「金沢レインボープライド」代表の松中権氏が、突如「お詫びと報告」と題した声明文を発表した。
何についての「お詫びと報告」なのかと言えば、勿論あの「かなざわにじのま覚醒剤使用事件」についてだ。
6月5日に最初に出された、
「紙っぺら一枚に僅か9行の、代表者名の記載も無い、中身も何も無い謝罪文」
(左側の画像)
からは文量だけは増えているものの、肝心の「書いてある文章の中身」と言えば、見事に全編「言い訳と自己弁護」に終始している。
公金が投入され、運営される団体で「公金が違法薬物に使われたかも知れない事件」が発生したにも関わらず「その実態を真摯に解明・説明しようとする意思」は皆無だ。
そして「最高責任者の松中権氏」は、自らは何ら責任を取る事もせず「事件の舞台となった組織」についても「解散」どころか「休止」すらしようとしない。
今般の声明に書かれている内容は「誰も責任は取らない」「施設は閉鎖しない、休止もしない」「パレード等のイベントは全て実施する」と言う「ふざけた事」だけだ。
「表面的な謝罪の言葉」は散見されても「代表は責任を取らず、活動も何一つ見直さずに続行する」と言う内容なのだから「謝罪の言葉」など「口先だけ」である。
本気でこの様な態度で良いと思っているのであれば「社会は舐められている」としか言い様が無い。
当然ながら「一般の組織」でその様な事は許され得ず「問題を起こした組織やそのトップ」は「責任を追及され、辞任や解散・休止に追い込まれる」のが常だ。
「かなざわにじのま覚醒剤使用事件」で、それが起きないのは「大手マスコミが、極左LGBT活動家らには激甘だから」に他ならない。
大手マスコミは、最初だけは事件を報じたものの、その後の「追及」は全くと言って良い程していないし、する気配すら無い。
彼等は「大手マスコミが自分達に甘い」事を熟知しているので、この様な「社会を舐めた態度」を、これまでも平気で取って来たし、今も取り続けている。
だが、それも「時間の問題」だ。
何故なら、マスコミは「社会の空気が変わったら、掌を返した様に180°態度が変わるのが常」だからだ。
マスコミは「自分達が批判される側になる事を最も恐れている」が故に、社会の空気が変わり「極左LGBT活動家らが批判対象になったと察した途端」に掌返しをするだろう。
その「萌芽」は既に見えて来ており、世界的には「極左LGBT活動に対する社会的軋轢」が高まり、それを手厳しく批判する「まともな意見」が激増している。
極左LGBT活動家らは、これまでは、その様な批判を「差別主義者」だの「ヘイター」だのと「レッテル貼り」しておけば「相手が悪い」事に出来た。
だが、今回の「金沢レインボープライド」代表の松中権氏の様に、
「他者を強く責める一方で、自らには極めて甘いダブスタを堂々としている」
事がバレて来ると、それを「おかしい」と思い、声を上げる人達が確実に増える。
極左LGBT活動家らが、この様な批判に対して未だ「差別者・ヘイター認定しておけば良い」と思っているとしたら、完全に「社会の空気の変わり目」を読み間違っている。
彼等の発する「差別主義者」や「ヘイター」などと言う言葉が、
「自らへの批判をさせない為や、批判をかわす為の方便」
である事が、最早バレている事に気付くべきだが、どだいそんな事は無理だろう。
何故なら、一度でも「方便」である事を認めてしまえば、これまで散々「差別主義者」や「ヘイター」と言って「押さえ付けていた批判」が一気に噴出するからだ。
だが、彼らが「方便」である事を認めようと認めまいと「社会の趨勢」は変えられない。
「LGBT差別解消」を大義名分とした「極左LGBT活動」が、様々な意味で「自らの利益の為の活動」である事の象徴が、今回の「かなざわにじのま覚醒剤使用事件」だ。
そして、今回発された「お詫びと報告」は、彼等が「自らの過ちを全く総括出来ない事を、自ら露呈した」と言う事の「象徴的出来事」である。
マスコミが批判しないのであれば「市井の社会の人々」が声を上げ、強く批判しなくてはならない。
そこで、極左LGBT活動家らが発するであろう「差別主義者」や「ヘイター」等の非難は「自らへの批判を封じ、かわす為の方便」に過ぎず、それに怯む必要は1ミリも無い。
そして、彼らへの批判の「社会的空気」が醸成されれば、マスコミは「以前から自分達もそうだった」かの様な顔をして、一斉に「掌を返し」て批判を始める様になる