鳴り響く夏虫の合唱。
蒼天を純白の雲が流れ、燦燦と降り注ぐ日差しが世界を輝かせる。
平穏とは斯くも尊い。
そう思わせる夏の空──その下には、死が立ち込めていた。
噎せ返るような血と硝煙、そして人肉の焼ける臭い。
焼け焦げた瓦礫の下から漏れ出し、世界を汚染する。
『モーガン』
そんな地獄を前に立ち竦む少女を、親友が呼ぶ。
夏風が死臭を運び、両者の間を吹き抜けていく。
『……まだブリーフィングまで時間はあったと思いますが』
モーガンは振り向かない。
立入禁止のテープから先に広がる
しかし、その節々には揺らぎがあった。
『逆に聞くが、この炎天下で何をする気だ』
親友の隣まで早足で歩み寄り、アルミ製の水筒を突き出すクレア。
野戦帽の下から覗く黒い瞳には、険しい色が浮かぶ。
瓦礫の山を前にして、ウィッチができることは何もないのだ。
『それは……』
並び立ったクレアに返す言葉はない。
足元に視線を落とすモーガンは野戦帽を取り、胸元に抱く。
自身の行動が無意味と理解している──それでも動けない。
眼前の惨状は、見慣れたものだ。
本国で幾度と目の当たりにしてきた地獄の焼き直しに過ぎない。
しかし、今は
『どうして、彼らだったんでしょう……』
モーガンは頬を伝う汗を拭うことなく、ただ野戦帽を強く握り締める。
今も瓦礫の下に埋もれている遺体は、民間人──本国へ帰還するはずだった避難民たちだ。
彼らの夢と希望に満ちた未来は、永遠に閉ざされた。
インクブスを信奉する異常者の手によって。
『あと少しで、帰れたのに……』
故郷の土を踏めるはずだった232名は、未収容のまま放置されている。
インクブスの生物兵器による汚染が収容作業を阻んでいるのだ。
無害化が確認されるまで立入禁止のテープを越えることは許されない。
『どうして…!』
静かな怒りが大気に満ちていく。
どれだけ世界の理不尽を呪おうと現実は変わらない。
しかし、呪わずにはいられなかった。
『……どうして、か』
答えはない。
クレアは水筒を下ろし、破壊された住宅地区を見渡す。
生物兵器と
その一翼を担ったウィッチは、瓦礫の隙間から覗くテディベアを捉える。
自身の放ったマジックが焼き払ったもの──無益な思考を凍結する。
必要な犠牲であったと言い聞かせ、クレアは深く息を吸う。
『モーガン──いや、リーダー』
そして、避難民救出に尽力した
責任感の強い親友を軍人として再起動させる。
犠牲者を悼むのは、為すべきことを為してからだ。
『分かって、います……』
モーガンは感情を理性で抑え込み、言葉を絞り出す。
足を止めている暇などない。
ウィッチナンバー3の力を分け与えられたところで、無才の少女たちは
亡霊は足跡を刻み続けなければ、何も残すことはできないのだ。
『私たちは戦うことでしか……』
野戦帽を深く被り、外界からの情報を断つ。
犠牲者の存在を胸に刻み付け、厳重に蓋をする。
溢れ出さないように。
『すみません、クレア』
再び開かれた碧眼は、隣に佇む戦友だけを映す。
軟弱な少女を切り捨てた軍人の目──
『いや……大丈夫だ』
その眼差しを正面から受け止め、クレアは静かに頷く。
『感傷に浸っている場合では、ありませんでした』
使命感で心を麻痺させ、感情の発露を抑え込む。
地獄としか形容できない戦場を生き延びるため、少女たちが身に着けた一種の技術。
それでも責任感が強いモーガンの良心は、時に悲鳴を上げる。
黒い瞳を過る後悔──それは一瞬のこと。
感情を削ぎ落したクレアは、女房役としてリーダーを見る。
『行きましょう』
踵を返すモーガンの足取りに迷いはなかった。
夏空の下、死臭を纏った2人は住宅地区を後にする。
『これ以上の犠牲を増やさないためにも』
