前回、前々回、引き続き

『イカ(ガ)について書きました。


なんと、私の住む荒川区の隣、文京区にも『イガ』地名が!



(↓過去記事はこちら↓)




『イカ(ガ)とは、何でしょうか?

 (個人的な考えとなりますが…)

「古い時代に、鉱物をもとめて日本に来た
 製鉄技術をもつ海洋民」のことではないか


このように考察しました。





言い方を変えると


その昔、莫大な利益を生む金属(鉱脈)

もとめて(わた)ってきた製鉄氏族のこと

となります。


(アメリカのゴールドラッシュのごとく、千金

目指した採掘者が、日本に殺到したのでしょう)


 ゴールドラッシュ.jpg「wikipedia」より



今に残る『イカ(ガ)のつく地名は、かつて

製鉄民が残した痕跡だと考えています。



・新潟県佐渡ヶ島「道遊の割戸(どうゆうのわりと)」





「金」鉱脈を掘ったがために、V字に割れたような姿を

しています、すさまじい金属(鉱脈)への執着を感じます。

Sadokinzan-doyunowareto 01.JPG「wikipedia」より




ところで、当ブログは、先祖調査…

ルーツ探しのために書いているのですが


調べていると、何となくそのとき必要な本に

出会えたりします。そして、今回も素敵な本に

出会えました。





この本に書いてあることについて

そうなのだろうな、と思うことが多かったです。


ただ、一般的には、かなり突飛な内容と

なってしまうので、もう少し調べてから

ブログで書きたいと思います。ご期待下さい!



さて、今回は先祖調査中間報告?
を兼ねて、先祖が信仰した
『弥勒菩薩(みろくぼさつ)
キーワードに、書いてみたいと思います。


 盗難された、墓の弥勒菩薩像です(泣)


「弥勒菩薩」を調べていると、必然的に
『西域(さいいき)…中央アジアの気配が
 ただよってきます。

…どういうことかというと



先祖はるかなルーツが、中央アジア方面に
あるのではないか?という検証になります。

(何だか、西域の雰囲気がすごくあるんです!私の先祖に)





今回は、『弥勒菩薩』をキーワードにして
『西域(中央アジア)から日本に採掘者が来て
いたのではないか?

そんなことについて、書きたいと思います。




…とは言っても、一般的に
中央アジアは、遠い存在です。
(いくつの国境と海を越えていけば、いいのかという…)

そこにルーツがあるなど、一見して
荒唐無稽な話に、思えてしまいます…


ですがなかなかどうして、明確国境ない
古代(パスポートがなくても移動できる時代)
「中央アジア」(私たちのいる)東アジア」との
交流は、そうとうに盛んだったのでは
ないかと、思えます。




例えばお隣中国(とう)王朝(618年〜907年)
当時の世界帝国で、都の長安(ちょうあん)には
基督(キリスト)教の一派である景教(けいきょう)
ゾロアスター教、マニ教の寺院が存在しました。
(これらは「三夷寺(さんいじ)」と呼ばれました)




唐の都・長安(ちょうあん)では
イラン系の人びとなど、国際色豊かな人たち
が居住し、胡商(こしょう)と呼ばれる外国商人
多く集まっていました。

この国際都市を模して、建てられたのが
平城京や平安京です。ちなみに観光に来る
中国人は、自国ではすでに失われた
唐の文化が、日本の奈良や京都にある!
と驚くようですね。




また、東大寺の正倉院(しょうそういん)には

ペルシア(現在のイラン付近)の技法で製造された

シルクロードを通して伝わったといわれる

ペルシアングラスが、収蔵されています



さらに、平城京跡から出土した木簡には
「破斯清通(はしのきよみち)という記載がある
ものがあり、波斯(はし)」はペルシャ意味し
これは当時働いていた、ペルシャ人の役人の
名前と推測されています。


古代、中央アジアは、現在ほど
遠い存在では、なかったのですね。


私の先祖は『弥勒菩薩』を信仰していましたが
江戸時代、『八塚山弥勒院(やつかやまみろくいん)』

という、神仏混淆の修験寺を営んでいました。





『吉井町誌』より (吉井町誌編さん委員会・発行)



赤線が初々しく、はずかしいのですが…「子孫不明」と
記載されているところが、悲しいです(笑)

武田家の老臣というより、武田家の勢力下にある

西上野(群馬西部)土着の長根衆の一員が正解でしょう。





先祖の寺は、明治に廃寺となり

残念ながら子孫には何も伝わっていない

のですが…弥勒院という名前から

弥勒菩薩(みろくぼさつ)ミロク様を

信仰していたことが、わかります。



Maitreya Koryuji.JPG「wikipedia」より



弥勒菩薩は、インドのミトラ神や

イラン神話に登場するミスラ神が起源との

説があり、その信仰の発祥について

メソポタミアにまで、もとめることが

可能なのではないかとも、いわれています。


要はミロク様には、中央アジア…

西域の気配が感じられる、ということなのですが





群馬県の吉井町は、渡来人が多く居住した

ことで知られていてますが、一般的に彼らは

中国や朝鮮半島から渡って来た人びと」と

理解されています。





…ですが、この吉井町(わた)り人について

ユーラシア大陸という視点で見れば

(先ほどのペルシアングラス同様、シルクロードを渡った)


『ユーラシア奥地から中国朝鮮半島

 通って(経由して)、来着した人びと』



という解釈も、おもしろいと思います。



(個人的な考えとなりますが…)

ようするに、群馬県の吉井町・旧名

『多胡(たご)郡』には


中国朝鮮半島通過点としてやって来た

(中央アジアに出自をもつ)古代人胡人(エビス)」さんが

かなり居住していたのではないか?

ということですね。





「胡人」は、大陸の中国では、北方や西方の

異民族(遊牧系の人びと)について用いる呼称ですが


その昔議論巻き起こした騎馬民族征服

ではなく、騎馬民族『移住』説といったところ

でしょうか(征服ではなく融和です)。



日本の有史以前から、中央アジアから

大なり小なりの規模の胡人(西域の人びと)

日本に来ていた…そんな想像をしています。

そして土着「縄文人」通婚・融合したと。





吉井町で公開されている、和銅4年(711年)頃に

多胡郡の建置を祝って、作られたとされる

「多胡碑(たごひ)には




新しく建郡した「多胡郡」を

・『羊(ひつじ)「給う(与える)」


という意の文字が、刻まれています。





羊という動物は、本来「中東」起源であり

高温多湿な日本には、適さない動物です。


なのに、あえて『羊』という文字を使った

ことには、相応の理由があったはずで

多胡碑を保持した人びとなど…

そこらへんの経緯については、まとめてある

ので、いずれ公開したいと思います。




さて次回、時代・場所はかなり変わりますが


中国の四川(しせん)存在する

『三星堆(さんせいたい)という

遺跡について、書きたいと思います。

(遺跡名に『三』『星』がついていますね!)


この遺跡は、非常に特異な造形の青銅器が

出土したことで、知られていますが


Bronze head from Sanxingdui.JPG「wikipedia」より



この中国の奥地に咲いた、特異な文化も

中央アジアと東アジア…東西交流で

捉えることができる、という説があります。


続きます。


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