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小山田圭吾を裁けるのは「さいきょうのおんなのこ」だけ

さて、そんなわけで前回の記事から早二ヶ月、皆さん生きてますか?

この二ヶ月、実に様々なことが起きました。そして、「アンジュルム以外日本全部沈没」というフレーズを私が思いついてから数年、この国には、ついに大アンジュルム以外、語るべき価値のあるものがなくなってしまったようです。

より正確に状況を描写すると、この国において「語るべき価値」のあるもの全てが、磁石で吸い寄せられるようにものすごい勢いで大アンジュルムの周りに集まってきております。その様たるや、古い大陸が水没した後に、勢いよく隆起する新しい大陸を見ているような爽快さがあります。そして面白いもので、アンジュルムという「新しい大陸」は見事なまでに、水没しつつある「古い大陸」の「陰画」になっている。つまり今のこの国においては、この国がアンジュルムのようであったのなら、絶対に起こらないような問題ばかりが続出している。そんなこともあって、最近改めて自分の書いた記事を読み直してみたのですが、下記の記事などはまさにそれを感じさせるものでした。

この記事改めて読み直してみますと、「リベラル・アイロニー」の話をしているんです。この「リベラル・アイロニー」というのが、今回のお題になります。

今の世の中、「リベラル」という言葉はいささか濫用気味に用いられているところがありますが、一言でいうなら「全人類の幸福な生を目指す立場」ということになるでしょう。民主主義、再分配、表現の自由、反差別、基本的人権など個別の項目は、あくまで「全人類の幸福な生」という大目標に向けた手段でしかありません。その意味では、一般に「人道的」とされることすべてを「リベラル」に含めてもよいかもしれません。

次に「アイロニー」ですが、この原義は「表層によって本質を隠す」ということになります。「アイロニー」の訳語として最もよく使われる日本語には「皮肉」ですが、まず第一に「実際に思っていることとはあまりにも真逆なことを口にすることで、相手に真意を仄めかす」という「嫌味」という意味がある。そして「皮肉な結末」などと言った場合には、「物事が最初の思惑とは真逆の帰結を迎えてしまう」といったことをも指します。そう考えると「皮肉」と「皮肉な結末」は対応関係になっていて、前者が意図的だとすれば、後者は意図に反するものです。要は「実際に思っていることを口にすると相手が反発してしまって聞き入れてくれないような場合に、あえて真逆のことを口にする」、「物事が当初の最初とは真逆の帰結を迎えてしまわないように、最初の思惑自体を(少なくとも表面的には)『真逆』に設定してしまえば良い」みたいな話になってきます。

ちなみに「リベラル・アイロニー」という言葉自体は、アメリカの哲学者リチャード・ローティが提唱したものでした。ただ、彼の哲学自体は非常に晦渋なものだということもあり、この記事の中ではかなりラディカルに単純化し、「リベラル」という言葉と「アイロニー」という言葉を、一旦原義のまま結合させてみたいと思います。そうなると、

①「全人類の幸福な生」という当初の思惑とは真逆の帰結を迎えてしまう(「皮肉な結末」)

②「全人類の幸福な生」という当初の思惑とは真逆の帰結を迎えてしまわないように、最初の思惑自体を(少なくとも表面的には)『真逆』に設定する

以上の二つが「リベラル・アイロニー」ということになります。

まず①についてですが、これは近年の趨勢としてわかりやすい例がいくつも挙げられます。たとえば、誰かを傷つける可能性のある発言が糾弾されていくうち、自由に発言できる場がどんどん奪われていくバリアフリーで「使いやすい」街が設計されていくうちに、かつて「使いにくい街」の隙間に生きていた人々の居場所がどんどん奪われていく、などなどです。

次に②。①のような事態を予防するために、最初の思惑を(少なくとも表面的には)「真逆」に設定するという話ですが、こちらは①と異なり、少なくともわが国では、近年の好例はあまり見つかりません(おそらく好例が見つかるようであれば、世の中はこんなに拗れてはいないはずなのです)。なので帰納法ではなく演繹法に基づいて、思考実験的に例を抽出してみたいと思います。たとえば、「誰かを傷つける可能性のある発言が糾弾されていくうちに、自由に発言できる場がどんどん奪われていく」という事態を予防するために、②の意味での「リベラル・アイロニー」を用いるとすれば、どうなるでしょうか?

