クリステラ・ヴァーラ・デトラ2
城の人たちをこっそりやり過ごして、禁断の森にやって来た。
見渡す限りの鬱蒼とした木、木、木。
時刻はお昼過ぎ。だけどお日様の光を遮る葉っぱの所為で、夕暮れと勘違いしそうなほど辺りは薄暗い。
もう春を過ぎて夏に差し掛かる季節なのに、ひんやりとした空気が肌をなぞる。
寒暖は……魔力による保護であまり感じたことがないけれど、澄み切った空気を吸い込むたびに、胸元に入ってくる涼しさが心地よい。
「なんだ、思ったよりいいところじゃんね」
移動手段がないなら別だけど、ここは自分なんかには魔術で加速すればひとっとびの距離にある。疲れた時のリフレッシュには最適じゃないか。
ぷうん、と蚊が飛んできたりもするけど、ミントを体にすりつけているから、刺されることもない。魔力を忌避剤代わりに使用することも出来るけど、なんでもかんでも魔術で片付けるというのは空しい。お師匠様はそんな意見に反対らしいけど。
ただ、この生活の知恵はマーちんに教わったことだし、せっかくなので活用している。
ミントの香りも好きだし。食べるのは……スースーして苦手だけど。
「よっし、探検探検。悪い奴がいたらとっちめてやらないとね」
こんな良い所なのに、『禁断の森』なんて呼ばれるのもなんか可哀想だ。
この土地を皆が使えるようになれば、もっと沢山作物が手に入るかもしれないし。
インディラからの輸入品は高いらしいし、自分は食べることが出来ているけど……貧乏な人たちのお口に入らないのは、気の毒だから。
これだけ木が生えているんなら、木材にも使えそう。それに、土にも栄養がありそうだ。
放っておく手はないだろう。お父様の怠慢ではないかしら。
いいや、この土地に手を出せない理由があるのだとしたら……?
「となると、やっぱりいるのかしら。怖い奴が」
そうならば、自分の十八番だ。
この間、お父様の親衛隊長のガストロおじ様と腕相撲したら勝ったし。
「は、はは、強いな姫さんは」
なんて強がってたけど、凄い悔しがってたから手を抜いたわけではないだろう。
力自慢のガストロおじ様より、私は力が強いのだ。
おじ様も力こそが全て、がっはっは、なんて普段言ってるもん。どんな奴が出てきたって、あたしのチョップでこらしめてやる。
んむ。
やっぱりここは私達のものにしたいな。人間の手も入っていないなら、喧嘩もせずに済むだろう。豊かな土、資源、気持ちのいい風。
それに、キャンプするのに丁度いい広場なんかがあれば、最高じゃないか。
「あら、あそこ……」
そんなことを思っていると、都合のいいことに、綺麗に円形にひらけたスペースを見つけた。
随分奥の方に入ってきちゃったから、一旦城に戻ってしまったらもう見付けられないかもしれない。
この場所を見つけたのは、一期一会の機会かも。
どれ、せっかくだからちゃんと見ておこう、そう思ってそちらに足を向けてみると……。
誰かの話し声が聞こえてきた。
まさか誰かいるだなんて、と思わず近くの木に身を隠しながら耳をそばだててみる。
「……こんにちは。また会ったね」
――あなたが勝手に来たんでしょう。白々しいわ、放っておいて頂戴――
……そんな、男の子の声と、……良く分からない何か。
(こんな所に、男の子?)
翼を手で押さえて、向こうから見えないようにしながらそっと顔を出す。
広場の真ん中にいたのは、男の子……男の子?
(あれ……獣人? でも、頭の上に耳がない。尻尾もないよ……?)
自分のような翼も、鱗も、角もない。
城にいる人たちと違って、そういった種族の個性を表すしるしがない。
そういうことって、あるのかな?
……ああ、もしかして。
(人間? もしかしてあの子、人間なの?)
