あなたの音感は何型か? ~『絶対音感』の誤解 |
まず、読み始める前に、このフローチャートで、自分の「音感型」を見つけてください
Go!!
ここに「絶対音感」を持っていると自称する三人の男女に集まってもらった。
誰もが知っているであろう小学校唱歌の『チューリップ』(さいたさいた……)という曲がある。このメロディーを、ピアノでFのキー(ヘ長調)で弾いてみる。
「これをドレミで歌ってみて」と言われた三人の男女は、それぞれ次のように答えた。
◎A君
「簡単さ、ドレミ ドレミ ソミレドレミレ……だね」
◎Bさん
「違うわ。ファソラ ファソラ ドラソファソラソ……だわ」
◎Cさん
「これをドレミで歌えですって? 無理よ。調律が狂っているもの。このピアノ、Aが445ヘルツくらいあるわ。いくらなんでもピッチが高すぎる。気持ち悪くて聴いてられないわ」
さて、この三人、誰が本当の「絶対音感」の持ち主なのだろうか?
また、絶対音感がどういうものであったとしても、その定義には関係なく、この三人のうちで誰がいちばん「音楽的」な耳を持っていると言えるだろうか?
さらには、世の中の大多数の人たちは、この三人のうちのどのタイプにも属さない人たち、つまりはメロディーを聴いても、それを瞬時にはドレミで言えない人たちである。こうした人たちは、この三人に比べて音楽的素養が劣っていると言えるのだろうか?
本書の第一の目的は、ちまたに溢れる「絶対音感」にまつわるさまざまな誤解、偏見、妄想、神話を検証した上で訂正することである。
第二の目的は、私たちが身につけている音感というのは、実は、絶対音感(固定ド)、相対音感(移動ド)、その他(ドレミが言えない)というような単純なものではなく、多岐にわたることを証明し、それぞれについてとことん考えてみるということである。
また、自分の「音感型」を知ることを手がかりにして、すでに大人になってしまい、今から自分の音感を鍛えるのは無理だろうと諦めているあなた自身にとって、今からでも遅くない、もっとも適した「豊かな音楽生活への耳作り」の方法を探っていくことである。
そして第三の目的は、これから音楽的な耳を養っていく小さな子供たちが、教条主義や誤った権威主義・固定概念の犠牲者にならず、豊かで幸せな音楽教育を受けられるようにとの祈りを込め、子供を持つ親たちに、デジタル時代に適した音楽教育を考えていただくことである。
では、「音感」というキーワードを出発点にして、音楽という不思議な宇宙を解明する旅にでかけよう。
……絶対音感は存在する。しかし、それは同時に、単なる妄想にすぎない。
「絶対音感」……それは、私にとってはとても古い記憶に属する言葉だった。
物心つく頃から、私は母からこの「絶対音感」という言葉を何度も聞かされていた。なぜなら、母はこの言葉の持つ魔力に取り憑かれ、最初の子であった私に是が非でも身につけさせようとしたからだ。
当時中学校の養護教師をしていた母は、私を産んでまもなくしてから、同僚の音楽教師から「絶対音感」についての話を聞かされた。
「音楽には音感というものが大切なんですけれど、それはごく小さいときにしか身につけられないんですよ。いわゆる『絶対音感』は、二、三歳児のときに訓練すれば十人中九人くらいは身につくけれど、これが十歳になってからでは、十人中一人身につくかどうかなんですね。だから、音感教育を受けさせるなら、早いほうがいいんです」
この話に大いに感化された母は、私が二歳十か月になったときに、カナダ人の音楽教師のもとに通わせ、ピアノによる音感教育を受けさせ始めた。
そのカナダ人教師はごく普通のピアノ教師で、特に音感教育のプロだったわけではないらしい。母は自分が読んだ音感教育に関する本をそのピアノ教師にも買い与え、こんな風に教えてほしいと要請したそうだ。
本の著者のことは忘れてしまったというが、確かだったことは色音符を使っていたことだ。ドは赤、レは黄色、ミは緑、ファは橙、ソは空色、ラは紫、シは白。
鍵盤に色紙を貼り付けて練習させたそうだ。
こう書いていくと、なにかとてつもない上流家庭に育ったように誤解されそうだが、そんなことはない。
私が生まれた家は貧しく、トイレも外にある長屋だった。冬など、雪が降る中、震えながら用を足しに外へ出ていった記憶がある。もちろんピアノなどあるはずもなく、母は、私の音感教育のために、どこからか中古の足踏み式オルガンを買ってきた。当時(昭和30年代前半)、電気式のオルガンはまだ出始めたばかりで、我が家の経済力ではとても手に入らなかった。
しかし、三歳にもならない幼児が、足踏み式オルガンを弾けるはずはない。ペダルを踏みつけるだけで重労働だった。椅子に座れば足がペダルに届かない。仕方なく、立って、力一杯ペダルを踏みながら弾こうとすると、ペダルを踏むだけで精一杯だから、とても鍵盤にまで注意が向かない。
母が横に立って踏んでくれることもあったが、学校で一日働いて帰ってくる母も、そこまでは体力・気力が回らない。
幼い私にとって、足踏み式オルガンは、時に、悪魔のように思えたものだ。
それでも音と遊ぶこと自体は楽しかったし、音感教育による効果もめざましかった。
散歩に行き、近くの幼稚園の庭で先生が園児たちにオルガンを弾いて聞かせている場面に遭遇する。家に戻るなり、私は足踏みオルガンでそのメロディーを弾いてみせたそうだ。
しかし、順調に見えた音感教育は、一年後、突然、私の猛烈な反逆で幕を閉じてしまう。
母の話では、無理矢理連れていこうとしても家の玄関の柱にしがみついて離れようとせず、引き剥がすようにして強引に連れていっても、今度は教室のピアノの蓋にしがみつき、絶対に開けさせまいとしながら泣き叫んだという。
カナダ人女性から音感教育を受けたときの記憶はほとんどないのだが、やめるときのその強烈な拒否反応のことは、四十年経った今でもぼんやりと覚えている。
なぜそんなことになったのだろうか?
立ち上がっても鍵盤にようやく手が届くかどうかという幼児が、足踏みオルガンの演奏を強いられることの肉体的苦痛?
もちろん、そうした理由もあったかもしれないが、私には、また別の理由があるような気もする。というのは、あのときの強烈な拒否反応には、「理不尽なものを押しつけられた不快感」に似た記憶が混じっているからだ。
ピアノを習い始めて一年が過ぎた頃、それまでハ長調ばかりだった練習曲や課題に加えて、ヘ長調やト長調、ニ長調、といった、スケールの中に黒鍵をまじえた調の曲を提示されるようになった。そして、これは後になってから思い当たったのだが、私の最初の音楽教師であったカナダ人女性は、ある日を境にして、突然「固定ド」でメロディーを歌い始めたような気がする。
私の強い拒否反応は、足踏み式オルガンの肉体的苦痛よりも、先生が固定ドを押しつけてきたことによる「裏切られ感」だったのではないだろうか?
もちろん、四十年前の幼児期の記憶だから、はっきりしたことは何も言えない。ただ、一つだけ確かなことは、一年でやめてしまったとはいえ、この後、母は誇らしげに何度も私にこう言い聞かせたことである。
「ピアノはやめてしまったけれど、絶対音感はついたのよ」
しかし、これは間違っていたのである。
では、母親が得意げに言っていた「絶対音感」とは何だろうか?
一九九八年、最相葉月氏が『絶対音感』という本を出版し、ベストセラーになった。恐らくそれまで、この「絶対音感」という言葉は、音楽教育界ではたびたび語られるものの、一般に浸透することはほとんどなかったと思う。
その意味ではちょっとした事件だった。
最相氏の著作『絶対音感』は、精力的な取材に裏打ちされた力作ではあるが、「鳥のさえずりも救急車のサイレンもドレミで聴こえる」などという、一種誇張した惹句のために、多くの人はかえって「絶対音感」というものを正しく理解できなくなってしまったのではないかという危惧が、私にはある。
自然界の音がドレミに聞こえるということは、そういう訓練を受けた者にとってはごく普通の感覚なのだが、その他大勢の人たちにとっては、一種の「超能力」のように思われるらしい。だから、この本を、オカルト本(?)のような感覚で手にした人も少なくなかったようだ。
メロディーというのは、ある決められた音階の中の音が組み合わされて構成されている。
一方、自然界の音は、別に音階に従って発せられるわけではないし、固有の周波数を持つ音よりも、無秩序な周波数の集合である音のほうが圧倒的に多いわけだから、自然界の中で偶然発せられた音がメロディーになっているという可能性は極めて低い。
それでも、理論的にはありえることだし、実際、そういう現象に遭遇することは少なくない。
例えば、鳥の声が音がメロディーになることはありえる。
私が最初に作ったCD『狸と五線譜』の一曲目に収めた『ウグイスの主張』という曲は、ウグイスの鳴き声から始まる。ホーホケキョという鳴き声に続いて、ケキョケキョケキョ……という警戒音が長く続くのだが、それにシンセサイザーがEb(変ホ長調)のスケールで「ミドレ ミドレ ミドレ……」とピッタリ被さっていく。
あまりに見事に重なるので、この曲の冒頭を聴いた人は、鳥のさえずりがメロディーになっていることがあるという事実を知るだろう。
しかし、実際には、鳥の鳴き声が正確な音名を伴ってスケールにピッタリはまることは極めて稀である。ウグイスやカッコーはかなり純音に近い音色の声だし、一音一音はっきりと鳴くのでメロディーになりえるが、多くの鳥はもっと複雑で無秩序な周波数の声をしており、鳴き方もメロディーには結びつかないようなものが多い。
機械音などはどうだろうか。
電話機のダイヤルプッシュ音などは、二つ以上の周波数を合わせた音なので、完全に一つの音名に聞こえることはない。
救急車のサイレンは、ほぼ長3度の開きで二つの高さの音が交互に繰り返されるから、音程を言い当てることはできるかもしれない。でも、ドップラー効果の例として挙げられることでも分かるように、走行速度によって音程は変わるから、たとえあらゆる救急車のサイレンが厳密に同一の音程にセットされていたとしても、それがどの音かというのはあまり意味がない。救急車が走っている限り、走行速度や聴く人の位置によって音の高さは違うのだから。
そうしたセンセーショナルな書き方は極力排して、最初に、きちんとした「絶対音感」の定義を試みてみたい。
ここで、本書の「はじめに」に登場するA君、Bさん、Cさんの三人を思い出してほしい。
この三人は、普段世の中で「絶対音感の持ち主」と呼ばれている人たちであるが、持っている音感は、どうやらかなり違っているようだ。
Fのキーで演奏された『チューリップ』がどう聞こえるかによって、音感の三つのタイプを紹介したわけだが、まず、三人のうちで、A君、Bさんの二人は、違う答え方ではあるものの、それぞれドレミを答えている。
問題はCさんである。
Cさんに言わせれば、このメロディーを演奏したピアノは基準音のピッチが大きくずれていて、A(中央Cの上の「ラ」の音)が約445ヘルツもあるという。こんなに調律が狂ったピアノで演奏したのでは、ドレミを言うこと自体がナンセンスだと主張する。ドレミを当てはめるのならば、演奏される楽器が「正確な」調律(チューニング)を施されていることが大前提だというわけだ。
Cさんの言うことが正しいなら、こんなにピッチの高い調律をされたピアノを平気で聴いている残りの二人は「音感がない」人たちなのだろうか?
そこで、まずは、ドレミという音名(あるいは階名……この違いは後に詳述する)のラベリング(名前を貼っていく)能力とは切り離して、ある周波数の音を正確に聞き分けられるという「人間音叉」的な能力について考えてみたい。
Cさんは、『チューリップ』を演奏したピアノのピッチが高すぎると言った。
測定してみると、確かにAが445ヘルツあった。
ただし、このピアノは全体に調律のピッチが高いのであって、音と音の間が狂っているわけではない。一オクターブ上のAは正確に445ヘルツの倍の890ヘルツであり、オクターブ下のAは半分の222・5ヘルツ。全体にピッチは高いものの、音と音の間隔は正確に12等分された平均律(これも後に詳述)になっている。
一般に、調律用の音叉の周波数は、Aが440ヘルツである。ただし、オーケストラなどは、多少高めに合わせたほうが美しく響くと言われ、442ヘルツで合わせることも多い。
市販されている音楽CDを聴くと、むしろぴったり440ヘルツに合わせている曲はそれほど多くなく、440ヘルツから443ヘルツくらいまでの間で、実にさまざまなピッチになっている。
CDに合わせて楽器を弾いたりするとき、一曲目にピッタリ合わせたところ、三曲目では気持ちが悪いほど狂っているなどという経験は誰にでもあるはずだ。
世界中の音楽はAを440ヘルツに合わせなければならないなどという厳密な規則があったとしたら、多くの音楽CDは「規格外」になってしまう。
最相氏の『絶対音感』に、バイオリニスト五嶋みどり氏の「悲劇」が紹介されている。
A=440ヘルツの調律でしか音楽を聴かせず、完璧な「絶対音感」を身につけさせようとしたあまりに、442ヘルツで調律したオーケストラの中で演奏すると違和感を感じるようになってしまったという話だ。
これはまさに「人間音叉」と言えるだろう。
こうした音感の持ち主を「絶対音感」を持っていると言うならば、基準音から5ヘルツも高い調律をされたピアノを聞き分けられなかったA君、Bさんは、「絶対音感」の持ち主とはいえないということになってしまう。
また、世の中には、いつでも440ヘルツの音を正確に聞き分けられるが、音階としてのドレミは分からないという「ピンポイント型音感」の持ち主もいる。
例えばCさんは、ピアノのチューニングが平均的なピッチより高いことは言い当てられたが、もしこのピアノがA=440ヘルツで調律されていたとしても、「このピアノはきちんと440ヘルツで調律されています。でも、今演奏されたメロディーがドレミでどういうかは私には分かりません」と答えるかもしれないのだ。
この場合、ピアノの調律が高いと見抜けなかった(あるいはこの程度の差は気にならなかった)他の二人よりも、メロディーとしてのドレミが分からなかったCさんのほうが「絶対音感」があるということになるのだろうか?
もしそうだとしたら、この論には多くの人が頷けないだろう。しかし、Cさんのようなタイプの人も「絶対音感」を持っていると言われることがある。ここに「絶対音感についての第一の誤解」がある。
つまり、人間音叉としての「絶対音感」と、ドレミをラベリングする能力としての「絶対音感」は区別して考えなければならないのである。
世の中にはこのように、いつでも音叉の基準周波数440ヘルツを聞き分けたり声に出したりできるという音感を持つものの、メロディーをドレミでは言えないという人も存在する。このタイプの人間音叉型音感を「絶対音感」と定義するとしたら、「絶対音感」と音楽の能力とはまったく無関係と言ってもよい。
基準音が何ヘルツになっているかなんて、チューニングメータを使えば分かることだ。人間音叉能力が、音楽を楽しむ上で、プラスになることなどなにひとつない。むしろ、害悪になることのほうがはるかに多い。
以下、人間音叉能力と音楽の能力とは無関係であることを論証していこう。
まずは、音響工学的な面から、「人間音叉」型聴覚がいかに無意味かということを説明しよう。
オーディオカセット(コンパクトカセット)のJIS(日本工業規格)でのテープ速度偏差は、4・76cm/秒(JIS呼称4・8cm)+-4%以内と定められているそうだ。つまり、カセットテープレコーダーというものは、毎秒4・95cmから4・29cmまでの走行速度なら、JIS規格内で「合格」ということになる。
プラスマイナス4%ということは、上下で8%までの速度誤差は許されるということであり、これを音程に換算すると、A=440ヘルツの調律を施したピアノで演奏された録音なら、上はA=457・6ヘルツ、下は422・4ヘルツまで許容されるということだ。
さらに、JISの速度偏差範囲内でもっとも遅い速度のテープレコーダーで録音したテープを、逆に速度偏差内でもっとも速いテープレコーダーで再生した場合、その狂いは倍になり、なんとA=475・9ヘルツとなる。ちなみにA#の音というのは、比率でいうと2の12乗根(=1.059463094)分だけAより高いわけだから、466・16ヘルツ。これよりもはるかに高い音になってしまうわけだ。
つまり、元の演奏から半音以上ピッチが狂った演奏になってしまったとしても、カセットデッキが壊れているとは言えない。所詮、「カセットの規格はその程度のもの」なのである。
実際には、これではさすがに使い物にならないから、高級カセットデッキなどは、+-1%程度の速度偏差に抑えてある。しかし、これでも、合わせて2%の速度偏差が許容範囲ということになり、半音の1/3以上の狂いになる。
Cさんが言う「445ヘルツの調律など、気持ち悪くて聴いていられない」というなら、彼女の音楽生活は、高級カセットデッキでも保証しきれないことになる。
はたしてこんな不自由な耳が、音楽的な耳と言えるのだろうか?
