【LC!Final 期間限定】星屑に彩られた僕らの乗車切符
LuckyCard!Final展示物として、2021年発刊了尊短編集「都合の良い夢」より期間限定展示(2024年12月8日22時頃まで)。
原作後時間軸・銀河鉄道パロディ
銀河鉄道に乗り合わせた二人が、色々なヒトと出会い別れる話。
書きながら「これは本にしよう」と思った話で、(その後不慣れな製本作業と格闘したこと含めて)とても思い入れがある話です。
楽しんでいただけたら幸いです。
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水面に輝くスターダストロード。
あの中に飛び込んだらいったいどんな景色が見られるのだろうと。
空の星と海の星屑が世界いっぱいに広がってどんなものより美しいのではないのかと。
幼い頃からいつも夢想していた。
星屑に彩られた僕らの乗車切符
『銀河ステーション、銀河ステーション』
アナウンスの声が、遠くから聞こえてきた。
そう思うと同時に目の前がさあっと、まるでランプの炎で優しく照らされるように、柔らかく明るくなって、僕はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
僕は、鉄道に乗っていた。
しかしいつ、何の目的で乗ったのだったか。眠る前の事が曖昧でよく思い出せない。
顔をあげて、あたりを見渡す。
木造の内装がレトロな車両だ。天井に並ぶ小さな電球が、車両の動きに合わせてチラチラと光を揺らしている。
青いびろうどの張られた腰掛けは、どこもかしこもまるでがら空きだ。けれど一人だけ、同じボックスの斜め向かいの席に銀髪の男が座っていた。
鴻上了見だ。
どうして彼が、という疑問は、別の疑問によって上書きされる。
彼の外套が、濡れたように光っていた。
通り雨にでも降られたのだろうか。今日はとてもよく晴れていた気がしたけれど。
僕の視線に気付いた鴻上は、自身の服へと視線を落とす。ポケットから白いハンカチを取り出して、服についた雫を払い落とした。
ふわりと、嗅ぎ慣れた潮の香りが鼻をくすぐる。
――――潮。
そう言えば、僕もこれに乗る前に海にいたような気がする。
「お……」
僕の口から半端に漏れた声に、鴻上は顔を上げてこちらを見る。
けれど僕は、「お前は」の後に何を続けたら良いのかよく分からなくなって、何も言えないまま開いた口を閉じてしまう。
鴻上は僕の言葉が続かないと分かると、ひとつ瞬きをして、車窓の外へと視線をやった。
その横顔がどこか青ざめているように見えて、そういえばやけに今夜は空気が冷えているなと思いながら、僕も車窓の外を見る。
風に揺れる草原と、果てのない星空が窓いっぱいに広がっていた。
草の露が列車の灯りを返して光っている。草原には三角やら四角の標が点々と立っていて、これもまた赤に青にと燐光を返している。
美しい景色だ。
しばらく外の景色に見とれていると、ふと、窓ガラスに銀髪の幼い少年が映っていることに気が付いた。
僕の向かいの席に座っているその少年は、どこか不安そうに眉を寄せていた。
「お父さんは僕をゆるしてくれるだろうか」
幼い声がそう言った。
視線を窓から車内へと移す。
向かいの席には相変わらず鴻上がぼんやりと窓の外を眺めながら座っているだけで、少年の姿はどこにもない。
窓へと視線を戻す。そこにはやはり、幼い少年が映っている。
「僕は、お父さんのためなら、どんなことでもしたかった。ほんとうなんだよ。お父さんが教えてくれた『しあわせな未来』のためなら、どんなことでも……」
声を小さく震わせる少年の向こう、真っ白な鳥が翼をはためかせ飛んできた。
落ち込んだ様子だった少年はそれに気が付くと、目を輝かせて窓に張り付き、鳥を眺めた。
「わあ、白鳥だ。なんてきれいなんだろう」
少年の映る窓越しに、窓の外を眺める。
彼の髪よりもなお白い大鳥が、鉄道に並走して飛んでいく。草原が途切れて、湖が現れる。きらきらと輝く水面を足で切り、白鳥は湖にすぃと着水する。
「ああ、カメラを持ってくればよかったなぁ」
窓ガラスの少年が、残念そうに、しかし高揚を抑えられない様子でそう呟く。
「そうしたら、お父さんにも見せてあげられたのに」
『次は飴が原~、飴が原~』
機械音声とも違う、どこかで聞き覚えのある声が、次の停車駅を告げる。
白鳥の湖が途切れて、再び草原が一面に広がった。
草原には小さな何かが跳ねていた。その何かは列車の光を返しながら、まるでダイヤモンドのように虹色に煌めいている。
何かは一つ二つではなく、近くの草むらから跳ねたと思うと、間髪入れずに遠くの草の間から現れたりもする。立ち並ぶ三角や四角の標を縫うように、いくつもの光が跳んでは草原に沈む。
カチン、と高い音を立てて、その何かの一つが窓へと張り付いた。
「!」
それを間近で見て、驚く。
それはバッタだった。
しかし普通の、草色やら枯れ葉色のバッタとは違う。
そのバッタの身体はまるで水晶のように透き通っていて、向こう側の色が透けて見えていた。当たった光が身体の中で乱反射して虹色の輝きを放っている。カットした宝石のように見えたのはそのせいだ。
花に化けるカマキリがいるのは知っていたけれど、宝石に化けるバッタがいるとは知らなかった。
「これはね、飴バッタだよ」
窓の中の少年が、覚えたての事を誰かに話すみたいな口振りでそう言った。
「体が飴でできていて、全身がエネルギー源だから、どこまでも飛んでいけるんだ。身体がなくなるその時まで、どこまでも」
へえ、と思って、しかしすぐにひとつ懸念が生まれる。
「雨が降って、溶けないのかな」
そう言うと、少年はこちらを振り返って「大丈夫」とはにかんだ。
「ここは銀河だから、降るのは雨じゃなくて星だよ」
少年は無邪気に笑いながら、まるで星を掴もうとするみたく夜空へと手を伸ばす。
『間もなく飴が原~、飴が原~』
アナウンスの声と共に、列車の速度がゆっくりと落ちていく。
着いた駅のホームには誰もいない。ただ、ガラス細工のような大樹が一本立っていた。
もしかしたらあれも飴なのかもしれない。
列車のドアが開いて、けれどここでは誰も降りも乗りもしなかったから、ドアはすぐに閉まった。
再び列車は動き出し、飴バッタの跳び交う草原を進む。
いくら見ても見飽きないその光景を眺めていると、やがて草がまばらになり、飴バッタは姿を消した。
景色は黒い岩肌の目立つ荒原へと変わる。
完全に草がなくなると、黒い大地と黒い夜空との境は曖昧になり、まるで列車ごと宇宙に放り出されたかのように錯覚してしまう。