おそらく答えは「(少なくとも表面的には)誰かを傷つける可能性のある発言を意識的にしていく」ことになります。

ここで重要なのは、「(少なくとも表面的には)」という部分です。つまり「誰かを傷つける」という思惑はあくまで表面的なものであって、その根底には「誰かの幸福な生の実現」という本来の思惑が確固として存在しなければならないし、その思惑が相手に伝わるようにしなければならない。そうすれば、相手は「この人は自分を傷つけようと思ってこんなことを言っているのではない」というメッセージを受け取ることになり、他の誰かが発した悪意なき言葉の言葉尻だけを捉えて無闇に傷つくようなことはなくなります。そうなれば、その「他の誰か」の幸福な生にも資することになる。

ここで、だがしかし、という話になります。こうなってくると、また別の薄ら寒い話が浮上してくるのです。いわゆる「愛のあるかわいがり」という話であります。つまり、実際には誰かに対して一定の悪意をもって「いじめ」をしている人が、「いじめじゃなくていじりだよ」みたいに嘯くケースです。あるいは立場を変えるなら、「あの人は私を愛しているからこそ殴るのよ」みたいな共依存DVカップルの片割れみたいな話にもなってくる。「表層的な悪意の下には本質としての善意が隠れているはず」というリベラル・アイロニー幻想が悪意をもって偽装されたり、心の弱い人の希望的観測に過ぎないものへと堕してしまうのです。そうなると、せっかく仕掛けたはずのリベラル・アイロニーが空転し、結局「誰かを傷つける可能性のある発言は一律で控えなければならない」という「皮肉な結末」へとなだれ込むことになってしまいます。

さて、先ほど、「近年において」リベラル・アイロニーの好例を見出すことは難しい、という話をしました。それは裏を返すなら、過去には好例があった、ということを指します。たとえば古典落語の世界を想起するなら、そこには「与太郎」という人物造形を見出すことができます。「与太郎」とはぼんやりしていて気が利かず、何をやらせても上手くいかないタイプの若い男子です。そこでは、今日でいう「発達に問題を抱えている子」が、江戸落語の世界観でどのような扱いを受けていたかを窺うことができる。総じて「与太郎」は、周囲の町人たちに手荒い口を利かれながらも、小間使いのような職を与えられ、愛されてはいます。そして噺の中で与太郎自身がひどい目にあうことはなく、与太郎の無為の行動によって周囲の町人たちのちょっとした虚栄心が暴かれるといった形で、共同体におけるトリックスター、「ホーリーフール」の役割を果たしていたことがわかります。

ちなみに江戸落語の町人たちの与太郎に対する関わり方にも、様々なグラデーションがあります。中にはちょっとした悪意や私欲をもって与太郎にきつく当たる町人もいる。しかし、大抵そうした町人は、より「口は悪いが善意のある」他の町人によってたしなめられたり、物語が進む中で与太郎のトリックスター性によってひどい目にあわされたりします。その意味では、江戸落語というものは、「愛のあるかわいがり」的なリベラル・アイロニーの偽装を許さない、一種の神話として機能していたところもあるような気がしていて、少なくとも自分が小学生だった昭和最末期の多摩地区東部においては、うっすらとその心性らしきものが残っていた記憶があるのです。

たとえば自分の通っていた公立の小学校では、発達に遅れのある子が同学年に二人いました。そのうちの一人は重度で、学年の男子の間には「あの子をいじめるのは人でなし」という感覚が確かに共有され、丁重に扱われていました。一方もう一人は軽度の子で、彼は私と同じクラスだったのですが、それこそ江戸落語における「与太郎」的なポジションで、それなりに対等に扱われ、時に乱暴な口をきかれていた。ただ、「この子ももう一人の重度の子と事情は同じだ」ということは皆知っていたので、「限度を超えて手荒に扱うのは人でなしだ」という感覚は皆共有していた。そのことで自分たちの過去を必要以上に誇るつもりはなく、子供集団の振る舞いなどはちょっとした環境設定の違いでどうとでも変わることを考えれば、むしろ「幸運だった」と言った方がよいとは思いますが、ただ、少なくとも「そういうことはいけないことだ」というモラールが子供ながらに、しかも集団的規模を持って植えつけられていた記憶があるのです。そしてそれは決して「人権教育」の成果などではなく、たとえば「男はつらいよ」の寺男、源公に対する周囲の人たちの振る舞い方などを通して、昭和的共同体のモラールの残照のごときものがまだ残ってきたからではないか、という気がいたします。

