「人権と報道」概論
報道被害には、大きく分けて、①犯人視報道による被害②事件被害者の被害③地域住民の取材報道被害がある。それらの被害は、ひとつの事件で複雑に入り組みながら、ほぼ同時に進行する。ここでは特徴的な事例を取り上げ、それぞれの被害の実態を紹介しよう。
(1) 「ペンは人を殺す凶器に」――松本サリン事件
ある日突然、全く身に覚えのないことで警察に犯人と疑われる。それが新聞、テレビで確定した事実のように大きく報道される。週刊誌やワイドショーは、「犯人の素顔」などと「あること=プライバシー・ないこと=うそ」をおもしろおかしいお話に仕立て上げる。
まさか、そんなひどいことが、ましてや自分の身に降りかかってくるなんて、とだれもが思っている。松本サリン事件の報道被害者・河野義行さんも、事件翌日の94年6月28日、警察が自宅を家宅捜索し、メディアが自分を犯人視報道するまでは、そう思っていた。
5人家族のうち、河野さんも含めて4人が入院する被害を受けた河野さん一家。長男が留守を預かる自宅を殺人容疑で家宅捜索した警察は、「捜索で薬品類を押収した」と発表した。テレビはその夜から、新聞は翌29日朝刊から、河野さんを犯人視する大報道を始めた。
《ナゾ急転 隣人が関係/悲劇招いた除草剤作り?住民「これで眠れる」》(朝日)
《調合「間違えた」救急隊に話す/以前から薬品に興味》(毎日)
《住宅の庭で薬物実験?/「あの家が―」周辺住民あ然/原因わかり安ど》(読売)
これを受けた週刊誌は《住民を恐怖の底に叩き込んだ松本毒ガス男》(週刊現代)、《ナゾだらけの私生活》(週刊読売)、《怪奇家系図》(週刊新潮)などと書きたてた。
これらの報道がどんな被害をもたらしたか。事件から2年後の96年6月に開かれた人権と報道・連絡会主催のシンポジウムで、河野さん自身が語った言葉を聞いてほしい。
「事件当初2週間の報道で殺人者のレッテルが貼られた。全国民が私を犯人と思った、と思う。何か月間も無言電話や脅迫状が続き、サリンの不眠と真夜中の電話に苦しめられた。いったん疑惑をもたれ、犯人にされたら、個人でそれをはがすのは不可能。警察がウソを言うなんて思いもよらなかった。新聞もウソを書くとは思わなかった。間違えば訂正すると思っていたのに、すぐわかる誤報を1年以上も検証しなかった。記者は、ペンが人を殺す凶器になりうることを自覚してほしい。私はいま、たまたま生きている」
報道はいったん犯人扱いを始めると、それに沿った材料だけを集め、「より犯人らしく」描いていく。河野さんの場合は、「以前、薬品会社に勤めていた」「薬品を扱うライセンスを持っている」「薬品を調合する器具を自宅から押収した」といった断片的情報が、ひとつのストーリーにまとめ上げられ、それを読んだ人は犯人だと信じてしまった。
裁判で有罪が確定するどころか、逮捕もされていないのに、報道で犯人と信じ込んだ人たちの怒りが報道被害者に向けられる。それは事件の被害者やその家族、近隣に人たちにとどまらず、全国からの脅迫状、嫌がらせ電話となって、河野さん一家を苦しめ続けた。
メディアが誤報を訂正したのは、翌年3月に地下鉄サリン事件(★4)が起き、「別の犯人」を大々的に報道し始めた後だった。
★4 1995年3月20日朝、東京都内の地下鉄3路線の電車内で毒ガスが発生し、乗客ら11人が死亡、5500人が重軽症。警察はサリンによる無差別殺人事件として捜査、オウム真理教幹部らを殺人罪などで逮捕、起訴した。
(2) 超長期裁判を招いた犯人イメージ――甲山事件
河野さんの場合はメディアが誤報を認め、記事を訂正した。しかし、多くの冤罪・報道被害者は、誤報が訂正されないまま、報道で形成された犯人イメージが世間に定着し、それをぬぐうのに長期間の悪戦苦闘を強いられる。
1974年に起きた甲山事件は、その典型的ケースだ。無実の罪で逮捕され、犯人視報道によって再逮捕・起訴された山田悦子さんは、無実を晴らすまで25年以上もの間、世間の犯人視という「被告席」に縛りつけられた。