黒の世界を、列車は進む。
真四角の岩だけを集めて積んだかのようなゴーレムヶ丘を越え、U字の軌跡を描く重力大橋を渡り、柱のような岩が何本も突き出た天楼林を通り抜け、どこまでも、どこまでも、列車は進む。
すると、まだ駅のホームは見えていないと言うのに、列車は減速を始めた。
『カラカラ鹿の群れが線路を横断しておりますため、当列車はしばらく停車いたします。ご迷惑をお掛けしております』
アナウンスが流され、列車が完全に止まる。
車輪がレールを走る音が鳴り止んで、代わりに窓の外から、からから、からから、と音が聞こえてくる。
開けた窓から顔を出して、音のする方を眺める。すると先頭車両の先に、角から体から蹄から全てが真っ白な鹿の群れが線路を横断しているのが見えた。
きっとあれがカラカラ鹿だ。
あの鹿の出す、からから、という音は、軽やかで、どこか優しくて、不思議と心を落ち着かせる。
「カラカラ鹿は目を持たないんだよ。でもあのひづめの音で、仲間とはぐれずにいられるんだ」
少年の言葉に、だから優しい音に聞こえるのだ、と納得する。あれは仲間を呼び、共に歩むための音だから。
「こんばんは。とても良い夜だ」
カラカラ鹿の音色に耳を傾けていると、窓の外から声をかけられる。
見ると、ブラウンのスーツに身を包んだ紳士が一人、黒い大地を歩いていた。
「こんばんは」と挨拶を返すと、紳士は窓の傍で立ち止まる。そして行く先の鹿の群れを見た。
「カラカラ鹿の渡り……もうそんな季節なんだな。盲いている彼等は、それでも行くべき道を間違えないという。本能、というものなのだろう」
感心したように頷く彼は、身一つで何も持っていないように見える。
それが、とても不思議に思えた。
「貴方は、どうしてこんなところに?」
この場所にあるのは黒い大地と峠と鹿の群れだけで、他には見える限り何もない。スーツで猟をしに来た、というわけでもないだろう。
「ここに用があるわけではない。ここはただの通過点だ」
「どこかに向かっているんですか?」
僕の問いかけに、紳士は少し困ったように腕を組んだ。
「どこ……というわけではないのだが。この線路を辿って、先へと歩いている」
紳士は線路の先に見える峠の方を指差し、そう言った。
「だったらこの列車に乗せてもらったらどうですか? 僕、車掌さんを探してきますよ」
立ち往生をしている今なら、事情を話せば乗せて貰えるんじゃないか。
名案だと思ったのだけれど、彼は首を横に振った。
「ありがとう、だが結構。私はもう、その列車には乗れないんだ」
「えっ、でも……」
当たり一面、駅さえも見当たらない。このまま歩いて先を行くというのは――――
「……この線路を、徒歩だけで辿るのは難しい」
思考が口から漏れてしまったかと目を見開く。しかしすぐに違うと分かった。
それは、それまでずっと静かだった鴻上の声だった。
鴻上は顔をあげると、紳士の蒼い瞳を真っ直ぐに見すえながら言葉を続ける。
「その装備では先の峠を越えるのも厳しいだろう。その先も、渡れない道があるかもしれない。危ない場所を通るかもしれない」
「……おい、鴻上」
何を言おうとしているのか気が付いて、止めようと声をかける。
「はっきり言おう――――無謀だ」
けれど僕が言葉を遮るよりも早く、鴻上は言葉を告げた。
「そんな言い方、意地が悪いだろ」
思わず苦言を呈すると、紳士が僕を手で制しながら「いいんだ」と首を横に振った。
「本当の事だ。無謀だと、私も分かっている。けれど私は行く」
鴻上は紳士を見つめる。紳士もまた、鴻上の目を見つめ返す。
「何故」
鴻上が短く問いかける。何故、どうして、厳しいと分かっている道を行くのか。
「分からない」
けれど紳士は、首を横に振った。
「覚えていない。思い出せない。けれど、これを辿って行けば、その先に大切な何かがあるような気がする」
それは、ずいぶんと曖昧な話だ。厳しい道を行くには、あまりにも頼りない道しるべに聞こえる。
「分からない何かのために、前を進めるのか」
鴻上が尋ねると、紳士は「進める」と頷いた。
「私は不器用だ。だから愚直に頑張る以外の方法を知らない」
『ご乗車の皆様、大変お待たせいたしました。間もなく列車が動きます。次はクリスタル峠に停まります』
アナウンスが聞こえて、汽笛が鳴った。列車の駆動音が、車内に低く響く。
「別れの時間のようだ」
紳士はそう言って片手をあげた。
「さようなら。君達の旅路が幸いなものであるよう、願っている」
「ありがとう、さようなら。あなたの旅路も、どうか良いものでありますように」
鴻上をチラリと見る。彼は短く「達者で」とだけ告げた。
その武骨な言葉に、けれど紳士は嬉しそうに頷く。
列車がゆっくりと動き出した。手を振る紳士の姿が少しずつ遠退いていく。
それを見ていると、なんだか無性に寂しさと後悔が胸に差した。
彼のために、何かしてあげられたら良かった。何か彼の助けになる親切を。けれどもう遅い。列車は走り出してしまって、もう二度と彼と会うことはないのだろう。
彼の姿を見送って、カラカラ鹿の群れの後ろ姿を見送って、列車は先へ先へと進む。
水晶の大岩が幾つも突き出るクリスタル峠を越えた先には、水の世界が一面に広がっていた。
水面は線路よりも高く、車輪は水を切り裂きながら回る。窓越しに水面を覗き込んでも、水面はゆらゆら揺れながら銀河を映すばかりで、深さはよく分からない。
そのことに、あのブラウンスーツの紳士のことが頭をよぎる。歩けるほどの深さなら良いのだけど。あるいはどこかの岸に小舟でもあれば。
そんな考えにふけっていると、がらがらがら、という音と共に車両を繋ぐ扉が開いた。
前の車両から歩いて来たのは、車掌服に身を包む長髪の男性だ。
車掌は僕達の座る席の横で立ち止まると、僕らへと向き直った。
「切符を拝見いたします」
そう言って彼は白い手袋をした手を鴻上へと差し出す。
聞き覚えのあるその声に僕は内心首をかしげたが、すぐにアナウンスと同じ声なのだと合点がいった。
鴻上は、ポケットから深緑色の乗車切符を取りだして車掌に渡す。
車掌はそれを一通り眺めると、一つ頷いて「ご協力感謝します」と鴻上へ切符を返した。鴻上はそれを上着の内ポケットへとしまう。
「切符を拝見いたします」
僕の番がやってきて、僕は切符を探す。
そもそも切符なんて持っていただろうか……と思ったが、それはすぐにズボンのポケットから見つかった。
緋色の切符だ。駅名らしき記載はなく、代わりに金インクで天へ吠える獅子が描かれている。裏面は散りばめられた金属の粒子がきらきらと光を返していて、まるで星屑のようだと思った。
