♪ふるさとの街焼かれ
身寄りの骨埋めし焼け土に
今は白い花咲く
ああ、許すまじ 原爆を
三度許すまじ 原爆を
われらの街に
故郷の海荒れて
黒き雨喜びの日はなく
今は舟に人もなし
ああ、許すまじ 原爆を
三度許すまじ 原爆を
われらの海に
故郷の空重く
黒き雲今日も大地をおおい
今は空に陽もささず
ああ、許すまじ 原爆を
三度許すまじ 原爆を
われらの空に
はらからのたえまなき
労働にきずきあぐ富と幸
今はすべてついえさらん
ああ、許すまじ 原爆を
三度許すまじ 原爆を
世界の上に
( 「原爆を許すまじ」 浅田石二・詞・ 木下航二・曲詞)
ぼくは子どものときに「♪原爆を許すまじ」を歌いました。同居していたおば(若かった頃)が「うたごえ」活動に参加していて、後にぼくが小二のときに担任になったうたごえ運動のリーダーだった多久竜太郎先生に教わって、ぼくにも教えてくれたのでしょう。
原水爆禁止の活動が活発に行われたころです。南太平洋のビキニ環礁での核実験被害を受けて、第五福竜丸が被曝し、漁労長の久保山さんが亡くなるということもあり、国民的な反対運動が巻き起こっていました。
昨夕、日本の被団協(日本原爆被害者団体協議会)にノーベル平和賞が贈られました。
その方を聴きながら、自然と口をついてうたごえが出ました。
すごいこと。
この間、「ちいちゃんのかげおくり」で、空襲被害を取り上げてきました。原爆被害もその中に入ります。父母や叔父などのことも紹介しています。そうした日々だから感無量の報道でした。
ガザでのパレスチナ人の虐殺、ウクライナでの戦争は続きます。
この状況にともすると諦めかけ、忘れかけている私たちに、「ソレデ イイノデスカ!」と問いかけ直された気持ちになりました。だから、ぼくにとっての「ちいちゃんのかげおくり」研究は、その物語作品の背景にあることを確かめ、学ぶこととも重なります。
かつて(2020年8月)、以下のようなブログ記事を書いていることを思い出しました。
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鹿島小(母校)での原爆被害者慰霊式
誰かに教えてもらったわけでもないのに。たまたま故郷の以下のニュースに接しました。そのことによって、記憶の底にあったものを思いだしました。
故郷の「サガテレビ」です。「佐賀新聞」の記事にもありました。
ぼくの卒業した(はるか昔!)佐賀県・鹿島小学校で行なわれた8月9日の原爆被害者の慰霊式のこと。長崎ではなく、お隣の佐賀県の小都市でのこと。
ここにある鹿島市と言うのは、JR長崎本線肥前鹿島駅で下車します。特急列車は次の駅が諫早駅、更に浦上駅、そして終点、長崎駅です。この間は70キロメートル。有明海沿いの佐賀と長崎の県境にあります。特急でちょうど1時間。
「サガテレビ」より
8月9日は長崎原爆の日です。
当時、被爆した人たちが救護された鹿島市の小学校では慰霊式典が行われました。
鹿島小学校で行われたこの慰霊式典は、長崎市に原爆が落とされた8月9日に「鹿島市原爆被爆者の会」が開いているものです。
鹿島小学校では長崎で被爆した人たちが収容・救護され、2011年に平和を祈念する石碑が建てられました。(※写真は古い小学校。左手の建物が講堂。右手は木造の校舎でした。)
午前11時2分になると参列者は黙とうし、犠牲者の冥福を祈りました。
「鹿島市原爆被爆者の会」の人数は現在26人ですが、高齢化が進み年々参加者が減っていて、今年の参加者は4人でした。
【鹿島市原爆被爆者の会・木原繁義会長】「(犠牲者に)安らいでいてほしいということと、今後も見守ってほしいということをお願いした。語り部として風化しないように継続することが我々の務めだと思う」