74年3月、兵庫県西宮市の知的障害児施設「甲山学園」で園児2人が相次いで浄化槽から水死体で発見された。2児の死は事故とも推定できたが、警察は最初から「連続殺人」「内部の犯行」と決めつけて捜査。4月7日に施設職員の山田さんを2人目の男児殺害容疑で逮捕した。メディアはこれを「二児殺しで保母逮捕」と誤報したばかりか、《言動不審アリバイなし/捜査そらす演技?葬儀の日、泣いて合掌》(4月8日付・毎日)、《暗い青春時代の女/間違いでも主張通す》(4月21日付・読売)などと、犯人イメージをばらまいた。
しかし、もとより何の証拠もなく、山田さんは処分保留で釈放、75年9月、不起訴になった。ところが翌10月、強烈な犯人視報道で山田さんを犯人と信じ込んだ男児の遺族が、神戸検察審査会に不起訴処分不服を申し立てた。76年10月、同審査会は「不起訴不当」を議決。これもまた、報道で形成された強い犯人イメージの産物だった。
この議決を受け、神戸地検は78年2月、山田さんを再逮捕し、翌3月に起訴。これが21年余に及ぶ長期裁判の始まりとなった。1審無罪―検察控訴―2審差し戻し判決―被告上告―最高裁上告棄却―差し戻し審1審無罪―検察控訴―同2審無罪……。99年9月29日、大阪高裁が3度目の無罪判決を出して検察が控訴を断念、ようやく裁判は終結した。
最初の逮捕から実に25年6か月、山田さんは人生の半分以上を「被疑者・被告」として生きることを強いられた。無罪確定後、山田さんは私との電話で次のように話した。
「事件当時、私を犯人扱いする記事を書いた記者の多くが今、デスクになっています。その人たち自身に自分の書いた記事と事件を検証してほしい」
しかし、その言葉に応え、ジャーナリストとしての責任を果たした記者はいない。
(3) 特ダネ意識が招いた報道冤罪――大分・みどり荘事件
問題は、警察情報に依存した犯人視報道だけではない。特ダネ意識に駆られて先走りした犯人視報道で、「報道冤罪」ともいうべき犯罪的報道をしてしまうケースもある。
1981年6月27日、大分市内のアパート「みどり荘」で女子短大生が殺される事件が起きた。犯人は深夜、部屋に招き入れられ、被害者と話しをしていることも確認されたため、各紙は「被害者と親しい者の犯行」と捜査本部の見方を伝えた。
ところが、一人の刑事が被害者の隣室に住む輿掛良一さんに事情聴取。大分合同新聞が30日付夕刊に《「重要参考人」浮かぶ/若い会社員を追及》と報道した。その結果、輿掛さんは勤め先から自宅待機を命じられ、周囲から「疑惑の目」を向けられた。母親も買い物に行けなくなった。この記事に引きずられる形で、捜査の方向は輿掛さんに絞られていく。
翌82年1月14日、警察は輿掛さんを逮捕。当日朝の大分合同は《隣室の男逮捕へ/体毛、血液型が一致》と予告報道、輿掛さんは自宅に殺到した報道陣に囲まれて連行された。
取調べで「身に覚えがない」と繰り返す輿掛さんに、刑事は「被害者の部屋からお前の体毛と指紋が出た」とウソをつき、「酔って何も覚えていないことが前にもあっただろう」と「夢遊病状態の犯行」を示唆して自白を迫った。長時間の取り調べ、風邪、睡眠不足、家族への心配と不安で憔悴しきった輿掛さんは、「指紋が出たのなら…」と動揺、「隣室の表のドアから出たことは覚えている」と言ってしまった。
新聞・テレビはこれを「全面自供」と報道。大分合同は《輿掛やっと自供/私に間違いない/恋人とけんか…カッと》と、調書にない「犯行動機」まで創作して報じた。
自白した、との報道はだれをも犯人と信じ込ませる。弁護人さえ、当初は「自白」を真実と思い込んだ。第10回公判で現場に指紋がなかったことを知り、輿掛さんは否認に転じたが、大分地裁は89年3月、無期懲役の判決。しかし2審では、13人の大弁護団が結成され、輿掛さんの無実を訴える本(★5)も出版されて、支援の輪が大きく広がった。
95年6月、福岡高裁は逆転無罪判決。「自白」の信用性を否定し、真犯人が別に存在することまで示唆する完全無罪判決で、検察も上告を断念した。この時点で、事件はまだ時効を迎えていなかったが、「捜査に誤りはなかった」とする大分県警は再捜査しなかった。
