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牛舎にて

夏に入ってから酪農のバイトのために北海道にいます。
それで、乳牛を牛舎で管理している牧場でお世話になっているのですが、そこでの経験が衝撃的だった。
あまりに悲惨すぎた。
ひたすら落ち込んだ。
無力感とかなしみで、どうにかなってしまいそうだった。
煩悶の末、この事を誰かに伝わるかたちで保存しておかねければならないとおもった。
私にはカメラとスマホがあった。
だから撮って書いて残します。
誰かしらに伝わるこのかたちで投稿します。

真剣に伝えたいことを、何かしらの方法でで表現することは初の試みです。
伝えたいけれど誰かを批判したいだとか、感化したいといった目的はありません。
より多くの人に読んでもらいたいという願望もありません。
意味や目的が、自分でもよくわかっていないのです。
でも、だれかひとりに、何かが伝わり、何かを考えるきっかけになればいいなとおもいます。
至らぬところ多いと思いますが、飾り気なく等身大に表してみますのでよろしくお願いします。


はじめに、私の雇用者である酪農家さん(以降、牧場主と呼ぶ)について書いていきます。
牧場主はみたところ中高年世代、2つ下の弟とふたりで先祖から受け継いだ莫大な土地と沢山の牛を守っている。
幼いときから牧場の手伝いをしており、生まれてこの方ずっとこの土地。
牛のため、たった半日も家を空けることができない。
12時間おきに乳を搾らねば、牛を乳房炎にさせてしまうからだ。
乳搾りは4時と16時に行われる。一回の搾乳は3人で作業しておおよそ4時間。
一日の搾乳に要する時間は8時間。
勿論、仕事は搾乳だけではない。
彼らは炎天下牧草を育て、機械を整備し、牛に飼料をやり、1日中働いている。3時から21時まで食事以外はぶっ通しで働いていた日もあった。
朝と夜の搾乳は一回も欠かせない。
そして乳は年がら年中出続ける。
だから休日は存在しない。
家を空けるためのヘルパーサービスもあるらしいが、私的には使ってられないという。ヘルパーをしている人は少なく、費用も馬鹿にならない額だ。
彼らの住む一軒家には身体を悪くした母親が、いつもラジオを聴いている。
家は決して大きくなく、ごく普通。
家具も装飾品も一般的、牧場の功績を称えたトロフィーが異様に存在感を放っている。
食事でも決して贅沢をしているわけではない。スーパーの弁当か、即席麺を食べている。夜遅く朝早い。作っていては睡眠が足りなくなってしまうのだろう。
最寄りのスーパーもすごく遠い。
忙しい日は行けやしない。

牧場の維持管理をし、生活するには収入が少なすぎるとのこと。働いても働いても裕福になれそうにないという。あらゆるものに鞭打って、そうしてあつめた牛乳が本当に安く買われてゆく。従来の量を捌ける新しい取引先など見つからない。現状はそう容易に変えれない。重い重い車輪は転がり続ける。
自然を相手にしている以上、想定外の事態が起こる。昨年は猛暑により牛が死んだそう。感染病で牛が全滅するかもしれない。数千万円する機械も突然故障する。いきなり取引先が買ってくれなくなるかもしれない。あらゆる仕事の責任が生命活動に直結しているのだ。
私は彼らに、労働と生命活動が限りなく近い存在がもつ特有のかなしみを感じた。
私のこの労働には終りがある。
兄弟の労働に終わりはない。
終わる時は土にかえるとき。
果てなきかなしみを胸に抱き、それでも笑い大地とたたかう農家様。
この美しい大地に繋ぎ止められ、死ぬまで労働し続ける兄弟は、素朴に、嘘偽りなくなく、本当に生きている存在なんだとおもう。孤独と安らぎと、絶望と希望と、美しさと残酷さの混じった、気の遠くなるようなかなしみの片鱗を感じた。

長々と、牧場主について書きました。
牛舎のことより先に、牧場主の境遇を知ってほしかった。
牛舎の中は、何かを恨み糾弾したくなるほどに残酷だ。牧場主は牛に対してとても冷酷だ。
それで牧場主が、残酷さの根源であるとして悪者になってしまうのが嫌だった。
第三者がうわべだけの社会的、道徳的な正しさを振りかざす。何も知らず、知ろうともせず、知らないことすら知らず、想像力を欠いて、理想だけで悪を叩く。己を棚に上げた狡賢い存在により、牧場主が叩き台になるのはたまらなく嫌だ。
だからはじめに書いた。
彼らの境遇を知れば、冷酷であることに肯定も否定もできなくなると思った。