木原会長によりますと、来年以降の式典は被爆2世を中心とした開催などを検討しているということです。
<戦後75年さが 残したい戦争記憶遺産>鹿島小の平和継承之礎(鹿島市)
佐賀新聞2020年08月06日19時55分
鹿島小学校の敷地内に「平和継承之礎」を建てた思いを語る鹿島市被爆者の会の木原繁義さん=鹿島市高津原
鹿島市の鹿島小学校の駐車場の片隅に「平和継承之礎」が建つ。75年前の夏、長崎への原爆投下から3日後の1945(昭和20)年8月12日から、鹿島小(鹿島国民学校)は被爆者の救護所となった。
長崎線・肥前鹿島駅に到着した傷病者を受け入れ、看護活動が行われた。その日の校務日誌の記録には、「約60人来校」とある。
鹿島市被爆者の会が終戦50年で刊行した「平和へのねがい」を見ると、手当てした保健婦らの証言がつづられている。講堂に運ばれた患者の皮膚は黒く焼け、経験したことのない臭いを放った。髪は抜け落ちていき死者は日ごとに増えた。遺体は、お湯できれいにふいて棺(ひつぎ)に。当時の鹿島町役場職員が火葬場に運んだ。
「鹿島藤津医会史」や救護の前線に立った医師の手記も転載、多くの住民が救護に加わったことがうかがえる。県庁からの指示を受けた町は、講堂にござを敷き、寝具を町中から募った。婦人会は看護と炊事、男性有志が雑務のほか遺体処理を引き受けた。救護所は8月末で閉鎖された。
戦争の悲劇を二度と繰り返してはいけないと、鹿島市被爆者の会は2011年、石碑を建立した。会員らで毎年、8月9日に慰霊祭を行い犠牲者のために手を合わせる。会長の木原繁義さん(82)=飯田=は「原爆で父を亡くして悲しい思いをした」という。
戦禍の記憶を継承し平和をつないでいくためにも、「碑を通じ、子どもたちに語り継いでいってほしい」と語った。(中島幸毅)
■鹿島市被爆者の会
長崎への学徒動員で被爆した人、直後に爆心地近くに入った「入市被爆者」など120人いた会員は、5月時点で24人に。過去には講演やパネル展を開いたが、高齢化で活動が難しくなっている。会は9日午前、鹿島小の碑の前で慰霊祭を行う。
ぼくの記憶の底にあること
ぼくの記憶の底にあるのは、鹿島小学校の講堂(当時は体育館はありませんでした)には、1945年8月、長崎で被爆した人たちが多数収容されたという話です。もちろんぼくはまだ生れていませんから、誰かから聞いた話です。<誰だったんだろう。>
婦人会の人たち(近所のおばちゃんたち)が、その方たちの看護などにあたったということを聞かされました。(講堂の床下には亡くなった人が埋められているというお定まりの“伝説”も有りましたが)
我が母は、兄を出産する臨月だった(1945年8月25日に誕生しました)ので、これには参加していません。そのと時は祖母と叔母(母の妹)が熊本から我が家に疎開していたので(熊本空襲がありました。父はその熊本にいて、九死に一生を得たと聞きました。すぐ脇にいた人が爆撃の直撃で亡くなったそうです。)
祖母や叔母などがその看護にかり出されたのかもしれません。
もともと母は、広島で生まれ育っています。広島には当時の旧制中学生だった弟(叔父)がいて、8月6日に被爆して、行方不明、音信不通状態でした。県立一中の学生だった叔父は、学徒動員のため効外(市外)の作業にかり出されていました。半分の学生は、市内の揚にて被爆し、ほぼ全員が亡くなったと言います。叔父たちは、救助のため、市内に入り、二次被爆をしていました。
その叔父は1週後に、突然鹿島の家に現れたそうです。電話もない時代です。歩いたり、汽車などにも乗り継いで来たようです。ぼろぼろの格好だったと言います。
少年にはあまりにも過酷な体験でした。その体験を、生前の叔父は全く語らなかったと聞いています。
時系列で並べると以下の様になります。
