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午後の海の上で

ただ夕陽を見るためだけにヨットを出すこともある。

オークランドという街の良いところは目の前が美しい海であることで、最もおおきなマリーナは東京でいえば銀座のような場所にあるが、家からもクルマで10分くらいのところで、未だに小さい人達を育てるために住んだオークランドから本拠地を移せない原因になっている。

書斎から外を眺めていて、日射しに日暮れの色がつき始めて、雲がジッと青空に佇むように動かないでいる。
樹の枝を見て、そよぐ程度でも風があればヨットを置いてあるマリーナへ、まったく風がなければ、ディスプレスメントという、ゆっくり進むのに最適化されたボートが置いてあるマリーナへ直行します。

オークランドは海が主人である不思議な街で、しばらく住んでいると誰でも、この人口が150万人というコンパクトな街が、実は海の観点から出来ていて、いわばハウラキガルフという直径100キロほどの島と海に半周を囲まれた内海の、いわばアネックスであることが判ってくる。

そこがおなじ海辺の町でも、広大な農場地帯の方角を向いて街の性格が出来ているクライストチャーチとの違いで、こちらはリトルトンという港は補給基地で、あくまで内陸へ顔を向けている街の住人たちに、さまざまな物資を送り続けるためにあって、実際、クライストチャーチの友人たちは、ボートで遊ぶにも6〜8mのトレーラーボートを引いて、テカポの周りにある小さな湖の畔にある別荘に出かけて鱒釣りをしたりする人が多いようです。

9ノットで一時間も行けばタカプナの街の沖合に出て、冷蔵庫からビールを出して、「キンキンに冷えた」ビールを飲みながら、ひとつはアパート、もうひとつは長期滞在用ホテルの、二棟だけある高層建築の傍らに沈む夕陽を見て、満足する。

なにが満足なのか、考えて見ると、さっぱり判らないが、ニュージーランド特有の、地平線近くまで透んだ大気を突き抜けるような、強烈なオレンジ色の夕陽の光を浴びて、ビールが飲めればそれで満足なので、最近はすっかりアルコールも飽きてしまって、マヌケなことに一日の大半が素面だが、それでも、この海の上での一杯のビールには、なかなか飽きが来ないようです。

この海は魚が多い海で、マリーナから出た途端に、鰺なら、サビキで4匹も5匹もいちどきに釣れる、真鯛も釣れて、毎年ルールが厳しくなって、いまはたしか27cm以上ないと釣れても海に戻さねばならないが、それでもポイントを知っていれば、「いくらでも」と形容したくなるほど釣れます。

アオリイカ、カレイ、少し遠くに出ればヒラマサが釣れて、泊まりがけになってしまうが、
ハウラキガルフの外縁まで行けば、サバもカツオも、面白いように釣れる。

理由は、むかしから魚を食べるための知識があるアジア系の人達は、なぜかボートやヨットに乗らないからで、一度、フェラーリやポルシェやランボルギーニのような値札にゼロが多いクルマばかり、12台ほどもいつも持っている中国系人の友達に、話の弾みで、ボートを買って遊ぶのは楽しいよ、買えば、クラブに紹介しますよ、ほら、きみ、某氏に会いたいと前に言っていたでしょう、別に紹介しなくても、クラブに入れば、彼は毎週末クラブのバーで会えますよ、と述べてみたが、「あんなに時間とカネがかかるものは嫌だ、なんであんなつまらないものにフェラーリを何台も買えるようなオカネをかけるのか理解できない」という。

いやいや、そんなことはないよ、オカネをかけなくたって、良い船は買える、現に、普通のサラリーマンだって、この国ではヨットやボートで遊ぶでしょう、と言ってはみたが、
頭から愚か者扱いで、当然、目の前に立っている人も愚か者と思っているのが歴然としているのだが、わしがパーな人で、むかしはヤング・パーだったのが、ついにはオールド・パーになりかけているのは公然の秘密なので、特に失礼と感じることもない。

「バケツに穴が開いたようにオカネが出ていく」ボートのイメージが嫌いなもののようでした。

而(しこう)して、ヨット/ボート人口の圧倒的多数を占める、というか、全員バカタレ白人なんじゃないの?と噂される欧州系人たちのほうは、スポーツフィッシングなどと述べて、
わざわざ魚に痛い思いをさせて、目の下5尺のヒラマサを吊し上げて満面の笑みで写真に収まって、衰弱してヘロヘロの魚を海に返す。

鯛だけは、フィッシュアンドチップスの材料として人気があるのと、最近では「シーフード料理」という知恵が付いて、わざわざ魚を不味くしたようなムニエルだのアクアパッツアだのを作って食べるので、フィレにして、持って帰る。

これを書いている人も、むかしは嬉々として釣りを楽しんで、日本に五年十一回の、「十全ガイジン厭世計画」を実行したあとは、知恵がついて、鰺の押し鮨や鯛茶漬け、カツオのたたきと、割烹料理店を開きそうな勢いだったが、いつものこと、飽きて、
なんだか最近はボートの天井に麗々しく並んだシマノの釣り竿には蜘蛛の巣が出来ていて、
船尾のコックピットの安楽椅子に腰掛けて、ぼんやり夕陽が沈むのを見ている。