それと牧場主を否定できなくすることで、読者様に煩悶してほしかった。
食い食われ、殺し殺され、そうして生々流転している。
そこにはあらゆる感情が渦巻いている。
その尊い生命の流れを善悪で片付けることは人の傲慢だとおもう。だから牛舎での事を、善も悪もしょっぴいたうえで感じてほしい。



では、牛舎について書いていきます。
正しさや読みやすさよりも、感情が伝染することを優先できたらなと思います。
なので日記から文を抜粋し、組み替えたり肉付けして書いていきます。
血の写った写真も載せますので苦手な方にはごめんなさい。また、特定を防ぐため牛の個体識別タグは加工で見えなくしています。

首は鎖で、尻尾は紐で繋がれる。ベルトが脚を開くことを許さない。大きな身体に釣り合わぬ、小さな小さな空間。たったの畳2条ほど。蒸しかえるように暑い。床は硬い。糞と尿と乳が混じり合ったものが撒き散らされてた。
こんな拘束具まみれの中、十年ほど搾られ続ける。想像もできん。

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牛舎の様子
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鎖と牛1 
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鎖と牛2
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鎖と牛3
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鎖と牛4
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鎖と牛5
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繋がれた尻尾1
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繋がれた尻尾2

牛は傷だらけ。糞尿にまみれてる。気が動転しそうだった。生々しい傷。脚と乳房の間に20センチほどの傷。とても深い。赤黒い肉塊が飛び出ている。乳と糞便と、膿の匂い混じる。乳の水たまりに血がポタポタと、不気味な渦模様。不健康な匂い。硬い床のせいか、関節がおかしい。肉がむき出している。赤黒い。血が固まった跡か。それで座るもんだから痛い。絶対痛い。重い身体がのしかかる。見るに忍びない傷の数々。病気にならないのだろうか。

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糞便の上に座る牛
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汚れた身体
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傷と汚れと関節

牛が繋がれてるスペースがあり、糞便を流す溝があり、その後ろに子牛がいる。子牛も繋がれている。母の乳を吸う感覚を求めている。台車にバケツにチューブに手に、あらゆる突起物を狂ったように舐めに来る。他の子牛のお腹を舐める子もいる(乳を吸う欲求を満たすために、他の子牛のへそを吸っている)。母の乳を求め、半径1メートルを彷徨い続ける。ゴム手袋ごしに感じる子牛の口内。熱と舌と歯と。指を乳代わりに吸う。母を切望する子牛の必死さが指を介して私を染める。切り刻まれる思い。
本来この口に与えられる筈の牛乳。
人が全て頂くのだ。気が狂うほど母の乳を求める子牛には、粉ミルクが無機質な青いバケツで与えられる。
粉ミルクを取り合い、隣の子牛と喧嘩していた。ひとり一杯なのだが、隣人のバケツに強引に顔を押し込む。突進して喧嘩する。渇望。すごく酷だ。
病的な咳をする子牛がいる。その牛の周りはイヤな匂いがする。肺炎だとよ。牛の斑点は皮膚病、人にもうつるから触っちゃいけない。

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繋がれる子牛達
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子牛1
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子牛2
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子牛3
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肺炎の子牛
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皮膚病による斑点

牛舎は恐怖とかなしみと怒りで満ちている。埃っぽい。暗い。牛たちは太陽を直接眺めることができない。大きな扇風機がガーガーとなる。ノイズののったラジオが、ぺちゃくちゃしゃべってる。少し昔の流行りの曲が狂気的なポジティブさを強要する。落ち込ませてくれよ。気でもおかしくなりそうな漢方の広告。かなしいかなしい牛舎に、陽気な日常を感じさせるラジオが。もう聞きたくない。
気力のある若い牛が鳴く。腹の底を震わしてくる。心が不安になる。嗚咽のような鳴き声。もう聞きたくない。
眼球がおかしくなった牛がいるいる。ぎこちない動き。裏返っているのか、茶色い。