どうやら、Cさんの耳は、あまりにも「人間音叉」と化してしまっているために、かえって音楽を楽しむ余裕を奪われているようである。
では、次にA=445ヘルツの調律自体には違和感を抱かなかったBさんの音感について考えてみよう。
Bさんの場合、「絶対音感」とは言っても、ある程度の誤差を受け入れるだけの柔軟性があるらしい。
では、その柔軟性の範囲はどの程度のものなのだろうか?
すでに述べたように、A=440ヘルツとすると、その半音上の音であるA#は約466ヘルツである。
445ヘルツは、466ヘルツに比べればはるかに440ヘルツ側にあるから、Bさんには「A」の音として認識されたわけである。
では、440ヘルツと466ヘルツの中間である453ヘルツの音ならどうであろうか。Bさんの耳には、それはAと聞こえるのだろうか、それともA#と聞こえるのだろうか?
カセットテープの話を蒸し返すまでもなく、テープに録音された演奏なら、この程度の誤差は日常茶飯事に起こりうる。
BさんとCさんが、共に高級カセットデッキを持っていたとする。なにしろ音にうるさい二人は、CDやMDなどというデジタルオーディオの機械的な音よりも、高級アナログオーディオの柔らかな音のほうが好きなのだ。
高級カセットデッキだから、そのデッキで録音したテープをそのデッキで再生して聴く限り、かなりの音質が楽しめる。ワウフラッター(速度偏差による音の歪み)も極めて小さい。
ある日、Bさんは自慢の高級カセットデッキで録音した自分のピアノ演奏のテープを、Cさんに貸してあげた。
CさんもBさんに負けない高級カセットデッキを愛用している。ところが、テープをもらったCさん、例によって、言いにくそうにBさんに告げた。
「あなたの家のピアノ、ずいぶんピッチが高いわね。計ってみたら449ヘルツくらいあるわよ。なんだか気持ちが悪くて聴いていられないの。ごめんなさい、これ、返すわね」
そんな馬鹿な……と思ったBさんが、チューニングメータで家のピアノを測定したところ、Aの音はきっちり440ヘルツだった。
試しにCさんから戻ってきたテープを自分のデッキで再生してみたが、やはり寸分狂わず440ヘルツで再生される。
「ちゃんと440ヘルツだったわよ。あなたのところのデッキが安物なんじゃないの?」
「とんでもない。二十万もしたのよ」
「うちのデッキだってそのくらいしたわ」
……と、こんな喧嘩が始まるかもしれない。
これは、Bさんのデッキが速度偏差で1%遅い回転数で動作し、逆にCさんのデッキが1%速い回転数で動作していれば起こりうる現象だ。
高級カセットデッキといえども、1%の速度偏差ならば、JISの定める+-4%よりははるかに低い数値だから、二人がメーカーに「走行速度検査」を依頼したとしても「測定値正常範囲内」ということでそのまま返ってくる可能性が高い。
そんなわけで、たとえ元の音がA=440ヘルツであっても、テープのやりとりをしているうちにどんどん偏差が重なっていって、最後には453ヘルツ程度で再生される可能性など、いくらでもある。
453ヘルツの音……これを彼らがどう聴くのか? とても興味がある。
AでもなくA#でもない。そういう中途半端な高さの音に、「絶対音感」の持ち主はどう対処するのか?
ところで、この「絶対音感」なるものは、主にクラシック音楽演奏家を養成するという意味において重視されることが多い。
しかし、そもそもクラシック音楽が生まれた時代から、楽器はA=440ヘルツに調律されていたのだろうか?
答えはノーである。
バロック音楽の時代、楽器の調律は今よりもずっと低かったと言われている。およそ半音くらいは低かった。
だから、バロックバイオリンなど、古楽器の調律は今よりも半音低くするのが通例になっている。こうした古楽器で演奏すれば、ハ長調の曲ならば、出てくる音は(現代の調律では)ロ長調の音になる。
ということは、現代のA=440ヘルツという調律で身につけた絶対音感は、バロック時代ではすべて半音ずれていることになる。なんと皮肉なことだろうか。
クラシックの演奏者やファンの中には「作曲者が書いたオリジナルの譜面以外の調で演奏するなど許されない。作曲者の意図が変わってしまうからだ」と主張する人がいる。しかし、この主張がいかに虚しいものであるかは、論を待たないだろう。
確かに、モーツァルトは作曲するとき、どんなキーで演奏されるのがいちばん効果的に聞こえるか計算して書いただろう。しかし、「譜面通り」に演奏したとしても、現代のオーケストラが当時のオーケストラと同じ音の高さで演奏しているのかどうかは、極めて怪しいのである。
「うーん、やっぱりこの曲はハ短調でなければならないよな」と言ってみても、作った当人は、現代のロ短調の音をイメージしてその譜面を書いていた可能性がある。
「オリジナルキー(元々の調)」などと言ったところで、所詮はその程度のことなのだ。そもそもキーを絶対視する姿勢は、音楽を楽しむ可能性を狭めるだけではないか。コンボバンドや歌用にアレンジする場合、演奏しやすいキー、歌いやすいキーに移調することになんの問題があるというのだろう。
絶対音感の呪縛から離れられない演奏家は、古楽器を使った演奏会に大きな戸惑いを覚えるという。
譜面に書いてある音と出てくる音が半音ずれているからだ。
このことが、すでに「基準音に根ざした絶対音感」というものがいかに意味のないことか、如実に物語っている。
特定の周波数の音を言い当てるという意味での絶対音感の無意味さを、バイオリニスト・作曲家の玉木宏樹氏は「平均律批判」の立場から説いている。
〈日本の音楽教育の根幹はピアノでなされており、そこで使用される調律法「平均律」が絶対化されている。しかしどれほどの人がその危険性に気づいているのだろうか。「平均律」とは本来、すべての音を平均的に狂わせてあるという意味である。
では、何から狂わせているのか。ここに「純正律」が登場する。
純正律のドミソは実にピュアで濁りのない美しい響きであり、ピアノのそれとは全く関係のない、天国的なも のである。ウィーン少年合唱団のあの美しさは、彼らの発声法や体格の違いなどではなく、ピアノのピッチではないドミソできれいにハモるから美しいのであり、日本の合唱教育のようにピアノで訓練していては絶対に到達できない世界なのである。
ピアノの三和音はすべて近似値であり、少しずつ狂っている。その狂いの自覚のない教師たちの押し付けによって身体に悪いドミソを強制しているのが今の音感教育の実態なのだ〉(「ムジカ・ノーヴァ」98年7月号・『絶対音感神話について』より)
この論を理解するには、「音律」というものを知らなければならない。音律は調律法のことで、音階とは意味が違う。
普段はあまり聞き慣れない言葉なので、知っている方々には言わずもがなであることは承知の上で、最低限度の説明をしておきたい。
二つの音を比較したとき、人間の聴覚には、その音の振動数の比率が単純な正数の比になっているほど、美しく「ハモっている」と感じる。
二つの音の周波数比率が1対2のときは、高さが違うが同じ種類の音として聞こえる。これを「倍音の関係」といい、この音程差がオクターブ(完全8度)と呼ばれる。
二つの音の周波数が2対3だと、完全5度という関係になり、ハ長調のドレミで言えばドとソにあたる。
3対4ならドとファ(完全4度)で、この完全5度、完全4度という音程は、人間の耳にもっとも強く調和性が感じられる音程と言われている。
さらに、4対5ならドとミ(長3度)、5対6なら短3度(ドとミb……というよりは、短調の場合のラとドと言ったほうが分かりやすいだろう)になる。
これらを「純正音程」と呼んでいる。
これに加え、3対5ならドとラ(長6度)になる。
完全5度(2対3)をさらに2対3に割ったものを2倍にする(2/3×2/3×2=8/9)と、8対9の比を持つドとレの関係(長2度)が、完全5度と長3度の比率を掛け合わせると(2/3×4/5=8/15)8対15というドとシの関係(長7度)が得られる。
これで1オクターブの中に、単純な整数比を持つ12の音が得られたわけである。
これを「純正律」という。
ギリシアのアリストクセノスが考案したといわれる。
バイオリンの調弦は普通、下から「GDAE(ソレラミ)」と、それぞれ完全5度で調弦する。ビオラやチェロも「CGDA(ドソレラ)」で、やはり完全5度の調弦である。そのため、これらの楽器奏者はおのずと完全5度音程に敏感になり、完全5度を完璧に調律できる純正律に傾倒しがちになる。
しかしこの純正律は大きな欠点を持っている。
単一のスケールの中での主要3和音は完璧に美しくハモるのだが、移調したメロディーでは濁ってしまう。
なぜか?
例えば、純正律で調律された楽器では、ハ長調のドとレの周波数の比は8対9なのだが、レとミでは9対10になる。
あれ? 同じ全音のはずなのに、周波数比が違う?
そうなのだ。
同じように、ドとソ、レとラという完全5度の関係においても、純正律では、ドとソは2対3だが、レとラになると27対40という、およそ単純とは言い難い比率になってしまう。27対40は2対2・9623だから、2対3に比べると、かなり狭い。(図○)
こうした矛盾が他の音程でもあちこちで生じてくる。
考えてみればこれは当たり前のことで、12というのは1、2、3、4、6の倍数ではあるけれど、5や7の倍数ではないわけで、4対5(ドとミ)や3対5(ドとラ)の音程を、12分割した音の集合として他の音とぴったり重ね合わせることはできない。
だから、純正律で調律した楽器では、ハ長調やヘ長調、ト長調の単純なメロディーを演奏する限りでは美しい響きを出すが、ニ長調などに転調した途端、とてつもなく気持ちの悪いハーモニーになる。
また、主要3和音は確かに美しく響くのだが、音階的には全音に二種類あるわけだから、ドレミファソラ……と連続的なメロディーを演奏すると、なめらかにつながらず、ぎくしゃくして聞こえることもある。
この大きな欠点のために、純正律は西欧音楽においても、ローマ時代に入ると完全に忘れ去られ、以後、15世紀後半に音楽学者ラミスによって再発見されるまでは、音楽史の中で主役の座を得ることはなかった。
「主要3和音が美しく響くという以外には長所はない」と言いきる音楽家もいる。
純正律とよく比較される音律に、ピタゴラス音律というものもある。
これは、周波数比2対3の完全5度上の音をどんどん重ねていくことによって作られる。
Cから始めれば、5度上のG、さらに5度上のD、さらに5度上のA……というように決めて行くわけだが、実際にはこれでは上に行きすぎてしまうので、5度上というのは4度下と同じことだから、5度上、4度下、5度上、4度下……という順番で音を決めていく。
これを12回繰り返すと、12回目に、もとの音の倍音に極めて近い音(実際には1200分の22だけ高い。このズレのことを「ピタゴラスコンマ」と呼ぶ)になる。
(図○)
これを利用して得られたのがピタゴラス音律で、最後のズレ(ピタゴラスコンマ)は、あまり使われそうもないG#とEbの間に持ってきて調製してしまう。
ピタゴラス音律は、一つを除いてすべての5度が純正であることが最大の長所で、5度音程を重視したメロディーには非常に有効な音律といえる。
また、全音と半音の違いが大きいので、グレゴリオ聖歌のような単旋律の音楽では、独特の美しい情緒が醸し出される。
欠点は、長3度(ドミソのミ)がひどく緊張感を持って響くことだ。
曲の終わりにドミソのハーモニーを持ってきても、ああ、終わったなという安定感がなく、妙に緊張が続いた感じになる。
エコーやリバーブをかけた場合も、この長3度の音のズレがうねりにつながり、きれいに響いてくれない。
そのために、長3度のハーモニーが重要視されるようになった15世紀後半以降には、一時忘れられていた純正律が復活したわけだ。
他にもいくつかの音律が考案されているが、本書は楽典ではないので、これ以上の解説は控える。
話を平均律に戻そう。
平均律はこうした純正律やピタゴラス音律の弱点を解決するために考案されたもので、えーい面倒だ、オクターブを均等に12で割ればいいじゃないか……という発想で作られた。
結果的には、すべての音の間が均等な間隔になり、ピタゴラスコンマのズレを各音が12分の1ずつ分担することになる。5度や3度といった特定の音程だけを重視せず、2度、7度、6度など、他の音程と一緒に、全部の音程で平等なズレを持たせたわけである。
悪く言えば、「平均的に狂っている音律」である。
純正律推進派の玉木氏は、そもそも平均律というものが「狂っている音律」なのだから、それに立脚した絶対音感など、妄想も甚だしいと主張しているわけである。
平均律全盛の現代においても、世の中の音楽がすべて平均律でできているわけではない。
アラブ音楽やインド音楽などは、半音のさらに半分の四分の一音程、さらにはその少し上目、下目の音程など、極めて細かな音程を表現する音楽である。尺八や琵琶などの和楽器も、平均律の世界ではない。
もちろんクラシックの世界でも、平均律は単なる便宜にすぎない。
ギターのようなフレットのある弦楽器には比較的早くから採用されていたが、鍵盤楽器への本格的な採用は19世紀の後半からといわれている。たかだか百年そこそこのものなのだ。つまり、バッハやモーツァルトの時代には主流になっていなかった音律なのである。
伝統を重んじるクラシック演奏家なら、当時に用いられた純正律やピタゴラス音律など、他の音律の音感にもなじむ必要があるはずだ。なにせ、モーツァルトの時代には音楽は平均律で演奏されていないのだから。
こう考えていけば、平均律の、しかも調律がかつてよりも半音高いといわれる現代の基準に合わせた「絶対音感」がクラシック演奏家養成に役立つなどという論がいかに歪められた論であるかが分かる。
玉木氏は、「絶対音感など絶対に存在しない」と言い切る。
「絶対」といえる音程が定められない以上、「絶対音感」と呼べるものもありえないという論旨だが、その通りだろう。
現代において、絶対音感を持っていると言われる人たちは、たまたま現代の主流になっている平均律に合わせた人間音叉能力を持っているということにすぎない。
純正律にこだわる人にしてみれば、周波数2ヘルツの違いは、音律そのものが違ってくるという意味で決定的な違いなのだが、平均律においては、そもそもその程度の差は許容範囲として受け入れなければどうにもならない。
「絶対音感」という言葉が多くの誤解を生む一つの要因として、「絶対」という言葉が持つ権威的な響きがある。狂いがない、唯一無二のものというニュアンスがあるために、必要以上に神格化されがちなわけだが、所詮、音名の周波数を絶対的に定義することは無理なのである。
私は玉木氏のような純正律推進派の主張には素直に頷けない。
端的に言えば、「主要3和音がきれいに響けばいいというものではないだろう」と思うからだ。
和音にしても、テンションをかっこいいと思う聴感と純正律は相容れないところがある。
世の中には、ドミソの和音(Cメジャー)はきれいに聞こえるが、ドミソシの和音(Cメジャーセブンス)は、どうしても濁って気持ち悪いと感じる人もいる。こういう人は音感が悪いというよりは、3度と5度の音にだけ異常に聴覚が鋭く、他の音程を生理的に排除しているのかもしれない。
メジャーセブンス(長7度のテンション)程度で「濁って」聞こえる耳ならば、カーペンターズの音楽なども聴いていられないということになる。ましてやナインスやイレブンス、マイナーセブンスフラットファイブ……なんてものを平気で多用し、そのテンションをかっこいいと感じるジャズの世界と純正律は両立しない。
平均律を「濁っている」と感じることを強要されることもまた、見方を変えれば音楽の宗教的な押しつけに他ならない。
純正律論議は別にしても、音律の歴史を無視した絶対音感妄想は、やはり妄想・幻想としか言いようがない、ということだけははっきりしているだろう。
音律の違いの話を掘り下げると、問題が別の方向へ行ってしまうので、音律についてはいったん話をここで終わらせよう。
ここまでは主に、基準音の周波数を限定することにはなんの根拠もないことや、1オクターブを平均に12で割った平均律に根ざした音感が「絶対視」されることはおかしいという話をしてきた。
しかし、多くの読者は、
「そんな厳密な話はどうでもいいんだよ。メロディーを聴いて即座にドレミで歌えるってことが凄いことだって言ってるんだ」
と思っていらっしゃるだろう。
冒頭のCさんのような人間音叉能力は別にして、一般には、「絶対音感」というのは、「メロディー内のある音に対して、必ず唯一絶対の音名を割り当てられる音感」と解釈されることが多い。
電話のベルの音を聞いて「Eb(イーフラット)だ」などと言い当てるのはCさんの能力だが、普通はもっと複雑なメロディーを聴いて「これはレーシシラーシーソミファー……だね」などと言い当てる能力こそが「絶対音感」だと思われている。
しかし、そもそも「ドレミ」というのは、特定の周波数の音に割り当てられた名前なのだろうか?
