新藤監督、愛人・乙羽信子と描いた人間と性

2012.05.31


映画「陸に上がった軍艦」(2007年公開)でロケ現場に立つ新藤監督。自らの戦争体験が作風に大きな影響を与えた【拡大】

 日本映画界の現役最長老監督で、文化勲章受章者の新藤兼人(しんどう・かねと、本名・新藤兼登)さんが29日午前9時24分、老衰のため、東京都内の自宅で死去した。100歳だった。新藤監督が遺した大きな足跡について、映画批評家の樋口尚文氏が本紙に想いを綴った。

 映画は娯楽か芸術かということがかつてはよく議論されたが、それは映画づくりが多額の製作費を集め、それを回収しなくてはならないという側面を持つ以上、きっと答えが見つからない問いなのだろう。

 新藤兼人は、その難問に明快な答えを出すべく、日本でも先駆的な独立プロダクション・近代映画協会を立ち上げて、邦画5社の大きい撮影所ならざる一軒のプレハブで合宿して映画を作り上げる方式を打ち出し、「日本じゅうが私の撮影所」と語った。金の呪縛を消して自由になることで既成の映画会社では出来ない映画を作る、後の日本のヌーベルバーグの監督たちの10年先をいく新藤であった。

 だが、さらに新藤をただ者ではないと思わせるのは、そんな作家的自由を担保するために、彼が生涯請負い続けた映画やドラマのシナリオの、ほとんど節操ないまでの多彩さである。

 女優競演のメロドラマから、本当に荒唐無稽な2時間サスペンスまで (本当に「え?!こんなものまで」という作品も少なくない)、精力的にシナリオを書きまくった新藤は、しかし決してそういう仕事をおざなりにはぜず、実に丁寧かつ締め切りに忠実に(!)仕上げた。

 金から解放された仕事にこだわり抜く一方で、金のための仕事も実に機嫌よく上々のかたちに仕上げている。

 この新藤兼人の懐の深さは、山中貞雄の「盤獄の一生」にあこがれた氏が苛酷なフィルム洗いの下働きとして撮影所にもぐりこみ、やがて美術助手から溝口健二監督の大作「元禄忠臣蔵」の建築監督(!)になった後で、めぐりめぐって脚本部に入ったという大変な戦前の下積み時代が培ったものだろう。

 新藤は現場でなんでもかんでもやらされながら映画を体にたたきこまれた人であって、芸術であれ娯楽であれ、映画は映画としてありがたく付き合っていたのだろう。

 そんなことを映すかのように、かつて「エクソシスト」の監督ウイリアム・フリードキンが世界を代表するホラー映画として新藤の「鬼婆」を選んでいたのは嬉しかった。新藤にとって、社会派とか怪談とか峻別する前に、これはまず「映画」なのだから。

 こうした強さと寛大さに生きた新藤が、長く愛人の立場にあった乙羽信子とともに情熱的に描き続けたのは人間と性をめぐる主題であったが、二人が組んだ初監督作品「愛妻物語」の60年後に作られた「一枚のハガキ」のほうがずっと性的に濃厚な気配を充満させていたというのは実にあっぱれなことだった。(敬称略)

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 葬儀・告別式は6月3日午前11時半から港区芝公園4の7の35、増上寺光摂殿で。喪主は次男の次郎(じろう)氏。

 

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