今年の競技者表彰のプレーヤー部門で野球殿堂入りした巨人・斎藤雅樹2軍監督(50)。入団当時の2軍コーチで、夕刊フジ評論家の須藤豊氏が秘話を明かした。
1982年に早実・荒木大輔の外れ1位で、斎藤は市立川口高から入団した。1年目の宮崎キャンプで投手ノックを受ける姿に「こりゃスゴイや。向こう20年は巨人の遊撃手を任せられる」と確信した。
グラブさばき、フットワークは入団時の原辰徳より上。故障や衰えが目立ってきた河埜和正の後釜づくりが急務で野手転向の根回しに動いた。中村稔1軍投手コーチに評価を聞くと「高めの球はいいが、低めがもう1つ伸びないんだよなあ」。
「しめた」と思った。投手の味を知ってからでは遅い。早いうちにと思ったが自分の一存ではできない。担当スカウトの伊藤菊雄さんに相談すると、高校の監督も「野手でも面白いですよ」と話していたとか。国松彰2軍監督は「捕手をやらせたい」との意向だったが同意してもらえた。
後は最後の砦だ。1軍の藤田元司監督に「野手なら3年でレギュラーになれる。後楽園の試合の前にでも1度、2軍で投げるのを見てほしい」と頼んだ。当日、投球を見た藤田さんに「ちょっと肘を下げてごらん」と助言された斎藤が横手から投げるとカーブが曲がり出したのだ。
「こりゃまずい」。嫌な予感通り、藤田さんは「スーやん、しばらく投手やらしてみたら」。その後は3年目の85年に1軍で12勝をあげたが86年は7勝、87年は0勝。球団側から「野手にしたい」と打診があった。本人も知らない話だ。2ケタ勝っても野手で期待されるほど攻守でセンスが際立っていた。だが前述した通り、投手の味を知ってから野手転向はさせたくないと断った。
89年に20勝をあげ、その後の活躍は周知の通りだが、藤田さんが横手で投げさせなかったら、正遊撃手として2000安打を達成、殿堂入りしたと思う。ただしそうなっていたら、同期入団で投手からすぐ野手に転向した川相昌弘の遊撃手、犠打世界記録もなかった。
私のしごきに耐えて多摩川から巣立っていった斎藤が今季から2軍監督、川相も3軍監督に就任した。未来の殿堂入り選手を育ててほしい。 (夕刊フジ評論家・須藤豊)