さて、「男はつらいよ」という映画シリーズは、第一回東京オリンピックによって東京が決定的に街の形を変えてしまった1960年代の末に始まり、渥美清が亡くなった1996年に最終作の上映を終えました。その意味では、あの映画が放映された時期は昭和的モラールの長き黄昏だったということになり、その残照がまさに消えうせようという薄暮の時期には、象徴的な出来事が一つありました。それが1993年の筒井康隆の断筆宣言です。90年代前半は、本格的に形骸化が進んでいた昭和的モラールに代わり、様々な社会運動がにわかに活性化していた時期です。その意味では、昭和的モラールの中で名を成した筒井というリベラル・アイロニーの申し子のごとき大作家が、てんかん患者の描写を巡って新時代のポリティカル・コレクトネスと激しく衝突し、「断筆宣言」という「皮肉な結末」という意味でのリベラル・アイロニーを体現してしまった文化的事件だったのだと思います。

さて、この時期に大学に入りたてだった頃の自分の記憶を振り返ると、日本の文化空間においては筒井康隆を「断筆」に追いやった「ポリコレ(当時はまだそんな言葉はありませんでしたが)」に対する反感が高まりつつありました。ただ、その反感はあくまで「『皮肉な結末』という意味でのリベラル・アイロニーはまずいんじゃないの?」というもので、何とか昭和的モラールに変わる新しい「リベラル・アイロニー」を、各自が模索していた時期だったように感じるのです。たとえば実際に筒井を擁護していた「右旋回」前の小林よしのりであるとか、「悪魔」というポジションどりから社会的メッセージを発していたデーモン閣下などは、そうした文脈で考えるべき人々(ないし悪魔)だったと思います。しかし、同じように「ポリコレ」への反発から出てきた「鬼畜系サブカル」の担い手たちになると、どうも自分には「ついていけない」感覚があった。それが何故だったのかは、当時の自分には言語化できなかったのですが、少なくとも自分の場合、「クイックジャパン」に関しては創刊号を買ったきり購読が継続しませんでした。そしてそのかわりに、大学時代を通して読み続けていた「文芸誌」は何と「CREA」だったのです。何故自分が女性誌を継続購読し始めたのかといえば、大学時代は一応出版社への就職というのもほんの少し視野に入れており、物知りな友人に聞いてみると、当時最も良さげな出版社が文藝春秋で、その中でも特に評判がよかったのが「CREA」だったから、という割と処世的な理由なのですが、これが思いの外しっくりハマってしまったのです。

当時の「CREA」の連載陣といえば、岡崎京子「女のケモノ道」、中野翠「中野シネマ」、町山広美・ナンシー関「吠えろ!俺たち」などが挙げられます。彼女たちの芸風は総じて浅はかな「ポリコレ」に批判的ではありましたが、いわゆる「鬼畜系」と比べると、おそらく二つの点に違いがあった。まず第一に、「昭和的モラール」の残光に包まれていたということ、彼女たちの表面的な毒舌の裏に、凛然とした「良心」を確かに感じることができた点です。そしてもう一点、彼女たちの提示してくれた視座の方が、圧倒的に「見晴らしのよい」ものだったということでした。特に岡崎などは、サブカルの動きなどにも視野に入れながら、それを古今東西の他のカルチャーとフラットに並べてネタにする、「クイックジャパン」などには感じられない視野の広さと解像度の高さを感じたものです。

この「昭和的モラール」と見晴らしのよさ」は、「鬼畜系」と括られるカルチャーの中で自分が親しんでいた数少ない作家であるねこぢるにも通ずるところがあった。たとえばねこぢるの「ねこ神さま」は、強者弱者を問わずあらゆる人間を容赦なく惨殺していく、言ってみれば日本古来の神(=大自然)の化身なのです。「ねこ神さま」が教えてくれたことは、最近のネットミームで言えば「人間は愚かだ」ということに尽きます。そしてその「人間」の中には、「ポリコレ」も、「ポリコレ」を批判していい気になっている鬼畜系サブカルチャーも、すべてあまねく含まれていたのです。