もしそうだとしたら、人間なんて初めて見る。
師匠のエヴァ様が言うとおりだ。本当になんにもついてない。
「冷たいなあ。こないだ会ったときはあんなに可愛かったのに」
――あ、あれは……あれは、久しぶりに人間に会ったから、つい――
「いい大人がぴーぴー泣いちゃってさ。僕、大人の人が泣くとこって初めて見たさ」
――あれは、忘れて……忘れなさい。ほら、もうお帰り。そして二度と来てはいけないわ。村の人に教わっているでしょう、ここに来てはいけないって――
「へーん、決まり事なんて破るためにあるんだもんね」
――……よく言う。知っているのよ、貴方だって、この間はえんえんと泣いていたじゃないの――
「あ、あれは違うよ……。心の汗だよう……」
―――何それ。最近の人間はそんな言い回しをするものなの――?
腕をぶんぶん振り回して、何か必死に言い募っている人間の男の子。多分私とそう変わらないか、ちょっと上くらいの年齢だろう。
……慌てているようなその姿は、私達の年頃としては自然なものであったが、一つだけ気になることがあった。
(あの子、一体誰と会話してるの……?)
そう、さっきから変なのは、そこだ。
男の子の様子からは、目の前の誰かと話している様子だった。
けれど、その相手と言うのは一体誰だろう……?
いない。
誰もいない。
少年の目の前には、誰もいない、筈だ。
だけど……。
(……いないよね、なら、誰と……?)
いいや。
おかしい、聞こえた。会話の内容は、理解できた。
少年は、誰かをからかい、誰かにからかわれている。それを自分は聞いた。
だけどそれは、声? 本当? それを自分はちゃんと聞いた?
(違う! 喋っているのは、絶対にあの子だけ。なのに……!)
聞こえていない。
聞こえていないのに、理解した。
あの男の子以外、誰も声を出していないのに、あたしは会話の内容を理解している。
理解している。これは異常なことだ。だって、いままでこんな現象見たことない。
いくらあたしが物知らずだって、これがおかしいってことくらいは分かる。
いったい誰。
あそこにいるのは、男の子と会話……会話といっていいなら、それをしているのは。
……誰?
――盗み聞きは良くないわ。覗き見も。ねえ、お姫様――
――!!
「あれ、ねえ。一体どうしたの?」
そんな男の子のとぼけた声が聞こえた。
声。これは聞こえる。耳を、鼓膜っていうんだっけ、それを震わせているのが分かる。
でも、違う。女? この、この声は……いや、声じゃない。音じゃない。
じゃあ、一体何? あたしは今、何? 何がどうなってるの? 何が起きてるの……?
思わず一歩後ずさりする。木に添えていた手が離れるくらいに、そっと、そっと距離を取ろうとした。
けれど、出来ない。
がっしりと何かに手を掴まれている。
困惑している男の子の方から、視線を手元に戻す。
するとそこには、蛇。
木の洞から、ぞろりと蛇が這いだしてきて、あたしの両腕に絡みついていた。
「――っひぃ!」
思わず魔力で吹き飛ばそうと、力を込めた。
あんまりにもびっくりしたから、加減なんかしていない。下手したら辺りが吹き飛ぶほどの力を込めた筈なのに――!
(な、なんで!?)
何も起こらない。それどころか、蛇を振り払おうと腕を思いっきり薙いだつもりだったのに、びくともしていない。
――お転婆ね。あなた、卑しくも王族の系譜でしょう。まあ、所詮はサリアの玩具……その王様の子孫でしかないけれど――
「や、やだっ! やめて! 離してえっ!」
ぐいぐいと引っ張っても、動く気配が全くしない。
嘘だこんなの、あたしの力は、誰よりも強いって皆が言ってたのに……!
――ねえ、いいかしら……なあ、邪魔をするなよ、下等生物の分際で――
――私の邪魔をするな……ようやく手に入りそうなのに、邪魔をするな――
――人間との語らいを、邪魔するな――
――あの子は、私のものにするんだ。私の、私だけの――
――……一体、何百、何千年……どれだけ待ったと思っている……――
――……邪魔するな――
――邪魔するな――
――邪魔を、するな――!