車掌へ手渡すと、金色の瞳が切符を確認した。
「ご協力感謝します」
「これは、どこまで行けますか」
返却された切符を再び眺めながら、僕は車掌へと尋ねる。
「『縺倥e縺ソ繧≧』までです」
「えっ?」
「『縺倥e縺ソ繧≧』までです」
もう一度聞いても、やはり駅名が聞き取れない。
「ただし、当列車は途中で下車された場合、どういった事情であっても再入場出来ません」
それでは、と軽く会釈して、車掌は隣の車両へと去っていく。
「ライオンだ」
窓の中の少年が、僕の手元の切符を覗き込んで言った。
「オスのライオンはね、大きくなったら育った群れを出るんだよ。あたらしい仲間や生きていく場所をさがしに、旅に出るんだ」
白鳥や飴バッタやカラカラ鹿のときと同じように、楽しそうに少年は話す。
「ライオンは百獣の王って呼ばれているけれど、彼らはむしろ『挑戦者』なんだよ。だから強いんだ。生き物はそれぞれいろんな習性を持っていて、生き延びるための工夫があって、それが人間と似てたり、違っていたり、知れば知るほどおもしろいんだ」
おもしろいことは生き物の他にもあってね、と少年は目を輝かせて言葉を続ける。
「春にソメイヨシノがいっせいに咲く理由、秋に木の葉の色が変わる理由、朝に太陽がのぼる理由、夜に星が光る理由、山と川で石の色がちがう理由、海と空がおなじ色をしている理由……いろんなことの理由を知るのはおもしろくて、それから、世界がすこしだけ広くなる」
沢山の不思議を指折り数えて、少年は心から楽しそうに笑う。
自由だな、と思う。
気になることに手を伸ばして、好きなように世界を広げて。
「あっ、見て、あそこに木が生えてる! あれはマングローブかなぁ」
行く先に見える一本の大樹に気がついた少年は、興味深そうにそれを眺める。
僕はもう一度自分の切符へと目を落とす。
故郷を捨てて旅に出た獅子も、きっと自由だ。けれど、故郷を懐かしく思うことはないのだろうか。生まれた場所に帰りたくならないのだろうか。
僕は緋色の切符をポケットへとしまう。
水中から伸びる大樹の脇を通りすぎ、水の世界を列車は進む。
水は列車が水面を揺らす以外は遠くの方まですうっと凪いでいる。魚の気配もない。
列車の行く先を眺めていると、先の方で小さな何かがふわふわと宙を漂っているのが見えてきた。
それは白っぽい色をしていて、まばらにゆったりと宙を漂うものだから、なんだかスノードームの雪を彷彿とさせた。
段々と列車が近づいて、遠目では白い点でしかなかったそれの輪郭がはっきりしていく。
――――くらげだ。
たくさんの小さなくらげが、宙をふわふわと揺蕩っている。
『次は~くらげヶ浦~、くらげヶ浦~』
車掌のアナウンスが車内に響く。
「くらげはね、」
少年が、呟くように話し始める。
「体のほとんどが水で出来ていて、傷を負っても、触手がちぎれても、完璧に再生できるんだよ。老いて死んだら体のほとんどは溶けて消えて、残った体から幼体になって生き返るんだ」
語る少年の声は、先ほどまでと打って変わって凪いでいた。その声には、楽しさよりも寂しさが色濃くにじんでいる。
「お父さんはこういう生き物がとくに好きで、いろんな事を教えてくれた」
『間もなく、くらげヶ浦~、くらげヶ浦~。燃料補充のため、当駅にて十分ほど停車いたします』
水の世界に、屋根のない駅のホームがポツンと建っていた。
駅名の看板と待ち合いのベンチだけが申し訳程度に設置されたホームへと、列車は減速しながら入っていく。
看板の傍には、ひときわ大きなくらげが一匹浮いていた。
……いや、違う。傘だ。
くらげによく似た傘を指した女性が、一人佇んでいる。
薄桃色の瞳が僕達に気がついた彼女は、花開くようにふわりと微笑む。そして列車が完全に止まるのを待つと、彼女は空色のワンピースの裾を揺らしながらこちらへゆっくり歩み寄った。
「こんばんは」
彼女の持つ傘にくらげが二匹ぽよんぽよんと当たって跳ねた。
「こんばんは。乗らないんですか?」
降車口を指差せば、彼女は笑みを称えながら首を横に振った。
「私は旅人ではありません。ここで、友が来るのを待っています」
彼女の上で、また彼女の傘にくらげが当たって跳ねる。
跳ねて宙をゆっくりと回るくらげが、ぼんやりと白く光った。それにつられるように、周りのくらげが一匹、また一匹と発光し始める。
柔らかく瞬きながら、光るくらげは宙を舞う。触手がゆらゆらと揺らめく。
「綺麗ですね」
彼女も傘の下からくらげを見上げて、頷く。
「そらくらげは機嫌が良いときにしか光らないんです。私も、彼等が光るのを見るのは久しぶりです」
「じゃあ僕らは運が良い」
僕の言葉に、彼女は曖昧に笑った。
「確かに……旅先で美しいものに出会うのは、旅の醍醐味です」
彼女の薄桃色の瞳が、どこか遠い彼方を懐かしむように見つめる。
「私もかつてはあなた達のように旅をし、そして沢山の美しいものと巡り会いました」
「美しいものって?」
「心、です」
柔らかな微笑みとともに、彼女は語る。
「人が人を想う優しさ。隣に寄り添り合う温もり。言葉を交わし通じ合わせる想い。誰かのために差し伸べる掌。私の目にはそれらが満天の銀河の光より煌めいて、咲き誇る花々より色とりどりに映るのです」
彼女の笑みには嘘偽りなんて微塵も感じられず、けれどどうしてだか僕の腹の底にはどろりとした何かが渦巻く。
「それは……そんなに美しいもの、なのかな」
心とは、そんな風に賛美されるものなのだろうか。
心を持つからこそ、衝突することもある。
心を持つからこそ、残酷になれることもある。
心を持つからこそ、正しさを受け入れられないこともある。
優しくありたいと願っているのに、優しく出来ないこともある。
心は矛盾だらけで、ままならなくて、綺麗でいられるとは限らない。
今だって……こうして僕は彼女の思い出に水を差している。
「あなたは、思いやりのある人なんですね」
けれど彼女は穏やかな表情で僕を見上げた。
「光があれば、影も出来るでしょう……それでも、光が暖かなものである事実は揺るぎません」
そこまで言ってから、彼女は「ああ、」と声をこぼす。
「あるいは私の旅は、それを確かめに行くためのものだったのかもしれません」
列車が甲高い汽笛を鳴らす。もう、列車が出発するという合図だ。
彼女は一歩後ろへ下がって、列車から離れる。
「さようなら。あなた方の旅にも、美しいものが満ちあふれていますように」
「ありがとう。さようなら。あなたとあなたの待ち人が、良い再会が出来ますように」
ゆっくりと列車は走り出す。