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暗い牛舎に太陽光
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扇風機1
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扇風機2
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茶色い眼
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うらがえった眼球

牛の目には涙の轍が。無音の慟哭。牛もかなしくって泣くらしい。目が合う。光に反射すると青くて美しい。涙を浮かべてた。大きな眼、全てを見抜いてくるような眼。数秒目があったあと涙が出た。何かに祈りたい。でも祈れない。すがりたい、すがれない。何かを恨みたい。でも恨めない。恨めたり、祈れたら、すがれたら、どれほど楽だろうかと思う。

牛と実際に対面し眼をあわすと心がすり減る。いろいろなものが流れ込んでくる。
写真に写る牛たちの眼をじっと見つめても、感じるものがあるとおもう。

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涙する牛1
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涙の跡
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涙する牛2
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涙する牛3
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おおきな眼

乳を搾る機械をつけるために汚れた乳房を洗う。後ろ脚を抱えるようにしてしゃがみ濡れた雑巾で拭いていく。すごく嫌がる。蹴られる、尻尾で叩かれる。怒りに満ちた視線が私を貫く。片脚を悪くした牛、信じれないくらい痛そう。痛みに全身が硬直する。乾燥し硬化した糞が装甲のように乳房を覆う。なかなかとれない。剥がす時、苦悶する牛。
搾乳時だけつける拘束具がある。それにより動かしにくくなった脚で、抵抗する姿を見るのがしんどい。
牛の痛みを気にせず拭く牧場主。もっと早くしなさいといわれた。どうすりゃいい、もうわからない。気の遠くなる数の牛を痛めつけた。
ごめんなさいしか言えない。ただそれだけだった。
全身で感じたかなしみが、心に縫い込まれていくようだった。見たくない、聞きたくない、感じたくない。
どうにかしてしまいそうな4時間だった。
外の空気を吸った時、生きた心地がしなかった。全身痛く、繋ぎの服は糞にまみれていた。

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牛の乳
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拘束具

歩くことのできない牛達は脚が弱い。牛舎ではほとんどの時間を寝て過ごす。搾乳のためには起こさねばならない。牛を起こせぬ私は兄弟の後ろで見ていた。帽子を深くかぶり、ただじっと見た。無力だ。
兄弟は大声をあげて寝ている牛の後ろ脚を次々に蹴っていく。多くの牛は恐怖と痛みに震え立ち上がる。焦って立とうとする。脚が滑り後ろの溝に落ちる牛もいる。
脚の悪い牛と、反抗する気力のある牛は立ち上がらない。その場合は糞尿を溝に落とすための金属の棒で叩いていく。起きるまでひたすら叩き続ける。痛みに耐えかねほとんどの牛は起き上がる。
それでも起きれない牛が一匹がいる。藁を集めるフォークのようなもので刺されても起きれない。悪くした脚を庇った他方の脚も悪くし、もう痛くて立てない牛。どれだけ刺さされ続けても立てない。それほどに脚が痛むのだと思う。叩かれ刺され、それでも起きれない。最後は大きな器具を使う。骨盤の出っ張りを挟み込みようにして器具を牛に固定する。滑車を使って器具を引き上げる。そうして立った牛は乳房を洗われ、搾乳される。苦しき極みに喘ぐ声。
もう脚はボロボロだ。生傷は絶えそうにない。つらい。


2日目以降は、私も牛を起こした。
だからいえることだが、牧場主の起こし方は不用意な痛みが多すぎる。
これは間違いなく動物虐待だ。
少しの時間を犠牲にすれば、痛みは最小限にできる。
時間効率のために過剰に痛めつける牧場主のやり方は大嫌いだ。
心の底から大嫌いだ。
絶対にこのやり方は肯定できない。
でも、何も言えない。憎めない。否定できない。誰も悪くない。
兄弟は生きていくために残酷にならなければならなかった。そうならなければ仕事はまわらず、皆飢え死ぬ。
私だってこの環境で数十年も居続ければ、驚くほど冷酷になっているかもしれない。
だから批判なんてできない。
誰にだってその可能性はある。
この世の総てがその罪を負っている。
菜食主義者になろうとも、そこに感謝があろうとも、償うことはできない。
目をかっぴらいて直視し、苦しみ続けていかなければならない。
善も悪も創っちゃダメだ。
憎悪も崇敬もしちゃダメだ。
生命の純粋な流れを善と悪で穢さぬために。
曖昧さの中で溺れるように苦しむ。
死にたくなるような苦しみ、かなしみを受け容れる。
それでいて死ぬまで生きたい。
生命が終わるまで、時を抱きしめていきたい。
生きたことに満足して、身体を大地に返したい。
私であるために、苦しみに向き合い続けたい。
そう感じた。

