パリ五輪で総合馬術団体の自称「初老ジャパン」が92年ぶりにメダルを獲得した馬術競技。快挙の原点として注目されたのが、1932年のロサンゼルス五輪障害飛越個人で金メダルを手にした「バロン西」こと西竹一だ。岡山市北区の自営業光岡謙一さん(55)の自宅から、同年10月13日に西が岡山市内で催された五輪派遣選手歓迎馬術大会に参加するために来岡したことを報じた山陽新報(山陽新聞の前身)夕刊が21日までに見つかった。
記事によると、同大会は岡山乗馬会が企画し、10月16日に奥市グラウンド(同市中区奥市)で開催。西は同じく馬術競技に出場した城戸俊三、山本盛重とともに参加した。紙面では〈オリンピツクの勇者/西中尉けふ來岡〉の見出しで岡山駅で取材に対応したスーツ姿の西の写真を掲載。金メダル獲得について〈人、馬のコンデイシヨンが最良であつた〉と語った談話なども紹介している。
光岡さん宅は、昭和初期に建てられた木造2階建てで、リフォーム工事中に、押し入れの壁板を剥がしたところ内側に張っていた紙面を見つけた。「傷みが激しかったが、パリ五輪関連のテレビで見た西選手の写真があってびっくりした」と光岡さん。「岡山に来たことも知らなかったし、このタイミングで見つかっていなかったら捨てていたはず。何かの縁だと思って大切に保管したい」と話していた。
にし・たけいち 薩摩藩出身の男爵家の三男として生まれ、13歳で後を継いだ。陸軍士官学校卒業後に任官し、ロサンゼルス五輪には騎兵中尉として出場。国内外の人気を集めた。1932年の岡山での馬術大会には数万の観衆が押し寄せたという。44年に硫黄島に出征し、45年に戦死。
〈見よ!感激に燃ゆ/五萬餘(よ)の大観衆/「馬術の王者」を慕ひ〉〈勇姿颯爽(さっそう)と/西中尉らの神技〉―。1932年10月16日。新聞は、岡山市の奥市グラウンドで、ロサンゼルス五輪(同年8月)の馬術競技に出場した3選手を招いた「オリンピック派遣選手歓迎馬術大会」の開催を大きく報じた。注目の的となったのが、障害飛越個人で金メダルを獲得した「バロン・ニシ」こと西竹一。岡山で発行された山陽新報と中国民報(ともに山陽新聞の前身)から、当時の熱狂ぶりを紹介する。...
記事によると、同大会は岡山乗馬会が企画し、10月16日に奥市グラウンド(同市中区奥市)で開催。西は同じく馬術競技に出場した城戸俊三、山本盛重とともに参加した。紙面では〈オリンピツクの勇者/西中尉けふ來岡〉の見出しで岡山駅で取材に対応したスーツ姿の西の写真を掲載。金メダル獲得について〈人、馬のコンデイシヨンが最良であつた〉と語った談話なども紹介している。
光岡さん宅は、昭和初期に建てられた木造2階建てで、リフォーム工事中に、押し入れの壁板を剥がしたところ内側に張っていた紙面を見つけた。「傷みが激しかったが、パリ五輪関連のテレビで見た西選手の写真があってびっくりした」と光岡さん。「岡山に来たことも知らなかったし、このタイミングで見つかっていなかったら捨てていたはず。何かの縁だと思って大切に保管したい」と話していた。
にし・たけいち 薩摩藩出身の男爵家の三男として生まれ、13歳で後を継いだ。陸軍士官学校卒業後に任官し、ロサンゼルス五輪には騎兵中尉として出場。国内外の人気を集めた。1932年の岡山での馬術大会には数万の観衆が押し寄せたという。44年に硫黄島に出征し、45年に戦死。
当時の熱狂 新聞はどう報じた?
〈見よ!感激に燃ゆ/五萬餘(よ)の大観衆/「馬術の王者」を慕ひ〉〈勇姿颯爽(さっそう)と/西中尉らの神技〉―。1932年10月16日。新聞は、岡山市の奥市グラウンドで、ロサンゼルス五輪(同年8月)の馬術競技に出場した3選手を招いた「オリンピック派遣選手歓迎馬術大会」の開催を大きく報じた。注目の的となったのが、障害飛越個人で金メダルを獲得した「バロン・ニシ」こと西竹一。岡山で発行された山陽新報と中国民報(ともに山陽新聞の前身)から、当時の熱狂ぶりを紹介する。...
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