傘の下、手を振って見送ってくれる彼女に、僕もまた手を振り返した。
ホームは遠退き、揺蕩うくらげが白の点になり、彼方に見えなくなっていく。
水の世界を列車は進む。やがてはそれも終わり、岸へ上がった列車は再び陸を走る。
列車は進む。
谷を下り、切り立つ崖を横切り、振り落ちる滝をくぐり、どこまでも、どこまでも。
窓の外では山下ろしの風がひゅうひゅうと吹き、それに応えて窓ガラスがかたかたと揺れる。
鴻上は目を瞑って俯いており、眠っているようにも見える。
窓ガラスに写っている少年は、静かに外の景色を見つめている。
僕はびろうど張りの腰掛けにゆったりともたれかかり、水の世界の中心で友を待っていた彼女へ、彼女の言葉へ、想いを馳せる。
美しいもの。
白鳥の群れ。飴バッタの飛翔。カラカラ鹿の音色。そらくらげの明滅。それら全てを見下ろす、煌めく銀河。
美しいもの、綺麗なものを、この車窓からたくさん見てきた。
なのに何かが満たされない。どれも何かが足りていない。
もっと美しいものがあるはずだ。目にするだけで喜びが溢れて、胸の内が温かくなって、ずっと傍にいたくなるような、そんな何かが世界のどこかにあったはずだ。
この列車に乗っていたら、見つけられるだろうか。
「あっ、ほら。やっぱりいた」
がらがらがら、とドアの開く音がして、そんな声が飛び込んできた。
声の方を振り返ると、襟元に深緑色の外套を羽織った隻眼の青年が、えんじ色のマフラーを巻いた金眼の青年の腕を引いている。
「僕の言った通りだったろ? さっき窓から影が見えたんだよ」
「分かった分かった、そう引っ張るな」
彼等は僕たちの方へと歩いてくると、それぞれ「やあ」と手を上げた。
「長旅に少しばかり退屈しててさ。キミ達も暇してるなら、僕らの話相手になってよ」
「連れが礼に欠いていてすまない。だが同じ列車に乗り合わせたのも何かの縁だ。君達さえ良ければ、少し付き合って貰えないだろうか」
隻眼の彼は気さくな様子で、対して金眼の彼は堅そうな印象を受ける。対照的な二人組だ。
特に断る理由もなかったから、僕は「大した話はできないけど」と頷いた。
二人は通路を挟んだ反対側のボックス席へと腰を下ろす。
「君達は、旅の連れ合いかな?」
金眼の彼が、僕と鴻上を交互に見てそう尋ねた。
「……いや、違うかな」
僕らはたまたま、同じ列車に乗っているだけだ。たまたま行く道が重なっているから、こうしているだけ。
「そうなのか。同じボックス席に座っているものだから、てっきり」
「まあ、知人ではあるから」
けど言われてみれば、どうして僕達は同じボックス席に座っていたんだろう。
同じ列車に乗っているのを見かけたとして、だからって相席を提案したりするだろうか。うたた寝から目覚める前、列車に乗った辺りの記憶がどうにも曖昧で思い出せない。
――――列車に乗る前に、海沿いに夜道を歩いていたことはぼんやりと覚えている。
――――今夜は海に星屑が輝くだろうと、草薙さんが教えてくれたから。
「そっちもそうとは奇遇だね。実はさ、僕達もたまたま合流した感じなんだよ」
隻眼の彼が、金眼の彼を指差しながら肩をすくめる。
「自由を愛する僕が、まさかこんな堅物と旅をすることになるなんてね」
「堅物とはなんだ」
「ホントのことだろ」
二人のやり取りから、彼らが気心の知れた間柄なのだと分かる。
「君は、この列車に乗ってどこへ行くつもりなんだ?」
金眼の彼に尋ねられて、考える。
「どこ……とかはないかも。とりあえず、行けるところまで行きたい……の、かな」
曖昧な答えに、金眼の彼は腕を組んで「ふむ、」と頷く。
「目的地のない旅、か。目標設定のない行為は往々にして無駄に消費されやすい。非効率で合理性にも欠ける」
あまりに直球過ぎる物言いに、そんな風に言わなくても、とつい唇を尖らせる。
しかし金眼の彼は笑みを浮かべて言葉を続けた。
「そう、思っていたのだがな。これがどうして、無駄な時間というのも、案外楽しいものらしい」
金眼の彼につられるように、隻眼の彼もくすくすと笑みを溢す。
「実は、僕達にも明確な目的地はないのさ。だからこの切符で行けるところまで行くつもりなんだ」
そう言って胸ポケットから取り出された彼らの切符には、『フェーンの煙雲』と書かれていた。僕の切符の行き先は分からなかったのに、どうしてか彼の切符の文字はハッキリと読める。
「列車を降りた後は?」
「気に入ればそこに留まるだろうし、気に入らなければ別の場所を探しに行く。行き当たりばったりではあるが、予測がつかないというのもなかなか面白い」
「僕達、ちょっと前までは目的がないと動けなかったからさぁ。こういうのってすごく新鮮だよ。……で、さっきからだんまりキメてるそっちのお前は? この列車に乗ってどこに行くのさ」
隻眼の彼は鴻上の方へと身を乗り出す。
「…………」
けれど鴻上は首を横に振り、答えることを拒んだ。
「ふーん、秘密の旅ってわけ。まあそれも良いんじゃない? ところでメガネ君、キミなんでそんなに薄着なわけ?」
さして気にした風もなく、隻眼の彼は興味を僕の方へと向ける。
指を差されて、僕は自分の服を見下ろした。
僕が着ているのは、薄手のパーカーとジーンズ。晩秋には少し心もとない格好。
「あれ、僕どこに上着置いてきたんだろ?」
家を出るときは、確かジャンバーを羽織っていたはずなのだが。辺りを見回しても落ちている様子はない。
それまでは全然気にならなかったのに、自覚すると急に肌寒さに襲われ、背筋を震えが走る。
「どこかに落としてしまったのか? 可哀想に。銀河でその格好は寒かろう」
金眼の彼がそう言って自分のマフラーをほどこうとするから、僕は慌てて手を振る。
「いや、悪いよ。僕は大丈夫」
「だが……」
彼が不自然に言葉を切ったのは、不意に辺りが薄ぼんやりと明るくなったからだ。光源は窓の外で、僕は反射的に窓を振り返る。
外を見ると、そこはいつの間にか風吹く砂の世界に変わっていて、砂の上には丸く灯った大小様々な焔がいくつも揺れていた。
リチウムよりも赤く、ルビーよりも透き通った美しい焔だ。それらは砂に煽られても風に流されても、掻き消されることなくゆらゆらと暖かな光を放っている。
炎と、風と、砂の世界。
「あれは蠍の灯火だな。ちょうど良い」
金眼の彼はそう言うと、窓を開ける。首に巻いていたマフラーを今度こそほどいて、端を掴んだままマフラーの逆の端を窓の外へと放る。長いマフラーが風に煽られて、弄ばれ、はたはたと上下に大きくはためいた。
「……よし、取れた」
言うや否や、金眼の彼はマフラーを引いて手繰り寄せる。マフラーの先には、焔が移っていた。
