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YouTuberヒカル、ヒカキンに対し勝利発言「ぶっちゃけ余裕」
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【トラベル】~~第二講座~~
1
:
名無しさん
:2024/11/26(火) 10:17:35
1.13 論理的空間内の全事実が世界だ。
1.2 世界は諸事実に分解する。
1.21 ひとつのことがらは、その他の総ては同じままに、あるいは成り立ちあるいは成り立たないことがあり得る。
2 成り立っていることがら、事実は諸事態の存立〔das Bestehen〕だ。
2.01 事態は諸対象(諸事物、諸々のもの)の結びつきだ。
2.011 ものにとって何らかの事態の成分になり得ることは本質的だ。
2.012 論理においては何も偶然的ではない。ひとつのものがひとつの事態に現われ得るならば、当の事態の可能性はそのものにおいて予め定められているはずなのだ。
世界は諸事実に分解する。、とはてきとうに書いたものであるという。1.21では、成り立つこととと不成立のことがたしかにあり得るという文脈である。
2では、成り立っていることがら、事実は諸事態の存立だ。、というのも上手い書き方である。
諸事態の存立=成立=事実、という考え方であるようにも見受けられる。
2.01にある「事態は~~結びつきだ。」というのはてきとうに書いたらしい。
2.011における「ものにとって何らかの~~本質的だ。」というのはてきとうであるという。
私はウィトゲンシュタインがてきとうに書いたことを、許せない気持ちとして湧いてきた。
てきとうに書いた作品が他にもあるという現実に、ウィトだけではないのだから、と慈悲を出そうと思った。
ーーーーーー
2.0121 もっぱら単独で存立し得るものに、あとから何らかの状況が当てはまったならば、それはあたかも偶然のように見えることだろう。
どんなものでも、それが何らかの事態に現われ得るならば、そのことはとうにそのもののうちに在るはずだ。
(論理的なことがらはただ可能なだけではあり得ない。論理はあらゆる可能性を扱い、総ての可能性は論理の事実だ。)
そもそも空間的対象を空間の外に、時間的対象を時間の外に考えることなどできないように、我々はどんな対象も他の諸対象との結びつきの可能性の外に考えることはできない。
ひとつの対象をひとつの事態の脈絡において考えることができるとき、私はそれを当の脈絡の可能性の外に考えることはできない。
この「~~外に考えることはできない」という書き方もてきとうであるらしい。
2
:
名無しさん
:2024/11/26(火) 10:45:17
2.0122 ものは、それが総ての可能な状況に現われ得る点では、自立的だが、この自立性の形式は、事態との関聯の一形式、非自立性の一形式だ。(言葉が、単独でと文の中でとで、ふたつの相異なる仕方で現われることは不可能だ。
この「「自立的だが、自立性の形式は、」もてきとうに書かれたものである。「事態との関聯の一形式、非自立性の一形式だ。」というのもてきとうである。
「(言葉が、単独でと文の中でとで、ふたつの相異なる仕方で現われることは不可能だ。」という文章もてきとうあるそうだ。
2.0123 ひとつの対象を知っているとき、私はさらにそれの諸事態における現われの可能性全部を知っている。
(そうした可能性は何れも当の対象の本性のうちに在るはずだ。)
あとから新たな可能性が見出されることはあり得ない。
これは詭弁である。ひとつの対象を知っているとき、⇒それの諸事態における現われの"可能性全部"を知っている、とは偽であるからだ。
2.01231 或る対象を知るには、私はたしかにその外的属性を知る必要はない――しかし、その内的属性の総てを知る必要がある。
これもてきとうな文である。外的属性を知る必要はない、という根拠が薄い。
2.0124 総ての対象が齎されているならば、それとともに総ての可能な事態も齎されている。
2.013 あらゆるものは、謂わば可能な諸事態から成るひとつの空間の中に在る。私は、その空間を虚だと考えることはできるが、その空間を伴わないものを考えることはできない。
2.0131 空間的対象は無限の空間の中に在るはずだ。(空間点はアーギュメントの座〔eine Argumentstelle〕だ。)
視野の中のひとつの場所は、もちろん赤いとは限らないが、何らかの色はもっているはずだ。それは謂わば色空間を周りにもっているのだ。音は何らかの高さをもっているはずであり、触覚の対象は何らかの硬さを、以下同様。
2.014 対象全般は総ての状況の可能性を含んでいる。
2.0141 ひとつの対象の諸事態における現われの可能性が、当の対象の形式だ。
2.02 対象は単純だ。
2.0201 諸複合体についてのどんな言明も、当の諸複合体の全成分についてのひとつの言明およびそれらの複合体を完全に記述する諸文へと分析され得る。
