生まれた激しい特ダネ競争にある。
特ダネ競争の中心は、犯人探し。警察が目星をつけた被疑者を他社より一刻でも早くつかんで「重要参考人浮かぶ」などと報じ、逮捕や連行の瞬間をカメラに収める。それがエスカレートし、和歌山・毒入りカレー事件や、京都・日野小事件のような「集団過熱取材」「地域取材報道被害」も生み出してきた。逮捕後も、「自白」情報や「犯行動機」を競って報じる。そうした情報を得るために、記者たちは日ごろから警察官と親しくし、幹部や捜査員の自宅を「夜討ち朝駆け」(★18)して、どんな断片的な情報でも「もらおう」とする。
こうして洩らされた捜査情報は、警察内部で意見の分かれるレベルの不確かなものでも、「特ダネ」として大きく扱われる。あるいは、あまり自信のもてない情報でも「他社が先に書くのでは」と疑心暗鬼に駆られ、「特オチ」(★19)を恐れて見切り発車的に報道する。
そうした特ダネ競争意識は、しばしば誤報を生むばかりか、捜査の方向を誤らせ、冤罪を助長する役割を果たす。また、警察による情報操作にも利用される。いわゆる「過激派」や「スパイ事件」などの公安事件では、警察が特定のメディアに「特ダネ」として意図的に情報を洩らし、それに他社が追随するように仕向けて世論を操作することが多い。
★18 捜査を終えて帰宅した警察幹部や捜査員の自宅を訪ねたり出勤する捜査員を自宅前でつかまえたりし、役所では聞けない捜査情報を取材する。夜討ちは「夜回り」ともいう。
★19 他社が大きく報道しているのに自社だけ記事がない場合、デスクや担当記者は「特オチ」として社内で非難される。松本サリン事件では、「特オチ」への恐怖が、各社そろっての誤報の一因となった。
(3) 興味本位なセンセーショナリズム
第3の原因は、大事件や特異な事件が起きると、集中豪雨のように大量の記事で紙面を埋め尽くし、ニュース番組もその事件一色にしてしまうセンセーショナリズムにある。
まだ事件の真相がほとんどわからず、情報も断片的なものしかない初期段階での集中豪雨型報道は、事件の社会的背景を掘り下げる方向には向かわず、興味本位な方向に流れがちになる。事件を勧善懲悪的に解釈し、わかりやすくドラマ化、物語化、さらには娯楽化していく。ドラマの主役は、被害者と被疑者。被害者や遺族の悲しみを情緒的に伝える一方、被疑者=犯人を前提に、その「残虐性、凶悪性」を強調する。その過程で、被疑者、被害者とも、そのプライバシーが活字にされ、映像化される。
センセーショナリズムの背景には、メディアの商業主義がある。部数競争、視聴率競争のために、事件や関係者のプライバシーを「報道商品化」していく構造だ。事件は一時的に大報道されるが、次の衝撃的な事件が起きれば忘れ去られる。事件の背景を伝え、社会全体の問題として考えていくという報道の使命は、商業主義によって無視されている。
(4) 人権意識の希薄な記者、貧しい記者教育
第4の原因として、記者、メディア幹部の人権意識の問題がある。記者の多くは、有名大学を卒業したエリートだ。彼/彼女らは、入社していきなり警察取材を担当させられる。入社後の研修は短期間で、専門的な刑事法や人権式の教育にまでは及んでいない。
このため、警察が違法な別件逮捕や深夜に及ぶ長時間の取り調べ、脅迫的な自白強要など人権侵害の捜査をしていても、それをチェックしようという意識がもてない。それどころか、日ごろから親しくしている捜査員に心情的に近くなり、「しぶとい容疑者」「深夜に及んでやっと自供」「執念の捜査で事件解決」などと書いたりする。
メディア幹部には、そうした事件報道で「特ダネ」をものにし、優秀な事件記者と認められた記者が多い。そんな幹部が後輩記者を現場で「教育」する一方、人権問題に敏感な記者は煙たがられ、取材現場から遠ざけられる。こうしたメディアの構造が、人権侵害に無頓着な記者を再生産する悪循環を生み出している。
報道被害は、一過性の被害にとどまらず、いつまでも被害者を苦しめ続ける。その大きな原因は、メディアがなかなか誤報を訂正しないことにある。
報道で奪われた名誉を回復するのに最も有効なのは、誤った報道をしたメディア自身が紙面や番組で誤報を訂正し、謝罪することだ。それでも一度失われた名誉は回復できないが、誤報の発信源がそれを認めることは、被害救済の第一歩になる。ところが、メディアはよほどのことがない限り、自主的に訂正したり、まして被害者に謝罪したりはしない。
松本サリン事件の場合、毒ガスがサリンとわかり、一市民が製造することなど不可能とわかっても、どのメディアも誤報を訂正しようとはしなかった。各社が訂正したのは、河野さんがメディア訴訟の意思を示し、しかもメディア自身が「別の犯人」を報道するうえでつじつまが合わなくなったという事情が生まれてからのことだった。
こうした特別な事情がない限り、報道被害者は何年もの間、報道されっぱなしになる。最初から無実を訴え、1審や2審で無罪判決が出て報道の誤りが明白になっても、検察が上告すれば、最高裁で無罪が確定するまでメディア側は「裁判中」を理由に訂正しない。冤罪事件の裁判は10年も20年もかかることが多いが、その間、報道被害は救済されない。
無罪が確定しても、甲山事件や大分・みどり荘事件のように、ほとんどのメディアは、自ら報道を検証して誤報の責任を明らかにし、訂正・謝罪しようとはしない。また、報道被害者から名誉毀損で訴えられ、敗訴した場合ですら、なかなか謝罪しない。
裁判に至らない事件の誤報も放置される。逮捕は実名で報道したのに、釈放や不起訴を報道しなかったり、報道被害者が訂正を要求しても「不起訴は灰色」と開き直ったりする。
まして、「有実」の場合は、報道の一部に誤りや誇張があっても、報道被害者が「仕方がない」とあきらめ、泣き寝入りを余儀なくされる。
こうして、多くの報道被害者があきらめと沈黙に追いやられてきた。