そうではない。
1オクターブを12に割った音の並びに対して割り当てられた名前であるはずだ。
すでに「1/4音はどう聞こえるか」のところで書いたように、基準音がどっちつかずにずれているチューニングで演奏されたメロディーを聴いた場合でも、これが基準音のAですよと提示されれば、そこから上下の相対関係において、各音にドレミのラベルを貼れなければ音楽的な意味での「音感」とは言えないだろう。
例えば、440ヘルツのAから始めるなら、466(A#/Bb)、494(B)、523(C)、554(C#/Db)、587(D)、622(D#/Eb)、659(E)、698(F)、740(F#/Gb)、784(G)831(G#/Ab)、880ヘルツ(オクターブ上のA)……という音の並びに対してのみ有効で、基準音がそれらの周波数からずれている場合には意味をなさないドレミのラベリング能力というものがあったとしたら、それは「優秀な音感」なのか? それとも「不自由な音感」なのか? という問題を考えてみるべきである。
大胆に言えば、440や466ヘルツの音には音名というラベルを貼ることができても、453ヘルツの音に対しては無力である音感が「絶対音感」なのだとしたら、そのドレミラベリング能力の中身は、音楽の本質であるメロディーの把握には無関係の、単なる「人間音叉の連続技」ということになる。
「ラ」を453ヘルツ(普通のAとA#の中間)に合わせて平均律で調律したピアノがあるとしよう。このピアノで演奏される音楽は、絶対音感の持ち主たちには、音名が定義できないお化けのような音の集合体ということになってしまう。
しかし、ほとんどの人たちにとって、このピアノで演奏された音楽はもちろん立派な音楽なのであり、よいメロディーならば感動する。
基準音の周波数が440ヘルツからずれているというだけで、音楽全体が楽しめなくなる耳というのは、果たして音楽的な耳なのだろうか?
これに対して、基準音がどんな高さであろうが、他の音との相対的な音程差を正確に感じ取り、メロディーとして把握できる能力のことを、一般には「相対音感」と呼ぶ。
相対音感は、基準音がどうであろうと関係がない。Aが453ヘルツ(一般的なAとA#の中間)であっても、全然違和感はない。音列の相対位置さえ合っていれば問題ない。
例えば、Aを453ヘルツに合わせたとすれば、A#(Bb)は(平均律において)480ヘルツになるし、以下、508(B)、539(C)、571(C#/Db)……と並んでいけばよいだけのことである。
パソコンをやっている人ならば、「マルチスキャンディスプレイ」という言葉を知っているだろう。さまざまな解像度や走査線の周波数に合わせて、自動的に対応するタイプのディスプレイだ。DOSで使おうがウィンドウズで使おうがマッキントッシュで使おうが、環境に合わせて適正な画面表示をしてくれる。
これに対して、一種類の周波数にしか対応しないディスプレイもある。昔のNEC PC98シリーズ専用のディスプレイとか、ワークステーションの端末専用に設計されたディスプレイなどがそうだ。画面の走査線周波数や解像度が変わると、適応できず、まともに映像が映らない。
絶対音感と相対音感の違いは、この専用ディスプレイとマルチスキャンディスプレイの違いに似ているような気がする。
専用ディスプレイは、最初から決められた周波数帯に合わせて設計されているため、構造がシンプルで、美しい画像を得やすい。しかし、環境が変わる(別の周波数の信号が入る)とまったく使い物にならない。
同じ「りんご」の画像なのに、解像度や走査線周波数が違うと、その情報を受け取ることができないのだ。
マルチスキャンディスプレイは、環境に合わせて自由に対応が効く。りんごの画像なら、大きな画面にも小さな画面にも、粗い解像度でも細かい解像度でも、同じ「りんご」の画像として映し出す。
その自由度の分、専用ディスプレイに比べて画像が微妙ににじむというような欠点があるかもしれないが、実用上はまったく問題にされない。どんな環境でも使えるという圧倒的な利点の前には、器械で測定しなければならないような微妙な誤差や欠点は無視されるわけだ。
別のたとえをしてみよう。
ある一つの活字(フォント)を見て、即座にその書体と大きさを言い当てられる人がいたとする。「これはダイナフォントの中丸ゴシック体18級だね」などと。
しかし、その人はそのフォント単体の属性を読みとっただけであり、文章を読んだわけではない。
この人のような目で、一冊の本を読み進めることは可能だろう。例えば、文書ファイルを、パソコンのCPUはそのように一字一字定義しながら読みとっているはずである。結果、ファイルに書き込まれた文章を正確無比にディスプレイに表示したり、プリンタに出力して印刷したりすることができる。しかし、パソコンのCPUが、ファイルの中に書かれている文章を「理解」したり「鑑賞」したりしているわけではない。
しかし、人間は違う。
一字一字のフォントが何かなどという定義はできなくても、書かれた文章の内容を理解することができる。だからこそ、感動し、涙を流したり、怒ったりするのである。
音の場合でこれと同じようなことは、デジタルレコーディングの世界ですでに実現している。
CDやMD、ハードディスクレコーダーなどのデジタルレコーディングの世界では、音がすべて絶対的な数値として置き換えられ、記憶される。どういう周波数の音がどれくらいの大きさでどれだけの長さ鳴ったのかということを、0と1の集合体としてCPUが記録していくわけだ。曖昧さは許されず、規格外の音はスパッと切り捨てられる。(例えば、CDなら、2万ヘルツ以上の音というのは記録されない。)
この技術はすでに確立されたものだが、機械にできないことはまだ残されている。
例えば、オーケストラの演奏をコンピューターに聴かせて、その音の集合体の中から主旋律だけを抽出させるなどという作業は、極めて難しいことに違いない。
主旋律という概念自体が人間的で、音をどう感じるかという情感に関わる部分だからだ。
同様に、あるメロディーをコンピューターに聴かせて、音名情報を出力させることは簡単だが、階名情報を出力させることは難しい。機械というものは、絶対的な位置情報には強いが、相対関係から何らかの意義を見つけだすということには弱い。
ましてや、機械にはよいメロディーとくだらないメロディーの区別はつかない。あまりに人間的すぎて、機械には入り込めない領域だから。
しかし、音楽というのはまさにその、曖昧で定義できない人間的領域に存在する価値なのである。
絶対音感というのは、個別の音を物理的に定義するだけの能力である。それらの音の集合体がどんな物語を語っているのかということには無関係なのだ。
絶対音感(人間音叉能力)は、譜面に書かれた音を再現してみせる場合や、その逆の、演奏された音楽を譜面に起こす場合には、一見便利なように見えるかもしれない。脳の中に、標準的平均律で調律された音のボタンが並んでいて、それに合致した音符や音が飛び込んでくれば、そのボタンを押して変換していけばよいのだから。
しかし、これはデジタルレコーダーがやっていることと同じである。正確に「再現」はできるだろうが、それは単に、信号を変換したにすぎない。
音のボタンが並んでいる脳を持っていることと、そのボタンを駆使して音楽を作り出すことはまったく別のことである。
音楽を作り出すということは、音の相対的な並び方を決めるということである。つまり、大切なのは相対音感であり、絶対音感ではない。
アラブ音楽演奏家の竹間ジュンさんもこう言っている。
「以前、神童と言われた某日本人有名バイオリニストの演奏を聴いていて感じたことなんですが、メロディーを演奏していて、ある音から次の音に移行するときに、なんの脈絡もないんですよ。ドの次はレ。それがどうした、レはレでしょ? って感じ。そのときは、ああ、この人は音楽がわかってないんだな、何も考えずに指を指板に下ろしてるんだな、と思っただけなのですが、後で考えてみると、それが絶対音感教育の致命的な害毒によるものだったんですね。これは彼女だけではなく、多くの日本人の演奏家に言えることです。
一流の演奏家は、二つの音のインターバルだけで感動させることが出来ますよね。ハイフェッツしかり、メニューヒンしかり、カザルスしかり……。でも、絶対音感で教育されてしまっている演奏家には、そのことがなかなか理解できないんじゃないでしょうか?
絶対音感教育のいちばんの弊害は、移調楽器が演奏しにくいとか、ピッチが違うと演奏できないとか、そういった些末なことではなく、『相対音感』を阻害しているということに尽きるでしょうね」
私は、人間音叉型の絶対音感が、即、有害なものだとまでは言わない。しかし、絶対音感の持ち主が、同時に相対音感をも持っていなかったとしたら、音楽を「楽しむ」心は、絶対音感によって阻害される可能性さえあると思っている。
絶対音感と相対音感という、ある面では対立する二種類の音感は、そのまま「固定ド」「移動ド」の問題に深く関わっている。
最初に、この言葉を簡単に説明しておこう。(説明不要のかたは読み飛ばしてください)
音楽に使われる音を呼び表す方法には二つある。一つは音名で、もう一つは階名だ。
音名はある絶対的な高さ(周波数)の音に対してつけられた名前である。
ピアノの真ん中にある「ド」(中央C)は(一般的には)262ヘルツの周波数を持つ音で、この音をCと呼ぶ場合、これが「音名」である。
ここから始まるいわゆる「ドレミファソラシ」の7音に固定的な名前を割り振ったものが音名である。
英語なら、CDEFGAB。日本ではイロハをあてたので、「ハニホヘトイロ」となる。
ドイツ語だとCDEFGAH
余談だが、ジャズミュージシャンなどは、業界の隠語として、この音名をよく使う。
「えー? こないだのトラのギャラがたったのツェーマンゲーセン? 今まではオクターブマンはくれてたじゃない。いくら不況だからって、せめてデーマンにしてよー。」(訳・えー? こないだの代役のときのギャラがたったの一万5000円? 今までは八万円はくれてたじゃない。せめて二万円にしてよー)
一方、階名というのは、音階(スケール)の中での相対的な音の位置を表している。
長調の音階は音の間が全音・全音・半音・全音・全音・全音・半音になっている。最初の音(基音)がCだろうがDだろうが、この「全全半全全全半」という並び方になった音列(長音階)ならば、「ドレミファソラシド」と呼称する。
階名は音名とは違って、単独の音に対してはつけられない。なぜなら、音階があって初めて階名というものは存在するからだ。
つまり、メロディーというものが生まれ、その中に置かれた音に対してのみ、初めて階名での呼称ができる。
ピアノの鍵盤を一つポンと叩いて、「この音は何?」と訊かれたら、それは階名では答えようがないから、音名で答えるしかない。「Eb(イーフラット)」というように。
このように、音名と階名はまったく違う概念のものと言ってよい。音名は絶対的な音の高さを言うのであり、階名は音階の中でのその音の位置(相対位置)を表す。
「これは何?」と問われたときに、「質量12・8キログラムのゴムの固まり」と答えるか、「自動車のタイヤ」と答えるかくらいの違いがある。
だから、当然、音名と階名は別の呼び方がされなければならない。一般には、音名はABCで、階名はドレミで呼ぶことにより区別することができる。
ところが、日本ではドレミが音名にも階名にも使われてしまっている。
「はじめに」で紹介した三人の「絶対音感」の持ち主たちのうち、A君とBさんの歌い方に違いが見られるのもそのためである。
A君は音名としてのドレミで歌い、Bさんは階名としてのドレミで歌っているのである。
とりあえず、階名はドレミ、音名はABC(あるいはイロハ)とはっきり区別してしまえばよいのだが、日本の音楽教育現場ではそれがなされていないために、不要な混乱と悲劇が生まれている。
固定ド・移動ドの問題と、絶対音感・相対音感の問題は、しばしば同じことのように語られるが、よく考えてみると、そうではないことに気づく。
最初に登場した三人のうち、Bさんは、基準音のピッチが多少標準(A=440ヘルツ)からずれていることには関係なく、Fのキー(ヘ長調)で演奏された『チューリップ』を「ファソラファソラ……」とラベリングした。これは基本となる音階の基準音はある程度上下に動いたとしても、大まかな枠組みの中で音名をラベリング、できるということだ。
これを発展させていけば、例えば基準音が標準から相当ずれていたとしても(例えばA=450ヘルツくらいであったとしても)、最初に「これが基準のAです」、あるいは、「これがドレミファです」と、そのずれたなりの調律での標準音や音階を提示されれば、すべての音を固定ドでラベリングできるだろう。
これもまた、世間一般には「絶対音感」と呼ばれるに違いない。
そう考えていくと、ドレミのラベリングができる絶対音感には、
①何も提示しなくても、とにかくA=440ヘルツという基準音から作られる物理的な音名に忠実な絶対音感。(人間音叉型絶対音感固定ド型)
と、
②基準音の調律にはかなりの幅を認めた上で、ひたすらメロディーを固定ドでラベリングできるという絶対音感。(非人間音叉型絶対音感固定ド型)
の二種類があることになる。
また、相対音感についても、大きく分ければ、次の二つのタイプに分けられそうだ。
①音と音の間がどれだけ開いているかという相対音程にひたすら敏感な聴覚を持っているが、ドレミのラベリングはできないという相対音感。例えば、耳にしたメロディーをすぐにその場で正確に歌えたり、ちょっと確認しながらなら、すぐに楽器の上で再現できるが、最初に聴いた段階では、個々の音がどういう階名かは分からないというタイプ。(相対音感ノンラベリング型)
②どんな高さで演奏されようとも、ドレミファの7音階にはまっている音で構成されているメロディーなら、ドレミのラベリングができるという相対音感。(相対音感移動ド型)
実際には、絶対音感の2番目(非人間音叉型絶対音感固定ド型)と、相対音感の1番目(相対音感ノンラベリング型)の違いは微妙なもので、厳密には区分けできないことがある。
また、絶対音感と相対音感は、大まかに言えば、特定の周波数の音に対して敏感な聴力(絶対音感)なのか、基準音はどんな高さでもかまわないが、音程(音と音の間)には敏感だという能力(相対音感)という区分けだが、固定ドと移動ドは、周波数ではなく、ある決められた音階上で基音(トニック)を移動させるかさせないかという譜面上の問題だとも言える。
世間一般では、絶対音感=固定ド、相対音感=移動ドのように考えられているが、実際には違う。
固定ドは「実音固定ド」と「譜面固定ド」の二種類に分類しないと、論点がずれてしまう。
「絶対音感は固定ドのことだ」という場合には、前者の実音固定ドのことを意味している。実際に演奏される音の高さに一律のドレミラベリングをしていくという意味である。
「例えば、アラブ音楽の合奏では、基本的に三つのピッチがあります。ナチュラル(C)、ヒジャーズ・ファ・ディエーズ(B)、ドカーラスト(Bb)の三種類です。
この中では、ドレミはドレミ、そのまんま移行しています。矛盾はありません。実音でいうとドカーラストのドはナチュラルのシ♭に当たるのですが、それをシ♭という人はいません。
このことは、洋楽クラシックのピッチの問題とも重なるし、洋楽ポピュラー音楽のジャンルで、ときおりグループ全体のピッチを半音上げたり下げたりするケースにも当てはまります」(前出・竹間氏)
実音にドレミを割り当てようとする実音固定ドと、実音の高さにはとらわれずに、あくまでも楽曲の中における音階を移調の有無に関わらず単一の音階に当てはめてドレミで言い表そうとする譜面固定ドでは、意味するところがまったく変わってくるということだ。
多くのミュージシャンは、普通の人よりも相対音感には優れており、音程を瞬時に判断する能力に長けているという意味では「相対音感ノンラベリング型」だが、譜面上で音符を読む場合には、紛らわしさを生じさせないために階名は固定ドを使うことが多い。
つまり、聴覚の上では相対音感型に属するが、頭の中で音を組み立てていくときは固定ド型の思考になる。
これが「譜面固定ド」である。
実は、このタイプを「相対音感固定ド型」と名付けて独立させるかどうか、ずいぶん悩んだ。しかし、後に詳述する「移動ド型音感」とは明らかに違うので、聴感・音感上の分類としては、やはり「相対音感ノンラベリング型」のバリエーションと考えておきたい。
つまり、「譜面固定ド」は、音感型というよりは、音楽を学習する上での理論上の問題という意味合いが強い。
相対音感の①のタイプ「相対音感ノンラベリング型」は、「音程が正確だ」とは言われても、「相対音感を持っている」と言われないことも多い。絶対音感であれ相対音感であれ、「音感」という言葉は、それだけドレミのラベリング能力に強く関連づけられて考えられているようだ。
だから相対音感というのは②のタイプであると定義してもよいのだが、ここでさらなる問題がある。それは「半音」をどう感じるのか、という問題だ。
これは固定ド・移動ド問題を論じる上でも、非常にややこしく、かつ根深いテーマを浮き彫りにしてくる。
掘り下げていくと、絶対音感は固定ド、相対音感は移動ドという単純な図式では到底説明がしきれない複雑な問題が出てくるのである。
半音部分の感じ方という話に進む前に、ここでドレミファソラシドという階名(あるいは音名)であらゆるメロディーが歌えるのだろうかという問題を考えてみたい。
ドレミが階名にも音名にも使われることの背景には、エービーシーやツェーデーエフでは歌いにくくてどうしようもないからという事情もあるだろう。
例えばベートーベンの『運命』の冒頭を階名で言えば、「ミミミドー レレレシー」となる。これを「EEEC DDDB(イーイーシーー ディーディーディービー)などと歌えるだろうか?
