人間の善と悪の正体<人間は人間にどこまで残酷になれるのか>

辛すぎるとオダギリジョーのオシッコ飲みたいみたいになる

広島旅行記その1、その2を書いてからというもの、完結編を書きたいんだがと思いつつ、そんなこと言ってられなくなってまいりました……という新たな辛さと遭遇する日々で、辛さをどこかに書きたい!でもハテブは次は旅行記書かなきゃいけない!みたいなジレンマの中、更新を避けていたのだけれど、こりゃあまりに辛いし完結編をすっ飛ばして書いたっていいだろう!と謎の自己完結で結局違うこと書いちゃう。もう書いちゃう。辛すぎてオダギリジョーのオシッコ飲みたいみたいな衝動に駆られてきてて危ないので書いちゃう。

集団心理、村に要注意

最終学歴中卒マンっていうかなんなら保育園中退(中園?)という無双の学歴を持つワイなのだが、なんやかんやあって30代手前で大手外資へ入りキャリアウーマン的なのに擬態しつつ、色々あって虚無ってやめて、次行ったら色々ありすぎて虚無ってやめて、次行ったら色々ありすぎて虚無って現在に至る(←イマココ)

どこいっても村っていうか村なんよ。。。。村人Aも村人BもCもZもみんな村がすぎるんよ。。。

集団心理というか群集心理というか、ほんま怖いわ…というのは最近の兵庫の選挙でも感じたし、それを思った人は多いのではないかと思うんだけど、こちとらなんなら当事者としてめちゃくちゃ渦中っていうか数年単位でずっと渦中っていうか、人間って暗いっていうか、どうしてこう人の暗さを引き出してしまうんだろうっていうかどこ行っても標的にされがちなのだろうと途方に暮れる日々。そう、途方に暮れるというのが1番適切。辛いとか苦しいとかじゃない、その下の層には途方に暮れるがある。あるぞ……!

どうして人は人をいじめたくなるのか

そういうことを考える日々だ。どうしても考えざるを得ない。そういうことが自分の身に降りかかり続けている。「それは何かに気づくべきシグナルだよ!(^○^)/」とかそんな一般論どうだっていいのよ。意味も何もかもクソ喰らえ。クソ喰らえなのよ。

一般論で片付けられないスーパーイレギュラーな問題に直面する時、本当に孤独で、孤独ゆえに自分を感じるというか。自分を感じすぎて先日辿り着いた感情は「あぁ……道になろう」「踏まれても踏まれても、もう道になろう…」「道になるしかないな。ここで自分が乗り越えて同じ苦しみを抱える誰かの道になるしかない…」ということだ。

人は残酷だ。残酷性を持った生き物だと思う。善も悪も両方、しかも同じ分量みんな持ってる。わたしはそう思う。それを出すか隠すか、どのぐらい出すか、確実にみんな選んでいる。そう、選べる賢さと愚かさが人間にはある。

人間が悪に飲まれていくとき、それは本当に伝播する。善よりもよっぽど早く、雪崩のように悪に飲まれていく。それが群衆だと尚更。村八分みたいなことに巻き込まれて,自分が八分される側になるとき、本当に言いようのない気持ちになる。人の悪意をたっぷり吸い込んで、胸が詰まる。それはプライベートも蝕んで、どんどんと「自分は無価値な生き物なのではないか」と知らぬ間に思わせる怖さまである。

八分する側は大抵、(これはどの村でも共通) 笑ってる。薄気味悪くみんな笑ってる。そういう笑顔を浮かべたあと、よく家族や大事な人に顔向けできるなとわたしは毎回怖くなる。こういうことがわたしに起きてるということは、きっと社会の至るところで一定数起きてるんだろう。

社会はよくならないといけない。そのためには人間が大事だ。個々が善を出す意識を常に持ちながら、崖に立たされた時も善でいる、善を選択できる強さが必要だし、その連帯が必要だとヒシヒシと思う。

だから今は踏まれてるけど、わたしが道になればいいんだ。最近毎日毎日泣きながら、それでも前に、前方向に進もうともがきながら、そういう結論に今のところ辿り着いている。そして、「途方に暮れる→道になろうと思う→オダギリジョーのおしっこ飲みたいと思う」からのハテブを書いている。

朦朧とするほどイレギュラーかつ想定外のことに囲まれながら、なんとか外気を吸うべく道を歩いているといつもの桜並木の根っこ付近に新たな木が生え始めていて心底安心する。朦朧とただ暴風に飛ばされぬよう爪先だけで繋がっているような「正常さ」の輪郭が濃くなる。正常だ。大丈夫だ。そんな気持ちになる。

もうわからないだけが解

こないだ近しい人と定例でやってる読書会的なやつの中でホロっと自分の近況を話した際に「この状況は異常である」という客観性をいただいてひどく安堵した。

(なお、本は“飼い食い”という本で、著者の異常性や豚が虐め合う様などに思いを馳せる楽しさのある本です。 https://www.amazon.co.jp/飼い喰い――三匹の豚とわたし-内澤-旬子/dp/4000258362 )

夢みがちなことを言うと、タイムリープするとしたら、自分の人生の要となる分岐点か、ものすごい幸せな瞬間を選ぶと思うのだけど、ものすごい辛い場面にばかりタイムリープし続けてるようなそんな気すらするというか、過去の経験則も自信も自愛も何も役に立たないし、どうしていいかわからないという解だけが大きく横たわっている。しかも見上げると頸椎捻挫しそうなほど高い。

人の意見で安堵するのはズルというか、全部自分で決めなきゃと課してるところがあるのだけど、それでももらえた見解が、自分が「ひょっとして…」と薄々思っていたものだと安心してしまう。湿度の高い朝に葉についた露を見ると安心するのだけどそれに似てる。意味も一般論ももう何もいらない。安心して生きたい。わたしは、安心して生きたいだけだ。