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小山田圭吾のロッキンオンインタビュー原文のインタビュワーの粋がりっぷりを読み直すと、いかに当時のサブカルチャーが「ポリコレを批判していい気になっ」ていたか、そしてそのスノビズムの裏側に、いかに彼らの「弱さ」が潜んでいたかが当時よりもはっきりとした形で伝わってきます。我々は実のところ強者弱者問わずに惨殺することができるねこ神さまのようには強くない。できることといえば、せいぜい弱者だけを選んでを苛めることで、自分がねこ神さまであるつもりになるくらいのものです。しかし、そんなあからさまな小物は、本物の「ねこ神さま」からすれば格好の餌食でしかありません。その意味では、ねこぢるを含め私が上記した女性作家たちは、皆が皆徹底した「ねこ神さま」として毒舌をふるい続けていた。おそらく、長らく女性作家というものが男性主体のカルチャー界において「周縁」にあったことで、業界内のヒエラルキーに縛られた男性作家よりもはるかにフラットな視野を獲得したのかもしれません。人間というものは己が卑小であることを自覚すればするほど、巨人の肩を借りることに抵抗がなくなります。その点、私は元々軽薄な人間ということもあり、サクッと巨人の肩に飛び乗ってしまったわけです。

ただ、その時期も決して長くは続きませんでした。画期はやはり1996年頃で、岡崎京子が交通事故に遭い、「CREA」がそれまでの女性文化誌から「男にモテるための雑誌」へと編集路線を変更します。一つの時代が終わるのを象徴するがごとく、ねこぢるもナンシー関も続々とこの世を去っていく。そして小林よしのりは本格的に「右旋回」を始め、20世紀の終わりとともに聖飢魔IIも解散しました。代わりに登場したのがインターネットで、今や「雑誌」をアクセスポイントにしなくとも自分の欲しい情報を入手できる時代がやってきてしまった。また、個人的にもこの時期は大学院進学と重なり、古今東西の文化に幅広く触れることで、世界の見え方が大きく変わった時期でもありました。その結果それまで自分にとっての「パノラマ」であった90年代日本のカルチャー空間が、急に「ジオラマ」に過ぎないものに見えてきた。ただ、その準備段階として、たとえば岡崎京子が頻繁に引用する20世紀ヨーロッパ映画の引用であるとか、ねこぢるが「ぢるぢる旅行記」で描いたインドの風景といったものの存在は確実にあったと思います。その意味では、小山田圭吾のいじめ記事の話なども当時知ってはいたのですが、そうしたスケール感の小さい、実存とか自意識に関わる問題にはほとんど関心がなかったからでした。自分は小山田をその背景に広がる海外のオルタナ系音楽へのアクセスポイントとしてのみ消費しており、「小山田が載っているクイックジャパンを一冊買うくらいなら、小山田が推しているビースティボーイズの新譜を買う」というのが自分の選好だったのです。その意味では、90年代に丸々収まる自分の青少年期というものは、90年代サブカルと並走しながらも、その中のあるものをジャンプ台にすることで次第にそこから離脱していった、というものだったと思います。

という感じで、今の流行りに便乗して「90年代サブカルについての自省」というものをやってみたわけですが、自分の場合「反省すべき点」があるとすれば、90年代サブカルに拘泥していたことよりも、そこからの離脱があまりにも「お気楽」すぎた点にあったのではないか、という気がしています。たとえば自分はゼロ年代の末にTwitterを始めるまでの十数年間、ネットとの付き合い方が徹底して「ROM専」だった人間です。なぜそうだったかといえば、ネットとはあくまで広い世界に対する見識を広めるために利用するもので、そこに噴き出している実存とか自意識の問題にはあまり関心がなかったし、それは10年この方何も変わっていないように感じられたからです。いや、より厳密に言えば、オウム真理教事件から小泉構造改革を経たネット世論は、世の中の悪や不公正を容赦無く糾弾する「ポリコレ」的な「アイロニーなきリベラル」と、シニカルに現状追認へと流れる「リベラルなきアイロニー」への分断はさらに深化していた。ただ、その分断線そのものは、既に90年代前半の段階で刻まれたものであり、自分はただ漠然と、「どっちも面白くないな」ということだけを感じていて、その両者とどう対峙していくべきかということよりは、「どちらでもないものを探そう」ということばかり考えてきたように思えます。古今東西に目を配れば、そうしたものはいくらでも存在しているし、そして少なくともこの頃までは、「どちらでもないもの」は、まだまだ同時代の日本にも転がっておりました。そして自分は、自分が興味を持てない、「アイロニーなきリベラル」と「リベラルなきアイロニー」の存在を、あまりに甘く見ていたのだと思います。

