石川県金沢市のホテル「香林居(こうりんきょ)」で、極めて珍しい「嚥下食対応の宿泊・旅行プラン」が実施された。「嚥下(えんげ)食」とは、病気、老化、障がいなどの理由で飲み物・食べ物の咀嚼と飲み込みがしにくい人に配慮された食事形態のこと。ここ日本においては高齢化が進むなか、嚥下食に注目が集まりつつある。このプランを仕掛けたのは、株式会社水星の代表取締役CEO 龍崎翔子氏と、近石病院の伊佐津貴之氏。両氏は協同で嚥下食対応の宿泊プランを開発するプロジェクト「やわらかい旅行社」を立ち上げた。両氏に旅行プランの全体像、嚥下食を日本の各所に広げていく上で直面している課題、また、プロジェクトを通じて実現を目指している社会ビジョンについて聞いた。
実は幅広い世代に影響がある「嚥下障害」
──2023年11月、全国的に珍しい「嚥下(えんげ)食対応の宿泊・旅行プラン」をポップアップ(期間限定)で実施されました。そのきっかけや狙いについて教えてください。
伊佐津氏(以下敬称略):摂食嚥下障害の方が、より外出しやすい世の中を作るにはどうすればいいか。こういう話を、ホテルプロデュースを手がける水星の龍崎さんとするなかで、「嚥下食対応の宿泊事業をやりたい」とご相談したのがきっかけです。その実現に向けて立ち上げたのが「やわらかい旅行社」というプロジェクトです。
そもそも、「摂食嚥下(せっしょくえんげ)」とは、食べ物や飲み物を口に運び、咀嚼して飲みこむまでのことを指します。歯科医師の私がこの分野に興味を持ったきっかけは、祖母の病気でした。祖母が患ったパーキンソン病は、病状が進行すると摂食嚥下に障害が出てくる。嚥下機能が低下すると、水を飲むのも一苦労です。ですから「嚥下食」と言って、とろみなどをつけて飲み込みやすいように食事を調整する必要があります。祖母は医療施設に入所しましたが、お見舞いに行く度に「お家でご飯が食べたい」と言っていたのを覚えています。そのとき私はまだ大学生だったということもあり、摂食嚥下の分野に精通しておらず、何もできないことに歯がゆい思いをしていました。
今、嚥下障害を持つ患者さんは、日本においては100万人を超えると言われています。超高齢社会が進んでいくと、その数はもっと増えていきます。にもかかわらず、嚥下障害や嚥下食に対する社会の認知度は低い。嚥下食に対応する飲食店もまだまだ少ない。嚥下障害を持つ方にとって、外食のハードルはものすごく高いのです。それゆえに家に引きこもってしまう方も多く、嚥下障害者の社会的な孤立は社会問題になっています。
もともと、嚥下障害の方にとって外食のハードルは高いので、宿泊となるとさらにハードルが上がるのではと思われるかもしれません。ですが、宿泊施設における食のハードルさえ下がれば、おのずと宿泊のハードルも下がります。その環境を整えたいと思って、このプロジェクトを始めました。
龍崎氏(以下敬称略):嚥下障害になりやすいのは、割と高齢の方が多いとは思いますが、実は特定の世代に閉じた話ではないんですよね。いずれ嚥下機能が低下するリスクは誰もが持っています。それに、「家族での団らんを楽しむ」という切り口で考えると、嚥下障害を持つ方のお子さんやお孫さんなど、実は幅広い世代にすごく影響のある話です。しかも、嚥下食を提供できる宿泊施設は、今のところほとんどありません。伊佐津先生とお話するなかで、嚥下食対応の旅行プラン第1弾がたとえポップアップだとしても、実施できれば社会に対して大きな変化の一歩になるのではないかと思いました。
──嚥下食対応の宿泊・旅行プランは、今回はポップアップとして実施しました。ですが先ほどのお話で出たように、「やわらかい旅行社」というプロジェクトを通じて、継続的な事業およびサービスとして開発していらっしゃいます。このような形態の宿泊・旅行プランは極めて珍しいと思うのですが、「やわらかい旅行社」を中長期的に続けていく意義はどこにあるのでしょうか。