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横になる牛達
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様々な器具
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傷のあと

仕事として金を頂く以上、覚悟を決めねばならぬ。誰かがせねばならぬ仕事だ。誰かに押し付けて来た仕事だ。触れれば熱く、筋肉が脈動するのがわかる。眼が合えばドキリとする。嫌がることをすればつらそうにする。苦痛により捻り出た鳴き声が私の
みぞおちを震わす。
半分の牛は、声をかけ、目を見て脚に手を触れれば起きてくれる。
起きない牛のほとんどは、棒を持てば叩かれる恐怖に怯え起きあがる。
それでも起きない反抗心に溢れた牛も六頭ほどいる。
腹を括り、棒で叩いていく。
軽く沢山叩いても、起きてくれない。
ごめんなさいで心を満たし、強く叩いた。
棒が振動する。芯をとらえ骨を叩いた時、痛みに飛び上がる。
怒りに満ちた視線に貫かれる。全身の細胞がざわめき、冷や汗のようなものがでる。
手に伝わる振動はとても鈍い。皮と肉と骨の存在が手に伝わる。
覚悟を決めることと諦めることは、違うようで似ているのかな。
私は、牛を苦しめた。自分が給料をいただくために、生きるために。なにも正当化できない。自分のために、自分で選択して苦しめた。
ほんとうに心がえぐられた。

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今日、一匹子牛が生まれた。
それと猫が死んで、一匹の牛が焼却処分のために運ばれていった。

子牛は生まれてすぐ引き離されて、初乳は人が回収した。
生まれ落ち、最初で最後の母の乳は人の手によって与えられる。
ピンクと赤の塊が、糞尿を流す溝に浸かってた。むせ返るような独特な匂い。
どうやら母の胎盤らしい。すごくでかかった。人の五臓六腑をすべて集めたくらいの大きさだった。
祝福のない誕生は、思った以上にくるものがある。
痛みに起きることのできなくなったボロボロの牛がいたところに別の牛が繋がれていた。話を聞くと、そこにいた牛は焼却処分されたのだと。今朝、痛みに悶えながらも乳を搾られていた牛は死に、その空白を新たな牛が埋めている。不在の放つ強烈な存在感。不思議な気分だった。死は彼女にとって救いだったのかなぁ。白骨と化した彼女の静かな安らぎを願う。お疲れ様でした。南方熊楠が部族の話をしていたことを思い出した。

その部族の話はこんな内容です。
うろ覚えです。
その部族では赤ちゃんが生まれた時、村人全員で集まり嘆き泣き悲しむ。こんな残酷な世の中に生まれ落ちてしまって、なんて可哀想なんだと。
そして誰かが亡くなった時、村人全員で歓喜する。辛い現世を終えた魂に祝福する。お疲れ様、よかったねと。

朝、牛舎へ向かう途中死んだ猫を見つけた。傷はなく、死因は不明。身体に落ちた夜露が朝日に煌めいていた。顔は穏やかで美しかった。静謐だった。
土井晩翠の詩歌の一節がよぎった。
ながき我世の夢さめて
むくろの土に返るとき
心のなやみ終るとき
罪のほだしの解くるとき
墓のあなたに我魂を
導びく神の御聲あり。
嘆き、わづらひ、くるしみの
海にいのちの舟うけて
夢にも泣くか塵の子よ
浮世の波の仇騷ぎ
雨風いかにあらぶとも
忍べ、とこよの花にほふ