若年性痴呆症というものが世の中にはあって、傍目には気の毒にも中年なのにボケ老人に変わり果てたおっちゃんに見えなくもないが、頭のなかは案外忙しく動いていて、予想されたこととはいえ、アメリカ人たちも、あの一期目の「やっと終わった地獄」を憶えていそうなものなのに、二期目のトランプなんて選んじゃって、今度は流石の低知能老人も、悪党らしく悪事を進める知恵だけはあって、予め自分が始めたい戦争を止め立てしそうな良心や公共心がある官僚や軍人を全部クビにして好き放題やるつもりなんだな、とか、こういう状況ではハゲチャビンのラクソンにも一期だけで辞めてもらって、不人気でもなんでもクリスどんにやってもらわないとバランス上やばいだろう、とKは述べていたが、そのとおりかも、
習近平なんて人は、悪相になったウイニー・ザ・プーのような顔をして、あれでなかなか「カネの亡者」の扱いは得意なので、戦争という観点からはトランプの抑止力になるのではないか、というようなことから始まって、今年はブドウとメロンがめっちゃうまい、毎日欠かさないように家の人にお願いしなくっちゃ、欧州にもっと行かねばならないが、遠いからやだなあ、
でも、こう用事が溜まりまくっては、到着するなり、いきなり座敷牢に入れられて、
二度と南半球に帰れなくなるのではないか

さまざまな哲学的思惟が去来して、行き交って、さっきから釣った魚を捌くためのテーブルに飛来した、妙にでっっかいカモメが、至近距離なのに怖がりもせず、ジッとこっちを見ているが、
年寄りなのかな、このカモメ、
カモメといえば浅川マキで、日本もずっと行ってないな、
14年になるのか!
いや、ヨーロッパの帰り道に東京と京都にちょっとだけ寄ったことがあったな、
随分ひとが多くて、モニが、二度と嫌だと、うんざりしていた。

日本は、後半はやや「だれ気味」になるくらい十分に滞在したので、次に行くとしても死んでから後くらいになるだろうが、COVIDパンデミックが終わったら出かけようと思っていたポルトガル+南スペイン+モロッコやブエノスアイレス、北欧と中欧も、なんだか行くのがめんどくさくなってしまった。

いろいろ内心の言い訳はあるが、要するに年を取ってしまったので、のおんびり世界一周を繰り返しながら、あの街に3ヶ月、この街に4ヶ月とモニとふたりで暮らしてまわったノーマッド時代は、なんのことはない、要するに若かったから、自然にやりたいと思えただけで、
老化といえば老化で、
なかろうかで
外廊下で、

ラチャマンカホテルの明スタイルの建築があまりにかっこよかったので中国式に中庭のある廻廊式の家を作ろうと考えたことがあったが、そういうことも考えなくなって、
どうやら、人間は歳をとると保守的になるという説は、実際には知性の衰弱で、しかも、恐ろしいことに、ほんとうであるようです。、

最近、モニさんのニッコリ笑いながらの指摘で気が付いたが、言われてみれば、かつての黄金時代はラーメンだったりした朝食が、ほぼ判で捺したようなイングリッシュフルブレックファーストになって、
ベーコン、ソーセージ、ポーチドエッグ、マッチュルーム、ハッシュブラウン、
なんのことはない自分が子供の頃の、あるいは観点を変えれば、自分の祖父とおなじ朝食メニューになっている。

子供のときというのは、自分がやっていることが判らないもので、普段は優等生のミス・(高校名)の誉れが高い、友人の、高校生の娘を迎えに行ったら、助手席から手が太腿に伸びてきて、
払いのけたら、股間にまで伸びてきて、クルマを駐めて、柄にもない盛大なお説教を垂れたことがあったが、そのときに内心でショックだったのは、17歳の女の子は、むかしは「若い女の人」と意識されていたのに、いまや完全に「子供」で、もともと人間がまともな子供らしく、ちゃんと自分の失敗の重みを理解したらしい娘っ子の後姿を見ながら、やれやれ、ついにおれも年寄りだぞ、と考えたりした。

当たり前すぎて、ものも言えないが、自分も年を取るので、せめて、このへんで自覚的に41歳の誕生日を迎えなければなるまい、などとおもう。
口調としては伊賀忍者の首領百地三太夫とか、そういう「頼もしいボスのおっちゃん」の口調です。
あの忍者の鎖帷子は、やっぱり中世騎士の鎖帷子より軽く出来ていたのだろうか、
重い鎧といえば藤甲軍は諸葛亮孔明の詭計で油をぶっかけられて、燃やされて、乾いた藤のつるは燃えやすいのであえなく全軍炎に包まれて、全滅した、と、藤甲を防具に採用した蛮族の浅知恵を強調する形で書かれているが、十字軍を迎えたサラディンも城壁の上から油をぶっかけて、それまでどうしても勝てなかったソーズマンの軍勢を焼き殺して勝利したので、
そしたら藤甲でなくても同じやんね、とおもうが、そんなことを言っていると、暗くなってから帰港することになって、必死になって海面を凝視しないとカヤックを撥ねることになって、くたびれるので、そろそろ家に帰ろう。

人間に否応なく迫ってくる現実の筆頭は、年を取ることで、どうやってもリヴァーシブルにはならなくて、しかも、その先には、衰えて病んだ肉体と、死が待っている理不尽は、子供のころから、なんど考えても納得がいかない不公平であるとおもう。

神の、あの日本語ネット言葉でいう「上から目線」は、つまり人間の有限性を知っている永遠の視線で、同じものを、太古から人間は夕陽に見ているのでしょう。

意識が少しづつ稀薄になって、それにつれて、加速がついて速くなる時間を思えば、80歳まで生きるとしても、十代のときの感覚の5年もなさそうです。

なにしろこちらは人間なので物理的時間などはどうでもよくて、意識の流れの時間にだけ意味がある。

ね。
どうしようね。

もうすぐ2024年も終わってしまう。
あと、自分の一生にちょっぴり残っている時間で、なにが出来るだろう。


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