陽炎揺らめくアスファルトを軍靴が強かに打つ。
シルバーロータスの齎した平穏を乱す者に鉄槌を下さなければならない。
『カイル・イーガン……絶対に逃しません』
碧い瞳に宿る敵意の矛先は、ただ一人へ向けられていた。
シルバーロータスの
インクブスの走狗となり、横田基地に甚大な被害を与えた男だ。
◆
赤い絨毯を敷いたホテルの廊下に軽やかな足音が響く。
足音の主は、艶やかな黒髪を靡かせる制服姿の少女。
「そう、お休み」
少女は黒い携帯端末を耳に当て、気安い雰囲気で語りかける。
それは気心の知れた友人と言葉を交えているように見えた。
≪気遣いなら不要です≫
そんな彼女に対する返答は無味乾燥なもの。
続く言葉を予想し、少女の口元に苦笑が浮かぶ。
≪信奉派の残党なら私とレッドクイーンで対処します≫
通話越しであっても、その声からは無機質な敵意を感じ取れた。
出会った頃から敵と決めたモノには、どこまでも冷徹になれる。
それがアズールノヴァこと久遠天峯だった。
「アメリカ軍からの強い要請があったの」
しかし、今回は自重を促さなければならない。
アメリカ太平洋軍は国防軍に協力を要請し、信奉派の残党を追っている。
最大戦力であるゴースト7も投じ、是が非でも捕縛するという意志を見せていた。
おいそれと灰塵にはできないのだ。
≪…手を出すな、と?≫
露骨に不機嫌な声色となる久遠。
予想通りの反応に、少女は赤い絨毯の上に溜息を降らせる。
「件の信奉派が軍関係者だったんでしょうね……知らないけど」
ゆえに推測の体を取りつつ、
それだけで牽制として十分に機能する。
敬慕する相手には盲目となるが、亡き友の妹は聡い。
≪……分かりました≫
短い沈黙の後、久遠は大人しく引き下がった。
一瞬、唸り声を上げる大型犬の姿を幻視するも、少女は沈黙を貫く。
≪
「それでいいわ」
少女の返答を待たず、携帯端末は沈黙する。
廊下に響くのは、気怠げな溜息だけ。
すべては最低限──近況報告や世間話の一つもない。
先輩と慕ってくれた日々は、二度とは戻らぬ遠き過去。
携帯端末をスカートのポケットに入れ、ラーズグリーズは目的地へ足を向けた。
「ご苦労様」
直立不動の守衛へ会釈し、スイートルームのドアを開く。
そこは、高価で快適な檻──大陸最高戦力を収容するための檻だ。
物理的な拘束など意味を成さない。
彼女を縛るのは、人との繋がり。
この無駄に広いスイートルームは形だけの存在だった。
「黒狼」
呼び声に対する返事はない。
部屋の主は
室内を見回し、壁際に備え付けられた机を映す黒い瞳。
「……返事くらいしなさいよ」
そこには机と向かい合う小柄な影があった。
黒い毛並みの尻尾を揺らす異形のウィッチは、懸命に何かを書き込んでいた。
「感動の再会はどうだったかしら?」
人を小馬鹿にしたような声色で語りかけ、足を進める少女。
感動の再会──それは、捕虜となっていた同胞との面会。
黒狼は、先日のフェアリーリング事件の首魁討伐に大きく貢献した。
その功績を受け、国防軍は捕虜との面会を認めたのだ。
「悪くないご褒美……って何してるの、あなた?」
手元を覗き込める距離まで近づいて、ようやく尖った頭上の耳が動く。
「な、なんでもない…!」
慌てて机上を華奢な半身で隠す黒狼。
少女を睨む黄金の瞳には、強い警戒心が浮かぶ。
「別に取り上げたりしないわよ……」
そんな眼差しに半眼で応じ、机の上を盗み見る。
隠された手元にはノートとボールペン、そしてドッグタグの束。
「
それらを視界から締め出し、カーテンの閉じた窓を見遣る少女は問うた。
まるで世間話でもするように。
「楊? 何を言って──」
髪飾りに扮した黒狼のパートナーは、訂正の言葉を最後まで紡げなかった。
問いの意図を理解したからだ。