1945(昭和20)年
8月6日 米軍が広島原爆投下(母の女学校時代の友人多数が亡くなっています。「この世界の片すみに」のスズさんと同年代です)
8月9日 米軍が長崎原爆投下
8月12日 鹿島小に被爆者受け入れ、治療、看護にあたるも多数の方が亡くなる)
8月15日 終戦
8月25日 兄が生まれる
8末で鹿島小での受け入れ終了
(父は、熊本にいて戦後の様々な対応があり、母子の待つ鹿島にもどったのは9月初めらしい。兄が生れたのに、父とも連絡が着かないため、名前が決まらず、困ったといいます。役所に届けるギリギリに父からの手紙が来て、名前が決まりました。兄の名前は「戦争が終わり、これから来る時代はお前たちが造るのだ、来る爾(きたるなんじ)=「来爾」(らいじ)」という名前でした。)
その父は、戦後、故郷にて、様々な社会運動に関わっていきました。保守的で、前時代の因習の残る中での旧帝大卒の「エリート」は、ことごとく奇異の目で見られていたようです。変わり者として。しかし、生き残った者の指命のような思いだったのでしょう。
鹿島の街には、8月9日に長崎で被爆した多くの人たちが山を越え、運ばれてきました。原爆被爆者の手当などどうすればいいのか皆目分からない中で、重度のやけどの人の手当などしましたが、多くの人が亡くなりました。
1952年には被爆者援護法が制定され、1954年には全国的に原水爆禁止の声が拡がりました。
その声を地域で受け、鹿島でも原爆被害に遭って亡くなった人たちの慰霊式が行なわれたようです。ぼくが鹿島小学校での任学年の時だったような気がします。
記憶に、この時の新聞の切り抜き記事を見た覚えがあります。父は、この取り組みのために積極的に活動したようです。
上の記事を読み、こうしたことを思い出させました。
父母は亡くなっているので、細かいことは分かりません。故郷の家のどこかに切り抜き写真があるかどうか。鹿島市の図書館に行けば、分かるかも知れません。父の蔵書の一部がここには寄贈されていますから。
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この日の記事に対して、尊敬する研究者(教科研の「教育」の編集を共にしている)久富義之さんから、ブログにコメントが入っていました。久富さんは福岡県小倉市の出身。我が兄とも同じ年齢。
《三二さんのブログには、政治批判、教育実践、若手教師支援を期待してきました。
今回のアジア太平洋戦争・記念(祈念)式・記念碑・記憶には、刺激を受けました。
自分の生まれ育った小倉は、8月9日原爆投下の第一目標だったそうです。その話は子どもの頃から聞かされ「厚い雲に覆われて」長崎に転進した、と。
近年の説では「西隣の八幡への前日の空襲の煙が覆っていた」とも言われています。
いずれにせよ、もし上空から小倉の街が見えていれば、広島の例のように川に架かった橋が投下目標では、と思います。
長崎のプルトニュウム原爆は広島のウランより強力で半径1kmは全員即死だそうで、自分の父母、彼女の父母、だれも即死で、その時母のおなかで4・5ヵ月だった私も消えていました。
わたしら世代の「聞いた話」(被害・加害を含んで)も、もしそれをリアルに語れれば、子ども・若者世代には意味がありそうです。中学歴史教科書から「加害」が消えている今日には———。》
このところ、久富さんにお会いしていないけれど、またさまざまなお話をしたいと思っています。
Hidankyoのノーベル平和賞という喜びの裏では、広島市(教育委員会)は2023年に『はだしのゲン』を平和教育副教材から削除するようなこともしているのだから。それらも見つめなければなりません。
(空襲を素材にした『火垂るの墓』も同じような扱いが教育現場にはあります)