<戦時中、佐渡にいた朝鮮人の話(再掲載)>
世界遺産で揉める前は朝日新聞もこのような微笑ましい記事を発信していた
この記事から奴隷とか強制の雰囲気を感じられるだろうか。そんな悲惨な経験をしたら「佐渡は故郷」というだろうか。
<朝日新聞 2002年02月06日 朝刊>
劉英烈さん(いま隣人と サッカーW杯を前に:1)
■ 終戦から45年が過ぎていた。 「大川くんっ」 佐渡の相川小学校の同窓会。渡部睦男さん(71)は、スーツ姿の劉英烈さん(71)を見つけたとたん、思わず声をかけた。佐渡で小学、旧制中学時代を過ごした劉 さんが、再び島に足を踏み入れた。 「むっちゃん」 劉さんも笑みで答えた。 劉さんはソウルで、従業員約千人の1部上場の建設会社の専務となっていた。ほころぶ口元はあのころのままだった。 「いつまでたっても彼は大川ですから」 渡部さんは劉さんを少年時代のころのように呼ぶ。 「大川昭六」 戦時中、劉さんはそう名乗っていた。
■学級の人気者 1910年の日韓併合。劉さんの父親がその翌年、農学校を卒業、郡主の補佐官兼通訳となった。日本化が進められ、思想弾圧が繰り返された。父親もまた、日本の高 等警察に絶えずマークされていた。ある日、日本の警官と口論となり、朝鮮にいられなくなった。日本に渡った。 結婚して三条市に行った。「大川」と名乗り、古鉄を集める古物商を営んだ。くず鉄を工場に売りながら食いつないでいた。昭和5年(1930年)、息子が生まれ た。「昭六」と名づけた。佐渡鉱山で出るくず鉄を求め、佐渡島に渡った。 相川小学校に入学。渡部さんと出会った。
6年間、同じクラスだった。劉さんが外国人だということは、みな知っていた。朝鮮半島の人たちを「鮮人」 「半島人」と呼び差別していた時代。でも、劉さんは人気者だった。自習時間には「おい、大川。何か話をしてくれ」。 クラスメートのリクエストにこたえ、近所の貸本屋で借りた童話を話した。 「うまかったなあ。抑揚を込めてね。地獄へ行った3人が、えんま様を困らせてしまう話なんて今でも思い出す」と渡部さん。 卒業後、2人は違う旧制中学に入った。 やがて、学徒動員で新潟市の新潟鉄工所へ。一部屋10人の寮に入り、電気溶接をした。やけに厚い鉄だと感じていた。のちに、爆薬を積んだ小型特殊船艇だと知っ た。終戦。玉音放送は工場で聞いた。 45年9月。劉さんと家族は福岡にいた。朝鮮行きの船を待っていた。両親の口から日本語が出ることは、なかった。両親が朝鮮語で会話をする。「いやだ。いやだ」 と日本語でごねた。やがて劉さんの口からも日本語が消えていった。
■同窓生の一言 再会は偶然だった。20年前。東京で暮らす劉さんのいとこが相川町の旅館を訪れた。劉さんの小学時代の同窓生が営んでいた。劉さんのことが話題になった。 「大川に連絡をとりたい」。同窓生の一言が、劉さんとの交流に結びついた。 「大川、元気だったか」 「朝鮮戦争は大変だったな」 話は尽きなかった。
外国からわざわざ来てくれて、うれしかった。劉さんにとって、「大川」の名に抵抗はない。佐渡で過ごした、あの名前は思い出そのものだ。 「佐渡は故郷」 劉さんは懐かしそうに、そう語る。 今年、日韓共催のサッカーワールドカップ(W杯)が開かれる。「日本は昔から朝 鮮半島に住む人たちを、征服された人たちだと根底に思い、また、韓国は征服した日本人たちを憎む。打ち解けることがなかった両国がいま、手をつなぐことはうれし い」と劉さんはいう。
昨年末、渡部さんのもとに劉さんから日本語で書かれた年賀状が一足早く届いた。 「2年間、相川に行っていないが、今年は呼んでくれるんだろう」 同窓会はいまも続く(終)