「まっ、燃えてるっ!」
焦る僕を他所に、金眼の彼はマフラーを揺らして焔を自分の手元へ落とす。
焔はマフラーからするりと離れて、今度は彼の手のひらの上で煌々と燃え上がった。
「何やってんの!?」
思わず腰を浮かせると、隻眼の彼が笑いながら僕を手で制した。
「大丈夫、蠍の灯火だから。ほら、これ見てみなよ」
そう言って彼は金眼の彼のマフラーを指差す。
先程まで焔の灯っていたはずのマフラーは、しかし焦げた跡などどこにもなかった。
「蠍の灯火は燃やす焔ではない。この灯火は何も傷つけない」
彼は手に持った灯火をこちらへと差し出した。
戸惑いながら両の手のひらを出すと、その上に焔がほとりと落とされる。
焔が手のひらに触れた瞬間、反射的に身体が強ばったけれど、そこに火傷するような痛みはなかった。
手のひらから、熱めのお風呂くらいの温かさがじんわりと腕を伝って、肩へ上り、心臓から全身へと広がっていく。背筋の辺りが、じん、と心地よく痺れた。
「あったかい」
「そうだろう、そうだろう」
金眼の彼は腕を組むと、妙に誇らしげに胸を張る。
「どんな旅を行くとしても、熱を失って進める道はあるまい。これからは気を付けるんだぞ」
「いや、なんでそんなに偉そうなの」
ありがとう、と言うつもりだったのに、思わず言葉がついて出た。
「分かる、こいつたまに必要以上に偉そうなんだよ」
隻眼の彼がすかさず頷いて、金眼の彼は僕達二人を交互に見ながら不服そうに眉を寄せた。
「そんなことはない。私はただ普通にしているだけだ」
「はー、指摘するとこれなんだよなぁ」
「これとはなんだ、これとは」
言い合う二人を尻目に、僕は浮かせていた腰を席へと下ろそうとして、けれど思いとどまった。
「鴻上」
名前を呼ぶと、鴻上はこちらを見る。僕は両手に乗せた焔をそれぞれの手に半分に分けて、片手分を差し出した。
僕の言いたいことが分かったのか、鴻上は制すようにこちらに手のひらを向けて、首を横に振る。
「必要ない」
「いいから」
向けられた手のひらに無理やり焔を押し付けて、そのまま焔から手を離す。落ちそうになる焔を鴻上は渋々と言った様子で受け取って、けれど二秒ほどの空白の後に彼が、ほう、と吐息をこぼしたのを僕は聞き逃さなかった。
やっぱりお前も寒かったんじゃん、と思う。そんな青白い顔しておきながら、必要ないなんてよく言うよ。
窓の中でも、少年が片手分の焔を両手に抱えて、「あったかい」と笑みを浮かべている。
半分になった焔を両手に抱え直して、僕は今度こそ腰掛けに腰を下ろした。
「ねえ、蠍の灯火って呼ぶのは、砂漠だから?」
問いかけると、隻眼の彼と軽口を叩き合っていた金眼の彼はこちらを振り返る。
「いいや。空で燃え続ける蠍の逸話からだ」
そして彼は語り始める。バルドラの野原というところにいた、一匹の蠍の逸話を。
――――曰く、その蠍は、多くを殺して食べてきた。もちろん生きるためだ。けれどある日蠍はいたちに襲われ、そのままがぶりと食べられそうになってしまう。蠍は生き延びるために懸命に懸命に走った。いたちもまた、今日を生きるため蠍を追い詰める。いたちの前足に捕らえられた蠍は今にも食われてしまう、というところで最後の力を振り絞る。もがき、暴れ、あわや前足から抜け出すものの、近くの井戸へと落ちてしまう。井戸は深く、蠍はどうしても地上へ上がれない。蠍は力尽き、水に溺れ、沈んでいく。
沈む最中、沢山の命を奪って生きておきながらこうも虚しく死ぬ事を、蠍は心の底から悔いた。あの時いたちに食われてやれば、いたちは一日でも生き延びることができただろうにと嘆いた。
そして最期の時、蠍は天に祈りを捧げる。もしも次があるならば、どうかその時はこんなに虚しく命を捨てず、多くの誰かの幸いのために私の身体をお使いください、と。
祈りが聞き届けられたのか、死に行く蠍は自らの身体が赤い赤い焔となって夜の闇を照らしている夢を見たのだという。
その焔は永劫に燃え続け、人々に光と温もりを分け与えているのだという。
「まあ、ここで燃えている灯火が、本当に逸話の蠍のものなのかは分からないけどね。逸話の灯火は消えないはずだけど、この焔はほら、そうやって熱を与えたら小さくなって消えちゃうし」
隻眼の彼の言う通り、手の中の焔は先程までに比べて明らかに小さくなっていた。代わりに身体からは寒さが消えて、芯がポカポカと暖かい。
「どうであれ、私達に優しい熱を分け与えてくれるのは同じだ」
僕は金眼の彼へ頷いた。
それから僕達は他愛もない話をした。
車窓から僕らが見てきた景色を彼等も別の車両から見ていて、あの飴バッタは風を掴むのが上手かったとか、カラカラ鹿が何匹いたのか数えていたのだとか、水の世界は泳げないから苦手だとか、でもくらげは好きだとか、そんな話をずっとしていた。
鴻上が相変わらず黙ったままで、それは別に良いのだけれど、窓の中の少年までずっと大人しかった事だけが少し気になった。
嫌そう、というよりはどちらかというと困ったような顔をしていたから、もしかしたら人見知りなのかもしれない。
彼等との会話はとても楽しくて、居心地が良くて。つい、この時間がずっと続けば良いのにと思ってしまうほどで。そんな幸せな時間ほど、本当にあっという間に過ぎていく。
手のひらに抱えた蠍の灯火が完全に消えてしまった頃。
気がつくと、窓の外に広がっていたはずの砂原を煙の波が覆い隠していた。
「煙なのに、下を這っている」
吹きすさぶ風や列車の車輪に波打つことはあっても、宙へと舞い上がることはない。
「あれはただの煙じゃないよ。煙雲さ」
隻眼の彼が言う。
「煙雲は高濃度の空気の塊だから、上を歩くことができるんだ」
楽しいよ、と笑う彼に頷きながら、煙雲、という単語に覚えがあることに気がついた。
『次はフェーンの煙雲、フェーンの煙雲』
タイミングを見計らったかのようなアナウンスの声に、覚えのある駅の名前に、僕は二人を見る。何も言わずとも、金眼の彼は笑って頷いた。
「ああ。次が私達の終着駅だ」
「あっという間だったね。君らのおかげでまあまあ楽しい時間を過ごせたよ」
列車がゆっくりと減速し始めて、二人は席を立つ。
「…………寂しい」
言葉は、思わず口をついて出ていた。
そんなことを言っても仕方がないことは分かっている。彼らの切符はここまでで、この先へは行けない。最初から決まっていた別れだ。
分かっている。けれど、それでも、寂しい。
「ああ、私もだ。ここで道を別れねばならない事は、とても寂しい。けれど旅とはそういうものだ。出会いと別れ、その繰り返しこそが旅なのだ」