もう少し進んで、畳みかける部分などは「ミミドファファレミミドファファレ ミッ ラシドレミッ」となるのだが、ここを「イーイーシーエフエフディーイーイーシーエフエフディー イーッ エービーシーディーイーッ」などと歌えるだろうか? ほとんど歌謡漫談の世界になってしまうだろう。
階名というのは、自由自在にのばしたり縮めたりして歌えなければいけない。ということは、「エイ」という二重母音を含む音や「ゲー」などという長母音を含む音では到底無理なのである。
そもそもABCやイロハはその国のアルファベットに相当するものだが、ドレミはイタリア語やフランス語のABCではない。一体どこから出てきたのだろうか?
玉木氏の著書『音の後進国日本』には、
「10世紀、西暦995年にイタリアのアレッツォというところに生まれた、グイドという高僧の作曲したヨハネ讃歌の一行ずつの音の高さが今のドレミファソラで始まっており、しかもその詩の先頭の文字が、Ut・Re・Mi・Fa・Sol・Laだったので、それ以後、音の高さをそう呼ぶように習慣化しただけである。そして、Ut(ユト)は後に発音しやすいようにDoとなり、17世紀はじめにSiが追加された」
という解説がある。しかし、他にもアラビア語語源説などもあり、今ひとつはっきりしない。
ともあれ、とにかくドレミファソラシというのは、妙に音階の中にピタッと収まり、歌いやすい。だからこそ国を超えて世界中で愛用されている。
ABCは音として歌いにくいが、イロハはすべて短母音で構成されているから大丈夫だ。「ソミミー ファレレー ドレミファソソソ」の代わりに「トホホー ヘニニー ハニホヘトトト」と歌うことは十分に可能である。(日本語の意味を持った音列になりやすいから、歌っていて思わず吹き出すようなことはあるかもしれないが……とほほ)
そこで、仮に、日本では階名はドレミ、音名はABCを使うと決めたとしよう。その上で、「階名で歌いなさいと言われたらドレミで、音名で歌いなさいと言われたらイロハで歌えばよい」ということで、問題は解決するのだろうか?
実は、全然解決しない。
半音問題(#やbの問題)が残っているからだ。
1オクターブには12の音が含まれている。ドレミファソラシにしてもハニホヘトイロにしても、7つしかない。
いわゆる半音部分(ハ長調の曲なら、ピアノの黒鍵にあたる音)をまったく含まないメロディーならこれでいいのだが、ドレミ以外の半音を含んだメロディーの場合、たちまちお手上げになる。
アントニオ・カルロス・ジョビンの名曲『イパネマの娘』を例に取ろう。
冒頭のメロディーを移動ドの階名で言うと、「レーシシーラ レーシシーラ レーシシラ レーシシラ……」となるのだが、その後が突然歌えなくなる。
「ドーララソ ○ーソソファ ソーー」
この○の部分はラ#(シb)にあたるテンションなのだが、ここをまさか、「ドーララソ ラシャープソソファ……」と歌うわけにはいかない。
ドイツ音名では、シャープ系だとチス(Cis=C#)、ディス(Dis=D#)、フィス(Fis=F#)、ギス(Gis=G#)、アイス(Ais=A#)。フラット系だと、デス(Des=Db)、エス(Es=Eb)、ゲス(Ges=Gb)、アス(As=Ab)、ベー(B=Bb)という呼称があるが、これも、歌おうと思っても到底歌えない。
音楽教室の中には、子供に絶対音感をつけさせる訓練の中で、3声の和音の音あてなどに、ピアノの白鍵部分をドレミで、黒鍵部分をドイツ音名で言わせているところもある。
E・F#・Bなら「ミ・フィス・シ」というように。これなどは愚の骨頂ではなかろうか。やるならば、「エー・フィス・ハー」でなければいけない。
呼称の体系としても滅茶苦茶な上に、階名に使われるドレミを混ぜてしまったために、これで音感をつけさせられたらば、移動ド的なメロディー音感はまずつかないだろうと思われる。
固定ド唱法の世界では、半音は無視して歌うことが多い。
ハ短調でドレミといえば、それは即ドレミbのことだから、いちいち#やフラットをつけて歌う必要はないというわけだ。しかし、これでは長調のドレミと短調のラシドが、どちらも「ドレミ」と歌われてしまうわけで、移動ド音感人間にしてみれば、到底受け入れられない「悪魔の唱法」と感じる。
人類は未だかつて、メロディーというものをまともに同定できる適正な階名を持ち得ていないのかもしれない。
だったら、半音部分にも独立した呼び方を付け加えればいいのではないか、というアイデアが出てくる。
手前味噌で恐縮だが、私が93年に発表した『グレイの鍵盤』(初出「小説すばる」、単行本は翔泳社刊)という小説がある。
耳が聞こえない天才コンピュータープログラマーが、実は天才作曲家でもあるのではないかという謎を巡るミステリーだが、その中に、次のような一節がある。
数字とアルファベットが並んだだけのメモの謎を、天才グレイがたちまち解明してみせるシーン。
[ ブーンというかすかなハムノイズがして、部屋の中の様々な機械にパワーが入った。
グレイはパソコンのキーボードを手慣れた手つきでカタカタと叩いた。そして一分ほど叩くと、目で合図するように僕のほうを見てから、ゆっくりと実行キーを押した。
部屋に、『イエスタデイ』のメロディーが流れ始めた。同時に、壁際の巨大な電光ボードが、そのメロディーに連動して点滅した。
黄色・赤・赤・緑・オレンジ……。カラフルな光が左上から右下に向かって順番に流れていく。
それが色音符だということはすぐに分かった。
「ド」は赤、「レ」は黄色、「ミ」は緑……。
ユニークなのは「ド#」などの半音も微妙な中間色で表現されることだ。「ド#」は、赤と黄色が混じったような茶色。「レ#」は黄色と緑が混じったような鴬色……。
どうやら、これは耳の聞こえないグレイにとっての「スピーカー」のようなものらしい。『イエスタデイ』は、最初の八小節分だけで終了した。
「驚いたな。その数字の羅列がメロディーを表しているって、瞬時に分かるなんて……」
僕はグレイに向かってそう言った。
麗夏が彼に代わって答えた。
「グレイは偉大な音楽家だわ。でも、耳が聞こえないから、それをアイデアや電子技術で補おうと、いろいろな努力を重ねたのよ。楽譜はもちろん、ありとあらゆる表現方法を考えたの。色で表す。数字で表す。音符に代わる独自の記号で表す。ドレミの欠点を補うために、半音階にも独自の階名を付けたりしたわ。グレイ方式の階名だと、『ドレミ……』は半音も入れて『ドセレカミファピソベラメシド』になるの。実用新案ものでしょ。こんな単純な数字表示の楽譜なら、一目で分かって当然だわ」]
この小説では、デタラメに「ドセレカミファピソベラメシド」となっているが、今はもう少し「改良」を加えて、「ドルレムミファトゥソセラスシド」あたりでどうだろうと思っている。半音部分は、隣り合った次の音につながろうとする(導音)性質があるから、アやオのようなはっきりした母音は含まず、「ウ」や「エ」列の音でまとめて、何度も歌いながら、違和感の少ないように組み立ててみたわけだ。
この12音が完全にそろったドレミである『ドルレムミファトゥソセラスシド』を使えば、前述の『イパネマの娘』の冒頭で歌えなかった「ドーララソ ○ーソソファ ソーー」の○の部分は「ス」になるから、「ドーララソ スーソソファ ソーー」と歌えることになる。
部分転調があまりにも多い複雑な曲の場合はまた別の問題が生じるが、とりあえず、一曲の中に数か所しかテンションが出てこないようなメロディーなら、この『ドルレムミファトゥソセラスシド』という12音階名はかなり有効かもしれない。
長いこと、この「ドルレムミファトゥソセラスシド」という12音階名は、私の「実用新案」だと思いこんでいたのだが、実際には一部の音楽教師、ヴォーカリストの世界ではまったく同じアイデアが使われていたらしいことを最近知った。
それは「ドロレモミファフェソルラチシ」だという。
恐らく国際的なものではなく、やはり私と同じような発想で誰かが考案し、一部で使われ始めたものだろう。 周囲の音楽家たちに訊いても「そんなものは聞いたことがない」という反応が多いので、まだまだ非公式なものだと思われる。
ドロレモ……と歌ってみると、ちょっと音のつながりが悪い。「ロ」や「モ」は「オ」列の強い音だが、「導音」(次の音へつながろうとする性格の音)に対してはきつすぎる感じがする。また、「フェ」というのも「ファ」と混同しやすい。しかもド#を表す「ロ」は、イロハ音名にも含まれているから、これもやめたい。
そこで、いずれにしても非公式なものだということで、僭越ながら、本書では自己流の「ドルレムミファトゥソセラスシド」で通すことにする。
練習するときは、「ドルレ」「レムミ」「ミファトゥソ」「ソセラ」「ラスシ」と、5つのパートの分けて練習するとよいだろう。
しかし、この12音階名は、ヘタをすると、「固定ドであらゆる音を歌える」ための道具として利用されそうだ。そうなると、階名ではなく、音名の代わりとしての絶対的な音の高さの呼称になってしまう。
これは私の意図とは全然違ってくる。
この問題は、簡単には論じられないので、ここではとりあえず12音階名というアイデアがあるということだけを紹介し、その是非をめぐる論考は、次の章に譲ることにしたい。
固定ドで絶対音感をたたき込まれた人たちは、当然のことながら移動ド唱法にはなじめない。おかげで学校の音楽教育現場で、固定ド人間たちが大変な苦痛を味わうという実例が、最相氏の『絶対音感』に数多く紹介されている。
読みようによっては、こうした「高度な聴覚を持ったスペシャリスト」たちが、移動ド唱法という矛盾した唱法を強いられたために、理不尽な虐待を受けたというようにもとれる。
音にルーズな凡人たちと一緒に音楽教育を受けることは、絶対音感という宝物を持つ天才たちにとっては、大きなマイナスであり、拷問である……というニュアンスも感じられなくはない。
〈ドはドなんです――この言葉を何度聞かされただろうか。(中略)
彼らはドの音が鳴れば、「ド」という言葉が頭の中に鳴り響く人々だ。もし、信頼していた教師に突然、この音はドではなくソです、といわれたらとしたらどうだろうか。え、ドはドなのにどうしてソなの、と大混乱に陥ってしまうだろう。十歳にも満たない子どもならなおさらのことである。電話だとばかり思っていたものを突然冷蔵庫といえといわれるようなものだった。〉(『絶対音感』最相葉月)
しかし、まったく逆のことを、早い時期に移動ド唱法による相対音感を身につけてしまった子供たちも味わっている。
私もその一人だった。
小学校では、生徒はみんな、リコーダー(縦笛)を習う。私のときは最初に吹かされた曲は『アマリリス』だった。
ソラソドソラソ ララソラソファミレミド ソラソドソラソ ララソラソファミレド
見事にドレミファの練習になっている。(シが出てこないが)
これはハ長調の曲で、移動ドでも固定ドでも同じ歌い方になる。だからなんの問題もない。
ただし、ヘ長調やト長調の曲を吹く段になると、先生は教え方が変わってくる。
歌として歌わせる場合は移動ドだったのに、笛で吹くとなると固定ドで覚えさせる先生が多かった。そのほうが簡単だと思うのだろう。
四年生で鼓笛隊に入り、『軍艦マーチ』を練習させられた。
今まで授業では当たったことのない年輩の女性教師が担当になり、固定ド唱法でメロディーを歌わせた。
レーシシシシドシラ ラーソラーシラー……。
いきなりこう覚えろとやられたので、『軍艦マーチ』だけは、今でもすらすらと固定ドで歌える。
しかし、『軍艦マーチ』は本当は(移動ドでは)「ソーミミミミファミレ レードレーミレー……」である。
私には「レーシシシ……」と声高らかに歌うその年輩の女性教諭が、悪魔のように思えた。気持ち悪くてしょうがなかったからだ。
とても「下品なもの」に直面したような気がした。
メロディーが分からないゲスな人間が、単に楽器を演奏するための便宜のためだけに、本来のメロディーではない歌い方をしている……そう思ったものだ。
たまたまト長調だったから「レーシシシ……」なのだが、これがヘ長調なら「ドーラララ……」になる。
同じ曲なのに、キーが変わっただけでなぜ別の歌い方になるのか?
誰が見ても冷蔵庫なのに、大きさが変わっただけで電話機だと言われるようなものなのである。
私はヘ長調やト長調の曲をリコーダーで吹くときも、頭の中では常に移動ドの階名が鳴っていたし、メロディーを覚えるときもそう覚えた(というよりも、覚えようとしなくても移動ドなら一回聴けばどんなメロディーでも頭に入ってしまったから、覚える必要もなかった)。
ヘ長調なら左指三本と右人差し指一本のポジションからドが始まる。ト長調なら左指三本だけのポジションから始まる……というように、必ず言い換えていた。
リコーダーやフルートはC管楽器(基音がCの音で、普通にドレミファを吹けばハ長調の長音階が出る)だが、C管ではない楽器の奏者はどうするのだろうか?
例えば普通のクラリネットは、基本のスケールでドレミファ……と吹いたとき、実際に出る音はBbのスケールのドレミファであり、ハ長調のドレミファより一全音低い。(Bb管という)
同様に、イングリッシュホルンはFのスケール、アルトフルートはGのスケールの音階が出る。
クラリネット奏者は、基本スケールの練習のとき、いつも頭の中で「シbドレミbファソラシb……」などと歌っているだろうか? そんなことはありえない。
そもそもこうした移調楽器の場合、譜面も移調して記譜されている。クラリネットなら、最初から全音高い調で書くわけだ。つまり、ハ長調の『アマリリス』を他の楽器と合わせて演奏する場合、クラリネット用の譜面はニ長調で書かれる。
リコーダー(C管)の奏者が「ソラソドソラソ……」と吹いているとき、クラリネット奏者は譜面上の音符を固定ドで読めば「ラシラレラシラ……」と演奏しているわけだが、出ている音は絶対音での「ソラソドソラソ……」なわけである。頭の中ではかなり混乱するはずだ。
やはり、『アマリリス』のメロディーは、どんなキーで演奏しようが「ソラソドソラソ……」と頭の中に響かなかったらおかしいではないか。
移動ド人間はそう感じる。
しかし、こうした移動ド派は、音楽の世界ではむしろ少数派のようだ。
大学の後輩の一人は、高校三年の秋まで音大を受験しようとがんばっていたそうだが、彼はこう言っている。
「音大受験をする人で、僕のような『移動ド』タイプの
人は珍しいようです。高三の夏、国立音大の夏期講習というのに参加したんですが、新曲視唱というのがあるんです。ハイと譜面を渡されてその場で歌う試験。声のよさはここでは関係なくて、譜面を読みとれるかどうかという試験ですね。教室に三十人くらいいた参加者はみんな固定ドでした。つまり、ホ長調だろうが嬰ヘ短調だろうが、ハ長調のドレミになおして歌っていて、いちいち代えて、つまり移動ドで歌っていたのは僕くらいでした」
彼の戸惑いや孤立感は、同じ移動ド人間の私には痛いほどよく分かる。
もちろん逆の場合もあるわけで、大学の合唱団で、移動ドで練習していると、一人だけ「気持ち悪くて歌えない」と言い張り、顧問の許しを得て固定ドで歌い通していた学生もいる。
固定ドで絶対音感を身につけさせられた人間は、自分が特殊な能力を持っている「選ばれた人間」だという気持ちがどこかにあり、かたくなになるのではないかという気もする。
恐らく、幼児期に刷り込まれた固定ド、移動ドの音感というのは、一生変わることがないだろう。つまり、生きている限り、固定ド派と移動ド派の対立は続くのである。
しかし、今までの考察で明らかになってきたように、どんな場合でも大切なのは相対音感である。
もし、絶対音感取得者が、固定ド唱法に、それこそ「絶対的な」自信を持ち、音楽を固定的な音の周波数の羅列としてとらえ続けようとするなら、いつまで経っても音楽の本当の醍醐味は味わえないのではなかろうか?