ところが10年代になり、震災後になると、世の中のほとんどのものが「アイロニーなきリベラル」か「リベラルなきアイロニー」へと動員されていってしまいます。そうなると、「どちらでもないもの」がなかなか見つからなくなってしまいました。無論、「アイロニーなきリベラル」や「リベラルなきアイロニー」の惨状を容赦なく炙り出しているという意味で「よいもの」はいくらかあるのですが、それらを同時にキャンセルできるような積極的価値を打ち出しているものとなると、10年代半ばのアンジュルムとの出会いを待つ必要があった。アンジュルムがいかに(それも90年代的なそれとは全く異なった形で)「リベラル・アイロニー」に満ちた存在であるかは、先ほど引用した記事でたっぷり論じたので、下記に再び引用します。今回付け加えることがあるとすれば(とは言え、常々話していることではありますが)、つんく♂とハロー!プロジェクトというものが、平成の間中に「昭和的モラール」の冷凍保存庫として機能したことはとても大きかったのではないか、ということです。ただし、自分が90年代末にモーニング娘。を見た時点では、「昭和的モラール」は感じても、「見晴らしのよさ」は全く感じることがありませんでした。ところがアンジュルムにはその両者があり、それらはアンジュルムが「大アンジュルム」へと拡張されるにつれ、増幅の一途をたどっているのです。

しかし繰り返しますが、アンジュルムにおける「見晴らしのよさ」は、90年代的なそれとは完全に真逆の形式を備えたものです。90年代的なそれが総じて「アンチコレクト」であったのに対し、アンジュルムは明らかに「コレクト」であり、コレクトでありながら肩の力が抜けている。そして肩の力が抜けているからこそ、「皮肉な結末」を回避しうる、というものです。つまりアンジュルムにおいては、かつてのデーモン閣下のように「皮肉な結末」を回避するために「悪魔」の意匠を引っ張り出してくる必要もなく、そこには普遍宗教的にコレクトで、それでいてあくまで自然体を崩すことのない天使や神が存在しています。「悪魔」的な形式によって「天使」の内実を韜晦するタイプの「リベラル・アイロニー」は、既に述べたように「愛のあるかわいがり」的偽装が可能になってしまいます。あるいは、実は「弱き」だけを選んで殺戮しているにもかかわらず、強きも弱きも平等に殺戮しているように見せかけることで「ねこ神さま」を僭称するようなことも可能になる。90年代的リベラル・アイロニーは「アイロニー」の方に軸足を置くことで「リベラルなきアイロニー」と「アイロニーなきリベラル」の両者を脱臼しようとしておりましたが、どうしても軸足のある「リベラルなきアイロニー」側へと滑り落ちてしまう危険性があったわけです。しかしアンジュルムの軸足は「リベラル」側にあり、その心配は全くない。ただし(本人たちが、というよりヲタクの側が)「アイロニーなきリベラル」側に滑り落ちてしまう危険性は時々感じることがあり、私がこれまでこのnoteで長たらしいことを書きたくなるのは、だいたいそういう時です。

そんなわけで、最近は「バランスをとるために」かなり意識的にアイロニー寄りの軸足をとることにしている私ですが、あくまで軸足を「リベラル」に置き続けるアンジュルムを、変わらず敬愛し続けております。思うに軸足を「リベラル」に置きつつアイロニカルに振る舞うキャラ造形というのは、少なくともこの国では男性より女性の方がしっくり来るところがあり、男性がそれをやるとどうしてもぎこちないことになってしまいがちです。たとえば小沢健二という人は、フリッパーズ時代には「アイロニー」寄りにおいていた軸足を、ソロになってからは「何かアイロニーの香りの漂うリベラル寄り」に修正してきました。自分は彼の「志の高さ」には惹かれながらも、何か彼の振る舞いのぎこちなさにむず痒さを覚えながらも今に至っております。ちょうど去年の今頃、小沢健二がBLM問題で「アイロニーなきリベラル」の袋叩きにあっていた時、「彼の善意を信じるべきである」という形で彼を擁護したのは、彼の言動に相変わらず「むず痒さ」を感じながらも、そうした彼の「志の高さ」に免じてくれ、という思いがありました。そこには「このギャグはどこが面白いのか」とわざわざ説明するような無粋さを感じなくもなかったのですが、やんぬるかな、という感じです。どうもこの国においては、男は「天使」になることは難しい。なので、精々相互に補完し合いながらやっていくしかないように思えます。