3か月後の95年9月、人権と報道・連絡会の定例会で、輿掛さんは「13年半、人生を失ってしまった」と冤罪体験を話した。逮捕当時25歳だった輿掛さんは、青春の大半を独房に閉じ込められた。取り返しのつかない冤罪。その責任の一端は、特ダネ意識に駆られて犯人視報道した新聞にある。だが、輿掛さんに謝罪した新聞社はなかった。(★6)
★5 小林道雄著『夢遊裁判』(講談社、1993年)。小林さんは、控訴審途中から事件と裁判を取材し、捜査と報道、裁判の問題点を克明にリポート、逆転無罪への大きな力になった。96年に『〈冤罪〉のつくり方 大分・女子短大生殺人事件』と改題し、講談社文庫に。
★6 直接の謝罪ではないが、西日本新聞は福岡高裁の判決後、なぜ冤罪が生まれたのかを報道の反省も含めて検証した。さらに事件が時効を迎えた96年6月には、連載企画「時効 それぞれの15年」を掲載し、報道の問題点もリポートした。
(4) 現在も続く犯人視報道
松本サリン事件の誤報を否定できなくなり、その訂正を迫られた95年6~7月、新聞・テレビ各社は、特集や特別番組で自社報道を検証した。
《①警察が主な情報源②情報の裏付けが不十分③他紙にも同様な記事が掲載される中、「大丈夫だろう」との安易な姿勢が記者にあった》(6月6日・毎日)
《一連の報道を振り返ると、予断、思い込み、科学的知識と裏付け取材の不足など多くの反省点が浮かび上がってくる》(7月7日・読売)
《警察の取材を続けている記者は、他社に「抜かれる」ことに対するプレッシャーを常に抱えている。警察の情報にひたすら食らいついていく傾向がある》(7月8日・朝日)
十分とは言いがたい「検証」だったが、メディアが紙面や番組で自分たちの報道を「反省」したことは、画期的だった。では、これらの「反省」は、その後の報道に生かされただろうか。残念ながら、松本サリン事件の誤報を生み出した取材・報道の構造=捜査情報に依存した犯人視報道は、その後もほとんど変わっていない。
96年5月、米サンディエゴ近郊で起きた日本人大学教授父娘殺害事件(★7)では、夫と娘を凶弾に奪われた女性を標的に「疑惑」報道が繰り広げられた。中でも、共同通信が初報段階で加盟各社に配信した「現地警察が事情聴取」などの誤りだらけの記事は、彼女の事件への関与をにおわせ、「背景に夫婦の不和」「不動産トラブル」「金銭疑惑」などスポーツ紙やワイドショーの興味本位な報道の原因になった。彼女は、夫の追悼式や告別式でもカメラに追われ、家族を失った悲しみに、非情な報道の追い討ちを受けた。
97年8月には、96年秋から97年夏にかけて東京都、埼玉県で続発した通り魔事件について、別件で警視庁に逮捕された男性が「約30件の犯行を自供」「近く再逮捕」などと新聞、テレビで大きく実名・犯人視報道された。(★8)
しかし、男性は冤罪を訴え、その後も通り魔事件が発生、「自供」と現場状況の食い違いも出て、警察は再逮捕を断念した。その後の弁護人の調査などで、各紙が報じた「犯行を認める上申書」は、捜査員の誘導で強制された虚偽自白であることが明らかになった。
2000年3月、北海道恵庭市で起きた「恵庭OL殺人」事件(★9)では、事件の2か月後に逮捕された女性について、《元同僚の女逮捕/容疑否認/男性巡りトラブルも》(5月23日付・読売)などの記事を皮切りに、新聞、テレビ、週刊誌で大々的な犯人視報道が繰り広げられた。週刊誌やワイドショーは、「交際相手を奪われた嫉妬と憎悪から同僚女性を殺害、遺体を焼き捨てた」と、警察の見方に沿ってショッキングに事件を取り上げた。
しかし、物証は何もなく、女性は一貫して無実を主張、女性の支援団体が結成されている。公判でも検察は物証を示せず、逆に捜査のずさんさや証拠隠しなど、女性の訴えを裏付ける事実が次々と明るみに出たが、札幌地裁は03年3月、「状況証拠」女性に懲役16年の有罪判決を言い渡した。女性は控訴、04年から札幌高裁で審理が行われている。
01年1月に宮城県仙台市で起きた「北陵クリニック事件」(「仙台・筋弛緩剤事件」として報道された事件)も、警察情報を鵜呑みにしたセンセーショナルな犯人視報道が問題になった。
