40年前の苦い思い出、横浜球場での審判暴行事件…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<36>

1982年9月1日付「報知新聞」1面
1982年9月1日付「報知新聞」1面

 事件は1982年8月31日に起きました。横浜球場で行われた横浜大洋(現DeNA)・阪神戦。1―1で迎えた7回表でした。

 藤田平が打ち上げた飛球を、三塁手の石橋貢が万歳するような格好で落球。フェアゾーンに落ちた打球はそこからファウルゾーンに転がりました。鷲谷亘三塁塁審がファウルのジェスチャーをしました。河野旭輝三塁コーチは間髪を入れず「グラブに当たっていた」とアピール。同時に私、柴田猛バッテリーコーチ、選手が三塁ベンチを飛び出し、一塁ベースコーチの島野育夫守備・走塁コーチも走って来ました。

 抗議権は監督だけにあるのですが、当時は微妙な判定になると監督以外の人間も条件反射のように審判に直接抗議をしてしまいます。今ではリクエスト制度があり、リプレー検証しますから、あのようなトラブルは絶対に起きないのですが、当時はそんな制度はありませんでした。

 私は「フェアではないか」と、鷲谷審判に抗議しました。すると、突然、私の背後から鷲谷審判に対して手が伸びて来ました。島野コーチでした。それをきっかけに審判を取り囲む輪ができました。次の瞬間、私は輪の外にはじき出されて、尻餅をついていました。

 一方、こちらが収まったと思ったら、左翼方向でもう1つの輪が出来、その中心で柴田コーチと岡田功球審がもめていました。2つの輪の中で、島野、柴田コーチが鷲谷審判、岡田球審に暴力をふるったのです。

 岡田球審がプロテクターをグラウンドにたたきつけるのを見ました。衝撃的なシーンでした。岡田さんは「暴力団のようなチームと野球はやれない」と言い、審判団を引き上げさせました。このままだと「没収試合」になります。私は、審判控え室を訪れ、岡田さんに何度も頭を下げました。「こちらが一方的に悪いのです。申し訳ありません」。球場内では関係ないのですが、岡田さんは阪神の先輩でもありました。謝罪すること10分。島野、柴田両コーチは退場。ようやく試合は再開されました。

 試合後、審判団、島野、柴田コーチらは球場近くの加賀町警察署で事情を聞かれ、翌朝には「現場責任者」の私も事情聴取を受けました。62年、私と大洋・長田幸雄選手との三塁ベース上での小競り合いに端を発した阪神ファンのグラウンド乱入、さらにはファンによる大洋の宿舎への“襲撃事件”以来20年ぶり、人生2度目の事情聴取でした。

 審判への暴行、傷害の加害者になった2人のコーチには、横浜簡易裁判所から罰金5万円の略式命令が出ました。テレビでその場面が何度も流れたうえ、球団が当初考えていた処分も甘かったことで、世論の大きな反発を受けました。

 セ・リーグからは「無期限出場停止」という、どちらかというと“温情処分”を受けました。2人はユニホームを脱ぎ、球団職員としてスタート。真摯(しんし)に反省の態度を見せたことで、翌年3月24日に処分が解かれました。球界からの「永久追放」という最悪の事態は免れました。

 当時、私が小津正次郎球団社長から聞いた話では、オーナー会議でヤクルト・松園尚巳オーナーが中心になって「彼らを救うことは出来ないか」と声を挙げてくれたそうです。5年後、ヤクルトのコーチになって、松園オーナーにあいさつに伺った際、その時のお礼を言うと、松園オーナーは「若い者が一生懸命になり過ぎると、こんな事が起きるんだよ。彼らはまだ若い。将来もあるんだからな」と言われました。

 横浜球場での事件は、今でも苦い思い出として忘れることが出来ません。同時に、事件の前にも後にもチームのために一生懸命働いてくれた2人のコーチに、監督として何もしてやれなかったことに申し訳ない気持ちが残っています。(スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。83歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は7月15日正午配信予定。

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