磐船神社
河内国交野郡
大阪府交野市私市9-19-1
(P有)
■祭神
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
「淀川」支流の「天野川」の溪谷、数多の巨石に覆われ、またそれらが成す岩窟を信仰の対象とする社。
◎御神体は高さ、幅ともに12mもの「天の磐船」と称される船形の巨石。饒速日命がこの磐船に乗り、天から降臨したと伝承されます。
◎紀には以下のように記されます。
━━神日本磐余彦命(神武天皇)は詔した。塩土老翁曰く「(中略) 東に美し国がある。青山に四方を囲まれ、その中に天磐船に乗って飛んで降りた者が居る」思うに、その土地は必ずこの大きな事業を広め、天下に威光を輝かせるに相応しい場所であり、六合の中心となるだろう。その飛び降りた者とは饒速日であろう。その土地へと行って都にしよう」━━(大意)
◎また「先代旧事本紀」天神本紀には以下のように記されます。
━━高皇産霊命は 子の思兼神 の妹萬幡豊秋津師姫栲幡千千姫命を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 を生んだ。このとき正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が、天照太神に奏して申しあげた。「私がまさに天降ろうと思い、準備をしている間に生まれた子がいます。これを天降らすべきです」と。天照太神はこれを許した。天神の御祖神は詔して天孫の璽 である「瑞宝十種」を授けた。瀛都鏡 一つ、辺都鏡 一つ、八握 剣一つ…(以下略) 高皇産霊尊が言った。「もし葦原中国の敵で神を防いで待ち受け、戦うものがいるならばよく方策を立て、計略をもうけ平定せよ」そして三十二人に命じてみな防御の人として天降し仕えさせた。天香語山命 尾張連等の祖、天鈿売命 猿女君等の祖…(以下略) 饒速日尊は天神の御祖神の命令で天磐船に乗り、河内国「河上哮峯(いかるがみね)」に天降った。さらに大倭国の鳥見の白庭山に遷った。天磐船に乗り大虚空を翔めぐり、この地を巡り見て天降った。即ち「虚空見つ日本国(やまとのくに)」というのはこのことである━━(大意)
◎創建年代は不詳。おそらくは肩野物部氏が奉斎した社とされます。「新撰姓氏録」には「左京 神別 天神 物部肩野連 伊香賀色乎命之後也」とある氏族。別項で伊香賀色乎命は神饒速日命5世孫とあります。
◎饒速日命を始祖とする物部氏は、筑紫の「遠賀川」に端を発し、出雲へ移遷後に伯耆、因幡、但馬、丹後、丹波を経て河内国「河上哮ヶ峯」に至ったものと思われます。これは物部氏系の神社がこれらの地域に連続していることから。
◎同じく交野郡(かたののこほり)には天田神社や星田神社、若宮神社(交野市私市)等が、肩野物部氏が奉斎した社として知られます。また隣の枚方市には伊香賀色乎命の痕跡が多く残っており、広範囲に渡り住み着いていたことが窺えます。
◎肩野物部氏は早くから北河内へ進出したと思われますが、茨田郡(まうたのこほり、まんだのこほり)のうちの現在の枚方市辺りが最初の進出地ではないかと考えます。かつての「河内湖」へ注ぐ「淀川」河口の地。伊香賀色乎(伊香色雄)の邸宅跡が意賀美神社の旧社地であると伝わります。これが4世紀。物部麁鹿火が継体天皇擁立に尽力し仕えましたが、継体天皇は隣接する「樟葉」に宮を営みました。これが6世紀初頭のこと。
その後「淀川」を遡り、支流「天野川」が流れる交野郡へと移ったものとみています。そして饒速日命の河内国「河上哮ヶ峯」への降臨伝承が創作されたものと考えます。当社創建はその頃ではないかと。
◎6世紀末頃に敏達天皇は皇后である豊御食炊屋姫尊のために、皇后領として全国の稲作良田を求めます。その中には当時美田とされていた交野郡「天田」が含まれています(参照→天田神社)。 これは蘇我馬子と物部守屋の間に勢力争いが起こり、豊御食炊屋姫尊を推す馬子に対して、「天田」を皇后領として守屋は差し出しました。そして皇后のために農耕を行う部民となり。「私部(きさひべ)」と称される集落となりました。 これにより肩野物部氏は勢力を落とすことになります。
さらに用明天皇二年(587年)の「丁未の乱」により、物部守屋が蘇我馬子に敗れ、以降は物部氏が急速に凋落。河内国内の物部氏の所領は剥奪され、交野郡に根を張った肩野物部氏は終焉を迎えました。
◎以降は当社も衰微。当社を総社としていた四村(私市・星田・田原・南田原)の人々により、饒速日命から住吉神へと主祭神を変えつつ、ひっそりと現在に至るまで奉斎を続けられています。それが若宮神社(交野市私市)、星田神社、河内国讃良郡(四條畷市上田原)の住吉神社、大和国添下郡(奈良県生駒市南田原)の住吉神社(お松の宮)。
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