自由と民主主義を守る国体が
戒厳令など布くわきゃないだ
ろうに。
1980年の韓国の戒厳令はひど
かった。
全斗煥のクーデターだったが、
5月には光州市民を軍隊が虐殺
しまくった。
そして、それを日本政府が支
持していた。
当時19才だった私は日本国民
として韓国軍政を支持する日
本政府に対し決起した。日本
の人民と韓国の人民の平和を
求める連帯として、自国の悪
行を糾すためにも。
「国のやることは何でも正し
い。お上に従え」などという
発想は私には一切ない。
そんな事言ってたら、光州市
民のように大虐殺されてしま
う。あるいは戦前戦中の日本
人のように洗脳されたまま殺
りくを後押ししてしまう。
光州市民虐殺の時には軍隊が
市民の妊婦の腹まで銃剣で割
いてお腹の子を串刺しにして
いた。1980年5月の事だ。
私の東京の大学の後輩の父親
はただのパチンコ屋のおっちゃ
んで本国韓国に帰っていただ
けなのに不当に逮捕され死刑
囚にさせられた。
在日韓国民団の人たちも多く
決起した。日本の多くの民主
人士も連帯した。
主権在民のわれらが国を建設
する為にも、悪逆非道な国家
権力に対する対権力闘争の自
衛決起は民主人士であるなら
ば絶対に必要なのだ。
たとえ自分が闘いの中で死の
うとも。
子々孫々までが安心して暮ら
せる国にするために。
なお、外務省周辺での労学国
民の抗議行動はかん口令によ
り一切日本国内のマスコミは
報道しなかった。外務省周辺
では日本警察機動隊の圧倒的
暴力が実行されていた。もう
ボッコボコ。
機動隊員は乱闘服着用ではな
く、全員がけん銃と警棒で武
装していた。これは乱闘服
着用よりもステージがやばい。
こちらは非武装だ。ヘルメッ
トさえ被らなかった。
80年安保反対闘争ではない。
日韓連帯闘争の一ページだ。
さらに6月の80年安保・日韓
連帯の集会とデモもノーヘル
非武装方針で我々の一団と労
学産別は参加した。
私は19才の時点で既に首都圏
各大学と労働戦線の統一部隊
の大梯団をデモ指揮する立場
にあったが、6月の反安保デ
モもひどかった。東京駅前を
通った超長距離のデモ。
平和的な行進をしているのに
やはり例によって機動隊が襲
い掛かり、暴行の限りを尽く
した。私の指揮する梯団から
警棒や手甲で脳天を割られて
昏倒する怪我人が続出した。
完全非武装ノーヘルでのデモ
隊列に権力機動隊は狙いを定
めて狙い撃ちで暴行を加えて
いた。
1970年代最末期年の1980年
という年はそのような状況
だった。韓国ではクーデータ
ーによる市民虐殺軍政が発生
し、その韓国を支援する日本
と米軍は日米韓合同軍事演習
のリムパックを初めて決行し
た。日本国内問題だけでなく、
極東アジアに緊張が走ってい
たのが1980年だった。
韓国のキムテジュン氏は死刑
囚として殺される寸前だった。
KCIAが日本にいたキム氏を
拉致して本国に連れ帰り監禁
したが、日本国政府は国法に
触れるので遺憾の意を表明し
ただけで、実質は韓国反共政
権を常に支援していた。(韓
国には西側型の民主主義は一
切存在していなかった)
内政関与どころか支持支援を
するのだ。市民虐殺軍政で
あろうとも。
その背景には米軍による極東
戦略の防波堤として盾にさせ
られている日本と韓国という
同質性が存在したからだ。
日米安保で米軍が守るのは在
日米軍基地と在日米国人であ
り、日本人や韓国人などは死
んでもアメリカ人は気にもと
めない。原爆落としたのは正
義だ、とか言ってる国と国民
だ。
それが日米安保の実体だ。
アメリカさんが日本を守って
くれるとか思い込んでいたら、
よほどのお花畑の能天気だ。
日本と韓国の実情は、日本と
韓国という縦割り国境による
分断ではなく、日本と韓国が
横スライスで国家権力と被支
配層という実体が1980年の
情勢では存在した。
私たちの行動はその横同士の
連帯だった。
別国家の国家権力自体が横
繋がりで連動して行動を起
こしているのに対するには、
それらに支配されている横
繋がりが互いに手を結んで
相互の国内で対向するしか
ない。
私たちはそれをやった。
1980年の日韓連帯は国境の
ボーダーを超えた人民連帯
の人民戦線だった。
共産主義や社会主義などは一
切関係ない。
同じ人民戦線でも、戦時中
のコミンテルンの指導のよ
うな共産主義的な人民戦線
的側面は一切無かった。
社会主義者や共産主義者な
どではなく、あくまでも民
主人士としての行動だった。
あまりにもひどい大虐殺と
軍政の暴虐。それを支援支
持した日本政府。
その自国政府の悪行を糾さ
ない日本人は、日本人とし
ての自覚無き者だと思って
いた。
君よ、嵐の中に起たずして、
未来が作れると思ってか、
と。