第2章 龍の逆鱗、抹香を吹き散らす
第6話 狐と龍は互いの目標を語らう
「サインコサインタンジェントなんてわかんねえよ数字の計算に急に英単語出すなよ何様だよクソがよわかんねーよ知らねーよデータなんかねーよ」
暁人はシャーペンをコツコツノートに叩きながら思い切り愚痴った。
場所は稲原園という焼肉屋である。稲原信和という妖狐の男が切り盛りする肉屋兼焼肉屋であり、大衆向けの値段でありながら上質な肉が食べられる店として地元で愛されている。
場所は大岩戸の内側にある皆川区——桜坂区の北であり、そのさらに北西には中心街である
焼肉屋でテスト勉強とはなかなか珍しい光景だが、店員は止めたりしない。なんとなれば手伝いをしている、ぱっと見黒ギャルの金髪妖狐も女子高生であり、言ってしまえば彼女は星䨩桜坂校の一年先輩でもあった。
「テスト勉強? そーいうのっておしゃれなカフェでやるもんじゃん?」
サラダを置いて——妖狐がいるので玉ねぎ抜きだ——、黒ギャル金髪妖狐の
ある噂では彼女は座卓の中でも指折りの十人足らずからなる実力者集団である
「なんすか稲原先輩。後輩が苦しんでんのに」
「いや、日頃勉強してないんだろうなって思って」
「なんで俺をいじめたがるの? 楽しいか?」
「ぶっちゃけめっちゃ面白い。特に素直な男子イジるのは楽しい」
穂波はそう言って笑った。顔には、柳眉に沿ってピアスを開けて一見ばちばちに決めた怖いねーちゃんという感じだが、実際話してみると人懐っこくするりと懐に入ってくるような、梶原瑛二と同じ気配を携えていた。
憧れる男子生徒は多いが、実は彼氏持ちである。
「クラァ穂波! 客に迷惑かけてねーで厨房手伝えぇ!
「わかってるよ親父! 店の屋根が吹っ飛ぶから大声出すんじゃねー! オタク君の鼓膜破れたらどーすんだゴルァ!」
それを聞いていた酔客が笑い出した。
この漫才のような親子のやり取りも、稲原園の名物だ。
ちなみに健斗——
優れた霊視能力を持ち、数十秒から数分先の未来を見る特殊なサイドエフェクト的霊視能力を持つ。それは彼の目に宿る
座卓でもその未来視能力は重要視され、彼を幹部職待遇で勧誘する声もあるというが、健斗がそれに応じている様子は今のところない。
暁人はペンを回しつつ、焜が解説を加えたノートと睨めっこした。
三角関数というクソ厄介な敵が、今回の鬼門である。なんなら暁人は数学が大の苦手であり、計算問題が特に無理だった。
暗記科目だったら、正直自分なりにストーリーを立てて面白おかしく解釈して楽しく覚えられるのだが、数式はそうもいかない。
剥き出しの理性や理屈——数式や化学式は、時に文学性を否定するナイフのように鋭く、そこに突き立っているものだ。
「ドレッシングどれにする?」
「んー。シソおろし」
「トッピングは?」
「俺はオニオンチップ」
焜はこういう時、何気に気が回る少女だ。だから嫌いになりきれないというのもある。
終始、徹頭徹尾嫌なやつなら、あるいは所長に直談判してバディを解消してもらうが、決してそこまでする必要はないというか、どこかでお互い理解できるんじゃないか、みたいな期待が僅かにあった。
「やってるねえ若者。お姉さんがいーこと教えてあげよっか」
穂波が骨つきカルビを二人前、皿に乗せて持ってくる。左手には豚トロの皿。
「なんすか?」
「三角関数の公式は、中二の時の連立方程式の応用で簡単に覚えられるよ」
皿を置いて、彼女は去っていった。
暁人は忘れないようにノートの隅にそれをメモった。あとで検索しよう。今の時代のありがたいことは、勉強動画をちょっとミーチューブやサーガス検索サービスで検索するだけでヒットすることだ。
今のヒントに合致するものが、出てくるかもしれない。
「穂波先輩、ああ見えて一学期学年主席って知ってる?」
「マジ?」
「マジ。前に二年の間で噂になってたもん。本人はケロッとした顔で「夏休み遊ぶぞー!」なんてはしゃいでたらしいけど」
暁人はノートを閉じ、ペンケースにシャーペンをしまった。中学生はバイト禁止——というのはあくまで日本本土の考え方であり、溟月島は別にそんなことはない。暁人は中三の秋から陰陽師の見習いとして、天城民間陰陽師事務所でアルバイトをしており、小遣いというには多すぎる給料をもらっていた。
その初任給で家族に寿司を奢った帰り、叔父から「文房具に金をかけるやつは将来出世する」とよくわからない持論を展開され、彼が懇意にしている文具屋で買ったのが、この一本二万五千円のシャーペンだった。おかげで初任給はすっからかんである。
曰く、鬼の生え変わった角を砕いて混ぜた特殊な合金鋼で作られたもので、妖怪が金槌で全力でぶん殴っても凹まない一品らしい。
このシャーペンを作ったやつは、文房具で溟人と戦う気か? と思った。世の中には喧嘩煙管というものがあるが、よもや仕込みシャーペンなんじゃないかと疑ったほどだ。
暁人はその説明を嬉しそうにしている店主に茶々を入れる気にはならず、叔父もその気だったのもあり、買ってしまった。
実際使ってみると暁人の握力でも歪んだりヒビが入るというこれまでのシャーペンで頻発していたトラブルは全くなく、ストレスは非常に減った。
