前回は、『ユーラシア(大陸)からの渡来人…

『済(わた)り人』について、書きました。


 (前回の記事はこちら)



古代、日本の「渡来人」と言えば

中国や朝鮮半島から来た!という

イメージがとても強いのですが…一方で





かなり古い時代から、ペルシャ人など

『中央アジア』方面からの採掘者

貴重な鉱物をもとめて、日本に来ていた

のではないかと、前回書きました。


希少な鉱物は、火山性(マグマ)由来で、日本は

世界の活火山の7%集中する世界有数の火山国です!





また中国では、北方の異民族を

『胡人(こじん)と呼び

シルクロードとの交流が盛んになるにつれ

ペルシャ系の人びとを指すようにもなり


唐王朝では「胡商(こしょう)という

西方系の外国商人が暮らしていました。





古代の日本においても、鉱物をもとめた

(わた)り人…「胡(えびす)さんが殺到する

アメリカのゴールドラッシュのような現象が

起きていたのではないかと、考えています。





  

『シルクロード(絹の道)』は一つではなかった!


ところで、シルクロードといえば

砂漠を行く、ラクダのキャラバン

といった、イメージが強いのですが…





実際には、いくつかのルートがあり

インド〜東南アジア経て

中国にいたる「海のルート」という

海上航路も存在しました。


(「シルクロード」も、様々なルートが存在したんですね!)




そして今回は、東西交流の大動脈

 数ある「シルクロード(絹の道)でも


最古といわれる(神秘的な)

 ・中国インド結ぶ『西南ルート』



そして、同ルートの中国側の起点


四川(しせん)成都(せいと)付近発生した

 ・『三星堆(さんせいたい)文明』



これらについて、2回くらいに分けて

書きたいと思います。さしあたって今回は


数あるシルクロードの一つ

『西南ルート』について書きます。






  

シルクロード最古といわれる『西南ルート』


この中国の四川省・成都とインドを結ぶ

『西南ルート』ついてですが…


 四川省は、あの辛い四川料理の発祥地で有名ですね!

 Mapo tofu.JPG「wikipedia」



この四川省・成都から、雲南(うんなん) 
ミャンマーを抜けて、インドにつながる
西南ルートの代表的な交易品の一つが
『絹』織物でした。


『成都』『インド』の位置(「GoogleMap」より)



絹の発祥地は中国とされていますが
どこで誕生したかは、特定されていません。
しかしながら、古代より成都(蜀:しょく)
良質な絹の産地であり、絹誕生の有力な
候補地の一つとされています。


 Silk raw 01a.jpg「wikipedia」



この蜀の「絹」運ぶ、西南ルートを
世に知らしめたのは、中国の漢(かん)王朝に
よって、(紀元前2世紀頃)西域に派遣された
張騫(ちょうけん)という外交使節官です

彼はなんと、13年もの長い旅路をへて
長安に帰還するのですが、その際に
このインドに通じる、西南ルートの存在を
当時の皇帝・武帝(ぶてい)に報告しています。




彼は、バクトリア(現在のアフガニスタン北部)
蜀産の品物が扱われているのを目撃し
現地の商人が、それらの品々をインドで
購入したことを知ります。

つまり
「蜀」産商品「インド」売られていた


張騫は、ここから「蜀」と「インド」を結ぶ
西南ルートの存在を知ったというわけですね!


  

『天付の国』にして『要害』『四川盆地』


ところで、この「蜀(四川省)
長江上流域にあり、周囲を山々に囲まれた
面積16万平方kmを誇る、巨大な四川盆地に位置し
年間を通じて、安定した降雨に恵まれる
巨大な穀倉地帯…天から与えられた稀有な国
「天府の国」とも、称されています。




このとても豊かな、周囲を山々に囲まれた
四川盆地は、まさに天然の城…要害の地で
あり、周囲と隔絶した特徴的な地勢から

独自の文化が育まれてきました。


中国の古代文明というと、何といっても

黄河(こうが)流域に発生した「黄河文明」ですが…



  

中国文化の源流の一つとされる『長江文明』


近年、この成都一帯の「金沙(きんさ)遺跡」

「三星堆(さんせいたい)遺跡」から、膨大な

文物が発掘され、とくに後者の三星堆遺跡は

約3000年以上前の遺跡であることが判明し

(遺跡名『三星堆』の由来は、周辺の三つの月形の台地

 天より三つの星が落ちてきた、という伝説に由来するとか)



古代、一帯に「蜀(しょく)王国」が栄えていた

ことがわかってきました。そして、王国は最終的に

中国を初めて統一した「秦(しん)」に滅ぼされます



「三星堆遺跡」から出土した、幅が1㍍以上ある

 『青銅縦目仮面(せいどうたてめかめん)』

ちなみに、つい最近まで教科書では

紀元前3000年から紀元前2000年頃の間に

発生した文明…メソポタミア、エジプト、インダス、黄河

これらを世界四大文明と表現していましたが


古代、この四大文明の地域以外でも

一定の文明が発生していたことがわかって

きており、四大文明というざっくりとした

歴史観は、現在では否定されています。




とくに、先ほど述べた「三星堆遺跡」は

大きくみると、長江流域に発生した

『長江文明』の遺跡の一つと、考えられていて


また加えるならば

中国東北部の遼河(りょうが)周辺にも

『遼河文明』の痕跡があることが

判明しています。



中国といえば、一昔前まで

黄河流域で発祥した『黄河文明』

全土に拡がり、中華の起源となったと

思われてきましたが…



 Forbidden city 07.jpg「wikipedia」




ー『黄河』・『長江』・『遼河』ー


この三つの大河で発生した文明が

複合的に交わり、中国文化の源流となった

との見方が、近年有力視されています。





成都からインドに通じる『西南ルート』

この中国の源流の一つ、長江文明を構成した

金沙遺跡・三星堆遺跡で暮らしていた人びとが

利用していた、古代の交易路と考えられます。



じっさいに、このルートを踏破して

体験談を書籍にまとめた、高野秀行氏は


『西南シルクロードは密林に消える』高野秀行著 講談社文庫



この著書の中で、『西南ルート』について


『まつろわぬ民の道』という

 表現をされています。






「長江文明」が認識されたのは

本当につい最近、1970年代の長江下流域にある

「河姆渡(かぼと)遺跡」の発見からです。

 (この遺跡から世界最古の稲栽培の跡が発見されています)



つまり最近まで、長江流域で繁栄した

長江文明は、完全に忘れられた存在でした。


あえてきつい言葉を使わせていただくと

『西南ルート』とは、歴史上の敗者の道

ともいえるのかもしれません。前述した

高野氏の著作によると、現在の『西南ルート』

は役目を終えた、武装ゲリラ跋扈する

とても危険な道なのだそうです。





  

そして、次回は…『三星堆文明』です



さて次回は、『三星堆(さんせいたい)文明』

ついて、書きたいと思います。


当ブログは、その昔、群馬県に暮らした先祖

のルーツ探しを目的としていますが





時代も場所も隔絶した、中国奥地に咲いた

『三星堆文明』について書くのには

理由があります。



自分も調べてみて驚きましたが…

三星堆の『西域』とのつながり


そして『養蚕』の女王

『西王母(せいおうぼ)の坐(いま)した国が

存在した、可能性についてです。


続きます。

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