実際には単なる音当てで終わってしまっているのに、心のどこかには、ある種の選民思想のようなものさえ根付いていて、自分は人よりも音楽が「分かっている」という自負がある。それならむしろ、絶対音感も相対音感も持たない大多数の人たちのほうが、音楽というものになんの偏見も構えもなく向き合える分、才能を伸ばしていける可能性があるような気もする。
耳にしたメロディーのドレミは言い当てられなくても、完璧な音程で歌える歌手や、多彩なアドリブを繰り出すジャズミュージシャンはたくさんいる。(前述した、タイプ①の相対音感を持った人たち)
彼らは、相対音感が優れているために、いったん楽器の上できっかけとなる音を探し当てれば、かなりすらすらと演奏ができるよう訓練されている。
このタイプ(相対音感ノンラベリング型)の人も、さらに細かく分けると、楽器の上でドレミのラベリングをする段で、固定ド型(譜面固定ド)と移動ド型に分かれる。
実際には、楽器演奏者の多くは固定ドで譜面を読むことに慣れているから、数の上では「相対音感譜面固定ド型」のミュージシャンが多い。
そうなると、「相対音感」と呼ばれる音感を持っている人たちの中でも、音符のラベリング方法として固定ドを取るか移動ドを取るかをめぐって、「哲学的な対立」「理屈抜きの感情的な違和感」が生じることになる。
固定ド・移動ドの対立は、絶対音感と相対音感の対立以上に複雑な構図になっているわけである。
歌は自分で自由にキーを変えて歌えるから移動ド、楽器は決まった音しか出せないから固定ドというのは、ある意味では理にかなっている。
すでにできている曲を再現するためには、譜面の中の音符は決まった名前で呼ばれたほうが都合がいい。
転調がいくらあっても、テンションが鬼のように出てきても、固定ドならば確実にその音を同定できる。
しかし、新しい音楽を作る場合はどうだろうか?
どんなキーで演奏しようが(すでに述べたように、それがたとえA=453ヘルツというような中途半端なピッチであろうが)、メロディーというものは変わらない。
メロディーというものを重視するならば、固定ドよりも移動ドの音感のほうがはるかに大切なのではないか?
偉大な演奏家が名曲を生み出す作曲家であるというケースは極めて稀である。音楽がごく一部の職能集団に委ねられていた昔ならいざ知らず、現代のように、誰もが音楽の世界に飛び込んでいける時代では、演奏家と作曲家は職務分担していることのほうが多い。
誤解のないように断っておくが、私はどちらが偉いなどと言っているわけではないのだ。演奏の技術を身につけることと、人を感動させるメロディーを作り出す能力とは、まったく別物なのだということを言いたいのだ。
単純な疑問がある。
固定ド型音感を持つ音楽家が作曲をする(単純にメロディーを作る)場合、最初から固定ドで頭の中に浮かぶのだろうか?
例えば『チューリップ』のメロディーが頭に浮かんだとする。その調がD(ニ長調)なら、頭に浮かんだメロディーは、ドレミドレミ……ではなく、レミファ# レミファ#……だったりするのだろうか?
そして彼は、この曲は頭に浮かんだときにニ長調だったのだから、ニ長調でなければならないなどと主張するのだろうか?
そういうことが、果たしてありえるのだろうか?
もしあったとしたら、これは「歌心」というものに反しているのではなかろうか?
相対音感固定ド型の人は、何か楽器(例えばピアノ)がそばにないと作曲ができないという人が少なくない。
また、ショパンの超人的テクニックを要求するピアノ曲が弾けるのに、簡単な歌謡曲の伴奏や、即興演奏ができないというピアニストも多い。
どうも、固定ド型音感人間には、音楽においては受動的(譜面を与えられて初めて力が発揮できる演奏家タイプ)が多いのではないかという気がする。
作曲する場合でも、理論を重視し、アレンジまで総合的に考えながらメロディーを組み立てていくタイプは固定ド人間が多いかもしれない。
それに対して、移動ド型人間は、頭の中だけでメロディーを作り出す能力を持つ「歌心」タイプ、「鼻歌作曲タイプ」が多いように思う。
理詰めの作曲か、歌心の作曲かという話で思い浮かぶのは、服部克久氏、小林亜星氏という、日本の音楽界を代表するような大御所二人がぶつかった『どこまでも行こう』盗作訴訟のことだ。
服部氏が作曲した『記念樹』という曲が、自分が作曲した『どこまでも行こう』にそっくりだとして、小林氏が服部氏を提訴した事件は、メディアでも大きく取り上げられた。
マスメディアは「似ていると言えば似ているし、違うと言えば違う」など、煮え切らない反応を示したが、私には、この二人の「盗作」という行為に対する感覚のズレというのは、移動ド人間と固定ド人間の気持ちのすれ違いなのではないかという気がしてならない。
小林氏は恐らく移動ド人間で、メロディーというものを音の相対的な配置としてとらえている。彼の作るメロディーを聴けばすぐ分かることだが、どれも「鼻歌」から生まれたような、温かみのあるメロディーだ。
片や服部氏の作風は、緻密な工作物のようで、メロディーもさることながら、トータルなサウンドとしての音楽性を重視しているように思える。
服部氏は、自分の曲『記念樹』を、こことここが違うから全然違う曲だ、と言いたいのだろうが、小林氏にしてみれば、どこの音符がどう違うなどということではなく、メロディーとして頭の中に響いてくるイメージが同じであり、この程度の違いは本歌と変奏曲の違いにすぎないと言いたいのだと思う。
つまり、小林氏の論拠は相対音感的であり、服部氏の論拠は絶対音感的であるとも言える。
これはかなり暴論に聞こえるかもしれないが、案外、的を得ているのではないだろうか?
絶対音感的に見れば、一音でも違えば違うメロディーとなるが、相対音感的に見れば、全体の流れや音の散らばり方が醸し出すイメージが同じならば「同じ曲」と把握してしまうのだ。
音楽には、一音一音を厳密に定義していくような作業が、確かに必要なこともある。レコーディングのときなどはそうした細かい作業の連続だから、ひどく疲れる。その結果、素晴らしい音楽が生まれる。
しかし、そうした職人芸的なこととは別に、メロディーとして認識されうる大まかな音の流れこそ、作品のアイデンティティということができる。
ジャズミュージシャンがどんなに崩して演奏しても、バッハは頑としてバッハだし、ビートルズはビートルズなのだ。小林氏が言いたいのは、まさにそういうことなのである。
『記念樹』が『どこまでも行こう』の盗作だというなら、日本の音楽界で「盗作」になってしまう曲は限りなく出てくる、という指摘があるが、その通りだ。それが現状であり、そうした曲からも莫大な著作権使用料を徴収しているJASRACにしてみれば、盗作論争というのはあまり本気でやってほしくないところだろう。
盗作問題をここで掘り下げることは避けようと思うが、一つ注目してほしいのは、メロディーの独自性、あるいは曲のアイデンティティというのは、どこの音がいくつ合致している、違っているという見方ではなく、音の流れが生み出すイメージに依るのではないかという考え方が存在するということである。
例えば、由起さおりが歌ってヒットした『夜明けのスキャット』(いずみたく作曲)「ラードードミレー ソーシーシレドー」と、サイモン&ガーファンクルの代表曲『サウンド・オブ・サイレンス』(ポール・サイモン作曲)「ララドドミミレー ソソシシレレドー」は、出だしのメロディーがほとんど同じだ。しかし、その後の展開が全然違ってくるから、この二つは十分「別の曲」として認知されてもいい。
『どこまでも行こう』と『記念樹』の場合は、どの音が違っているからどうのというよりも、曲全体の構成がほとんど同じと言ってもよく、それが小林氏には納得できないのである。
つまり、小林氏の感性には、『記念樹』は『どこまでも行こう』の変奏曲にすぎないと感じるのだ。
ただし、法廷論争に持ち込んだとき、この二つが「別の曲」として認知されることはほぼ確実だろう。
そもそも、服部氏が『記念樹』を作曲したときの気分など、誰にも分からない。恐らく『どこまでも行こう』のことなどまったく頭の中にはなかったのだろうと思う。
服部氏の「亜星さんの『どこまでも行こう』など、存在すら知らない」という言い分だって、テレビを見ない人間なら十分ありえることだ。恐らく、百パーセント「自分の曲」として作曲したのだろうし、その気持ちがある限り、服部氏は小林氏の言い分を受け付けないだろう。
でも、誰が見ても、『どこまでも行こう』は『記念樹』よりはるかによくできたメロディーであり、完成度は比較にならない。それは法廷闘争とは別に、「分かる人には分かる」のだから、亜星さんは問題提起をした時点ですでに「勝者」である。
悲劇的なのは、無名の作曲家のメロディーが著名な作曲家にパクられてCD化されるというケースだ。
ちなみに私は、あちこちのレコード会社にデモテープを持ち込んでいるが、ある日、テレビから自分が作った曲とそっくりのメロディーが流れてきて愕然としたことがある。こういうケースでは、もはや泣き寝入りしかない。
メロディーを音の相対的な配置ととらえる相対音感の中にも、ドレミのラベリング方法によって、固定ド型と移動ド型があるということは、なかなか理解しにくいかもしれない。
そのことを説明するために、ここでもう一度、最相氏の『絶対音感』にも出てくる、鳥のさえずりや、電車が枕木を超えるときの音がドレミで聞こえるという話に戻ってみたい。
最相氏の『絶対音感』の中では、この「自然の音がドレミで聞こえる」という能力は、絶対音感のなせる技だと説明されているが、そうではない。
絶対音感を持つ人間が自然界の音をドレミに感じることはもちろんあるだろうが、それ以上に、相対音感移動ド型の人間のほうが、自然音にドレミを感じることは多いのである。
すでに述べたように、絶対音感というのはある限定された周波数の音にのみ反応する能力である。
440ヘルツ付近の音ならば「ラ」と認識され、466ヘルツ付近の音ならば「ラ#」と認識される。
しかし、自然界の音が、偶然にそうした限定的な周波数の音であることは、確率論的に言っても非常に少ないはずだ。
最相氏の『絶対音感』の中に、矢野顕子氏の話として、電車が枕木を超えるときの音が、例えば「ラミー レドー」と聞こえるという例が出てくる。
もしも絶対音感の人に枕木の音がこう聞こえたとするなら、この四つの音は、440ヘルツ・659ヘルツ・587ヘルツ・523ヘルツということになるだろう。(もちろんそれよりオクターブ上下していてもかまわないが)
しかし、四つの音が偶然この周波数近辺に散らばっているという確率は、極めて少ないはずだ。ほとんど奇跡のような確率と言ってもいい。
では、矢野顕子氏の話は誇張なのか?
そうではない。
実は、電車が枕木を越すときのガタンゴトンという音がドレミで聞こえるという体験は私にもある。
最近はあまりにも世の中が騒々しいので、そこまで耳が鋭敏に反応することは少ないが、子供の頃は毎日、そうした感覚に包まれて生活していた。
ラミー レドー ラミー レドー ……ああ、電車が歌っているなあ……と感じながら旅をしたものである。
しかし、このとき、この「ラ」が440ヘルツ付近だったかというと、多分そうではないと思う。もしかしたら、ファドー シbラbーかもしれないし、ドソーファミbーかもしれない。
どういうことかというと、「ラミレド」という音の並びは、半音を1と数えれば、7音上に上がり、2音下がり、さらに2音下がるという進行になる(図○)。
音楽的には、5度上・長2度下・長2度下となる。
出発点の音の高さはなんでもよくて、ただ、たまたま四つの音が、出発点の音から5度上・長2度下・長2度下の順番で並んだ……というだけなら、そうした現象が起きる確率は、絶対音感を持つ人間が「ラミレド」と正確に聞き取るケースより、はるかに高くなる。
つまり、電車が枕木を超える音が「ラミー レドー」と聞こえることは、絶対音感固定ド型の人間によりも、相対音感移動ド型の人間のほうに、より多くありえることなのである。
しかし、ここで読者の中の何人かは「待てよ」と思われたに違いない。
最初の音がなんでもいいなら、なぜ「ラミレド」なんだ? と。
その通りである。
オクターブは12音で構成されているから。この「5度上・長2度下・長2度下」という進行で4つの音が並ぶ場合というのは、「ラミレド」の他に11通りあるわけだ。
しかし、最初の音に#やbがつくものは外してみよう。相対音感移動ド型の人間には、いくらなんでも「ラ#ファレ#ド#と聞こえる」などというひねくれ者はいないだろうからだ。(そう聞こえるとしたら、それは絶対音感的な耳ということになる)
そこで、最初の音に#やbがつかない組み合わせで並べてみると、「ラミレド」「シファ#ミbレb」「ドソファミb」「レラソファ」「ミシラソ」「ファドシbラb」「ソレドシb」……となる。
この中から、途中にも#やbを含まないものだけ選ぶと、「ラミレド」「レラソファ」「ミシラソ」の三つが残る。
つまりこの「5度上・長2度下・長2度下」という音の構成は、相対音感の人間にとっては、ラミレドだけではなく、レラソファやミシラソと聞こえてもよさそうなはずである。
それなのに、普通は「レラソファ」や「ミシラソ」ではなく、「ラミレド」と聞こえることが多い。
このへんに、相対音感移動ド型人間の不思議さというか、弱点というか、非常に曖昧で定義しがたい部分が現れている。
なぜ、「レラソファ」や「ミシラソ」ではなく、「ラミレド」なのだろうか?
実際に、最初の音がミやレよりもラ(440ヘルツ)に近かったということはあるかもしれない。しかし、実際の音としては「レラソファ」に近いにも関わらず、階名としては「ラミレド」と聞こえるのである。
極端な話、相対音感移動ド型の耳を持つ人間に、正確な「レラソファ」をいきなりポーンと聴かせたとする。彼は「ラミレド」と答えるかもしれないのだ。
こんな場合、絶対音感の持ち主は、鬼の首を取ったように「全然違うじゃないか。いい加減なやつだな」と嘲るだろう。
なぜこんなことになるのだろうか?
すでに書いたが、私が作った音楽CD第一作『狸と五線譜』の冒頭に収録した『ウグイスの主張』という曲は、まさに「鳥のさえずりがドレミに聞こえる」を実証したような曲だ。
ウグイスの鳴き声から始まり、それにピッタリ重なるようにシンセサイザーのメロディーがかぶってくる。
私がこの曲を作るきっかけとなったのは、身延山山頂で聴いたウグイスの鳴き声が「ミドレ ミドレ ミドレ……」という繰り返しに聞こえたからだ。
私はその鳴き声をDATに録音して家に持ち帰り、「ミドレ ミドレ……」の繰り返しで始まる牧歌的な曲を作曲した。
このとき、楽器に合わせてみて初めて、この「ミドレ」がD#(Eb)メジャー(嬰ニ長調or変ホ長調)のスケールの上での「ミドレ」だと分かった。
ということは、絶対音感の持ち主なら、「ミドレ」ではなく「ソレ#ファ」と聞こえることになる。
ところで、「ミドレ」は「長3度下・2度上」という音の進行だから、さっきの「ラミレド」のように検証していくと、「ミドレ」の他にも「ラソファ」「シソラ」も同じである。
実際のウグイスの鳴き声は「ソレファ#」だったのだから、「ミドレ」よりは「ラソファ」のほうが音としては近い場所にある。
それなのに私には、このウグイスの鳴き声は、決して「ラソファ」とは聞こえず、「ミドレ ミドレ ミドレ……」と聞こえたのである。
なぜなのだろう?