龍崎:「やわらかい旅行社」の目標は、世の中に嚥下食に対応できるホテルやレストランを増やしていくことです。この目標は、単発イベントではクリアできません。持続可能なビジネスとして2回目、3回目、4回目と続けていく必要があります。
もともと、水星という私たちの会社では、2022年から産後ケアに特化したホテルを運営してきました。このようなホテルを運営している理由は、さまざまな事情で外食や旅行を諦めざるを得ない状況に追い込まれている人たちが、世の中にたくさんいるからです。
例えば、ホテルという空間は一見、老若男女に開かれた空間であると認識されていますよね。でも実のところ、ホテルに泊まって旅行ができる人というのは、体力やお金、時間にある程度のゆとりがあって、健康で……というように限られています。もちろん、ハード面でのバリアフリー化は、国によって一定の基準が定められています。ですがソフト面も含めて、本当の意味でバリアフリーが実現できている宿泊施設は、ほとんどありません。
そうした実状を踏まえて当社では、年齢や体調に関わらず、幅広い方々がその人らしい旅を続けられるように、「インクルーシブリゾート」という構想を掲げるようになりました。旅とホテルの新しい可能性を追求できないのかというスタンスでホテル経営をする中で、医療的ケア児※を育てていらっしゃるお母様からお問い合わせをいただくことも多くて。「本当は、こういう方たちこそ、ホテルでリフレッシュするひと時が必要なのにな」と感じるものの、民間施設では医療体制が不十分なので、受け入れが難しいと判断せざるを得ない状況が結構あるんですよね。
※医療的ケアが日常的に必要な児童のこと。厚生労働省は、2021年時点で全国の医療的ケア児(在宅)は約2万人いると推定している
そうしたもどかしさを感じているときに伊佐津先生にお会いし、「やわらかい旅行社」を立ち上げました。今回は、インクルーシブリゾート実現のための一歩として、嚥下食対応の宿泊プランを開発しましたが、本当の意味で食や旅のバリアフリー化を実現するには、事業として継続的に取り組まなければ意味がありません。
大切なのは安全性とエンタメ性が両立する嚥下食
──「やわらかい旅行社」プロジェクト第1弾は、石川県金沢市のホテル「香林居」で実施されました。会場は、どういう基準や条件で選んだのでしょうか。
伊佐津:私が勤める近石病院は、岐阜県岐阜市にあります。病院の取り組みの一環として、嚥下食を提供するカフェを併設するなど、もともと食を通じて地域を繋げる活動に熱心です。理事の近石(壮登)先生が岐阜の方々とのつながりが深いということもあり、最初は岐阜で開催できればと思いまして、協力してもらえる旅館やホテルを回っていました。
ありがたいことに私たちの思いに賛同してくださり、「何かお力になれることがあれば」と手を挙げてくださるホテルや旅館がいくつかありました。ただ、当然ながら、嚥下食を提供して何かあったとき責任は誰が取るのか、という話になりますよね。あとは、嚥下食を提供するために、厨房ではオペレーションを新しく組み直す必要もあります。その辺りがどうしてもネックになって、オーナー側と厨房の責任者の間でなかなか折り合いがつかず、実施を見送るというケースが数回続きました。そうした経験を経た後に、水星さんが石川県金沢市で運営する香林居でできませんかと龍崎さんにご相談しました。
龍崎:ご相談いただいた時点で、すでに開催日程も参加されるお客様も決まっていたので、急ピッチで準備を進めました。
ただ、私たちはインクルーシブリゾートの構想を掲げてホテルを運営しているものの、香林居に入るレストランの運営は、別の会社が担当しています。ですから、嚥下食を提供することで起こり得る事故などのリスクや、オペレーションの懸念があって、やはりここでもすぐにOKをいただけたわけではありません。近石病院のお力添えもあり、長い説得の末にご協力いただけることになって、何とか実現できた形です。