(やめて、やめて、やめてやめてやめてッ!!)
声じゃない、これは意思だ。
意思そのものが、あたしの頭に直接語り掛けてきている。
いいや、叩き付けてくる。あっちにいけ、来るな、寄るな、邪魔するなって。
「やめて、離して!」
分かったから!
邪魔なんかしないから!
あたしの手を掴んでいるのはそっちでしょ!? 離して!
もうやだ、なんでこんなことするのよ!
「やめてよぉ!」
そう言って、必死に、木に片足をかけて、仰け反って腕を引き抜こうとしたとき。
……天を、仰いだとき。
――見えた。
蛇。
見えちゃいけないものが見えた。あちこちに蛇。
見てしまった。上下左右に、蛇。
見えなかった。けれど後ろにも、きっと蛇。
これは、絶対に、目にしてはいけないものだろうに。
知りたくないのに、それが何かを否が応にも理解させられる。
それがなにをあらわすものか。
全てだ。
単一の。
――空から。足に絡む。多数の。
硬い。柔らかくて、鳥肌の立つような。
肌触りが、おぞましくておぞましくてひんやり。
目から後頭部に巻き付く蛇。目隠し、それなのに視界は明るくて暗くて何かが見える。
――乳房を這う。血は乳へ。栄養、簒奪、母から子へ。
生命の通貨の移譲。
――膣。子を排泄する。
卵か否か。
割られるために卵は産まれる。
――可愛い子ども達。
愛らしかったのに。
沢山いたのに、皆死んだ。
(こっちを見ている。たくさんの目が、蛇が、こっちをじっと感情のない……いいや、憎悪に塗れた目で。あたしのことを、じっと睨んでる……!)
鱗塗れ。粘液が垂れてくる。
赤、青、黄、緑、白、黒、紫、橙。色彩が消えていく。その概念すら。
重いのが体にのしかかってくる。地面が重さを忘れて、蛇になる。
這い上がる。足元は蛇、ホールズは蛇。
――点と線が蛇。天の顛が地、血、その重さも蛇。
時間も空間も蛇。意志と表象、それも蛇。
――笑顔、口端が描く線。それも蛇。
――怒り。嫉妬。感情も蛇とする。
ぐるぐる尻尾を噛んで回る。始まりは牙、お終いはどこか遠くに。
サリアへの、カイネへの恨み。
ぐるぐると、愚行の円環が回り続ける。
そしてそれは円。円心。中心にあるのは、形なきもの。愛と呼ばれる何か。
――心理。真理。暗い暗い世界の真実。
――これは、この蛇が持つ記憶。そして、蛇の中身。
――こんなおぞましい物に世界は支えられていた。
――こんなにも世界は曖昧で、その中でもちっぽけなのがあたし。
そうだ、いつ でも
あたしは死ぬ。
死ぬんだ。何も
……分からず、 何も為せないまま。
誰にもかえ
りみられる ことも無し
に。
無惨に。
――あたしは、世界で一番強いんだって。
みんな、みんな言ってたのに……。
こんな化け物に。あるいは全て世界に。何もかも奪われて。
恐怖。今まであたしが、知らなかったもの。
蛇蛇蛇、全てがあたしの体を這いずって、
身動きを取れなくして、
苛み続ける。
蛇が……邪魔だ、死ね、いなくなれと呪ってくる。
怖い声で、脅かしてくるよぅ……。
――誰がお前らを創ってやったと思っている、消えろ――!
「……ぁ、ぁ」
言葉が出てこない。
股間の辺りが、
湿っていることすら気になら
ない。
落ちる。
落ちる。
落ちてゆく。
だって見てしま
った。
生と
死の裏側。あたしの
知らない誰かの
世界。
足
無き 蛇
その足跡
理解できな
いも の
を見 て
し
ま
った
か
ら