相対音感だのなんだのともったいぶっているが、要するにそんなものはいい加減だという証拠じゃないかと言われてしまいそうだが、そうは思わない。
私は、ミドレとラソファ(あるいはシソラ)とは、メロディー的に響きかたが違うと解釈している。
言い換えれば、ミドレで始まるメロディーは無数に考えられても、ラソファやシラソで始まるメロディーというのはかなり不自然なのだ。
ラソファやシラソという音(階名としての音)の並びは、曲の途中に経過的に出てくることはあっても、冒頭に出てくることはあまり考えられない。理屈ではなく、感覚的にそう感じてしまっているのだ。
もちろん、世の中にはいろいろな曲があるから、ラソファやシラソで始める曲があっても少しもおかしくないし、それが名曲である可能性だってある。
かつてトワ・エ・モアという男女デュオが歌ってヒットした『空よ』は、ファーミミーという、一種掟破りな出だしが新鮮な響きとなって多くの人の心をとらえた。
『君が代』は、レドレミソミレ……と「レ」で始まり。……ラーソミレーと「レ」で終わるという極めて珍しい構造のメロディーだが、それが雅楽的な一種独特の個性になっている。
だから、ウグイスの鳴き声を階名で歌ったとき、ラソファやシラソはダメで、ミドレが正しいなどということは決して言えない。そもそも3音の単純な繰り返しだから、それだけではメロディーというほどのものにもなっていない。
それでも、私の頭の中では、はっきりと「ミドレ」と鳴っているのである。
いい加減と言われればそれまでなのだが、逆にこれだけはっきりと「ラソファ」や「シラソ」ではなく、「ミドレ」を主張する音感というところに、実に不可思議で説明しがたい、相対音感移動ド型聴覚の秘密が隠されているような気もする。
再び私自身の子どもの頃の話に戻る。
頑としてピアノ教室に通うことを拒否してから暫くして、今度は鈴木メソードのバイオリン教室に通うことになる。年齢にして四歳から六歳にかけての約二年間だ。
やめてしまったのは引っ越しをしたからで、嫌になったからではない。つまり、最初のピアノのときに比べると、精神的な苦痛はなかったのだろう。
ずっと後になってから、その頃の譜面が出てきた。
このバイオリン教室でも、色音符が使われていたらしく、音符の上に、色鉛筆で着色がしてあった。
懐かしくなってページをめくっていくうちに、あっと思った。
きっちりと「移動ド」で着色されていたのである。
つまり、ヘ長調の曲ならば、Fの音符が赤く塗られている。赤は「ド」だから、まさしく移動ドなのだ。
どうやら、バイオリン教室が長続きしたのは、移動ドで教えていたからかもしれないと思い当たった。
考えてみると、バイオリンは単音楽器だし、指で弦を押さえるという奏法だから、鍵盤がきっちり固定されているピアノに比べれば移動ドがそれほど無理ではない。
ハ長調のドレミファ……を押さえる指使いを、そのまま上に一音分ずらせば、ニ長調になる。
恐らく、この教室での二年間は、私の相対音感を決定づけたに違いない。
この頃、うちでは電蓄(若い人には分からない単語だろうが、昔はレコードプレイヤーのことをこう言ったのだ。今はレコードすら消えて、CDやMDの時代だが)を買ったが、お金がなくてレコードはあまり買えなかった。
与えられたレコードの一つがハイドンの『おもちゃの交響曲』。私は毎日のようにこれを繰り返し繰り返し聴いたものだった。
『おもちゃの交響曲』には、カッコー笛など、玩具楽器のようなものが登場するが、それらも含めてあらゆる楽器の音がすべて「移動ド」で頭の中で鳴っていた。
「ドーミレドー ソファミー ラソソファミー レーファレドシド……」
引っ越しをして小学生になってから後は、楽器を習うこともなく成長した。
八歳のとき、妹が生まれた。
妹が小学校に上がる頃、母はピアノを買った。
足が届かなかった足踏み式オルガンのことを思い出すと、妹が羨ましかった。
しかし、妹はそのうちにピアノを放り出してしまう。
高価なピアノが埃をかぶったまま粗大ゴミと化していくのを見て、私はいたたまれず、「使わないなら俺が習う」と宣言した。
妹が習っていたのと同じ、近所に住む音大生のもとに通い始めた。
やらされたのは定番のバイエル。
このバイエル、一番から進んでいくと、32番でちょっとしたショックを受けることになった。
このへんまではどれも五本指で弾けるメロディーで、指を交差させなくても演奏できる課題ばかり並んでいる。
キーはすべてハ長調で、移動ドでも固定ドでも同じになる。
ところが、32番の課題に来て、「あれ?」と気がついた。調音記号がないから、それまで通りハ長調のつもりで弾くのだが、このメロディーは、実はハ長調というよりはト長調なのである。(図○)
このメロディーを固定ドで表せば、「レドシラー ドシラシー レドシラー ドシラソー……」となる。
しかし、このメロディーは、「メロディー的」にはハ長調ではなく、ト長調である。
つまり、このメロディーをト長調だと解釈して移動ドで歌えば、「ソファミレー ファミレミー ソファミレー ファミレドー……」となる。
ト長調は「シ」にシャープがつくキーだから、この曲のようにドからソまでしかないメロディーなら、シャープは出てこない。出てこないから当然譜面にはひとつもシャープがない。ト音記号の隣に何もついてないから、ああ、ハ長調の曲だなと誰もが思う。
しかしこの曲は、相対音感移動ド型の人間には、どうしてもト長調のメロディーとして解釈しなければ生理的にしっくりこないのである。だから、たとえ一個もF#が出てこなくても、ト音記号の横には#を一つ書いておいてほしいと思ったりする。
固定ド派の人は、何を馬鹿な! と言うかもしれない。
シャープがつく音符が一つもないんだからト長調であるはずがない。なにをぐたぐた言っているんだ。ハ長調で決まりじゃないかと。
そのときの音大生がまさにそういう態度だった。
「シャープがないからハ長調よ。はい、レドシラー ドシラシー……」
いや、絶対に違う。
相対音感移動ド型の人間なら、この曲が聞こえてきたとき、自然と「ソファミレー ファミレミー……」と頭の中で歌っている。なぜなら「そういうメロディーだから」。
この本の冒頭で紹介したヘ長調で書いた『チューリップ』と同じである。
移動ドで歌えば、
「ドレミドレミ ソミレドレミレ ドレミドレミ ソミレドレミド ソソミソララソ ミミレレド」
だが、固定ドで歌えば
「ファソラファソラ ドラソファソラソ ファソラファソラ ドラソファソラファ ドドラドレレド ララソソファ」
となる。どちらもピアノで弾けば、黒鍵部分は一つも出てこない。ヘ長調は4度の音(移動ドでの「ファ」)にbがつくが、その音が一度も出てこないメロディーだからだ。
だからヘ長調で書いた『チューリップ』には、ヘ長調であってもト音記号の横にbを書かなくても、演奏上の支障はない。かといって、この曲を「ハ長調の曲だ」と言ってもよいのだろうか?
そうは言えないはずである。
これが相対音感移動ド型人間の「論拠」である。
バイエル32番はまさにこの「ヘ長調のチューリップ」と同じなのである。
もしもバイエルの32番をハ長調だというならば、私をはじめ、移動ド派の人たちの音楽感は、根底から否定されたも同然なのだ。だから断固譲れない。
シャープがついていないのは、メロディーの中にたまたまドからソまでしか出てこないからであって、この曲はト長調なのであると主張し続ける。
結局、その音大生のもとでのピアノレッスンは長続きしなかった。
バイエル32番は、「レドシラー ドシラシー」ではなく、「ソファミレー ファミレミー」でなければならない。そう感じる相対音感移動ド型音感とはなんなのか?
ここまで検証してきたとき、私たちは「そもそもメロディーとはなんなのか?」「そもそも音感とはなんなのか?」という大きな課題の前に立ちつくすことになる。
■■■■ ティータイム ■■■■
ちょっと堅苦しい話が続いたので、ここでお遊び感覚に戻って、本書冒頭に掲載した「あなたの音感は何型か?」というフローチャートを使って、もっと詳細な音感型判定テストをしてみよう。
また、『チューリップ』は小学校のときに「ドレミ ドレミ……」と歌わされたために、そう聞こえるのではなく、そう「記憶」してしまっているだけかもしれない。
より正確な診断を下すためには、もっとなじみの薄い、しかし単純なメロディーを材料にしたほうがよい。
バイエル32番はうってつけだ。
バイエル32番を聴いて「レドシラー ドシラシー」と聞こえるか、「ソファミレー ファミレミー」と聞こえるか、試してみよう。
インターネットを利用できる人なら、私のホームページに、バイエル32番のMIDIファイルを用意したので、これを聴いてテストしてみるのも一興かと思う。
ただし、誤解のないように断っておくと、これらの音感のどれが「優れている」などということは言えない。
「一般型」だからといって音楽の才能がないなどと決めつけるのは早とちりである。
あくまでも、次の章に読み進む前のウォーミングアップくらいの気持ちでやってほしい。
……ドレミを超越した、より広い世界への誘い
第一章を読み終えた時点で、固定ド派の読者のみなさんは、すでに頭に血が上り、こんなくだらない本を読んで損をしたと思っていらっしゃるかもしれない。
絶対音感や固定ド唱法は創造的ではなく、相対音感に根ざした移動ド唱法こそが音楽的な耳には不可欠なのだ……なんだ、そんな結論かよ……と。
しかし、言うまでもなく、音楽はそんな単純なものではない。
確かにかつての私は、固定ドというのは、メロディーに対して鈍感な人間のもので、移動ドこそ「音楽的な耳」なのだと信じていた。
その「移動ドこそ音楽だ」という確信が初めて揺らいだのは、二十歳を過ぎてからのことだった。
私は高校時代、作曲家の樋口康雄氏に心酔した。
最初に聴いたのはNHKの少年ドラマシリーズ『つぶやき岩の秘密』のテーマで、イントロを聴いただけで体中がビクッと反応したものだ。
なんてかっこいい音楽なんだ。世の中にはこんな凄いアレンジをする人がいるんだと、ショックを覚えた。
その後も彼が手がけたCM音楽や映画・ドラマ音楽は、できうる限り集めた。
大学も、彼が在学しているという上智に進み、すぐに学務部に飛んでいき、連絡先を訊いたのだが、なんと、そのとき樋口さんは大学を辞めてしまった後だった。
それでも諦めきれずに、彼が所属する音楽事務所に押しかけたりもした。
そして数年後、樋口さんと一緒にレコード会社のスタジオでデモテープを録ることになった。
そのための練習を、彼の実家ですることになったのだが、そのとき、スタインウェイのグランドピアノを流麗に弾きこなす彼が、私の曲をなんと固定ドで歌ったのである。
ショックだった。
世界的なバイオリニストやピアニスト、あるいは指揮者が固定ド人間だとしても、全然驚かない。そういうものだろうなと納得するだろう。すでにできあがっている曲を超絶テクニックで演奏し再現するのが仕事の人たちなのだから、固定ドのほうが都合がいいことは容易に理解できる。
しかし、心に響くメロディーを作る天才作曲家が固定ドだなんて……。
樋口さんには「プロで楽器をやる場合、固定ドに馴染まなければダメだよ。スタジオミュージシャンへの指示だって、固定ドでやるわけだしね」と、念まで押されてしまった。
天才だと尊敬する作曲家から「固定ドじゃなければダメだ」と言われてしまったのだ。
ショックだったが、思えばこれは、私がより深い音楽の世界へ誘われるスタートだった気がする。
ここで、第一章で、絶対音感よりも大切だと断言した「相対音感」について、改めてもう少し深く掘り下げて考えてみよう。
絶対音感は固定ド、相対音感は移動ドという図式で言えば、相対音感の持ち主はどんな調でも、その基音(トニック)をド(短調ならラ)にして階名で歌える音感ということになる。
何度も例に挙げている『チューリップ』の出だしなら、どんな調で演奏されようが(あるいは、その演奏のピッチが標準的なA=440ヘルツから外れていようが)、「ドレミ ドレミ ソミレドレミレ」と聞こえる音感のことである。
あるいは、バイエルの32番が、「レドシラー ドシラシー」ではなく、「ソファミレー ファミレミー」と聞こえる音感のことである。
しかし、すでに述べたように、1オクターブには12音が含まれているのに、一般にドレミは7音しか言い表せない。#やbをつけて歌うのはほとんど不可能だし、頭の中で「ミフラットー~」などと響くのも無理がある。
となると、すらすらとドレミで歌えるメロディーというのは、単純な長調か短調のメロディーに限定されることになる。この程度のことで、偉そうに「相対音感」などと言えるのだろうか?
では、12音のドレミファ(例えば、ドルレムミファトゥソセラスシド)で「相対音感」をつけたとすれば完全なのだろうか?
しかし、12音にすべて階名がついているということは、基準が曖昧になるということでもある。また、ドレミ以外の5音がたくさん入っているメロディーというのは、本当にそのキーで作られたメロディーということになるだろうか?
12音階名で相対音感をつけるなどということは、ありえないことなのではないか?
そうした疑問を抱きつつ、ジャズやボサノバに傾倒していくにしたがって、私は自分の音感というものに対して、さらに自信を喪失し、困惑を深めていくことになる。
最初に、二歳十か月で音感教育を受けたなどということを書いたが、実は私は、自分では普通よりもかなり音楽に対して「おくて」だったと思っている。
母は演歌や歌謡曲などが大嫌いで、極力私に聴かせまいとした。かといって、母自身は音楽家ではなかったし、家で毎日クラシックを楽しんでいたなどというわけではない。
小学校のときも、同級生たちが歌う流行歌を、私はテレビで聴いたことがなかった。
小学校五年生で放送部に入ると、朝礼のときにマーチをかける担当になったことがきっかけで、行進曲に夢中になった。ジョン・フィリップ・スーザ作品集なんていうソノシートを買ってきたりした。なんと単純だったのだろう。
中学二年生くらいから、ポップスやフォークを聴くようになるが、ジャズやボサノバにはまだまだなじみが薄かった。
作曲家としてはバカラックやレノン/マッカートニーが好きだった。
思うに、移動ド型の音感が、こうした明快なメロディーを持つ音楽を好ませたのだと思う。
もちろん、どんな音楽を聴いているときも、頭の中は移動ドでメロディーが鳴っている。
(ここから先は、ドレミのカタカナがやたらに出てきて、多くの人は何を言っているのかと戸惑うかもしれないが、移動ド型相対音感を持っている人の多くは「うんうん」と頷きながら読んでくれると思う。ちんぷんかんぷんだという人は、読み飛ばしてくださってもかまわない。)
いろいろな音楽に馴染むうちに、移動ドでは解決できない(歌いきれない)音が次々に現れてくるようになる。
例えば、中学・高校時代は、サイモン&ガーファンクルにはまってコピーバンドのボーカルまでやったが、『ミセス・ロビンソン』のイントロにダバラダバララーンと鳴るエレキギターのメロディーが分からない。
好きだった樋口康雄氏の音楽なども、あちこちにテンションが散りばめられていて、なかなかドレミだけでは歌えない。
ジャズに至っては、調性感がまったく感じられないようなフリージャズのような作品もたくさんある。
演奏の速度などは関係がない。どんなに速弾きされても、それがドレミで言える限りはすべての音が瞬時に頭の中でラベリングされるのだが、ドレミから外れた音が入っていると、ゆっくりしたフレーズでも戸惑ってしまうのだ。
しかし、困ったことに、そうした「ドレミで歌えない」作品には、ドレミだけで歌える曲よりもはるかにかっこよく聞こえてしまうものがいくつもあった。
かっこいいだけではない。素朴な歌心に満ちたシンプルなメロディーでも、ドレミで歌えない、つまり長調や短調のスケールにあてはまらない曲というのはたくさん存在する。
いい例は『グリーン・スリーブズ』だろう。普通のメジャーでもマイナーでもない。一回聴けば忘れられない強烈な印象を残すのに、あの曲をドレミで歌えと言われても歌えないのだ。
大人になるにつれ、簡単にドレミで歌えるメロディーよりも、そうした「ドレミで歌えない」メロディーにますます惹かれるようになっていった。
代表的な作曲家として、ジョビンがあげられる。
前に、テンションノートが入っているためにドレミで歌えない例として、ジョビンの『イパネマの娘』を挙げたが、あの曲などは、途中から転調の連続になる。
レーシシラ レーシシラ……という導入部の後、サビの部分は、いきなり転調して「ミーミファミレミーレドーレー」となるが、そのメロディーがどんどん転調して続く。譜面では臨時記号で対応するが(図○)、本来なら、4小節ずつ転調していると考えるべきだろう。(図○)
私にはこれがすべて「ミーミファミレミーレドーレー」と聞こえるのだが、そのたびに頭の中で移調させていると、アドリブなどはなかなか対処しにくい。
こういうときは、さすがに移動ド唱法の限界を感じないわけにはいかない。
さらに天才・ジョビンは、メロディーとはなんぞやという問いに、『ワンノートサンバ』という名曲で禅問答のように答える。
あの曲の前半は一つの音がずっと続くだけだ。あれを移動ドで歌おうとしたら、「ソッソソソソソソソソソッソソソソ……」である。まるでモールス信号だ。
ところが後ろについているコードがどんどん展開していくので、メロディーよりもコードトーンのほうが主役になっているようなところがある。つまり、コードとメロディーの役割が逆転しているような曲なのだ。
(ちなみに、第一章で紹介した純正律チューニングでは、このような曲を演奏することはまったく不可能と言っていい。このかっこよさが引き出せない音律というだけで、私にとっては純正律の魅力はほとんどないに等しい)
『ワンノートサンバ』にはメロディーがないのだろうか?