伊佐津:今回の食事の提供は、夕食、朝食ともに香林居に入るタイワニーズキュイジーヌ「karch(カーチ)」にご協力いただきました。嚥下食を提供するのは初めてということで、厨房には嚥下食の専門家 である「嚥下食叶和」の岩崎勝料理長にアドバイザーとして入ってもらい、技術指導もしていただくサポート体制を作りました。嚥下食とは何か、嚥下食をどう作るのかといったことを料理人の方に学んでいただきながら、事前ミーティングなどで、嚥下食を当日どのように出していくかといった準備を進めていきました。
──ポップアップでは、どういう料理を提供されたのでしょうか。その料理を食べて、モニターの方々の反応はいかがでしたか。
伊佐津:食事のメニューは、カーチさんが普段から出している台湾料理をベースに開発し、患者のみなさんには嚥下食で、そのご家族やご友人には通常の内容で提供しました。
今回は、つながりのある医療関係者に声を掛けて、「参加したい」とおっしゃった患者さんやそのご家族3組をご招待したのですが、みなさんすごく喜んでいらっしゃいましたね。
例えば1組は、70代の嚥下障害の患者さんと、そのご友人の2名で参加くださったのですが、夕食が始まって乾杯をするとき、ご友人が涙を流して喜んでいらしたのが印象的でした。お2人は仲が良くて、これまで何度も一緒に旅行をしてきたそうです。でも、相手が嚥下障害になってからは外出をめっきりしなくなったと。一時期は連絡も取れなかったとか。そうした困難な時を経て、「またこうやって一緒に旅行に来れてすごく嬉しいわ」と、涙があふれてきたそうです。
そうした姿を見て、スタッフやメディアの方も涙を流されていましたが、そのワンシーンに触れただけでも、やって本当に良かったなと感じました。
龍崎:私自身は、来てくださったゲストと直接関わる機会はほとんどありませんでしたが、ご参加くださった方々のメッセージを後で拝読しました。例えば、嚥下障害のある1歳数カ月の小さな子どもさんと、そのご両親が参加くださったのですが、「子どもがずっとご機嫌のまま食事を終えることができて良かった」というメッセージに触れたりして、私も本当にやって良かったと思いましたね。あと、プロジェクト全体に対しては、周りから、「水星の最近の動きを代表するようなプロジェクトだね」と評価いただくことが多く、それも大きな手応えでした。
──実際に料理を提供したレストラン側など、モニター以外の反応や反響についても教えてください。
龍崎:レストランの方々は、もともと「すごく挑戦的なプロジェクト」と受け止めて携わってくださっていたのですが、「このプロジェクトに携わることができて良かった。すごくいい経験をさせてもらった」という声をいただきました。調理を担当してくださった方には小さい娘さんがいらっしゃるのですが、「娘に誇れるような仕事ができて良かった」という声も聞きました。
伊佐津:医療に携わっている方々からの反響も大きかったですね。嚥下障害を持つ方がより外出しやすい世の中を作りたい。そう考えている医療関係者は全国各地にいらっしゃるのですが、私たちが岐阜でしたような失敗をみなさんも経験されていて、そういう方々から、「どうやって実現したんですか」とお問い合わせをたくさんいただきました。今回のように、「嚥下食対応の宿泊・旅行プラン」というサービスをビジネスとして大々的に実施した例が今までにないので、余計に反響が大きかったのだと思います。
嚥下食は世界から人を呼び込む強力なコンテンツになる
──今後も「やわらかい旅行社」のプロジェクトを続けていくなかで、乗り越えるべき課題や難しさなどはありますか。
龍崎:やはり料理人の方々がリスクやオペレーションを懸念して、嚥下食の提供を見送るケースがどうしても多いのが現実です。どうすればお客様とレストラン側の双方の安全性を確保しつつ、ホテルクオリティーのサービスを提供できるのか。嚥下食を提供する飲食店との連携が、今後も引き続き課題です。
今回は、「万一、何か事故が起こっても責任は負いません」という内容の、ホテルやレストランを守るための同意書は使いませんでした。やはり、嚥下障害を持っている方々からしてみれば、その同意書を読んだときのショックは大きいようです。「受け入れてくれるホテルがあると聞いて楽しみにしてやって来たのに、結局バリアフリーではないんですね」と感じてしまう。とはいえ、食事を提供する側の懸念もよくわかる。同意書を取るべきかどうかという問題も含めて、嚥下食を提供する際の仕組みづくりの課題は、やはり今後も残り続けると思います。