1月6日、宮城県警が元准看護士の守大助さんを殺人未遂容疑で逮捕すると、新聞各紙は《背筋凍る“恐怖の点滴”/守容疑者/「容体急変」平然と報告》(1月8日付・読売)などと報道。さらに、《守容疑者が点滴/計20人近く容体急変 うち10人死亡》(同10日付・朝日)など、各紙が競って「被害者」の数を増やし、《「副院長困らせたかった」/守容疑者が供述/給与上がらず不満》(同・毎日)などと「容疑者自供」も報じられた。
しかし、この「自供」が警察のすさまじい自白強要の結果であり、数日後には本人が撤回、以後一貫して否認していたことは、弁護団がメディアに抗議するまで報道されなかった。(★10)
7月11日の初公判では被告は起訴事実をすべて否認、弁護団は「事件は病院の医療ミス隠し。被告は病院側に仕組まれた冤罪の被害者」と主張し、その根拠を具体的に指摘した。しかし、仙台地裁は04年3月、守さんに無期懲役に有罪判決。守さんは控訴した。
真相は、今も法廷で争われているが、裁判経過はほとんど伝えられていない。
この事件の報道については、仙台弁護士会が03年11月、河北新報、朝日、読売、毎日の4社の逮捕後の報道に対して、「プライバシー侵害や犯人視報道による人権侵害があった」として、是正を勧告した。
★7 事件は、教授がアルツハイマー病研究の世界的権威だったこともあり、大きく報道され、日本では共同通信の誤報などによって遺族に対する「疑惑」報道が繰り広げられた。報道被害を受けた女性は97年10月、メディア39社を相手取って名誉毀損などの損害賠償訴訟を起こし、葬儀会場での肖像無断撮影問題などで勝訴している。
★8 8月12日付の各紙朝刊は、東京新聞が1面・社会面トップ、読売と産経が1面4段・社会面トップ、朝日、毎日、日経が社会面トップと、事件報道では最大級ニュースの扱い。8月30日付朝刊の「再逮捕見送り」報道は、社会面で産経と毎日が3段、朝日が2段、読売が1段、東京新聞は「報道せず」だった。
★9 2000年3月17日朝、恵庭市の農道で黒焦げの女性の遺体が発見された。警察は同日午後、被害者の同僚女性から事情聴取。警察とメディアによる監視・尾行が続き、約1か月後、6日間に及ぶ任意取り調べ。彼女がその精神的・身体的苦痛を訴えて5月22日に国家賠償訴訟を起こすと、警察は翌日、逮捕した。(詳しくは、「恵庭冤罪事件被害者支援会」のホームページ参照)
★10 この事件では、約2か月後から週刊朝日、週刊ポスト、月刊現代などが捜査への疑問を報道する異例の展開。さらに、6月には被告と弁護団長による共著『僕はやってない!仙台筋弛緩剤点滴混入事件 守大助勾留日記』(明石書店、1400円)が出版された。同書には、自白強要のすさまじさ、虚偽自白に追い込まれる過程がリアルに描かれている。
大事件や事故が起きると、報道陣が被害者の自宅などに殺到し、被害者や家族にカメラ、マイクを突きつけて心境を聞く。それが、心身に傷を負った被害者、家族の死で悲嘆に暮れている遺族にとってどんなに酷いことかは、被害者の立場に立って想像すればすぐわかるはずだ。しかし、メディアは、そんな被害者取材をやめようとしない。それどころか、90年代後半以降、「集団的過熱取材」が日常化する中で、ますますエスカレートしてきた。
被害者の報道被害は、強引な取材によって心を傷つけられるだけではない。「ロス疑惑」報道、松本サリン事件、サンディエゴ事件などのように、被害者なのに「疑惑」の対象にされるケースや、被害者のプライバシーに踏み込んだ興味本位な報道によって世間の好奇の目にさらされ、2次被害を受ける例も少なくない。典型的な事例を2件紹介しよう。
(1) 救急活動を妨げた取材活動――付属池田小事件
2001年6月8日午前、大阪府池田市の大阪教育大付属池田小学校に包丁を持った男が侵入、4つの教室などで子どもたちを次々と襲い、1、2年生8人を刺殺、教師2人を含む15人に重軽傷を負わせた。新聞、テレビ各社は、事件発生直後から現場、病院などに大量の取材陣を投入、被害者や駆けつけた家族から取材する一方、ヘリコプターを飛ばして空から現場の状況を撮影、中継放送した。大量の死傷者が出たこの事件では、こうしたメディアの取材が初期の救急活動を妨げ、大きな問題になった。