2.021 全対象は世界の実体を成す。だから、対象は合成されてはあり得ない。
2.0211 世界が何の実体ももたなかったならば、或る文が意味〔Sinn〕をもつかどうかは、別の或る文が真であるかどうかに依存することだろう。
2.0212 その場合、世界の像なるものを(当否はともあれ)デザインするのは不可能だろう。
「~~デザインするのは不可能だろう。」とはてきとうに書いた文章である。
2.022 どんなに現実の世界とは異なって想像された世界も、何か――或る形式――を現実の世界と共有しているはずなのは明らかだ。
2.023 この不変の形式はまさに全対象から成る。
2.0231 世界の実体は、何らかの形式を規定し得るだけであり、マテリアルな属性などひとつも規定し得ない。マテリアルな属性全般は特定の諸文によって初めて表わされる――対象全般の配置によって初めて形成される――のだから。
これも詭弁である。マテリアルな属性などひとつも規定し得ない。……とは、そして、マテリアルな属性全般は特定の諸文によって初めて表わされる……というのも、対象全般の配置によって初めて形成される、というこの2.0231はすべて詭弁である。
3
:
名無しさん
:2024/11/26(火) 10:59:56
2.0232 大雑把に言えば、対象全般は無色だ。
2.0233 同じ論理的形式をもつふたつの対象は――それらの外的諸属性を別にすれば――もっぱらそれらが相異なっていることによって区別されている。
2.02331 或るものが他の何ものももっていない諸属性をもっている場合、ひとはそのものを或る記述によって他のものの中から簡単に浮かび上がらせ指し示すことができる。一方、そうではなくて、それらのもつ属性全部が共通しているような幾つかのものが存在する場合には、そのうちのひとつを示すのはそもそも不可能だ。
というのは、ひとつのものが何によっても際立てられないならば、私はそれを際立たせることなどできないからだ。そんなことができたならば、それはまさに際立てられてあるのだから。
2.024 実体は成り立っていることがらとは独立して存立するものだ。
2.025 それは形式と内容だ。
2.0251 空間、時間、色(有色性)は対象全般の形式だ。
2.026 諸対象が存在する場合に限り、世界の不変の形式は存在し得る。
2.027 不変のものと存立しているものと対象はひとつのものだ。
2.0271 対象は不変のもの、存立しているものであり、配置は変化するもの、不安定なものだ。
2.0272 諸対象の配置は事態を形成する。
2.03 ひとつの事態において当の諸対象は鎖の環のように互いに組み合わさっている。
2.031 ひとつの事態において当の諸対象は一定の仕方で互いに係り合っている。
2.032 ひとつの事態において当の諸対象が関聯し合っているその仕方が、当の事態の構造だ。
2.033 構造の可能性が形式だ。
2.034 事実の構造は諸事態の構造から成る。
2.04 存立している事態の総体が世界だ。
2.05 存立している事態の総体は、また、どの事態が存立していないかを規定する。
2.06 現実は諸事態の存立および非存立だ。
(我々は、諸事態の存立をポジティヴな事実、非存立をネガティヴな事実とも言う。)
2.061 事態全般は互いに独立している。
2.062 或る事態の存立ないし非存立から、別の或る事態の存立ないし非存立が推論されることはあり得ない。
2.063 全現実が世界だ。
2.063の「全現実が世界だ。」とは頷けるものであろう。2.0232の「対象全般は無色だ。」とは偽であろう。
4
:
名無しさん
:2024/11/26(火) 11:11:53
3 事実の論理的像は思考〔der Gedanke〕だ。
3.001 「或る事態が思惟可能である」とは、我々がその事態の像を自らに齎し得ることを意味する。
3.01 真な思考の総体は世界の像だ。
3.02 思考はそれが考えている当の状況の可能性を含む。思惟可能なことがらは可能でもある。
3.03 我々は非論理的なことは何も考えることができない。そんなことができたら非論理的に考えていることになるだろうから。
3.031 嘗てひとは言った。神は総てを創造し得るが、しかし、論理法則一般に反するものごとだけは創造し得ない、と。――我々は「非論理的」世界なるものについて、それがどんなふうなのかを述べることはできない、という訳だ。
3.032 ひとが言語において「論理に反していること」を表わし得ないのは、幾何学において空間の法則一般に矛盾する図形をその諸座標によって表わし得ないこと、言い換えれば、存在しない点の座標を特定し得ないことと同断だ。
3.0321 たしかに我々は物理法則一般に反する事態を空間的に表わすことはできるが、しかし、幾何学の法則一般に反する事態をそうすることはできない。
3.04 アプリオリに正しい思考というのは、その可能性がその真理性を伴うようなものだろう。
3.05 或る思考が真であることを我々がアプリオリに認識し得るのは、その思考そのものから(比較するもの無しに)その真理性を認識し得るとき、ただそのときだけだろう。