そんなことはない。同じ音の連続でも、リズムとコードがつくと、カラフルに彩られる見事な「メロディー」になっているではないか。
しかし、とにかくあれだけ単純な(?)メロディーでありながら、あの曲を移動ドで歌うことはまったく不可能、あるいは無意味であるとも言える。
そして、一転してサビではすべての音が出てくる。
「ラシドレドシラソファミレドシドレミ……」
これはドレミファをラから上下しているだけだ。
つまり、同じ音の羅列の後に、今度はただのドレミファスケールを持ってきているのだ。
なんと人をおちょくった曲だろうか。ところが、これが誰もが認める名曲になっている。それこそ、どんなミュージシャンがどんなスタイルで演奏しても「あ、『ワンノート・サンバ』だ」と分かる。
ジョビンは私がもっとも尊敬する作曲家だが、彼の作品の多くは、ドレミで歌うには無理がある。
ジョビンの作品にはまればはまるほど、私は自分が持っている移動ド型相対音感が、いかにちっぽけなものだったかを痛感することになる。
第一章で、私なりの「ドルレムミファトゥソセラスシド」という12音階名というアイデアをご披露した。
では、12音階名なら、あらゆるメロディーがドレミで歌えるのだろうか?
実験的に、半音がたくさん出てくるジョビンの代表曲に12音階名を当てはめてみよう。
太字部分がドレミの7音階から外れている半音部分である。
まずは『イパネマの娘』。
レーシシラー レーシシラー レーシシラー レーシーシラー ドーララソー スーファファムーファー……
何度歌っても気持ちが悪い。
特に最後が「ファ」で終わるというのが、生理的に許せない気がしてくる。どうしてなのか考えてみると、ドレミファの7音の中での「ファ」の役割とはかけ離れた響きがあるのに、12音階名で歌うとファになってしまうということが、違和感として残るのである。
メロディー的には、むしろ最後のファファムーファーは「ソソファーソー」と頭に響く。つまり、ドーララソーの後のス(ラ#)がきっかけとなって、メロディー全体が1全音下に移調したような組み立てになっている。
この導入部を2回繰り返した後、サビに入るが、サビはいきなり2度下への転調による「ミーミファミレミーレドレー」で、次が2度半上への転調で同じ「ミーミファミレミレドーレー」、さらに半音上への転調で同じ……という、転調の嵐。これを転調と見なさずに12音階名で歌ったら、ただの固定ド唱法になってしまう。
さらに、同じジョビンの代表曲『WAVE(波)』でも12音階名唱法を試してみよう。
「ラドシソー ミファセシレファーミソー ソソラーソソーファミファー ファファソーミー(このへんまではほぼ順調) ミソトゥファーミ ミードドラドレー ムドストゥファームムードー」
わっ! 最後はほとんど半音ではないか。
しかも、最後がドで終わっていることになってしまうと、このドも、普通のドレミファのドが持つ響きとは全然違う。ドで終わるなら完全な終止感があるはずなのに、それがない。ここでは、メロディー的にはむしろ「ラ」に近い感覚が残る。
どうも、12音階名というのは、あまり役に立ちそうもない気がしてくる。
ただし、転調のきっかけに使われるような半音を、限定的に表す場合には役に立ちそうだ。
『イパネマの娘』のサビの最後(頭のメロディーに戻る前の部分)の4小節は、「ミファ|ソソラシドレ|ムー ミ|ファファソラシド|ルー|で、頭の「レーシシラー」に戻ることになり、このムとルなどは結構使えそうだ。
どうやら、12音階名というのは、ごく限られた状況においてしか、あまり有効ではなさそうだ。
しつこいようだが、相対音感と12音階名についての考察を、もう少しさせてほしい。
今度は別の角度から考えてみる。
ドレミで歌えない曲というのは、言い換えれば、普通の長調・短調のスケールから外れた音をたくさん持っている曲ということになる。
ここでいきなりスケール(音階)という言葉を出してきたが、私たちが普段ドレミファ……と呼んでいるものは、たくさんある12音の並べ方のうちの一つでしかない。
音階はこの並べ方以外にもたくさんある。
例えば、俗に言う「よな抜き」というのは、4度(ファ)と7度(シ)を除いた5音階で、民族音楽などによく見られる。
琉球音楽などは、6度(ラ)が抜けているものが多い。
『君が代』は4度(ファ)だけが抜けている。
しかし、これらはドレミファの7音階から何かが抜けているというだけだから、別にドレミファで歌うことに何の支障もない。
問題は、ドレミファ以外の音を含んだ音階である。
アメリカの黒人が発明したと言われるブルーススケールは、ミがbになり、ファとソの間にソbを入れ、シをbにした8音構成のスケールだ。全・半・全・半・半・全・半・全となり、長調とも短調ともつかない独特のモタリが味になっている。
また、普通短調(短音階)というと、ラシドレミファソラという音の並びだが、これは正確には自然的短音階(ナチュラル・マイナー・スケール)と呼ばれる。長ったらしい呼び方があるということは、他にも短音階と呼ばれるものがあるということで、和声的短音階(ハーモニック・マイナー・スケール)と旋律的短音階(メロディック・マイナー・スケール)がそれである。
前述の『グリーン・スリーブズ』は、実は、このうちのメロディック・マイナー・スケールの音列にのっかっているだけのメロディーなのである。
メロディックマイナーというのは、普通のマイナースケールの6音目と7音目(ファとソ)を半音上げた音階だ。つまり、ラシドレミファ#ソ#ラとなる。
このスケールを普通に歌えるドレミがないために、私たちは『グリーンスリーブズ』をドレミで歌えないという理不尽さを味わうことになる。
メロディックマイナーという音階を知っていれば、実にシンプルなメロディーとして把握できる『グリーンスリーブズ』が、普通のマイナーとメジャーの音階しかラベリングされていない人間にとっては、「ドレミで歌えない」とか「半音がいっぱい入っている」と感じさせる。
言い換えると、メロディックマイナーの音階上では全然テンションがないメロディーなのに、マイナーとメジャー(音の並び方としてはこの両者はただの展開形だから同じもの)の音階に無理に当てはめてしまい、シャープがついているとかテンションがあるとか感じてしまうわけだ。
しかし、固定ド型音感の人間にこういう話をしても一笑に付されるだけである。
「メロディックマイナーもハーモニックマイナーも、普通のマイナーのバリエーションであり、6音目や7音目の#はあくまでもバリエーションに過ぎない。それを分かっていれば、#を省略して歌うことになんの違和感もなくなる。『グリーンスリーブズ』は「ラドーレミー ファミレーシソー ラシドーララーソラシーソミ……」と歌えばいいだけのことですよ」というわけだ。
それでも移動ド型音感人間は納得できず、何か他の解決方法を探ろうとする。半音は半音のまま認識したいのだ。きっと『グリーンスリーブズ』がドレミで歌えないのは、あのスケールにおける音感訓練が欠落しているからに違いない……などと考える。
そこで、試しに12音階名を持ち出してみる。
メロディックマイナーを例のドルレムミファトゥソセラスシドの「12音階ドレミ」でいえば、「ラシドレミトゥセラ」である。
もしも相対音感移動ド型人間が、ドレミファを頭に焼き付けたのと同じくらいの時期に、このメロディックマイナーの音階を「ラシドレミトゥセラ」とたたき込んでいたら、『グリーンスリーブズ』を聴いてもすらすらとラベリングできるのだろうか?
「ラドーレミー トゥミレーシソー ラシドーララーソラシーソミー……」……と。
何度歌ってみても、馴染めない。
「ラドーレミー トゥミレーシソー ラシドーララーソラシーソミー……」。
こう書いてみると、普通のマイナースケールと外れている音は「トゥ(ファ#)」の一音だけなのだが、この一音があるだけで、『グリーンスリーブズ』は、普通の短音階のメロディーとはまったく違ったものに聞こえてくる。
というのは、相対音感移動ド型の人間は、無意識のうちに移調してドレミファの7音に当てはめようとする習性があるために、下がってくる部分(トゥミレーシソー)は、5度上のスケールの「シラソミド」に聞こえたりするのだ。
いったん頭の中が5度上のスケールに切り替わると、続く「ラシドーララーソラシーソミー」は、「レミファーレレードレミードラー」に聞こえる。
ドレミファソラシの7音にだけ反応する移動ド型相対音感の頭の中には「ラシドーララーソラシーソミー」とは響いてこない。しかし、「レミファーレレードレミードラー」はありえると感じる。
バイエルの32番が「レドシラー ドシラシー」ではなく、「ソファミレー ファミレミー」でなければならないと感じるように。
この根強いドレミファの音感と、ラシドレミトゥセラというメロディックマイナーの音感とは、共存しうるものなのだろうか? 私には正直なところ、まったく分からない。
もしかしたら、訓練していないから違和感を感じるだけで、最初からメロディックマイナーの音階が階名付きで頭にたたき込まれていれば、普通の短調に対する相対音感とメロディックマイナーの相対音感というものは共存しうるものなのかもしれない。
だが、『グリーンスリーブズ』は、たまたまシンプルな構成であり、メロディックマイナーで曲全体が構成されているからいいようなものの、やはりジョビンの曲のように複雑な構成になると、転調の概念に加えて、曲の途中で音階そのものが変わっている(ここからここまでは普通のマイナーで、ここからはメジャーになって、ここの4小節だけはメロディックマイナーで……というような)などということになったら、それこそ収拾がつかなくなりそうだ。
悩みを深める私に、前述の竹間ジュン氏(アラブ音楽演奏者)は、こう助言してくれた。
「たくきさんの『7音にしか完全な相対音感がない』は正しいと思います。12音を等価とみなすジャンルは、世界の音楽の歴史からみれば、大変特殊です。半音をダイアトニック(ドレミファソラシ)と同列にみるような考えは危険です」
私は、12音階名を「12音を等価に見なすための」道具とは思っていない。今までさんざん繰り返してきたように、それだけはやってはいけないというのが持論なのだから。
しかし、転調の前のきっかけの音としての半音を歌えるようにするとか、味付けとしての半音を歌えるようにするという限定的な場面だけで12音階名を使いましょうという主張は、基準が非常に曖昧で、結局は固定ド的な発想の道具に使われる可能性のほうがはるかに大きいだろう。だとしたら、最初からこのアイデアは引っ込めてしまった方が「安全」なのかもしれない。
相対音感はドレミファソラシの7音にとどめておけばいいんですよ。その他の音が聞こえたら、ああ、半音が鳴っているなと漠然と感じていればいいんですよ……という程度でとどめておくほうが健全なのかもしれない。
ちなみに、音階は他にもいくつもある。
12音の中の7音を選び出して並べる構成では、半音を1、全音を2、全音+半音を3と表せば、順列として、
◎2212221(いわゆるドレミファソラシド。イオニアン、ドリアン、フリジアン……などという教会旋法と言われるものはすべてこれを転回させただけで、並び方は同じ)
◎2122221(メロディックマイナー)
◎2122131(ハーモニックマイナー。リディアンドミナントやオルタードドミナントと呼ばれるスケールはこれの転回形)
◎2121222(オルタードドリアン)
などがある。
1全音半の部分を含むスケールだと、この他にも理論上はかなりできるはずだ。
12音の中の8音を使ったスケールには、21211212のブルーススケールとか、21212121と、ひたすら半音と全音を繰り返すだけで、調性感がまったくない音階(コンビネーション・オブ・ディミニッシュ)などというものもある。コンビネーションディミニッシュなどは階名を与えること自体が無意味である。
これを除くとしても、ハーモニックマイナーやオルタードドリアンなどのスケールをも含めて、矛盾しない音感が頭の中で共存し、その音階にドレミのラベリングを貼るなどということは無理なのではないだろうか?
もしできるとしても、極めて稀な素質を持っている人間だけが可能なのではないだろうか?
ノンラベリング型の音感(鳴っている音に対して、特定のドレミをラベリングしようとは感じない音感)を持つ多くの演奏家にとって、移動ドと固定ドは譜面上で基音(トニック)をどこに置くかという便宜上の違いでしかない。
竹間氏はこう語る。
「私は、物心付いた頃には、ドレミは『階名(=移動ド)」用に、ABC(ドイツ音名)は『音名(=固定ド) 」として使用していたわけです。その二つの相対的な関係は、自分の中ではとても調和していて、問題になったことはありません。ドレミ唱法の場合は、その都度、都合のいい風に歌っているだけで。
自分の経験を思い起こすと、小さい頃からいろんな楽器に携わってきたわけですが、移調楽器、移調譜が当たり前の生活だったので、楽譜を読むときは、その楽譜のドレミで読み、実音と照らし合わせる必要があるときのみ、移調して話をしていたように思います。
高校の時、市民オーケストラでトランペットをやってましたが、ベートーベンの楽譜にはパート譜が全部ハ長調で書いてあるものがあり、各楽器が自分のキーに移調して演奏しなければいけませんでした。たとえば『英雄』のキーはEですが、楽譜ではCで書いてあるので、Bb管であるトランペットの私は、F#に読み替えて演奏しなければならない、といった調子です。
こういうタイプからすると、ソファミレがレドシラでもミレド#シでも一緒なんですよ。
どこから始まっていても、(相対的な)トニックが分かっていればそれでいい。
だから、鳴ってる曲がドレミでどう聞こえるか、という質問は、とても答えるのが難しいです。答えがひとつじゃないんですよ。
あえて言うなら、
(相対的な)トニックが分かればどうにでも言える。
(相対的な)トニックが分からない、あるはトニックのない曲には、ドレミで歌う必然性を感じない。
で、私はこういうのを「相対音感」だと思っています。固定ド移動ドというのは枝葉末節とまではいいませんが、相対音感の話の上では、本質的な問題じゃないと考えます」
恐らくこれは、竹間氏だけでなく、多くのミュージシャンの意見(感覚)だろう。
特に、一つの曲の中で転調が頻繁に起こり、他の移調楽器とのセッションが日常的に行われるジャズの世界では、こうした「相対音感譜面固定ド型」の演奏者が多いと思われる。彼らには、なにがなんでも移動ドのドレミで感じようとする「相対音感移動ド型」の音感の持ち主は、むしろ不自由な音感を持っているがために、半音だらけのジャズのアドリブ奏法などを習得することが困難になっている人たちだと見えるに違いない。
樋口康雄氏が私に言った「固定ドじゃなきゃダメだよ」も、そういう意味なのである。
恐縮だが、ここからもう少しだけ、ややこしい話に触れておきたい。ここまで話を進めてきて「旋法」(モード)のことに触れないのはまずいと思うからだ。
さまざまなスケールに対する音感をすべて身につけられたら……という考えを理論の上で突き詰めていくと、旋法という考え方が出てくる。
長音階(ドレミファソラシド)と短音階(ラシドレミファソラ)は、基音をどこに置くか(どの音から出発するか)という違いだけで、音の並び方は同じと見ることができる。だからこそ、長調の曲でも短調の曲でも同じようにドレミで歌える。
しかし、曲の感じとしては明らかに長調と短調では違ったものとして認識される。
だったら、順列を変えて、レミファソラシドレやミファソラシドレミという音階も存在し、そういう音階の曲というものが存在してもよいのではないかという考え方が当然出てくる。
これが旋法(モード)の出発点である。
ドレミファソラシの順列は当然7つある。この7つにはそれぞれ名前がついていて、まとめて「教会旋法」などという。
ドレミファ……はイオニアン(イオニア旋法)、レミファソ……はドリアン(ドリア旋法)、ミファソラ……はフリジアン(フリギア旋法)などという。
多くの移動ド型人間は、メロディーを長音階か短音階にピタッとはまるよう、無意識に頭の中で移調させてしまう癖があるので、「そんなのドレミファをどこから言うかってだけのことだから、同じものじゃないか」と感じる。しかし、固定ド型人間にとっては、音階は一つの固定された物差しだから、音がどこから始まるかは大変な差である。
ジャズのアドリブなども、このモードという概念に大きく依存している。ジャズミュージシャンにとっては、ドリアン(レミファソラシド)とフリジアン(ミファソラシドレ)では大違いなのだ。
モードはドレミファの並べ替えだけではなく、半音と全音の順列組み合わせ分だけあるわけだから、とてつもない数存在することになる。
こう考えていくと、移動ド音感というのは、数あるモードの中で、イオニアン(ドレミファソラシド)とエオリアン(ラシドレミファソラ)だけに特化した聴覚と言えるのかもしれない。
例えば、普通の長音階(ドレミファ……モードで言えばイオニアン)では、シという音は、基音のドにつながろうとする性質を強く持つ音(導音)としてイメージされる。だからシで始まるメロディーやシで終わるメロディーというのはイメージしにくい。
ドで終わっているとなんとなく落ち着く。ドでなければ、ミやソで終わっていると耳が馴染む。
だから、バイエル32番は、「レドシラー ドシラシー」ではなく「ソファミレー ファミレミー」と聞こえるわけだ。
しかし例えば、フラメンコなどは、ミで始まり、ミで終わるメロディーが多い。
ミッミミミッミミミッミミミッミファッファファファッファファファッファファソッファミッ オーレ!