後に刑事裁判に提出された池田消防署の報告書によると、低空で現場上空を旋回する報道各社のヘリコプターは、現場から被害者の状況を伝えて病院の手配を求める消防署の無線連絡を妨害した。また、消防署には被害状況や被害者の搬送先を問い合わせるメディアの電話が殺到し、救急連絡に必要な電話がふさがって、電話回線がパンク状態になった。
03年7月に開かれた新聞労連のJTC(ジャーナリスト・トレーニング・センター)記者研修会(★11)で、遺族の1人、Sさんは、次のように話した。
「娘は瀕死の状態で玄関まで逃げて倒れた。先生が校庭で人工呼吸をしていると、次々にヘリコプターが飛んできた。先生は救急のヘリだと思ったが、降りてこない。報道のヘリだった。娘は救急車の中で力尽きた。すぐ下に命を失いつつある娘がいるのに、メディアの人たちは撮影を続けるだけで、助けてくれなかった。ヘリコプターの爆音は、駆けつけた家族に、だれがどの病院に運ばれたか、を伝える学校側の説明も妨げた」
Sさんによると、家族が搬送先の病院に駆けつけた時も、「わが子の無言の帰宅」の時も、葬儀の日も、いつも報道陣に取り囲まれ、「家族にとっては娘と過ごす最後の大切な時間、心を通わせる最後の機会に、報道陣に心をかき乱された」という。
★11 JTCは、「ジャーナリズムとは何か、新聞記者とは何かを問い直し、新聞社の枠を越えて自立・自律したジャーナリストを養成する」ことを目的に設置された。1993年以来、年に1~2回、全国の若い記者を対象に合宿研修会を開き、「報道される側」の声などを聞いて記者活動のあり方を話し合っている。
(2) 遺族を傷つけた被害者中傷報道――桶川事件
99年10月26日、埼玉県桶川市で白昼、女子大学生が刺殺される事件が起きた。被害者は数か月前からストーカー行為に悩まされ、告訴状を出して警察に対処を求めていたにもかかわらず、警察が放置する中で起きた無残な事件だった。メディアによる取材攻勢と興味本位な報道は、事件直後から家族を苦しめた。2002年11月に開かれた人権と報道・連絡会のシンポジウムで被害者の父・猪野憲一さんは、その被害体験を次のように話した。
「警察で事情聴取を受け、自宅に帰ると、60~70人の報道陣が家を取り囲んでいた。翌日以降も、朝から深夜まで家の前にマスコミがいて、夜中にドンドンと戸を叩かれる。娘を殺され、つらくて悲しくて、どうしていいかわからない。それなのに、マスコミは『何か話してくれ』と言う。葬儀の時もカメラを向けられ、『何かしゃべって』と言われた」
「警察は事件を放置した責任を逃れるために、マスコミに娘を中傷する情報を流した。風俗で働いていたとか、ブランド好きで男からブランド品をもらっていたとか。ワイドショーや女性週刊誌や、そんな話をおもしろおかしく取り上げた。ワイドショーの中には、娘を風俗嬢と決めつけたうえで『どんな教育をしていたのか』と私たちを批判したところもあった。娘を中傷するひどい報道が約3か月も続いた。全く事実無根の情報で、『そんな女の子だから殺されたんだ』というイメージが世間に形作られた。それは3年たった今でも消えない。いくらやめてほしいと頼んでも、娘の写真屋や私の映像が何度も流された。娘は犯人たちに殺され、マスコミに傷つけられて2度殺された」
ただ、この事件ではメディアの大半が警察に情報操作される中で、捜査のあり方に疑問を持ち、怠慢やミス、被害届の改ざんなどを突き止めて報道したテレビ朝日「ザ・スクープ」など少数のメディアもあった。猪野さんは「それが報道の本来の役割だと思う。私たちは報道で被害を受け、一部だけれど報道に助けられた」と付け加えた。
桶川事件報道のように、被害者が中傷され、プライバシー侵害されるケースは、女性が被害者になった場合、しばしば起きている。