猫も牛も、お疲れ様でした。

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その日に生まれた子牛

3日もすれば涙が出なくなった。
感情が、すり減ったのか慣れたのか。
考え事ができるほど余裕ができてしまった自分に嫌気が差した。何物にも反応できない状態に近づくことがつらい。以前ほど強烈にかなしみを感じなくなった。それが何よりかなしかった。
鋭敏だった頃に縫い込まれたかなしみの感覚を呼び起こす。そうして鈍く擦り減った感情を刺激しないと、自己嫌悪でおかしくなりそうだった。
冷酷な人間になるのではないかという疑念をかき消すためには、無理矢理かなしみを呼び起こすしかなかった。
そんなことをしようとも、鈍く冷酷になったことに変わりない。なのに、かなしみを呼び起こすことに成功するたび、自分はまだ大丈夫だと安心してしまった。
それがなんの慰みにもならないことはわかっていたはずなのに。
初日を終えた時、1ヶ月だけでも全力で感じ考え苦しもうと決意した。こんな経験ができて、来れてよかったとも思っていた。
この日は感情が氾濫していたせいか、牧場に来たことを後悔していた。
冷酷になってしまうなら、来なければ、知らなければよかった。その日ばかりはそう本気で思っていた。

仕事して、食事と風呂と買い出し以外、昼寝をするかケータイで頭を停止させる日々を送っていた。
12日目にしてようやく散歩する気になった。それで蝦夷鹿のツノをひろった。
それをグラインダーできったりした。
なんだか気力がある日だから、思い切って牛舎で写真を撮っていいか牧場主に聞きに行った。快く承諾してくれた。
作業具を着て、長靴をはいて、カメラを首にかけた。
朝と夜以外に牛舎にはいるのは初めてだった。多くの牛は横たわって草を食んでいる。少しこちらを見て、なにもないと知ると食事を再開した。
隅から隅まで歩き回った。計200枚程撮った。カメラを持っていて心の底から良かったと思った。
文章で汲みきれなかったものを掬うことができた。
いままで、カメラは散歩を楽しくしてくれる友人で、何かを添えてくれる名脇役だった。今日のカメラは立場が違った。今までの撮ってきた感じと何かが違う。なんだろう。よくわからない。楽しさはなく、撮らねばという欲求があった。

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こちらを見る牛達


生きるためには、生命を奪ったり、痛めつけたりしなければならない。
これはかなしいことかもしれない。でも生きている以上、受け入れなければならない。
私のために何かが死ぬたび、立ち止まって涙を流してなんていられない。
死んで逝く生命に対して抱く感情に、かなしみはある。でも、大部分は感謝が占めている。だから、かなしいけれど悲劇じゃない。
だから、このかなしみは嘆きの種にはならなかった。

私はこの牛舎で、たくさんのかなしみと憂いを感じていた。
おそらく私は、命のやりとりに愛がないことに嘆き悲しんでいたんだとおもう。
この牛舎のような、愛のない生命のやりとりがとてもかなしい。生きるために他を犠牲にする時、少しでもいいから愛があればいいなと思う。あの牛舎はかなしみが過ぎる。すべてが恐怖と痛みと怒りで動いている。そこには愛がなかった。牧場主は、生きるための手段として、限りなく無機質に冷酷に牛を扱っていた。彼らの言動をみるに、おそらく牛を恨んでいる。生きるために搾取することは仕方がないのかもしれない。でも、そのかなしい生命の流れのなかに愛をさかすことはできる。
この苦しい世に生まれ落ち、苦しみながらもよろこびを感じる時、それは愛され愛するときだと思う。あらゆるものの光と影をまるっと愛することが、大切だと思う。
なめとこ山の熊では、猟師と熊は互いを尊びあっている。それでいて生命のやりとりがある。
わたしは心から、愛に満ちた世界を希求する。達成不可能と知りながらもそんな世界が到来することを願っている。
生きとし生けるものに、死んでいった生命に愛を手向けようと思う人がたったひとりでも増えてくれたらいいな。
私には力がない。だから、こうして文を書く以外に理想のためにできることはない。
それでも理想を抱きたい。それでも理想を求めたい。ほんの少しでもいいから、近づきたい。
真に害あるものなんて存在しない。ただ組み合わせが悪かっただけなんだ。だから人に害なすものですら、愛していきたい。何かを完全に切り離すことはできない。すべてがすべてと繋がりながら、世界は動いている。だから、世界を愛することは自分を愛することだと思う。
あらゆるものよ、お蔭様です。

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