ベル4巻発売記念 スペシャルSS

寝床

 睡眠とは、生命活動維持において必須事項である。睡眠状態となることを、行動と呼称すべきか反射と呼称すべきかは状況によるだろうし、他の呼称が既に定義されているのかもしれない。
 だが呼称とは全て者の都合によって定義されるものであり、者から処分され、者の世界から弾き出された物にとっては、何ら関わりなきことである。
 そもそも名称が何であれ、意味などないのだ。物にとっての睡眠とは、休息であって安息にはなり得ない。者の前には、その事実があるだけなのだ。
 睡眠を、ただ心身を休める行為であると認識できるのは者だけだ。睡眠とは即ち、意識を遮断する。それは、無防備になると同義だ。
 物にとって睡眠とは、生命活動を維持する必要不可欠な行為であり、生命活動停止の危険性を高める忌避すべき行為だった。
 夜よりは昼のほうが、者も物も活動している数が多い。その上、金も手間も要らず灯りを確保できる為、存在を把握しやすく、されやすくなる。よって、者と理由は違えど、昼よりは夜に睡眠を確保する物は多い。
 だが活動数は少なかろうが、夜に活動している物のほうが昼に活動している物より危険度が増すこともまた事実だった。
 夜に活動している物は、夜に必要とされる仕事をしているからではない。夜闇に紛れなければ行えない行為を目的として活動している。そんな物が活動しやすい夜が安全なわけがない。
 だから私にとって睡眠とは、酷く厄介な存在だ。取らねば身体機能に不調が生じ、取ればその間、私という個が破壊される危険性を呼び寄せる。
 命の気配に意識を尖らせ、それらが現在活動しているか、己からの距離、害意の有無。様々なものに思考と意識を巡らせ、安全だと判断した瞬間、断ち切るように意識を落とす。
 睡眠とはずっと、そういうものだったのに。

 ことことと、煮込まれた食料のような眠気に解けかけた意識は、目蓋が重なった感触で浮上した。意識が落ちかけていたことを自覚する前に、身体と精神が反射で強張る。
 しかし、びくりと跳ねた私の身体は、温かで柔らかい重みによって飛び起きることはなかった。
 横向きに丸まっている私の背に、大きな掌が触れている。そう、認識した。途端、私の身体は緩慢に硬直を解き、無意識に身体の中心へ引き寄せていた手足を少しだけ元の位置へと戻した。
 身体に触れる全てが痛みを齎さない。新芽のように柔らかく、硝子瓶のようにつるつるとした毛羽立ちが一切ない布の中は、春になりかけの冬の日向のように温かい。
 存在すると知ってはいたけれど、私とは無縁のものだと思っていたそんな空間が、ここにある。そんな空間に、私がいる。今だけじゃない。最近ずっと、毎日。
 体勢はほとんど変えず、視線だけを動かす。目の前には壁がある。その壁は緩やかに上下していて、その上下に合わせて、私の頭に微かな吐息が降ってくる。
 その頭を動かし、私を包むように背中に手を置いて眠っている人の顔を見た。私を拾って、この寝床を与えた人が眠っている。
 起きていても、眠っていても、穏やかな顔をしている人だと思う。
 窓にかかった厚い布の隙間から入る月明かりが作り出す、白みがかった藍色の世界の中だけではなく、白く強い昼の光の中でもそう思う。
 そんな人が、私の視界の中で眠っている。
 この人は、とても奇特な人だ。塵を拾っただけではなく、人の手を入れた。手入れをした後、まるで人のように扱って、人のような暮らしをさせている。塵を、まるで人の子のように扱う。
 人が、己を獣とは違うと定めたがゆえの倫理を、道徳を。慈しみという命への尊重を、正しく形にしたかのような人は、塵山から拾った私をそうやって扱った。
 おかしな人だ。正しく、美しく、穏やかで。柔らかく、温かく。奇妙で、不思議で、優しい人だ。
 自分以外の存在がいる場所で眠るなんて有り得なかった。まして、その腕に包まれるように覆われて、尚且つその存在より先に意識を落とすだなんて、自ら活動停止を宣言したも同然だ。
 それなのに、確かに私はこの人より先に意識を落としたし、覚醒した今尚逃げようとは思っていない。更に困るのが、これが初めてではないことだ。
 昨日も、その前も、その前も。人の気配が常に稼働している神殿内で、私はいつの間にか眠っていた。人の気配どころか、この人が一緒にいたのに。
 この人は、物語を聞かせてくれた。絵本と呼ばれる本を読んでくれた。この人が浮かべる表情のような声で、色んな話をしてくれた。
 人の温度がこんなに柔らかで穏やかで、温かいとは知らなかった。その温度が声にまで浮かぶとは知らなかった。その温度が言葉にまで表れるとは知らなかった。そんなものが、私に与えられるとは思わなかった。
 静かな寝息を立てる人の顔から外した視線を、天井へと向ける。白みがかった藍色の世界。世界がこんな色をしているとき、夜明けまではまだ少し時間がかかる。
 私は衣擦れの音さえたてぬよう、ゆっくりと動かした頭を、目の前にあるその人の胸へと近づけた。額を触れさせてはいない。けれど温かい。
 他者の温度が触れていて、危害が及ばない場合があるだなんて思わなかった。今でも、この人が私を殴らないのが不思議でならない。
 だから、私が意識を落としてしまったのは、この人が私を壊さない絶対的な確信があるからではない。私はまだ壊されては困るけれど、この人が私を壊すのであればそこには正当な理由があり、絶対に私が悪いのだと思った。
 だから私は、今度は自分の意思で目蓋を落とした。料理長が見せてくれた、食べてもお腹が痛くならない食料に、人の手を入れる料理という行為で煮込まれて柔らかくなっていく食料みたいに、意識がことこと溶けていく。
 意識が完全に解ける寸前、大きく温かな手が私の頭を撫でた気がするけれど、神官長は眠っていたはずだから、きっと私の気のせいだろう。

     

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