そこに、かつて「王国」があった
「そう、何かあるかもしれんねえ、この町には」
生真面目な表情でそう話すのは、地元の郷土史家・林扶美夫さん(82歳)だ。
林さんは陰謀論者でもなければ、安易にデマに加担するような人ではない。
古くから「田布施地方史研究会」の代表を務め、地元に関する歴史発掘に努めてきた歴史家だ。
当然、「田布施システム」なるものは一笑に付す。
そんな林さんでも、田布施には不思議な歴史の文脈が流れているのだという。
「かつて、このあたりは熊毛王国と呼ばれていました」
天皇すり替えどころの話ではない。
王国である。
ただし、弥生時代の話だ。
「熊毛地方(田布施を含む近隣地域のこと)は、かつて瀬戸内海の要所であり、人や文化の集積地点として栄えました」
大和朝廷が完成するまで、人口が集中する地域は独自の小国家をつくった。
そのひとつが「熊毛王国」だったらしい。
町内に古墳が多いことも田布施の特徴だ。
現在、確認されている古墳の数は85基。
山口県で最古の古墳である国森古墳も田布施の町はずれにある。
また、そうした海上交通の要所という"地の利”から、大和朝廷成立後も、朝鮮半島や中国大陸とは交易の中継点として繋がりをもった。
この地に渡来人が住み着くケースも少なくなかった。
「田布施システム」を"朝鮮人支配"と結びつける説も、実はそこが根拠となっている。
実際、7世紀の「白村江の戦い」(朝鮮半島の白村江を舞台とした倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争)では、戦後、多くの朝鮮半島出身者が日本に渡り、その一部は田布施で下船し、そのまま定着したという。
「いまでも、その痕跡は町内に残っていますよ」と、林さんが教えてくれたのは、「神籠石(こうごいし)」の存在だ。
「要するに"朝鮮式山城"と呼ばれる遺跡です」
日本に渡った朝鮮半島の人々は、敵の来襲に備えて山城をつくった。
切り石を、レンガを積むように並べる手法は中国大陸由来とされ(万里の長城も同様の積み方である)、これが後に「朝鮮式山城」と呼ばれるようになった。
「つまりね」と林さんが続ける。
「遠い地域の文化が残されている。
人が行き来している。
こんな小さな町でも、歴史を紐解けば、世界と繋がっているんだよ」
林さんが「何かある」というのはそういうことだ。
神籠石が物語るもの
私は神籠石、つまりは朝鮮式山城を探すべく、町のはずれ、光市との境界にある石城山の山中に入った。
アップダウンの激しい山道を歩き、突然視界が開けたその先に、神籠石は残っていた。
確かに形状は「レンガ積み」だ。
日本の城壁で用いられる石垣(菱形の石を組み合わせた形状)とはまったくの別物だ。
こんな山奥に、朝鮮半島の文化が生きていた。接点があった。
「朝鮮人支配」などというバカバカしい偏見の正体は、おそらくこれだろう。
「支配」なんかじゃない。
これは、異なった地域が、国が、それぞれの歩みを進めながら、どこかで繋がっていたという証拠なのだ。
そうした文化の交差点で、たまたまふたりの総理大臣が輩出された。
権力構造を説明するに都合の良い「天皇すり替え説」が生まれ、それを信じる人々がいた。
それだけの話だ。
「システム」を匂わせるものなど、この町には何一つ残っていない。
田布施に残るのは、歴史の営みだ。
東アジアの槌音だ。
そして、歴史をつくってきた人々の息遣いだ。
整然と積み上げられた神籠石が、そう訴えているようにも思えた。
(文中一部敬称略)