書き下ろしSS

却聖女 3

交際十秒

「ところで、交際したら普段と何が変わるんですか?」
 十秒前に交際が開始したエーレに聞いてみた。エーレは交際開始前及び交際開始時と変わらぬ動作、いつもと変わらぬ書類仕事を続けながら私の問いを聞いた。
 当然、答えもそのまま返ってくる。
「当代聖女への交際申し込みを阻む際、神殿の公務以外の個人的な理由が挟まる」
「エーレとの交際を公表したら申し込み自体が止まるのでは?」
「その程度で、当代聖女に交際を申し込むような頭の螺旋が外れた奴らが止まるわけないだろう」
「まさに当代聖女の交際相手である今のお気持ちをどうぞ」
「悲しい」
「悲しい」
 本などを読むに、交際を開始した人間の多くは浮かれるものらしいが、エーレの胸に去来する感情は悲嘆らしい。
 正しい反応である。
 エーレは勿論、私と交際を開始した事実を知ったエーレを愛する人々も嘆き悲しむだろう。ついでにアデウス全土及び世界も絶望の坩堝に叩き込まれる。
 どうしてこんなことにと、誰もが悲しむ事態に陥ったのは何故か。それは。
「あれ? 交際の申し込みってエーレからじゃありませんでしたっけ? 私からでした?」
「俺からだな」
「ですよねー。よかった、ついさっきの記憶失ったかと思いました」
「そう簡単に記憶を失って堪るか」
「ですよねー」
 よかったよかったとしみじみ頷きながら書類をさばくエーレを見るという作業を続行していたが、はたと気付く。
「あれ?」
「別に話を逸らしたわけでもないのに、勝手に逸らされていくの何なんだ」
「不思議ですよね」
 そこで一段落ついたのか、エーレはようやく顔を上げた。大きく伸びをした後、書類の一山を抱えて立ち上がり、その山を私の前に置いた。聖女が最終確認をしなければならない書類である。
 これは逃げてもどうにもならず、神官長達を困らせるだけの事態に陥るのだ。だから大人しく取りかかる。
 エーレも席に戻り、続きの書類を裁きにかかった。ここでどれだけさばけるかどうかで、明日遊びに行けるかどうかが決まるのである。
「エーレ、どうして私と交際してるんですか?」
「好きだからだな」
「へぇー。奇特ですね」
「本当にな」
 インクがなみなみと入った大きな硝子瓶に、ペン先を突っ込む。これが五回ほど空になったら、今日の仕事は目処がつく。予定だ。私とエーレの手が滅び、カグマに治療してもらうまでが予定である。
「お前はどうなんだ」
「何がですか?」
 インクつけすぎた。これはインクがぼたりといく。
「どうして受けたんだ」
「エーレが好きだからですね。たぶん」
 書類が台無しにならないようぎりぎりを見計らい、力加減を調整していく。いけるか、どうか。全ての神経を集中させ、慎重に力を籠める。
「たぶんは余計だろ」
「だって私が抱く感情が俗にいわれる恋慕の情かどうか、誰も確かめようがないじゃないですか。私の胸を切開して開けて確認できるならそうしてほしいんですが、私の肉を開けても中には臓物しかありませんし。だから自分で色々照らし合わせた結果、たぶんそうかなとは思うんですけど。これが正しい答えだと確信を持つには至らず。あの神官長に、情操教育は壊滅的と言わしめた私ですよ」
「確かにな。お前の情緒は壊滅的だ」
 ぎりぎり、ぎりぎりなんとかいけた。書き始めの線は少々円に近い太めな物だけれど、許容範囲と言えるだろう。
「そのお前がそういう結論に至っただけで快挙だな」
「エーレにとっては不運かと」
「そうか?」
「そうでは?」
 不思議そうに返ってくるとは思わなかったので、首を傾げながら視線を向ける。すると同じ状況のエーレと視線が合った。
「だってこれで婚姻関係に到達すれば、エーレの生涯は私に侵食され続けることが確定するんですよ?」
「両者好意による同意で成された婚姻関係は、人生の侵食とは呼ばない」
「そうなんですか?」
「そうなんだ」
「へぇー」
 でもそれは私が対象ではない話だと思うのだ。
「一般的には幸いと呼ぶ」
「へぇー」
 だって私なのだ。
「だから一応、俺も幸いだ」
 私であってしまうのだ。
 ぼたりと小さな振動が指に伝い、はっとして視線を落とす。先程難を逃れたはずの書類に、見事な黒の丸が描かれていた。どうしてだか、少しぼんやりしてしまったのでやらかした。
 真っ黒な丸はじわりとその周囲を侵食するも、追加のインクが落ちなかったことでそれ以上の広がりを見せない。だがこの書類はもう駄目だ。何せ王城とも共有する書類である。
「私、エーレのそういう、好意や愛情を恥と思わないところ好きですよ」
「甘やかされて育った貴族の三男らしいだろう」
「甘やかそうとしたら燃やしてきたってお兄さん達言ってましたけどね」
「あれは甘やかしではなくただの過保護だ」
 これは後で書き直そう。自分で仕事を増やしてしまった悲しみを噛みしめつつ、処理済み書類の隣にひらりと置く。これ以上増えないことを祈ろう。
 もうぼんやりしないよう気合いを入れつつ、次なる書類に取りかかる。そういえばさっきはどうしてぼんやりしてしまったんだったか。
 再び余所へ向かおうとしていたはずの思考が、不意に散る。散った事実でさえも無と化して、ぶつりと。
 しまった。ぼんやりしていて書類を駄目にしてしまった。これは後で書き直そう。
「羞恥の概念がないお前にちょうどいいだろ」
「そういうものなんですか?」
「そういうものだ」
 なんかよく分からないがそういうものらしい。
「だから結婚するぞ」
「そういうものなんですか?」
「そういうものだ」
 なんかよく分からないがそういうものらしい。
 ずっとなんかよく分かっていないが、エーレが言うならそうなのだろう。
 エーレにとっては不運だろうが、これからの時間がエーレと重なり続ける約束がこの世界に生まれ出た瞬間、私が抱いたこの温かくむず痒い感情は、やっぱり恋だの愛のそういうものであっていると思うのだ。
 だからエーレは本当についていない。
 仕事ができすぎるが為に、集まる仕事は山の如し。美しすぎるが為に、集まる面倒は海の如し。それらを捌き、撃退できてしまう神力と魂を持つ故、変質することなく彼のまま在り続けられるが為に、良くも悪くも彼を取り巻く環境が変わることはない。
 その上、私なんかとの未来を確定させようとしているのだから、目も当てられない事態だ。こんなに何もかもを持ち得ているというのに、それらから得られるであろう人生における優位性全てを失うと同義である事態に陥っているのだから、本当に不運な人である。
 この瞬間、エーレは世界で一番不運な存在となった。
 それなのに私の瞳に映るのは、機嫌がよさそうな顔で穏やかに笑っているエーレなのだから、本当に不思議な人である。