97年に起きた「渋谷・女性殺人事件」では、被害女性が有名大学を卒業し、大企業の管理職だったことや、事件の特異性などから、男性週刊誌、夕刊紙、スポーツ紙を中心に、連日被害者のプライバシーを商品化する報道が続いた。中には、「被害者のヌード写真」と称する写真を掲載した週刊誌もあった。あまりにもひどい中傷報道合戦に、被害者の母親は「なにとぞ亡き娘のプライバシーをそっとしておいて下さい。もうこれ以上の辱めをしないでください」と、メディア各社宛に手紙を出した。
被害女性を「ふしだら」に描いたうえで「落ち度」を追及し、事件の責任を被害者に負わせていく。その過程で、被害者に関する性的情報や無責任なうわさを流し、男性読者の興味を煽っていく。こんな報道は、男性中心メディアの根強い性差別性を示している。
3――地域住民の取材報道被害
90年代後半に入って深刻化したのが、地域ぐるみの取材・報道被害だ。97年5月、神戸・児童殺傷事件(★12)、98年7月、和歌山・毒入りカレー事件(★13)、99年12月、京都・日野小事件(★14)。これらの事件で、メディアは大取材陣を現地に送り込み、被害者や遺族に対する無神経な取材を行う一方、「にわか探偵」となって、犯人探し競争を繰り広げた。
狭い地域に数百人の記者が入り込み、警察の断片的情報を手がかりに、「怪しい人物」を探り歩く。取材と称した聞き込みで、「怪しい人物」のうわさをばらまき、地域住民の間に「あの人が…」といった疑心暗鬼状態を作り出す。毒入りカレー事件では、そうして絞り込んだ「怪しい人物」の自宅を取り囲み、24時間、監視下においた。
「集団的過熱取材」は住民の日常生活に大きな影響を与え、地域住民に「取材報道被害」対策を余儀なくさせた。日野小事件で地区の社会福祉協議会会長としてメディア対策に奔走した上野修さんは、2000年9月の人権と報道・連絡会定例会で、次のように話した。
「事件直後から、学校周辺の道路は100台近くの取材陣の車で埋まり、住民の車が通行できなくなった。車はその後も道路を占拠し、エンジン音で住民は夜も眠れなくなった。犯人は少年らしい、との情報が流れると、記者たちは犯人探しを始めた。小学校の卒業アルバムや小中学校の生徒名簿を求めて歩き回り、犯人の心当たりを求めて子どもたちにつきまとう。中にはモノを与えたり、食堂に誘ったりして子どもから情報を取ろうとした記者もいた。何人かの中学生を容疑者扱いし、小学校時代はどうだったか、などと聞いて回る。『あそこの子は』などといううわさも流れた。テレビは、登校する子どもの顔も無差別に撮影した。マスコミ対策で集団登下校に親たちが付き添ったが、その様子も撮影された。私たちが自粛を要請しても聞き入れられず、被害者の通夜や葬儀でも、子どもたちが無遠慮に撮影された。子どもたちは外に出なくなった。メディアは『犯人に脅える子どもたち』と報道した。子どもたちが怖がっていたのは、報道陣のカメラとマイクだった」
★12 1997年5月27日、神戸市内の中学校正門前で小学生男児の頭部が発見され、「酒鬼薔薇聖斗」の署名入り犯行メッセージが見つかった。過熱取材競争が繰り広げられる中、6月28日に14歳の少年逮捕。同年3月に起きた「連続通り魔事件」も少年の犯行とされ、少年審判で「医療少年院送致の保護処分」となった。写真週刊誌「FOCUS」が少年の顔写真を掲載、インターネットでも、写真、実名を載せたホームページが現れた。
★13 1998年7月25日、和歌山市内の住宅街の夏祭り会場でカレーに毒物が混入され、住民4人が死亡、63人がヒ素中毒症状を訴えた。メディアは大量の取材陣を投入、「疑惑」対象とされた夫婦の自宅を24時間取り囲んだ。10月4日、夫婦は別件逮捕され、妻は殺人容疑で再逮捕、起訴された。和歌山地裁は2002年12月、妻に死刑判決。裁判では、過熱報道の中で放送されたテレビの録画が証拠採用され、問題になった。
★14 1999年12月21日、京都市伏見区の日野小学校校庭で、男子児童が首を刺され、死亡した。目撃者の話などから「少年の犯行」との見方が報道され、過熱取材が続いた。2月5日、事情聴取を受けていた男性が捜査員を振り切って逃げる途中、高層階から転落死、捜査は「被疑者死亡」として終わった。