「健康状態は、悪くなさそうだった」
しかし、黒狼は意図に気付くことなく、問いを
久々の再会を経て、彼女の口は軽くなっていた。
「そう…」
落胆にも似た声が零れ落ちる。
窓際へ歩み寄った少女は、リネンのカーテンを乱雑に開いた。
「隠すのが下手ね、ほんと」
「何のこと…?」
バルコニーから射し込む夕陽に目を細め、問い返す黒狼。
その声には、微かに緊張が滲む。
眼前の戦女神は無意味な問答をしないと思い至ったのだ。
「楊という名前の捕虜はいないわ」
「ラーズグリーズ!」
無慈悲な宣告を遮らんと、黒狼のパートナーは声を張り上げた。
しかし、獣の耳は一言一句聞き逃さなかった。
「そ、そんなはず、ない…」
金色の瞳が徐々に開かれ、瞳孔が細まる。
「忘れてない…!」
「落ち着け、黒狼!」
これまでの諦観とは違う。
制御不能な感情の発露──手負いの獣が見せる虚勢に近い。
苦楽を共にした戦友であり、頼れる大人たち。
親や兄弟姉妹との記憶を失った黒狼が、なお戦い続けることができた心の拠り所。
それが脅かされ、ついに限界を迎えたのだ。
「まだ……まだ覚えてる…!」
細い体を両手で抱き、椅子の上で小さく震える。
異形と化した右手が左腕に食い込み、血が滲む。
本当は理解していたのだろう──ドッグタグでは記憶の維持に不足があると。
ゆえに、新たな記録媒体を求めた。
机に置かれたノートは、喪失の恐怖に抗った
崇高な使命も壮絶な覚悟も、脆弱な心は守れない。
「黒狼」
死神に呼ばれ、萎れていた獣の耳が立つ。
たとえ耳を塞いだとしても、人外となった聴覚は聞き取る──
「そう思うなら、続けなさい」
残酷な現実を。
黒狼は床から視線を上げ、不遜に振舞う少女と相対する。
「忘れる前に」
しなやかな指先が机上のノートを指し示す。
黒狼の状態は、悪化することはあっても良化することはない。
しかし、彼女に平穏を与えることもできない。
ウィッチナンバー2に名を連ねる実力──それはインクブスとの決戦に必要不可欠。
自殺と同義と知りながら、恐怖に抗えと宣う。
「──ラーズグリーズ」
戦女神として名を呼ばれた少女は、口元を微かに歪める。
その機微は夕陽の生み出す影に隠れ、誰の目に触れることもない。
「なにかしら」
苛立ちを飲み込み、黒狼に次の言葉を促した。
あくまで普段通りに。
「頼みたいことが…ある」
窓際に立つ戦女神を見据える黄金の瞳。
恐怖が残留し、不安に揺れている。
それでも意を決して言葉を紡ぐ。
「…シルバーロータスに、感謝を伝える機会が欲しい」
今まで叶わないと諦めてきた願い。
それは、故郷の人々を救ったウィッチとの面会だった。
シルバーロータス──いまだ記憶から消えることなく舞う蝶。
彼女は、ウィッチナンバー2を大陸最高戦力という呪縛から解き放った。
黒狼にとっても救世主である。
「すべてを忘れる前に……」
だからこそ、忘却される前に伝えなければならない。
あどけなさの残る声には、縋るような響きがあった。
「はぁ……」
胸中の淀みを息と共に吐き出し、額を押さえる少女。
夕陽の射すスイートルームに沈黙が満ちる。
黒狼は一言も発さない──戦女神の返答を待つ。
1羽のカラスがバルコニーの手摺に降り立った時、ラーズグリーズは重い口を開く。
「…いいわ」
返答は、了承だった。
叶えられぬ願いと思っていた黒狼は、思わず机上から顔を上げる。
「その願い、叶えてあげる」
射し込む夕陽が2人を照らす。
黄金の瞳に映る少女は、いつものニヒルな笑みを浮かべていなかった。
嘲りでも憐みでもない笑み──戦女神の気まぐれか、死神の策謀か。
手摺に留まる漆黒のカラスは、それを無感動に見届けた。
作者「愛です。愛ですよ、黒狼」
兄者「正体現したね」