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命の終わりと始まりと―ヒトリエwowakaが人間に遺したもの【音楽文移植その9】

 『希死念慮』という言葉をご存知だろうか。
 要は死にたいと願う事なのだが、『自殺願望』という言葉に比べ具体性のない漠然とした死にたいという思い。それが『希死念慮』というものである。

 人生誰しも一度くらいは死にたいと思うことだってあるだろう。もちろん私も例外ではない。
 しかし死にたいという思いとは少し違う、死ぬってなんだろうという疑問や、『死』という物そのものへの漠然とした思いをずっと抱えながら私は生きている。さながら『希死念慮』を水で20倍ぐらいに希釈したもの、とでも表現すべきだろうか。
 毒にも薬にもならない、ただ漫然とした仄暗い液体。
 かれこれ20年近く、それは私の内臓の奥の方にずっと漂うように居座り続けている。

 幼い頃から、『死』についてぼんやりと考える事が多かった。
 人生において一番初めの『死』との対峙は、中学に入学してすぐ父方の祖母が亡くなった時だっただろうか。
 祖母が亡くなる前日の夜、ぐっすり眠る妹2人を置いて私だけが父に呼び出された。「お前にはもう分かるだろうから、先に伝えておく」と前置き、祖母の命が長くない事を伝えられた事を鮮明に覚えている。
 その翌日妹たちが大声で泣き叫ぶ声で目が覚めた。「おばあちゃん、昨日の夜亡くなったから出かける支度をしなさい」と生気のない声で私に呼び掛けた母の声も、今でもはっきりと思い出す事ができる。

 火葬が終わり、私が抱えられる程の木箱に収まってしまった祖母を車の助手席で抱えながら、「お葬式は生きてる人の為の物だよ」と独り言ちる。そんな私を、喪主を務めた父は運転席から一瞥し「そういう言葉はここだけにしておきなさい」と静かな声で窘めた。
 日頃から自分に墓は要らない、死んだら海に散骨してくれと宣っていた父だからこそ、私のこの気持ちを理解してくれると思っていた。そして同じように父にも、悲しみを真正面から受け止められない娘の強がりや意地が、透けて見えていたんじゃないかと思う。

 当たり前の事だが、数日後には私は再び日常の中に居た。
 入学したばかりの中学で、入部したばかりの部活動に追われる日々。そんな中で、ふと思い出したように今の自分の生活と祖母の死について考える。
 生きていた頃の祖母には、月に1度会うか会わないかぐらいだった。その時と今を比べても、何も変わらないじゃないか。
 確かに祖母は死んでしまった、2度とこの世で会うことは出来ない。けれど私の生活は祖母のいない時間が大半で、祖母が死んでしまってもそれが変わる事はない。

 『死』って何だ?
 普段携わりのない相手が、遠くで生きている事と何が違う?
 相手に対峙することのない、大半の私に流れる時間の何が変わる?
 交わる事のない、生と死の点と点。その思想は思春期の頃の私に、自殺願望として形を変え陰りを落としたこともある。大人になっても私は、時折そんな物思いに耽ることがあった。
 そんな折に、ヒトリエwowakaの訃報をネットニュースで知ることとなる。

 元々学生時代をニコニコ動画に齧り付いて過ごした私には、未だにヒトリエのボーカルと言われるより現実逃避Pという彼の呼び名の方がしっくりくる。
 その為、彼の訃報を聞いた時にはあのwowakaさんが、という驚きの方が強かった。

 VOCALOIDプロデューサーwowaka。2010年前後にニコニコ動画やVOCALOIDに親しんでいた人で、その名を知らない者はいないだろう。
 VOCALOID楽曲が投稿され、それを『歌い手』と呼ばれる存在が歌う。そんな潮流の中で所謂VOCALOIDだからこそ出来る楽曲を次々と発表し、あの米津玄師を以てしても、VOCALOIDらしさを確立させたアーティスト、VOCALOID界にこの人ありと言わしめた存在である。
 『歌ってみろ』なんて挑戦状を叩きつけるかのようなタグが一躍世に広まったのも、彼の作品からだったのではなかったかと記憶している。
 例に漏れず私もそんなwowakaの楽曲が好きだった。やってみろと焚き付けられればやってみたくなるのが人間の性で、多くの当時のVOCALOIDファンと同じように彼の楽曲をカラオケで歌い、うげえ難しいムリムリ、と友人たちとひとしきり盛り上がったりもしていたのである。

 だからこそ、当初はヒトリエの楽曲を全く聴かなかった。
 機械の歌姫が歌うからこその曲の魅力があると言うのに、何故それを彼は人として歌おうとするのか。
 懸念通り私の想像していたwowakaの曲とヒトリエの曲はやはり全く違うもので、すでにVOCALOIDもあまり聴かなくなってしまった私にとっては、それ以来彼の音楽は遠く離れた所で存在するものという認識となっていった。