諭すように金眼の彼が言う。その言葉に、僕は頷き返すことができない。
「ほらほら、二人して湿気た顔するなよ」
隻眼の彼が、空気を軽くするように笑った。金眼の彼も頷く。
「彼の言う通りだ。別れが必定なら、せめて、笑顔で別れよう」
二人は笑っていた。だから僕も、どうにか顔に笑みを作って、彼等を見上げた。
「じゃあね。お前も、それからそっちのだんまり君もお元気で」
彼はそう言うと、後ろ手に手を降りながらさっさと降車口へと歩いて行ってしまった。
「あっ、おい…………まったく。すまないな、彼はこういうのが苦手なんだ」
呆れたようにため息をついて、金眼の彼は改めて僕ら二人に向き直る。
「ありがとう、旅の友よ。君達の行く旅が素晴らしいものであると、そう信じている」
「ぼく、も…………っ、…………」
僕も彼に言葉を返そうと口を開いて、けれど喉が詰まって続かない。
言いたいことも伝えたいことも沢山あって、だからこそ、何を言えば良いのか分からない。
もう、時間がないのに。もう彼は行ってしまうのに。
――――とん、と足の先に何かが当たった。
視線を落とすと、それは鴻上の足だった。ふっと息が通って、詰まっていた喉が開く。
僕は今度こそ彼の金の目をまっすぐに見た。
「……ありがとう。君と出会えて、一緒にいられて、嬉しかった。君達も元気でいてね」
彼は笑って頷いた。僕も、きっとちゃんと笑えていたと思う。
彼は降車口へと歩いていく。僕は席を立って、彼が列車を降りていくのを見送る。
列車のドアはしまり、再びゆっくりと動き出す。
窓を見ると、二人の姿が見える。手を振ると、彼等もまた手を振り返してくれた。
列車が彼等のいる駅を発って、二人の姿はあっという間に見えなくなる。
「……………………さようなら」
僕はどうしても言えなかったその言葉を、見えなくなった駅の方を見つめながら小さくこぼした。
「……鴻上、ありがと」
「何の事だ」
顔を見ずに礼を言うと、白々しい言葉が返ってくる。相変わらず、こういうところがいけすかない男だ。
『煙雲峠を潜りますので、乗客の皆様は窓をお閉めください』
アナウンスの声と共に、白い煙が大波のように溢れて、窓の外をすっぽりと覆い隠してしまった。
白、白、白。
窓からは煙がうねっている様子しか見えず、外の様子は何も分からない。上を歩けるのだという煙雲の山も、さすがに列車は乗ることができないのだろう。
最初の内はまた変わった場所に来たなあ、とただ白いばかりの窓を見つめていた。
白、白、白。
けれど、いつまでたっても白が晴れないと、だんだんと不安が胸に積もる。たまに、ぱちぱちと煙の中を雷電が弾けたりするものだから、余計に不安は強くなる。
僕らは今、どこを旅しているのだろう。
本当に安全な場所だろうか。危険な場所じゃないだろうか。
白、白、白。
一体いつになったら、この白の世界から抜け出せるのだろう。もうすぐだろうか。それともずっとこのままなのだろうか。
僕達はいつまで、この白い世界に閉じ込められなければならないのだろう。
白、白、白――――
「だいじょうぶだよ」
幼い声が、ゆっくりとした口調でそう言った。いつの間にか俯いてしまっていた顔をあげる。
「おそろしいことなんて何もないよ。ここは銀河だから、かなしいことなんて何もないんだ」
そう言って少年はもう一度「だいじょうぶ」と繰り返した。
その言葉に呼応するかのように、窓の外の煙が薄くなり、そしてさあっと晴れる。
煙を抜けた先には、野原が広がっていた。
朽ちて欠け崩れたいくつもの白い像と、それらの間を埋め尽くすように咲き乱れる黄色い花。
『次は春雷ニューゲート、春雷ニューゲート』
アナウンスが流れて、それから数拍置いて車両のドアが開いた。
誰かが列車の降車口へと向かって、一歩一歩ゆっくりと歩く。
足音の主は僕らの席の横を通り抜けようとして、けれど立ち止まって僕らを振り返った。
「……驚いた、君達もこの列車に乗っていたのか」
そこにいたのは褐色の肌の男で、僕も鴻上も、彼の顔には覚えがあった。
彼の背中には見知らぬ少年が眠っていた。少年は、どこか彼の弟に似ている。
「君達とは一度は一つとなったからか、それとも……」
考え込むようにそう呟いて、男は苦笑しながら首を横に振った。
「……いや、この銀河でそんな推測をすることは野暮、というやつなのだろうな」
男は視線を僕らから、僕らの後ろの窓へと移す。つられて窓の外を見ると、宙をちらちらと揺蕩うような光の動きに目を奪われた。
「黄金アゲハの群れか。美しいな」
褐色の男が、窓の外を見て言った。
「金箔の翅を持つ蝶。金は腐食しない不変の元素だ。転じて、不変不滅の象徴でもある」
不変不滅。けれどあの黄金の蝶達は、触れただけで崩れてしまいそうに見える。
朽ちた神々の像の上を金の蝶は踊るようにひらひらと舞う。
「不滅であらんと願われ、生まれた私達だったが……もう間もなく、私達は旅を終える。生に悔いはない。旅に未練はない。だがそれでも私は君達を、旅を行くには弱く儚い君達のことを想ってしまう」
男を振り返る。男は僕らを見下ろしながら、静かに言葉を続ける。
「私達の旅が、君達にとっては許容しがたいものだった事は分かっている。だが、それでも私は君達を想っていた。石につまづき転ぶ痛みを、道に迷う心細さを、雨に降られる凍えを、全て取り除いてやりたいと、そう願っていた」
その言葉に嘘はないのだろう。
彼の思想は理解できなくても、手段に納得が出来なくても、彼の手を取ることを選べなくても、彼がより良い未来を求めただけだった事は、僕にも分かっている。だから。
「心配してくれてありがとう」
そう言うと、彼は驚いたように眉を上げて、それから溢すように微笑みを浮かべた。
「……要らぬ心配、だったのだろうな」
『間もなく、春雷ニューゲート、春雷ニューゲート』
アナウンスを掻き消すように、遠くから荘厳な鐘の音が聞こえてくる。それを聞いた男が、顔を上げて窓の外を見た。
「嗚呼……弟が……ハルが私を呼んでいる」
彼は背中の少年を背負い直す。
「さようなら。君達から多くを奪った私に言われたくはないだろうが……それでも、君達の旅路に数多の幸福があらんことを」
「ありがとう、さようなら。あなた達も、幸せであってくれたら嬉しい」
ありがとう、と言って彼は、列車の降車口へとまたゆっくりと歩き始める。背中で眠る少年が起きてしまわないよう、ゆっくりゆっくりと。
列車が止まり、彼は列車を降りていく。降車口のドアは閉まり、列車は走り始める。
列車は進む。僕達を乗せて、どこまでも。
ありがとうとさようならを繰り返し、どこまでも、どこまでも。