3.1 文において思考は感官的に知覚可能なように現われる。
3.における「事実の論理的像は思考だ。」とはセンスがよいように思える。飲み物が欲しいとき、飲み物を買いに行く、という論理的像は思考にうちにあるであろう。飲み物が欲しいという事実、それゆえに飲み物を買いに行くという事実、それらの論理的像が思考において納得いくものである。
3.13 文には、その射影に属すことがらの総てが属すが、当の射影されることがらは属さない。
だから、射影されることがらの可能性は当の文に属すが、射影されることがらそのものは属さない。
文には、だから、その意味は含まれてはいないが、それを表現する可能性は含まれている。
(「文の内容」とは有意味な〔sinnvollen〕文の内容のことだ。)
文には、その意味の形式が含まれているが、内容は含まれていない。
3.14 文記号は、その諸要素、諸単語がそこにおいて一定の仕方で互いに係り合っている点に依拠している。
文記号は事実だ。
3.141 文は単語の寄せ集めではない。――(音楽的主題が音の寄せ集めではないように。)
文は分節されている。
3.142 事実だけが何らかの意味を表現し得る。名称のどんなクラスにもそれは為し得ない。
3.143 文記号が事実であることは、筆記なり印刷なりの通常の表現形式によって覆い隠される。
というのは、例えば印刷された文においては、文記号は単語と本質的に異なっては見えないからだ。
(だから、フレーゲが文を合成的名称と呼ぶことも可能だった。)
3.1431 文記号の本質は、それが諸文字記号ではなく空間的諸対象(例えば、テーブル、椅子、本)から構成されているのを我々が想像するとき、顕著になる。
その場合、それらのものの相対的な空間的配置が当の文の意味を表現する。
3.1432 「複合的記号「aRb 」は a が b に対して関係 R にあることを述べている」という訳ではなくて、「a 」が「b 」に対して或る関係にあることが aRb ということを述べているのだ。
3.144 状況をひとは記述することはできる。名指すことはできない。
(名称は点に似ている。文は矢印に。それは意味〔Sinn〕をもつ)
5
:
名無しさん
:2024/11/26(火) 11:23:05
3.221 対象全般を私は名指すことができるだけだ。諸記号がそれらの代理をつとめる。私はそれらについて語ることができるだけだ。それらを言い表わすことはできない。文はものがどのようであるかを述べることができるだけだ。それが何であるかを述べることはできない。
3.25 ひとつの文の完全な分析はただひとつだけ存在する。
3.312 ひとつの表現は、だから、それが特徴づける文全般がもつ一般的形式によって表わされる。
しかも、この形式においては、その表現は固定的であり、他の総ては可変的だろう。
3.313 ひとつの表現は、だから、その値が何れも当の表現を含む文であるような或る変数によって表わされる。
(境界ケースでは、変数は定数に、表現は文になる。)
私はそうした変数を「文変数」と呼ぶ。
3.314 表現はただ文においてだけ意義をもつ。どんな変数も文変数と解され得る。
(変数的名称もまた。)
3.32 記号はシンボルの感官的に知覚可能な部分だ。
3.321 ふたつの相異なるシンボルは、だから、ひとつの記号(文字記号なり音声記号なり等々)を共有し得る――その場合、それらは相異なる仕方で表示する。
3.322 我々がふたつの対象を同一の記号によって、しかしふたつの相異なる表示方法で表示することが、それらに共通するメルクマールを呈示することなど決してあり得ない。当の記号は恣意的なのだから。ひとは、だから、ふたつの相異なる記号を採ることもできただろうが、その場合、当の表示の何処に共通のものが残るだろうか。
3.323 日常言語においては、同一の語が色々な仕方で表示する――故に色々なシンボルに属す――こと、あるいは、相異なる仕方で表示するふたつの語が表面上同じ仕方でひとつの文において適用されることが非常に頻繁に起る。
例えば、「ist」〔ドイツ語の動詞「sein」の三人称単数現在形〕は繋辞としても等号としても存在の表現としても現われる。「existieren」〔「存在する」〕は「gehen」〔「行く」〕と同様の自動詞として、「identisch」〔「同一の」〕は形容詞として。我々は何か〔Etwas 〕について話すが、何か〔etwas 〕が起ることについても話す。
(文「Grün ist grün」――ただし、最初の語は人名で最後の語は形容詞〔そこで日本語で同様の例を考えてみれば「あおいはあおい」〕――において、これらの語は単に相異なる意義をもつのではない。それらは相異なるシンボルだ。)
3.324 それで、最も根本的な諸混同がたやすく生じる(哲学全体がそれらに充ちている)。