まあ、そういう意味ではいい買い物だったかもしれない。
肉をトングで焼く暁人と、箸で焼く焜。性格の違いだろうか、単にトングが一本しかないからそうしたのか。
とはいえ、肉焼きは勝負所。一瞬の判断ミスが、美味い肉か苦い炭かを分けるルビコンになり得る。
暁人はここだ、というタイミングで豚トロを網から引き揚げた。
肉汁滴るそれが、炭に落ちて赤々と燃え上がる。その炎が骨つきカルビを炙り、肉の脂を甘く焦がした。
暁人は取り皿に移したそれを「いただきます」とそそくさと手を合わせるなりすぐに割り箸を取り、辛口だれを絡め白飯にワンバウンドさせ、頬張った。
とろけるような脂。肉の甘みと、きゅっと締まる辛口のタレ。肉が白飯という伴侶を求め、暁人は惜しまず二口ほど、白飯をかき込んだ。
大盛りのさらに上、特盛ご飯が今なら並盛り価格プラス五十円と聞いたら、やらずにはいられなかった。
龍は仙人に近い存在ゆえ粗食に思われるが、少なくとも臥龍家はエンゲル係数が高いことで知られる。彼らは人の身に龍を降ろすため、その膨大な生命力を食事から補うのである。
焜は焼肉の時は炭水化物は頼まないタイプで、淡々と骨つきカルビを頬張っている。
暁人の奢りで焼肉であるから、彼女に遠慮はない。液晶モニターで特上カルビを追加注文。
「予算超すなよコラ」
「言っても大衆焼肉なんだからどんなに食ったって一万もいかないわよ」
「まあいいけどよ。……なあ、焜」
暁人は豚トロをひっくり返しながら、焜に聞いた。その声のトーンはこれまでと違い、落ち着き、真剣なものになっていた。
「お前はさ、俺が復讐のために陰陽師やってるって聞いて、どう思った?」
「ぶっちゃけ?」
「ああ」
「馬鹿だなって思った。でも、復讐してもしなくても大切な人は帰ってこないし、なら、してスッキリして前に進めるならそれでいいんじゃないかな、って思ったわ」
「……大人なんだな。俺はそんな風には割り切れないよ。許せないから、許せない奴を殺したい。それだけだ。行き場のないうさをそいつにぶつけたいんだよ」
「理性で復讐できるなら、その時点で別の生き方を探るでしょ。復讐は感情の発露なんだから」
暁人は二枚目の熱々の豚トロを頬張った。白飯をかっ喰らい、もごもご咀嚼して、飲み込む。
フリードリンクで持ってきた脂肪分解茶を飲んで、
「焜は、なんで陰陽師やってんだ?」
「成り上がるため。最強に——九尾になって、座卓の座長になって、野良妖狐上がりでもここまでやれるってことを証明するため。私は何者にも侵害されないただ唯一で無二の私でありたい」
力強く、まっすぐな金色の瞳が暁人を射抜いた。
その純粋で、磨き上げられた刀身のように鋭い切先のような視線には、どっしりと肝の座った覚悟が確かにあり、それは余人が側から何を言おうが、テコでも動かぬ苔むした石のようにも思える頑強なものだった。
暁人はその姿を見て、魅せられた。
暁人は半妖である。だが、どうしようもなく、妖怪の血が流れている。日に日に妖怪に近づく自覚もある。故に、妖怪として、彼女の一本気で筋の通った覚悟は何者にも変え難い、抜き身の触れただけで万物を切り裂く刀剣のような美麗さを感じずにはいられなかった。
「すげえな……でっけえ、夢だ」
「どうせならあんたも目指せば? 天辺。どうせならそういう張り合いのある奴がバディじゃないとつまんないし」
「ライバルは少ない方がいいんじゃないか?」
「それは雑魚の思考ね。負け犬の考え方。強者は強者を求める。妖怪は強い妖怪と打ち合うことで研磨され、研ぎ澄まされるのよ。それはライバルだろうと仲間だろうと、たとえ溟人だろうと同じ。なまくらばかりと斬り合っていちゃあ、切れ味が落ちる」
「まさしく
「野良上がりなんてこんなもんよ」
焜は肉を頬張る。追加の特上カルビを網に並べ、暁人も骨つきカルビを一枚網からあげ、タレを絡め齧り付いた。
復讐者としての自分。成り上がりを目指す焜。おそらくはその両方が正しくて、間違っている。
以前禮子が言っていた。
「最良の選択肢というものは、残念ながらこの世界には存在しない。何をしたいのかを選び取った後でそれを最良だったと言えるように努力していくことしか、現在という時間軸にしがみつく私たちには許されていないのさ」——と。
ならば、暁人の復讐という道も、突き通せばそれは真理であり、真実になる——ということだ。それを完遂した際に、本人がそう思えるのであれば。
そんなことをしても父が喜ぶかどうかはわからない。あの世というものがあったとして、偶然父と同じ場所に行けたとして、会えるかもわからない。万が一会えても、陰陽師として死んだことを叱られるかもしれない。
だが——焜の言う通り。
やってもやらなくても帰ってこないなら、やってスッキリしたほうが、少なくとも自分の中で過去を清算できる。
恐らくは焜の成り上がり志向も、野良時代のなんらかの経験が原風景となっているのだろう。
それが何かを聞くほどまだ親しくはないが、いつかはそれを聞きたい、と思いつつあった。
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