真如苑では「智流院」という学習課程のようなものを設けて、初信の信者に対して「これを卒行すると、文部科学省が認めた宗教の教師の資格が得られる」とか、よく宣伝していますね。
真如苑では「智流院」という学習課程のようなものを設けて、初信の信者に対して「これを卒行すると、文部科学省が認めた宗教の教師の資格が得られる」とか、よく宣伝していますね。 この「智流院」なるものは、信者なら知っているように、別にそういう名前の学校や施設があるわけではなく、信者の中で熱心な人が志願すると、接心に行った同じ日に、教えを授かる時間が設けられていて、それに毎月だったか出席して一定期間続けると、「卒行資格」とかいうものを認定されるとかいうシステムのことです。 それを称して「智流院を卒行すると、文部科学省が認めた宗教の教師の資格が得られる」というのは、誤解を誘発するべく意図的につくられた宣伝文句で、ほとんど嘘と言ってよいものだと思います。 文化庁が毎年出している「宗教年鑑」を見ればわかるように、宗教法人法にもとづいて設立されている包括宗教法人(宗派や教団)は、毎年信者数や「教師数」を申告していて、その数が自動的に年鑑に載せられていますが、そこでいうところの「教師数」というのは、「その宗派や教団が一般信者と区別して指導者とみなしている人の人数」というだけのことであり、文部科学省は、その資格認定のしかたについてはいっさい口出ししていません。要するに、「その宗派や教団が内部の約束事として決めた、指導的地位にある教団構成員の数」を、文部科学省は申告にもとづいてフリーパスで記録文書に転記しているに過ぎません。 キリスト教のプロテスタントなら牧師の数、カトリックなら神父の数を申告しているわけで、真如苑の場合はそれを「智流院卒行者の数」にしているだけのことです。 真如苑は、それを意図的に「文部科学省が認めた資格」と言い換えることで、あたかも、国が「正しい宗教」と「そうでない宗教」を選り分ける審査を行なっているかのように、初信の信者に思い込ませ、「このみ教えは国のお墨付きがついているのよ。安心して」と、信者が周囲を説得する際の助け舟にしています。 「そんな話、日本国憲法の下では、おかしい」と気づかないのは、よっぽど社会科の授業をさぼってきた人だけです。 だって、常識で考えればわかるでしょう。日本基督教団がどういう人に牧師資格を与えるか、カトリック教会がどういう人に神父の資格を与えるかについて、今の日本で役人がその認定基準に口出しする権利なんかもっていますか? 北東アジアのどこかの独裁国家じゃあるまいに! もしそんなことがあったら、日本の宗教行政は明治維新の当初ぐらいまで逆戻りしたことになります。1889年に大日本帝国憲法が発布されて、その28条で「信教の自由」が曲がりなりにも認められて以後は、藩閥政府でさえ、「牧師の資格をどういう人に与えるか」や「神父の資格をどういう人に与えるか」は教団の自治にまかせて、基本的に口出しはしませんでした。 ましてや、1946年に日本国憲法の20条で「信教の自由」が完全に認められて以後は、国の役所は神経質なぐらい、教団の自治を侵さないように気をつけてきて、例外は、重大刑事事件を起こしたオウム真理教のときだけでした。 真如苑は、何で、このような、少し勉強した人にはすぐにわかるような嘘をつくのでしょうか。あんなことをしていれば、布教にとってかえってマイナスだということが、わからないのでしょうか?
ちなみに、「国が公式に認定した宗教の教師の資格」というものが、近代日本の国法上存在したのは、何と、今を去ること百数十年の、明治5(1872)年~明治17(1884)年の期間だけでした。それを「教導職」と言いました。みなさん、歴史をよく勉強いたしませう。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E5%B0%8E%E8%81%B7
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