 あまりにも早すぎる逸材の死を、多くの音楽に携わる人々が悼んだ。その中で私は、自分が想像していた以上にヒトリエというバンドとして、彼がどれほど愛されていたのかを知った。
 その愛を以てして、もう一度ヒトリエをちゃんと聴いてみようと思った。 
 そうしてヒトリエを聴き始めた私は、その楽曲の中でwowakaという人が、ヒューマニズムとテクノロジーの命題の中で。人間の存在意義を探し続けた、稀代のアーティストであったということを知ったのである。

 科学技術の進歩した今、音楽は人間だけが創り出すものではなくなった。もっと言えば音楽を創り出すのは、人間でなくてもよい時代となった。
 VOCALOIDという機械の歌姫の存在に慣れ親しんだwowaka自身が、きっと誰よりもそれを知っていた筈だろう。これまでのように、VOCALOIDを歌わせる存在として音楽を作り続ける道も彼にはきっとあったはずだ。
 しかしそれでも彼は、自身の生身の身体を用いる事を選んだ。『歌ってみろ』と叩きつけられた挑戦状に、自らの身を以てして答えることを選んだ。
 音楽というカルチャーの中で、人間に出来なくて機械に出来ることの次元を越え、機械に出来なくて人間に出来ることを模索する為に。彼は、ヒトリエというバンドを選んだのではないだろうか。

 ちなみに、音楽に関しては人間に出来て機械に出来ない有名な事が1つある。
 それは音楽を『終わらせる』事なんだそうだ。
 永遠の命を与えられている機械には、終わりという概念はない。その為、創り出した楽曲を閉じる、畳むといったことが出来ないのだそうである。
 彼の訃報を聞いた際、彼の残したヒトリエというバンドの進退を考えながらふと思い出したこの話に、彼の死ですらもその答えとなってしまったのか、と少し虚しくなってしまったことを覚えている。

 しかし、そんな彼の死から今現在1つの矛盾が生まれている。
 ヒトリエというバンドは、まだ終わらないのだ。
 彼の家の機械の歌姫は埃を被り、きっと二度と歌う事はないのだというのに。

 これまでフロントマンを亡くし、それでも歩みを止めなかったバンドを数多く知っている。
 日本でもメジャーな存在だとFishmans、bloodthirty butchers、そしてフジファブリックなどなど。
 上記のバンドと命の重さや、その存在の重さを比べる訳では無い。しかし奇しくもその中にヒトリエが仲間入りした事に、wowakaの生涯を賭けた問の答えがあるのではないかと思う。
 人間の理を超え、終わりを迎えてなお、もう一度始まる物がある。
 それがヒューマニズムとテクノロジーの狭間に浮かぶ、wowakaがその命を賭して辿り着いた、我々人間の答えなのではないだろうか。

 昨年の夏、7年闘病生活を続けた母方の祖父が亡くなった。
 実家から離れて暮らす私は、やはり生前祖父に会うことは最近ほとんどなく、祖父が亡くなった後もやはり日常の暮らしはすぐに戻ってきた。
 それでも、最後の別れの挨拶で読み上げられた、亡くなった祖父との暮らしを綴った祖母の手紙には涙を堪えることが出来なかった。そこには確かに、2人のこれまでの数十年分の毎日の暮らしがあった。
 彼が亡くなった時、あなたと出会えて幸せでしたと、私もこんな風に胸を張って言いたい。
 私が自身の最愛の人と新しい家族になることを選んだのは、そんな思いからだった。

 祖父の一周忌の際、墓前で新しい自身の生活の報告をした。晴れ姿を見せるのが、間に合わなくてごめんね、と。
 きっとこうして、人間としての営みは連綿と続いていくのだろう。これまで何十人、何百人の自分の先祖たちが紡いできた家族という名のバトンを、私は繋いでいくという選択をしたのだから。

 人間は必ずいつか終わる。数十年後かもしれないし、1年後かもしれないし、明日かもしれないし、10秒後かもしれない。
 目の前を猛スピードで走る列車に1歩を踏み出せば、料理を作る右手の包丁を今すぐ自分の腹に突き立てれば、自室にぽっかりと空いた窓からちょっと身を乗り出せば、今すぐ、終わる。
 そんな存在だからこそ、今すぐにでも終わっていいぐらいの速さで、私たちは毎日を生きなければ。
 そうしてあわよくば、その速さの先に残していけるものが、この命にあるかもしれないと信じて。 
 そう思いながら、私は今日も『死』というものについてぼんやりと考えを巡らせている。

 イヤフォンの中では、今日もwowakaがヒトリエの曲を歌っている。
 『作者不詳の子守唄』は、これからも未来永劫残り続ける。
  まるで彼が、この世からいなくなったことが嘘のように。

《ねえ、あいをさけぶのなら あたしはここにいるよ
ことばがありあまれどなお、このゆめはつづいてく
あたしがあいをかたるのなら そのすべてはこのうただ
だれもしらないこのものがたり
またくちずさんでしまったみたいだ》
ヒトリエ-アンノウン・マザーグースより

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