楽しかった「阪急担当」も終わり、この連載『勇者の物語』もいよいよ大詰めである。ここで少し時間を進めよう。
昭和63年4月23日早朝、編集局に訃報が届いた。病気療養中だった南海電鉄・川勝伝会長(86)が23日の午前6時49分、脳梗塞のため大阪・堺市内の病院で死去した。
42~43年、南海電鉄は3回も立て続けに大きな事故を起こした。信用が崩れていく電鉄を立て直すため43年、社長に就任。同時にホークスのオーナーにも就いた。圧倒的な強さを誇った鶴岡時代が終わり、こちらの再建も大変だった。
川勝が優勝の〝美酒〟を飲んだのは48年、野村監督時代。父を早くに亡くした野村を川勝はわが子のように可愛がったという。その野村を52年オフ、「野村騒動」で切ることになる。当時、遊軍記者だった西田二郎先輩は解任発表の朝、川勝に電話を入れた。「電話口で〝しようがなかった〟と絞り出すように言った川勝さんの言葉が、今でも耳に残っている」という。
野村もその日の朝、退任あいさつのため電話した。
「〝オレ1人では、もう、かばい切れんかった。すまん〟といわれたよ。川勝さんは騒動の最中もずっとワシの味方やった。本当に申し訳ないことをした」
後年、サンケイスポーツの評論家となったノムさんはこう回想した。
川勝はプロ野球を愛し、南海ホークスを愛し続けた。
「プロ野球は巨人や阪神とゲームをしないことには成立しない」が持論で「1リーグ制」を提唱していた。一方、オーナー懇談会の議長に就任した47年にはパ・リーグの「2シーズン制」と「指名打者制」を導入した。
そしてもう一つの〝功績〟が毎年のように話題にあがる身売り説を「わしの目の黒いうちは絶対にホークスは手放さん!」と封じ込めていたことだろう。西田先輩は「川勝さんという重しが外れ、一気に身売り話が進む」と予感したという。
案の定、8月にダイエーが南海ホークスの買収に動いていることが表面化。ダイエーの中内㓛社長は9月10日、「商売としての球団経営に意欲はない」としながらも「先のことは分からない。明日の天気が分からないのと一緒だ」と含みのある言葉を残した。(敬称略)