昭和歌謡の職人たち 伝説のヒットメーカー列伝

吉田拓郎(下)演歌歌手からアイドル、都会の大人の女性まで…さまざまな楽曲を提供 何でもござれのすさまじい引き出しの多さ

拓郎の世界観で新たな一面を見せたキャンディーズ
拓郎の世界観で新たな一面を見せたキャンディーズ

かまやつひろしの「我がよき友よ」(1975年、吉田拓郎作詞作曲)は当時、新しい宴会ソングとしてみんな輪になって歌ったものだ。かぐや姫の「神田川」(73年)の時代背景と同時期だから、この2曲で「神田川よき友よ」なんて映画ができそうである。

吉田拓郎
吉田拓郎

姉の好きな歌謡曲をよく聴いていた吉田拓郎は高校時代、友人に誘われて高校生バンドのエレキギターの演奏を見て「僕もこれでやろう」と決めたそうだ。その後、バンドを結成し、曲を作り始めた。好きな女の子ができるたびに曲を作った。まるでピカソが女性と付き合うたびに作品が変遷するのと似ている。

人気の上昇に合わせて楽曲依頼が増えていった。提供した作品は実に幅広いが、歌手の特異性、方向性があるので作詞は自ら手がけることは少なかった。

フォークバンド「猫」に「雪」「地下鉄に乗って」を提供し売れっ子作曲家になる。衝撃的だったのは演歌歌手の森進一の「襟裳岬」(74年、岡本おさみ作詞)だ。作曲が吉田拓郎と知って組み合わせに驚いた。

このヒットで音楽業界では「森進一は日本のロッド・スチュアートだ」という人まで現れた。森は演歌歌手なので、演歌特有のコブシ、泣き節ばかりと思い込んでいたが、歌手の力量があれば幅広い可能性を引き出すことができるということを教えられた。

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