さて、そんなわけで去年の今頃、小沢健二については即座に擁護の筆をとった私ですが、今回の小山田圭吾の件に関しては、特に「擁護」すべき点はありません。確かにインタビューに書いてないことをデマとして撒き散らすのは論外ですが、そもそもあのインタビューに書いてあることが「真実」とは限らないのに、そこに彼の「善意」を読み込んで擁護しようみたいな話は無理筋ですし、自分はあまりそこには興味がありません。自分が考えるあの話の要点は、90年代サブカルチャーにおけるリベラル・アイロニーの失敗、そこに尽きます。特に小山田は小沢と異なり、「リベラル」側に軸足を置き換えるようなこともせず、そうしたロゴスの世界から純粋な音楽の世界へと逃走していった人です。彼のその選択自体を責めるつもりは毛頭ありませんが、少なくとも彼が逃げた後に置き去りにしたものが、仮にそれが本当に「アイロニーに軸足を置いたリベラル・アイロニー」だったとしても、小沢のような「後始末」を怠った以上は、「リベラルなきアイロニー」へのスリッピースロープを転げ落ちていってしまったことは、やはり彼の過失であると思うのです。

そこで私が思うのは、彼に非があるのは確定として、「では、誰が彼を裁けるのか?」という話です。そこでよく言われる「いじめの当事者以外は口を挟むべきではない」「今まで一度も罪を犯したことのない者だけが石を投げよ」みたいな話は、半分は正しくて半分は間違っています。というのは、本当はいじめの被害者ですら、彼を裁くことはできないからです。我々がすべからく「原罪」というものを抱えている以上、「今まで一度も罪を犯したことのない者」などは、決して存在し得ないのです。普遍宗教においては、究極的に人は人を裁くことはできない。キリスト教においては人を裁くのは神の仕事であり、仏教においては宇宙を司る「法(ダルマ)」が、その人の犯した罪業に応じてその人を然るべき来世へと転生させるでしょう。だとすれば衆生にあっては、無闇矢鱈と罪人に石を投げることで余計な罪業を重ねることなく、ただ「法(ダルマ)」の裁きを待てばよい。というか、実は既にその「裁き」は下っている、という話をして、この記事を締めたいと思います。

岡崎京子の短編に「GIRL OF THE YEAR」という話があります。1994年ですから、ちょうど「リバーズ・エッジ」と「ヘルター・スケルター」という二大代表作の間、岡崎のキャリア最末期の作品です。花園学園という女子高に転校してきた「男前な」女子山田律子が、同級生たちにアイドル扱いされることに戸惑いながら、最後には同級生たちと対等な関係を築くという話なのですが、実はこの話に「大山田建三」という、明らかに小山田圭吾をモデルにしたキャラが登場します。で、この大山田、花園高校の近所の進学高「光和学園」の生徒で、「優等生でおしゃれでいじめっ子」というキャラなのです。つまり時期的に考えても、岡崎は明らかに小山田のいじめネタを踏まえてこの大山田というキャラを作っているのですが、作中での扱いは散々です。まず花園学園の生徒にちょっかいを出していた大山田の手下が、通りすがりの律子によって呆気なく返り討ちに遭う。そして怒り狂った大山田は、律子が嫌々出場させられている花園学園のミスコンに殴り込んで律子に勝負を挑むのですが、律子に相手にすらされず一蹴され、大恥をかかされたまま終わります。

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岡崎京子といえば、フリッパーズギターの熱烈なファンとして知られていますが、小沢健二の「アルペジオ 魔法のトンネルの先」の歌詞などからは、彼女が少し年上のポジションから、小沢たちの「イキリ」を生暖かく見守っていた様子をうかがうことができる。その透徹した視野、「見晴らしのよさ」こそが、かつての自分が小山田の「いじめ紀行」は読まなくとも岡崎の「女のケモノ道」は読んでいたことの大きな理由だった、という話は既に述べました。そして岡崎の姉御は小山田の記事を読み、弱いものだけをいじめることで「ねこ神さま」を僭称しようというイキり坊主の小山田のごときは、いっちょうとっちめてやれ、と考えたようです。つまり小山田への裁きは、既に20年近く前に、岡崎によって下されていた。しかし、ここで自分が改めて考えさせられたのは、小山田に裁きを下した「山田律子」というヒロインのキャラ造形でした。