銀色の角を持つ羊の群れを見送った。透ける草の原を越えた。空を渡る雪星を見た。
窓から見える景色はどこもかしこも美しくて、けれどまだ僕は、どこかにあるはずの『そこ』を見つけられていない。
見つけられていなかった。――――ここに、辿り着くまでは。
星の光る夜の下、真っ白な穂で溢れる湿原が広がっている。風を切る列車に煽られた穂が、綿毛を飛ばしながら波のように揺れている。
直感的に、ここだと思った。
この窓枠越しに様々な景色を眺めてきたけれど、ここの景色がなんだか一番心地よくて、暖かくて、ひどく安心する。
薄く開いた窓から綿毛が、ふたつ、みっつ滑り込んでふわりと落ちた。
同時に、懐かしい香りが鼻をくすぐる。
小麦とバターの焼ける香り。土っぽいバジルの香り。ベビーパウダーの香り。シプレの香水の香り。
古い思い出を呼び起こす香り。
それに引き寄せられるように、遠く穂の波の一点を見る。穂の波の中からこちらを見つめている二つの人影を見る。
ああ、そうか。
二人がいるから、ここはこんなにも心地良いのか。優しくて、暖かくて、安心できるのか。
『間もなく穂村~、穂村~』
列車の速度が遅くなり、駅の看板も埋もれる穂の波の中央で列車が止まる。ドアが開く音が聞こえた。
『お足元にお気をつけください』
僕は席から腰を浮かせた。
ここで降りよう。降りて、駆け寄って、両腕で思いきり抱き締めて。あの日帰れなくてごめんなさいって、僕もずっと会いたかったんだって、そう伝えるんだ。
今度こそ僕は、二人のところに帰るんだ。
席を立ち、一歩踏み出そうとしたその瞬間、銀髪が視界の端を掠めた。
咄嗟に身体が固まる。
駆け出したいと、足が、身体が、震えていた。
なのに耳の奥に、ざあざあと電子世界の雨音がちらついて離れない。
帰りたい。帰りたい。あの二人のところへ帰りたい。それだけをずっと願っていた。
――――けれど。
「………………ごめん。まだ、帰れない」
僕は、ぎゅう、と拳を握り締める。
だって僕の旅はまだ終わっていない。行けるところまで、行っていない。
二人から貰った焔を、相棒に焚き付けられた焔を、遊作達にわけてもらった焔を、魂を、僕はまだ燃やし尽くせていない。
ごめん、ともう一度口の中に謝罪をこぼす。
視界が滲んで、胸の奥から嗚咽が込み上げた。
『ドアが、閉まります』
アナウンスのあと、静かに降車口のドアが閉まる。
穂波を、二人を置き去りに、ゆっくりと列車が走り出す。
僕は窓を開け、そこから体を大きく乗り出した。
「――――大好きだよ!」
車輪の音にかき消されないように、遠ざかる二人に届くように、いっそ喉が裂けても良いくらいに力一杯に叫ぶ。
「僕、二人のことずっと、ずっと大好きだから!」
溢れる涙が風で流され散っていく。小さくなっていく彼らの影を見る。
二人は、手を振っていた。
「「 」」
遠すぎて表情は見えない。声も聞こえない。
それでも僕には分かった。二人が僕を笑って送り出してくれているのだと、ちゃんと分かった。
「……うん、行ってきます……!」
だから僕は応える。またいつかの彼方、本当の意味で旅を終えたそのときに、二人に『おかえりなさい』と言って貰うために。
二人の姿はどんどんと遠くなっていって、やがて完全に穂にのまれて見えなくなってしまう。
僕はしばらく遠くの穂の波を見つめ続けてから、のろのろと窓を閉めて、席へと腰を落とした。
ぼろぼろと、涙が顎を伝って流れ落ちる。
手のひらで拭っても拭っても、涙は溢れて止まってくれない。
だって、分かっていたって、振り切ることなんて出来ない。今でさえ、二人のところへ戻りたくて仕方がない。
「擦るな」
知った低い声が、僕の嗚咽を縫って耳に届く。
顔をあげると、鴻上はハンカチを差し出していた。僕はそれを受け取って目蓋を押さえる。
ハンカチからは磯の香りと、知らない洗剤の香りがした。
「君は、強いな」
鴻上の言葉に、僕はハンカチに顔を埋めたまま首を横に振る。
「強くなんかない。僕は、いつだって弱いままだ」
弱くて、だから何度も立ち止まりそうになる。うずくまって動かずにいれば、それ以上傷つくことはない事を知っている。
…………でも。
「僕はここに来るまで、たくさんの灯火を貰ってきたんだ。前へ進むための灯火を、たくさん。それがまだ燃えているのに、捨ててしまうなんてできない。ただ、それだけだよ」
僕が今ここにいるのは、それだけだ。本当に、ただ、それだけ。
「それが『強さ』なのだと、私は思う」
ハンカチから顔を上げる。鴻上は穏やかな表情で、僕の見慣れない表情で、僕の事を見つめていた。
「お前も、僕に灯火をくれたよ」
そう言うと、鴻上は少し驚いたように目を丸くして、それから微笑みを浮かべた。
「……そうか。それなら、私も誇らしい」
僕はかなり恥ずかしいことを言ってしまった気がして、窓の方へと顔をそらす。
「 」
鴻上が小さな声で何かを呟いた。けれど、列車の走る音に掻き消されてしまって何を言ったのかは分からなかった。
夜空の下を列車は進む。僕達をのせて、どこまでも進んでいく。
白樺の森を過ぎ、砕けた黒雲母の原を抜け、山吹色の草の輝く丘を越え、どこまでも、どこまでも。
先のやり取り以来、鴻上はまた何も言わなくなってしまった。
少年は相変わらず、めくるめく外の景色に目を輝かせている。
細い川が現れて、列車は川を並走し始める。飛沫をあげるそこを覗くと、ぱしゃりと真っ白な魚が跳ねるのが見えた気がした。
その川の向こうにも、幾本もの細い川が流れているのが見える。
それらは徐々に互いの距離をつめ、二本が交わって一本になったり、また二又に分かれたりを繰り返す。
何本もの川は入り乱れる内に全てが一本にまとまって、大きな河川へと変化する。
流れる河川に沿って列車は走る。
白い魚が何匹も水面を跳ねて、大きな鳥が魚を狙って空高くから河へと飛び込んだ。
「あっ」
それに気がついた少年が、声をあげて大鳥を指差した。
「見て、鴻だよ。僕とおんなじ名前の水鳥」
白い身体に黒い翼を持った鴻という大鳥は、一羽また一羽と集まって、列車に並走するように力強く翼をはためかせる。
それを少年は楽しそうに見上げる。
『次は鴻上~、鴻上~』
告げられた駅の名前に、僕は目を見開いた。
「お父さんがいる駅だ!」
窓の中の少年が嬉しそうに声をあげる。
到着を待ちきれないといった様子で、窓の中の少年は降車口の方へと駆けていった。
それに続くように、鴻上もまた、席を立つ。
「待、ちなよ」
嫌に胸で跳ねる心臓に喉を詰まらせながら、それでもどうにか声をかけると、鴻上がこちらを見た。