3.325 それらの錯誤を免れるために、我々は、同一の記号を色々なシンボルにおいて用いたり相異なる仕方で表示する諸記号を表面上同じ仕方で用いたりしない点で、そうした錯誤を排除するような、そんな何らかの記号言語を利用する必要がある。したがって、論理的文法――論理的構文論――に則る記号言語を。
(フレーゲの、そしてラッセルの概念記法は、そうした言語のひとつではあるものの、総ての誤謬を排除している訳ではない。)
3.326 記号にシンボルを認識するには、ひとは当の記号の有意味な使用に注意を払う必要がある。
3.327 記号は、その論理的構文論的利用と相俟って初めて、何らかの論理的形式を規定する。
3.328 或る記号が不用ならば、それは無意義〔bedeutungslos〕だ。これがオッカムの標語の意味だ。
(或る記号が意義をもつかのように総てがなっているならば、それは実際に意義をもつ。)
6
:
名無しさん
:2024/11/26(火) 12:08:18
3.33 論理的構文論においては、記号の意義が何らかの役割を果たすことは決して許されない。論理的構文論は、記号の意義が話題にされることなど無しに、組み立てられ得るのでなければならない。それが前提とすることが許されるのは、ただその諸表現の記述だけだ。
3.331 この所見をもとにラッセルの「タイプ理論」に目を向けよう。ラッセルの錯誤は、その記号規則全般を立てる際に当の諸記号の意義について語るはめになった点に自ずと顕現する。
3.332 文が自らについて何ごとかを言明することなどあり得ない。文記号がそれ自体に含まれることはあり得ないから。(これが全「タイプ理論」だ。)
3.333 どんな関数も自らのアーギュメント〔いわゆる引き数〕ではあり得ない。関数記号はそのアーギュメントのプロトタイプをもう含んでいるのであり、自らを含むことはあり得ないから。
仮に関数 F (fx ) が自らのアーギュメントであり得たとしよう。そうすると「F (F (fx ))」という文が齎されるが、この文において、外側の関数 F と内側の関数 F は相異なる意義をもっているはずだ。内側の方は φ(fx ) という形式を、外側の方は ψ(φ(fx )) という形式をもっているのだから。両方の関数に共通するのは文字「F 」だけだが、しかし、それは単独では何も表示しはしない。
このことは、「F (F (u ))」に代えて「(∃φ ) : F (φu ) . φu = Fu 」と書けばただちに明らかになる。
これでラッセルのパラドクスは片がつく。
ーーーーーー
3.42 ひとつの文は論理的空間のただひとつの軌跡を規定し得るだけではあるものの、当の文によって論理的空間全体が既に齎されているはずだ。
(そうでなければ、否定、論理和、論理積等々によって、絶えず新たな要素が――座標系に〔in Koordination〕――導入されることになるだろう。)
(像を囲む論理的な足場が論理的空間を規定する。文は論理的空間全体に手を伸ばす。)
3.5 適用された、考えられた文記号は思考だ。
4 思考は有意味な文だ。
4.001 文の総体が言語だ。
4.002 人間は、それぞれの単語が何をどう指すのかについての漠然とした知識も無しに、諸々の言葉を組み立てる能力をもっており、それであらゆる意味が表現され得る。――ひとは、また、個々の音声がどうやって発されるのかを理解すること無く喋る。
日常言語は、人間という有機体の一部であり、それに劣らず複雑だ。
ひとつの言語論理〔die Sprachlogik〕を日常言語から直接取り出すことは人間には叶わない。
言語は思考を扮装させる。しかも、ひとが当のドレスの外形に拠っては覆われている思考の形を推論し得ないほどに。それは、そのドレスの外形が中身の形を認識させるためとは全く違う目的に随って形成されているからだ。
日常言語の理解のための暗黙の協定全体は度外れに複雑だ。
4.003 諸々の哲学的なものごとについて書かれて来た教義や問いの大部分は、誤りではなく、ナンセンスだ。我々は、だから、その種の問いにそもそも答えることなどできず、ただそれらのナンセンス性を確かめることができるだけだ。哲学者たちの問いと教義の大部分は、我々が自分たちの言語論理を理解していないことに基く。
(それらは、善は美と多少なりとも一致するか、といった類の問いだ。)
そして、最も深遠な諸問題が実は何の問題でもない、というのは驚くべきことではない。
4.0031 総ての哲学は「言語批判」だ。(ただし、マウトナーの意味でではない。)ラッセルの功績は、文の見かけの論理的形式が当の文の実際の形式だとは限らないことを示したことだ。
……「思考は有意味な文だ。」という意見もてきとうである。
「文の総体が言語だ。」、とは大雑把な言い方である。文の総体が文字をとしての言葉の群である、というならまだ理解できる。
しかしながら、文の総体が言語だ、とウィトは言いたかったはずなのだ。
ウィトは言語は思考可能なものであると考えた。そして、文の総体さえも思考できるのではないか、と。
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