伊佐津: あとは、誰がプロジェクトをリードするか、というのも今後課題になるかもしれません。今回は、それぞれの職種のプロフェッショナリズムを、お互いに尊重しながらプロジェクトを遂行できた。水星さんと近石病院のタッグだったからこそ、こんなにスムーズにできたのだと考えています。この距離感がうまく保てないと、同じようなプロジェクトでもうまくいかないのではないでしょうか。
例えば、医療関係者が口を出しすぎるとか。医師や歯科医師は、医療に関してはプロフェッショナルですが、おもてなしやエンターテインメントに関しては素人です。僕自身、そこは肝に命じていました。今回も、嚥下食の監修はしましたが、料理自体に口を出すようなことはしていません。医師が安全性について強く言えば、安心感は出るでしょう。でも、エンタメ性は打ち出しづらくなってしまう。ホテルや飲食店の方々も意見を出しづらくなってしまう。みなさんがホテルの食事に求めるものは、栄養素ではなく、エンターテインメントですから、僕自身はどうすれば参加する方に喜んでもらえるかを最優先で考えていました。
安全という意味では、ある程度は医療関係者が先頭に立つ必要があります。でも出過ぎない。ちゃんと他の職種を立てながらやっていく。難しいかもしれませんが、安全性とエンタメ性のバランスを取ることも、プロジェクトを成功させるための大事なポイントだと思います。
──今後の展望についても教えてください。嚥下食が充実し、嚥下食を提供する施設やサービスが充実した社会には、どういう可能性が広がるでしょうか。
龍崎:現在、 2回目のトライアルを準備中です。本当は、2回目を2024年1月末に行う予定でしたが、能登半島地震の影響もあり、3月28日、29日、30日に開催する予定です。1回目は招待制にして開催しましたが、2回目は公募制にして、一般のお客様からの予約も受け付けるような形で実施できればと考えています※。
※やわらかい旅行社による香林居での2回目のトライアルの案内(「嚥下食プラン【2食付き】はこちら(やわらかい旅行社のWebページにジャンプします)から閲覧できる。
あと、今後も香林居だけでプロジェクトを展開し続けるわけではありません。どうすれば嚥下食のナレッジを持つ飲食店の関係者を増やしていけるのか。どうすれば関わる人の安全性と高いクオリティーが両立したサービスを提供できるのか。嚥下食に対応できるホテルやレストランを世の中に増やしていくためにも、ここはもう少し模索する必要があると考えています。
美味しいものを大切な人と一緒に食べる。これは、人が前向きに生きていくための重要な要素です。本当の意味で食のバリアフリー化が進んだ未来は、嚥下障害がある人はもちろん、その家族や周りの友人、あるいは乳幼児がいて気軽に旅行や外食が楽しめない方なども含めて、家族団らんの時間を楽しめる人たちがぐっと増えるのではないでしょうか。
伊佐津:日本の高齢者医療は、先進的で世界から注目されていますが、嚥下食も然りです。アジアでも嚥下食に対するニーズは高まっていて、日本の料理人が海外に呼ばれることも増えています。そういう意味でも、日本の社会が嚥下食に対してもっと関心を持つことは、メリットしかないように思います。
例えば、嚥下食に対するナレッジを持った料理人が増えれば、世界をまたにかけて活躍できる人材はおのずと増えるでしょう。「日本は嚥下食に対応しているホテルや飲食店が多い」という理由で、来日する旅行者もさらに増える可能性が高い。これは結局、国益につながっていく話ですよね。国に働きかけるには、まだ揃えなければいけないデータも残っていますが、嚥下障害の方が病院の外でも食事が楽しめる社会を実現するために、国に対するアプローチも見据えて準備をしているところです。