「お前の駅は……ここじゃ、ないだろ」
鴻上は少し視線をそらして、それから首を横に振った。
「私の駅はここだ」
「嘘だ。お前の切符、まだ、行けるんだろ?」
彼の本当の終着駅なんて知らないけれど、でもまだ『その時』ではないはずだ。まだ、旅を続けても良いはずだ。
「私はここで降りたいんだ」
そう言って笑う男の顔は、やっぱり僕の知る鴻上了見とは全く違っていて、僕はそれが嫌で嫌で仕方なかった。
鉄道の速度がゆっくりと落ちていく。
『間もなく鴻上~、鴻上~』
鴻上が降車口へと歩いていく。僕は席を立って、それを追いかける。
「なあ、行くなよ」
喉が、声が、震える。
「行くなって」
「これまでも」
僕の声を遮るように、鴻上の低い声が言う。
「君は多くの者を見送ってきただろう」
まだ閉じている降車口のドアの前で、鴻上は立ち止まった。
「さらばだ、穂村尊。私も、君の旅路の幸いを願っている」
列車が完全に停止する。ドアがゆっくりと開いていく。
ドアの外に、白衣の男が立っているが見えた。
その男を目にした鴻上はとても嬉しそうに――――あの窓に映った少年と同じ、幼い笑みを浮かべると、その足を外へと踏み出す。
出した足が駅のホームへと着地するその寸前、僕は頭の中が真っ白になっていた。
ガタン、と大きな物音を立てて、僕は床に尻餅をつく。腕の中には重たい熱があって、目を開いて見下ろすとそれが鴻上だと気がついた。遅れて、鴻上を無理矢理引き倒したのだと頭が理解する。
一瞬の静寂。
それを引き裂くように、鴻上は声にならない声を上げながら、立ち上がろうと腕の中でもがいた。
「――――離せ!」
「いや、だ」
声を荒げ暴れる鴻上を、僕は力づくで押さえ込む。
「は、なせぇ!」
掴まれた腕に鴻上の爪が強く食い込んだ。それでも抱える腕は緩めなかった。
「父さんっ……!」
鴻上が白衣の男へと手を伸ばす。しかし男はその場に立ったまま微動だにせず、口を開くことさえもしなかった。
ただ、どこか寂しさの混じる瞳で、あがく鴻上を見下ろしている。
『間もなく、ドアが閉まります』
アナウンスの声が響いて、がちん、とドアのロックが外れる音がした。どこにそんな力があったのか、鴻上は抑える僕の腕ごと身体を起こした。
しかし、鴻上の伸ばした腕の先で、鉄道のドアはゆっくりと閉まっていく。
「とう、さん……!」
がちん、とドアを再びロックする音が鳴り響き、駅から車内は完全に隔絶される。鉄道はホームを置き去りにして再び走り出した。
「ぅぐ……あ……あ゛あああああ……!!」
掌で顔を覆い、男は呻くように声を上げる。
鴻上のその気持ちが痛いほど分かってしまって、彼を抱える腕が震えた。
「…………ごめん」
こんなのは僕の独り善がりだと分かっている。それでも。
「それでも僕は、お前まで失いたくないよ」
列車が坂を下る。
河川は、黒い海へと至る。
バシャン、と音を立て、列車は銀河を映す黒い海の中へと進む。
窓から、床から、天井から、真っ黒な水が溢れ、満たして、僕達二人を飲み込んだ。
――――ごぼりと、口から空気が抜ける。
痛みにも近い冷たさが全身を突き刺した。目を開いてみても、真っ暗な闇の中で何も見えない。
それでも両腕の中にある冷たい体の感触だけは確かで、それを引き寄せてしっかりと抱き締めた。
足で水を蹴り、薄く光る方へと進む。
ばしゃん、と派手な音ともに顔が水面を突き破った。
「っは、げほっ」
息を大きく吸おうとすると、口に残った塩辛い水が気管に入りそうになって大きく噎せる。腕の中の鴻上も同じように背を丸めて噎せ込んでいた。
息を整えると、強い潮の香りが鼻を突く。辺りを見渡せば、水面に星屑の光る黒い海が広がっていた。
スターダストロードだ。
その星屑の淡い輝きに、記憶が断片的によみがえる。
――――スターダストロードにはしゃいでいた子供の短い悲鳴。
――――その一瞬後に響いた、重い水音。
――――振り返った先に見えた、尻餅をついて呆然と海を見ている子供の姿。
――――子供のすぐ傍に投げ出された見覚えのある鞄。
――――直前にすれ違ったはずなのに、姿の見当たらない知人。
――――事態を察した瞬間、頭が真っ白になって。
――――僕は考えるよりも早く駆け出していた。
――――上着を道に脱ぎ捨てて、ガードレールを飛び越える。
――――僕は、星屑の光る黒い水面へと真っ直ぐに飛び込んだ。
おおよその事を思い出した僕は、星屑の輝く水面を掻きながら上がれそうな岸を探す。
「……こども、は、」
水を掻く音の合間に、凍えた声が耳に届いた。
「ガードレールのとこにいた子なら、無事だよ」
「そう、か……」
少し先に岩場を見つける。
寒さにどんどん固くなっていく身体をどうにか動かし、泳いで、たどり着く。
先に鴻上を岩場に押し上げてから、僕も岩場へと乗り上げた。
秋風が濡れた身体に容赦なく突き刺さり、奥の歯がカタカタとかじかむ。
けれど僕よりも鴻上だった。暗い中でも鴻上の顔色が土色をしているのが分かる。彼の薄い身体は憐れなほどに震えていた。
彼の冷たいばかりの上着を剥ぎ取って、僕も張り付くパーカーを脱ぎ捨てて、彼の身体を腕の中へと引き寄せる。
その時、腕に沁みるような痛みが走った。見ると、腕に血の滲む傷が何本も走っている。
けれど今はそんなことを気にしている場合ではない。
僕は後ろから、なるべく密着するように鴻上の身体を抱き締める。少しでも熱を作ろうと腕で身体をさするけれど、鴻上の震えは酷くなる一方だった。
だが幸いなことに、上の道路からは騒ぎ声が聞こえてきている。
草薙さんがあそこで店を出していたから、騒ぎに気付いたあの人ならきっと必要なことをしてくれている。助けはすぐに来るはずだ。
大丈夫、助かる、と自分に言い聞かせながら目の前に広がる海を見る。
空の銀河と、海の星屑が、遠くの水平線で交わっている。
あの鉄道から見た世界に比べれば、輝きは小さく、彩度も低い。星の数も少ない。
それでも、十分だ。僕らが生きるには十分だ。
「ゆめをみた」
鴻上が震える声で小さく呟いた。
「うつくしい、銀河のゆめを」
「それはただの夢だよ」
腕の中で、鴻上はぎこちなく頷いた。
「ああ、そうだな。あれはただの夢だ。都合のいい、ただの……」
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。こちらへと向かってくる。
それでも、彼の目は星の光る海面から離れない。
僕はサイレンの音に耳を傾けながら、腕の中の男がまた星屑の中へと飛び込んでいってしまわないよう、強く強く抱き締めていた。