岡崎漫画のヒロインというのは、大抵性格が不安定だったり、欠陥があったりするのですが、時々「よくできた」女の子が登場します。自分はそれを見ると、お、岡崎の「ぼくがかんがえたさいきょうのおんなのこ」が来たな、と感じるのです。そうしたヒロインは、腕っぷしが強く、曲がったことは嫌いで、でも決して正義を振りかざすわけではなく、飄々と適当に、誰もがそう簡単にはなし得ないような「善」をなしていきます。ただ、内心繊細で照れ屋な部分も持っていて、そんな自分が同級生の間でカリスマ化されてしまうことには戸惑いを感じ、みんなと対等な関係を築きたいと思っている。ここがポイントです。同じリベラル・アイロニーでも「アイロニー」側に軸足を置いている人は、自分の「みんなと対等な関係を築きたい」という気持ちを自覚していないか、自覚していても決して口にはしない。しかし律子とはとても素直で、ある時は親友の前で、最後には「みんな」の前で、その気持ちを素直に吐露します。

まさに「リベラル」側に軸足を置きながら、どことなくアイロニカルなヒロイン像こそが、岡崎にとっての「さいきょうのおんなのこ」だった。そして岡崎はそのキャリアの末期に、架空のキャラである(その意味では「神」に近い、作中でも「転校生」という形で「来訪神」的存在である)彼女に小山田を裁かせた後、表舞台から姿を消しました。しかし、小山田が既に裁かれていたことを知らない世間は、無反省な「リベラルなきアイロニー」と、それに憤る「アイロニーなきリベラル」へと両極化していった。そして両者はその20年後、かたや愉快犯的に、かたやルサンチマンに駆られる形で、スリッピースロープの上にリベラル・アイロニーを置き去りにしたまま逃走した小山田めがけて襲いかかることになってしまいました。

しかし繰り返しますが、既に「裁き」は済んでいるのです。そして、かつて岡崎京子が小山田を裁かせた「さいきょうのおんなのこ」は、岡崎が表舞台から姿を消した翌年、(つまり、小山田に裁きを下した後になって初めて)この世において人としての肉体を得、かつての「アニエス番長」がメタメタにされているのを尻目に、確実に世の中での知名度を上げ続けている。

そう、岡崎京子の「さいきょうのおんなのこ」のキャラ造形は、まるでアンジュルムのリーダー、竹内朱莉のようではないですか。

汚れた川は再生の海へと届く」というフレーズがこれほど染みる話はなかなかありません。そして我々の汚れた川がようやく海へと届き、大いなる再生の時を迎えようとしている今、必要なのは抽象的な人権思想よりも、新しい神話であり、聖書であり、仏典です。かつての「昭和のモラール」を支えていたのが「与太郎の物語」だったとすれば、新しい時代を支える神話は、「『さいきょうのおんなのこ』に裁かれる小山田の物語」、ということでいかがでしょうか。

何度でもいいますが、既に神話は書かれ、裁きは済んでいます。人の悪を指摘することは人でもできますが、人を裁くことができるのは決して人ではありません。神、あるいは法(ダルマ)だけです。もしあなたが人を裁いてもよい、ということになってしまえば、あなたが神だということになってしまいます。いや、この世界に神も仏もない、と言うのであれば、答えは簡単です。涼宮ハルヒも言っていました。「ないんだったら、自分で作ればいいのよ!」と。

あなたの「リベラルなきアイロニー」、あるいは「アイロニーなきリベラル」をもって、誰かを裁くなどもってのほかです。そんなことを繰り返している限り、次に裁きを受けるのはあなたの番です。そしてそんなことを繰り返している限り、こんなことはいつまでも繰り返されるのです。それよりも、全く新しいことを始めませんか。岡崎京子が最後に生み出した「さいきょうのおんなのこ」と一緒に、新しい時代を生きてみませんか? もしあなたに少しでもそのつもりがあるならば、私はあなたにこの言葉を贈りたいと思います。

「アンジュルムにおいでよ」

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追記を書きました。

追記①

追記②

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小山田圭吾を裁けるのは「さいきょうのおんなのこ」だけ|浅生楽@くりーむ担
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