フリップ・フラップ
「ふざけんじゃねえ!」
人間側からの使者の言葉を伝え聞いた魔王親衛隊長ガロン・ヴァーミリオンの第一声は、怒声であった。
……人間側が、ディアボロ城に襲撃をかけた。
周辺兵どころか、近隣の町からも一切の痕跡を残さずになされたこの唐突に過ぎる出現は、おそらくは使徒の便利屋ニーニーナによるものだと推定された。
かの者は魔族が掴んでいた情報によれば、セネカ首都シュリにおける大祭を取り仕切る役割を担う予定とのことであった。
……だが、現状を顧みるにどうも誤報であったらしい。
ともあれ、実際にいくつものテントをこれ見よがしに城下町の直近に設置した上で、彼らは魔族に対して一つの要求を突き付けた。
シンプル極まりなく、そして個々の戦闘能力においてまったくひ弱な人間からの要求は、こうだ。
『我々はあまねくアグスタに比類なき影響を持つ、古今東西総覧しなお無比なるディアボロの城の主にして魔王、クリステラ・ヴァーラ・デトラとの紳士的対談を要求する。おって、拝謁の許可を願う』
我々サリア教団からの使者は、祭祀継承者サリー・スノウホワイト。使徒第十二位アビス・ヘレン。他一名。
なお、魔王とはいえ女性に対して無礼を働くつもりはない故、武器の携帯は遠慮する。
……以上のようなものであった。
ニーニーナの能力は、神出鬼没そのものだ、と魔族側にも知られている。
今まであったものがいなくなり、何もなかったところに、彼女自身か、あるいは物か人か。
しかしそんな彼女でも、今まで城の近くに人間を、それも大量の人員を送ることなどしたことはなかった。
当然だ。
それは、魔王という死の具現のみならず、彼女を取り巻き、彼女に付き従う怪物達の足元に身を投げ出す行為であるから。
事実、彼女らには、このような謂れがある。
――『赤爪』の視界に入るな。こちらが視認できる距離にいたら、とうに逃げられる距離ではない。楽に死ねることだけ祈れ。
――『黒花』の放つ香りを嗅いだら、生を諦めろ。お前がそれに気付いた時点で、既に残酷な死を確定させられている。
――『白痴』の声を聞いたら、識別プレートを放り投げろ。跡形も残らないから、その方がむしろ生死の判別が容易となる。
――『原初』の気配を感じたら、咎めはしないから、一刻も早く自害しろ。人として死にたければ、その方が余程ましだ。
しかし。
しかしそれでも人間は、この度その暴挙を行った。
それも、慇懃無礼の極みたる文言を伴って、だ。
「あのクソども、どこまでも舐めくさりやがって……! ……野郎、噛み殺してやる……」
言葉がすすむにつれ、ガロンの声が低く、抑えられたものとなる。それは、断じて感情が収まりつつあることによるものではなく、むしろその逆、激情が本気の殺意に切りかわったが故であった。
事実、ガロンは、兵舎の控えの椅子から立ち上がり、外に向かって歩き出そうとしていた。
その様子を慌てて止めるのは、彼女の部下と、そして宰相アロマ・サジェスタであった。
「待ちなさいガロンさん! 短慮はよして!」
「短慮……? これは拙速ってんだ、事務屋は引っ込んでろよ、殺すぞ……?」
「いいえ、やめなさいガロン。これは命令よ」
「……お上品なこと言うじゃねえか、ええ? 命令ね、いいじゃねえかよ、それで奴らがすごすご退散するならオレだって言うぜ。失せろってな。それで済んだら世は事も無しだ」
「…………ガロンさん、お願いだから落ち着いて」
アロマの言葉を受けて、ハハハ、とガロンは笑った。酷薄な、瞳孔の開いた人狼の表情は、その軽快な笑いと真逆の感情をありありと表している。
「……なあ、アロマよ。落ち着いてどうなる? オレはここで茶でも飲んでりゃいいか? 交渉は確かにお前の仕事だが、これはもうそんな段階じゃねえだろ。ここまでのこのこ足ぃ運んでくれた人間どもを持て成してやんのは、オレらの役目じゃねえのか……?」
これ以上引き留めるならただではおかないと、戦闘態勢となったことで普段よりはるかに伸びた爪を顔の前に翳し、これ見よがしに擦り合わせるガロンを見て、流石のアロマも冷や汗を流す。
しかしそれでも、彼女はガロンを止めなければならなかった。
「……分かりました。なら、ついていらっしゃい。直接使者と話をさせてあげます」
「……あ?」
踵を返し、すたすたと歩いていくアロマに気勢を削がれた……ほどでなくとも呼吸を外されたガロンは、慌ててその後をついていく。
なにより、それこそ交渉はガロン自身が言ったとおりアロマの領分である。そのような場に自分が連れていかれるなど全く初めての経験であったから、ガロンの頭には疑念と困惑がよぎる。
「……なあ、なんのつもりだよ」
「このまま外に飛び出したらどうなるか、分かりやすく教えてさしあげるつもりですわ」
「……なんなんだよ、なんなんだよこの状況は! なあ、オレは年またいだら直ぐにイスタに向かうつもりだったんだぜ。それがなんだこりゃあ。人間どもがトチ狂ったのか、態々相手してやるってな、お前がトチ狂ってんのか!」
「…………」
「黙んなよ。なあおい、お前、頭大丈夫か? 人間と交渉だと? ここまで舐めた真似してくれた奴らと、何を話そうってんだ。明日の天気か、それとも忘年会の予定でも立てようってか、あ?」
「…………」
「……黙ってちゃ、分かんねえよ! 言えよ! 今、ここで何が起きてる! オレが出たらまずい理由ってのはなんなんだよ!?」
――ガオン、と轟音が廊下の右側から響く。
アロマは、振り返らずともそれがガロンの剛腕によって壁がえぐられた音だと察する。
「……ガロンさん」
「あんだよ」
「貴女の言うとおりですわ。これは……この状況は、私の無能が招いたこと。貴女の言葉で言うなら、私はトチ狂っていたんでしょうね」
「……は、あ?」
ごめんなさい、と言うアロマに、思わずガロンは怒りを忘れて放心した。
……自分の知る限り、アロマ・サジェスタが謝ることなどそうそうなかった。
戯れに、あるいはこちらを揶揄して言うことはあれど、このように無感情に、笑顔も羞恥も表せぬほどに切羽詰まった様子でそのような言葉を口にするなど、想像もつかないことであった。
なんとなれば魔王クリステラにすら過酷な折檻を振るうことを厭わない女に、このような態度を取らせるほどの事態とは一体何であろうか。
……アロマは、いったいどれほどの手落ちをしてしまったのか。
彼女の事務上の手腕は、自分では理解できない分野故に嫉妬交じりの悪罵をぶつけることは多々あったが……口には出さないまでも、ある種の尊敬の念を持っていたのだ。
アロマの謝罪は、だからこそ、とてつもなく重くガロンの耳に響く。
この女が、こんな姿を自分に晒す。
……それは、とてつもなく危険な……それこそ想像がつかないような状況に陥っている証左ではないだろうか。
「ここよ」
そうして、アロマは、城の一室へガロンを導いた。
彼女の表情からは、もうガロンには何も読み取れない。
……言われたとおり、ガロンはアロマが導いた部屋の中へ、足を進めた。