これは教会旋法で言えばフリジアンスケールということになろうか。つまり、フラメンコではフリジアン的な音感が強く働いていると言えるかもしれない。
アラブ音楽は旋法音楽だと言う竹間ジュン氏は、「旋法こそ音楽の醍醐味だ」と主張してやまない。
「アラブ音楽では、たくさんの旋法を使いこなして、多彩なメロディーを作ります。アラブ音楽には、西洋音楽にあるような機能和声が存在しないため、西洋音楽の耳からすると、なんだかメロディだけ聴かされる音楽のように思う人も少なくありません。しかし、旋法理論の観点から見れば、西洋音楽には長調と短調のたった二つの旋法しかない、ということにもなります」
ここには、ある意味では「ドレミを超越した音感」が無限に広がっていく可能性が感じられる。
もしかしたら、私が「移動ド型相対音感」と呼んでいた音感は、「近代西洋音楽型長調・短調特化型音感」ということだったのかもしれない。
日本の伝統的な童歌に『おちゃらかほい』というのがある。
おちゃらかおちゃらかおちゃらかほい おちゃらかまけたよおちゃらかほい……と歌いながらジャンケンに似たような遊技をするもので、最近の子供たちは知らないかもしれないが、ある年代以上の人なら、「ああ、あれか」と思い当たるだろう。
この「おちゃらかおちゃらか……」の旋律は、移動ド的には「ドレドド ドレドド ドレドド レッ」と聞こえる。
ドレミしかない単純なメロディーなのだが、これなどは、元々はドレミには当てはまらない、もっと微妙な音程を持つ旋律だったような気がする。レもミも、平均律や純正律のドレミよりは低い位置にあるのが、「正式な」(?)「おちゃらか」の旋律なのではないかと思う。子供の頃の記憶のどこかに、そうした日本的音階の断片が残っている気がするのだ。
それが、西洋音楽におけるドレミ音感をたたき込まれた後は、自然とこの三つの音程をドレミに当てはめてしまい、そのうちに頭の中で「ドレドド ドレドド ドレドド レッ」っと、ドレミでラベリングするようになり、それに合わせて音程そのものを平均律に合わせてしまったのではないだろうか?
どうも私にはそんな気がするのだ。
同じように「やーきいもーーー いーーしやーーきいもーー やきたてっ」(ラーレレレーーー ドーーレミーーミレレーー ドレレレッ)や、「たーけやーあーー さおだけーーー」(ミーソソーミーー ソラララーー) 「きんぎょーえーー きんぎょーー」(ソーソーミー ソララー)にしても、本来はドレミでは歌えない類の、もっと微妙な音程だったろうと思われる。
豆腐屋の吹くチャルメラも、平均律や純正律からはかなり外れた音程だ。
江戸時代の物売りの声と、昭和・平成時代の物売りの声では、かなり音程が違うのではないだろうか? もちろん、現代のほうが西洋音楽の音律に近づいてしまった分だけ、元々の日本的音律からは、ずれているだろうという意味だ。
そうだとしたら、偉そうに言っている「音感」などというものは、民族の聴感アイデンティティとでも呼べるものを抹殺している「布教」にすぎないのかもしれない。
固定ド型絶対音感のような機械的な解釈ではなく、かといって、移動ド型相対音感のように長音階と短音階にだけ特化した耳に縛られることもない、自由な聴感の世界は確実に存在する。その視点から見れば、「どんなメロディーもドレミで歌える」などというのも、「絶対音感」同様に単なる妄想・幻想にすぎないのかもしれない。
音感というものは、一度身につけるとなかなか修正が効かない。また、子供の頃に苦労して身につけた音感や、音楽への情熱に支えられ、血のにじむような努力の末に手に入れた音楽理論といったものは、どんな型に分類されようとも、その人にとってはかけがえのない宝物だと感じる。説明しがたい愛着があり、誇りがある。
また、ドレミのラベリングができないということだけで、必要以上のコンプレックスを抱く音楽家もいる。ドレミのラベリングに話題が移った途端に、不機嫌になり「そうせ私には音感がない」などとふてくされたり、「音楽は理屈じゃない。楽しめればそれでいいんだ!」と怒鳴り出す人もいる。
音感の話題は、冷静に考えていく前に、とかく感情的になりやすい。
ひとつだけ言えることは、今、どんな型の音感を身につけていようとも、それを妙に神聖視したり、宗教のように不可侵なものと感じていては、より自由な音楽の世界を楽しむ可能性を狭めてしまうかもしれないということである。
最初に述べたように、単純な人間音叉型の絶対音感だけを神聖視するような風潮はまったくナンセンスだが、その他の音感型については、どれがどれよりも確実に「優れている」などということは断定できない。
それを分かった上でなら、自分の音感がどんな音感型に分類できるのか、一度冷静に分析してみることは決して無駄ではない。それによって、自分が目指す音楽のスタイルや、漠然と思い描いている音楽の楽しみ方を手に入れるためにはどうすればよいのか、今までよりもはっきりとした方法論が見えてくるかもしれない。
これまでの検証で、みなさんは大体、ご自分の音感が何型かということを、ある程度漠然とでも把握されたのではないかと思う。
また、実際には、世の中の大多数の人たちは、ドレミというラベリング能力を持たない「一般型」に入るのではないかと思う。ドレミラベリング能力を持たない一般型の音感を持つと言っても、音楽に対する姿勢や嗜好ということで考えていくと、さまざまなタイプが存在する。
また、そもそも音楽からメロディーというものだけを抜き出して考えること自体に何の価値も見いだせないし、興味も持てないという「非メロディー型」とでも呼べる人たちも、現代ではどんどん増えている気がする。
いくつかの例を挙げながら、そうしたタイプの人たちが、より豊かな音楽生活を楽しむためのヒントを並べてみよう。
……ドレミは分からないが、譜面を見せてもらえば即座に演奏ができるという人たち。幼い頃からピアノ教室などでバイエルやツェルニーを弾かされた人たちにこのタイプが多い。
相当難易度の高い曲でも、譜面さえあればピアノで弾けるのだが、簡単な歌謡曲の伴奏ができないという人はとても多い。これは日本の音楽教育が、クラシックピアノ(それもバイエル一辺倒の)に偏重していることから来ている。
このタイプの人たちは、まず、楽器演奏というものは、譜面の上に成り立つものではないのだということを知ることが必要だろう。ジャズや歌謡曲では、譜面にはコードネームしか書いてないことも多い。お玉杓子をびっしり書くことによって演奏が台無しになる音楽というものがあるのだということを知ることから始めて、コードやモードの勉強に入っていけば、一気に世界が広がる。
もともと譜面を読む能力や、基本的な運指技術はあるのだから、ゼロから始めるよりはずっと有利だ。
……演歌、フォーク、ロックなどの歌のファンには、作品よりも歌手の個性に惹かれるという人も多い。
歌を聴く場合、メロディーではなく、まず歌手の声と表情、次に歌詞の内容が頭に入る。メロディーは、その歌を自分でも歌ってみたいと思ったときに初めて意識するという具合だ。
こういう音楽の楽しみ方には、別に問題は何もない。その人の好きなように楽しめればいい。ただ、自分の好きな歌のメロディーラインだけを抜き取って、ああ、ここがいいなあ……と感じるようになれば、もっと楽しみが増えるかもしれない。
……とにかくリズムセクションがはっきりしていないと聴く気がしないというタイプ。バラードやアカペラなんて全然かったるくて……と感じる人たち。これも別にそれはそれでまったくかまわない。
ただ、本当に「リズム」に敏感なのかどうか、たまにはふと立ち止まって考えてみるのも悪くはない。ドッドッドッドッドというベースの上に、シャカシャカズンシャカ……という単調な8ビートや16ビートがのっているリズムにだけ反応しているとしたら、とてももったいない気がする。リズムの醍醐味というのは、もっともっと複雑でダイナミックなものだ。
打ち込みのリズムマシンを使った音楽でも、非常に複雑なグルーブ感を出しているものもある。
ハーモニーというものにも注目してみるといい。シンガーズアンリミテッドやテイク6など、完璧なハーモニーを誇るグループのアカペラコーラスなどは、リズム楽器はおろか、和音楽器もないところに、豊かな音楽の世界を築く。
また、ドラム系の音だけでなく、ベースに耳を傾けると、今まで聴いていた音楽のビートも、さらに深く楽しめるかもしれない。
インストゥルメンタルを聴いても、メロディーではなく、楽器の音色にまず耳が行くという人もいる。
エレクトリックピアノがソロを取ると、そのメロディーではなく、エレピの音色を聴いてしまうというタイプ。
「やっぱりフェンダーのローズはスーツケース型のほうがいい音してるよねえ」とか「サンタナのギターの泣きはたまらないねえ」という反応が返ってくる。
また、音楽の内容もさることながら、再生装置の音質にこだわるというオーディオマニアもこのタイプに入れていいだろう。
これも別になんの問題もないし、どうこう意見するつもりはまったくない。ただし、メーカーがこけ脅かしで味付けしたいわゆるドンシャリサウンドを「いい音」だなどという錯覚だけはいただけない。
さて、ドレミのラベリングという見地から分類した音感型に立ち戻ってみる。
メロディーを聴いてもドレミが分からないために深いコンプレックスを持っているという人は数多い。
しかし、今まで論じてきたように、少なくとも絶対音感などというものを不必要に神聖視するのはまったくナンセンスだし、それに対して使われる「相対音感」という言葉にも、実際にはさまざまな種類や意味合いがあり、どれが優れているなどと断じることはできない。
ドレミのラベリング能力にしても、見方を変えればかなりいい加減な能力だとも言えそうだ。
フランスでは、ドレミは完全に音名として使われていて(つまり固定ド)、階名で歌を歌うという習慣そのものがないという。歌詞のないメロディーを歌うときは、ラララーなどと歌う。
フランスに行けば、移動ドでドレミが言えないことなどはまったくコンプレックスになりえないかもしれない。
すでに述べたように、ドレミのラベリングができなくとも、極めて音程のいい歌手や、きっかけの音を見つければすぐに楽器でメロディーを再現できる演奏家はいっぱいいる。
プロの音楽家でも、このタイプの「音感」を持っていれば、特にドレミが言えないことに劣等感を持つ必要はない。むしろ、ドレミでラベリングしないことで、自由なアドリブセンスや演奏の味を出すことが可能かもしれない。
だから、「ドレミが言えない」イコール「音感がない」などとは到底言えない。
こうして考えてみると、もっとも問題がありそうなのは、むしろ「絶対音感人間音叉型」や「絶対音感実音固定ド型」の人たちであり、世間的には「神童」「天才」などと呼ばれているグループが、音楽をやっていく上では、かえってハンディを持っているのではないかという懸念さえある。彼らが潜在的に抱える「問題」に比べれば、ドレミが言えない人たちのほうが、むしろ音楽という世界に自由に羽ばたける可能性をより大きく秘めていると言ってもいいのではないか。
ドレミのラベリング能力にこだわる必要はないと結論づけた上で、実は、私にはもっと根本的な不安、懸念がある。
それは、音楽からどんどんメロディーが消えていくのではないかという懸念だ。
もちろん音楽をどう楽しむかは個人の自由だから、音楽とは絶対にこうあるべきだなどとは言えないのだが、それでも「メロディー軽視の音楽」というものがこれ以上幅を利かせていくのを見ているのは忍びない。
今の日本の音楽業界を見ていると、数百万枚売れるCDがある一方で、その音楽は極めて限られた若い世代だけにしか共有されていないという現象が起きている。
かつて、ヒット曲というのは世代を越えて愛された。子供もじいさんばあさんも知っている歌というものがあり、そのメロディーをみんなが口ずさめた。
しかし、数百万枚売れるCDに入っている曲が、そういう意味での馴染みやすいメロディーを持っているかというと、そうでもない。
中には歌手が音痴すぎて、メロディーが把握できないようなものさえある。
機械が叩き出すビートと、刺激的な電子音。音程の正確さやピタッとはまったハーモニーなどは二の次の、絶叫型のヴォーカル。
また、作曲者の顔ぶれを見ても、優秀なメロディー・メイカーが長いこと出現していない。
どうも、メロディーのよさがヒットにつながるというパターンが、完全に崩れ去っているような気がするのだ。
このままでは、音楽におけるメロディーの地位というものはどんどん下がっていくばかりなのではないか?
リズムやハーモニーという面でも、どんどん稚拙になっている気がする。
生きたドラマーが叩き出すダイナミックなグルーブ感は、機械(ドラムマシン)には真似ができないものなのに、わざわざ単調なビートを刻むマシンサウンドが好まれる。そのビートも、工夫がなく、単なる速めの8ビートかそのちょっとしたバリエーションだけだ。
優秀なドラマーやベーシストが職を失い、音楽を続けていくことさえ難しくなっている。
完璧なハーモニーを誇るコーラスグループなどというものも、赤い鳥やオフコースが登場した60年代末から70年代を最後に、長いこと現れていない。
音感のタイプなどというものを細かく論じる前に、日本人の耳が根本的に悪くなっているのではないかという不安を強く感じるのだ。
ゲーム機やカラオケマシンの音源がデジタル化されて、子供たちはますます大味な音にさらされながら成長するようになってしまった。
リズムセクションがない音楽は聴く気がしないというリズム型人間や、メロディーだけを特別に聴くのではなく、音楽はトータルなサウンドとして鑑賞するものだというサウンド型人間の嗜好にいちゃもんをつけるつもりはまったくないのだが、実際にはかっこいいリズムにも美しい音にも鈍感な人間が増えているように思う。
オーディオの世界はハイファイから「ローファイ」に逆戻りしている。
イアフォンでなければ音楽を聴いた気がしないなどという感覚を持つ若者が増えている。音楽制作現場でも、わざとノイズを加えたり、サンプラーのレートを落として音を「汚す」ことがかっこいいなどという風潮が出てきた。
売れ筋のオーディオ装置のほとんどは、一万ヘルツあたりの高音と200ヘルツあたりの低音に不自然なピークを持たせた凹型の味付けをしている。シャカシャシャカ&ドッドッドッドッド……という電子シンバルとバスドラム、シンセベースを強調した音作りだ。
いちばん大切な中音域の質が軽視されているため、およそハイファイ(この言葉自体がおっさん言葉なのだろうが)とはほど遠い。
しかし一方では、相も変わらず教育現場ではクラシック偏重型の音楽教育がなされていて、子供に音楽教育を受けさせようという熱心な親は、絶対音感神話やバイエル権威主義に毒されている。私は、ビートルズ世代の子供たちが親になれば、子供にはもっと自由な音楽教育を施すだろうと期待していたのだが、全然そうはならなかった。
このままでは、音楽という文化はどんどん先細りになる気がする。せっかくこれだけ豊かな道具や環境がありながら、音楽というソフトは衰退し、脆弱化していくのだとしたら、非常にやるせない。
デジタル技術は、道具としては革命的な便利さをもたらしてくれたが、人間はそれを使いこなせずに、デジタルが持つ「機械的無機質さ」に音感を毒されるというマイナス面だけが目立ってくる。
そうした現状を見据えながら、次の章では、このデジタルに、機械に耳を飼い慣らされるのではなく、機械を使いこなして豊かな音楽の世界を築くための方法論を考えてみたい。
……デジタル技術は、音楽にとって両刃の剣
本書の冒頭で、ピアノなど到底買えなかった貧しい家庭に育った私が最初に接した楽器が、足踏み式オルガンだったという話を書いた。
立ち上がって背伸びをしたような格好でようやく鍵盤に手が届く。そんな姿勢を強要され、しかもかなりの力でペダルを漕ぎつづけないと音が出ないという楽器は、三歳の子供には苦痛を与えるものでしかなかった。
それでも、あの頃(昭和30年代前半)、家に鍵盤楽器があるなどというのは、かなり恵まれた環境だったかもしれない。
当時から、庶民にとって「音楽教育」というのは、ピアノという具体的な楽器をイメージすることにつながっていた気がする。「いつかはクラウン」じゃないけれど、「いつかは居間にピアノを」という上昇志向だ。
それがアップライトピアノではなく、グランドピアノだったりしたら完璧で、あそこの家はお子さんにピアノを学ばせるだけの上流家庭だ……などというねじ曲がった羨望を助長していく。
どうも、日本における早期音楽教育というのは、そうした不健全な「イメージ産業」として育っていったような気もする。
絶対音感教育という妄想も、そうした土壌が生み出したものかもしれない。
ピアノと並んで早期音楽教育のシンボル的存在なのが、バイオリンだが、現代の音楽事情からすれば、バイオリンというのは極めて特殊な楽器だといえる。
正確な音程を作るだけでも相当な技術が必要だし、数ある楽器の中からあれを選ばなければならない理由はどこにもない。
そもそも、日本のような木造家屋や狭い集合住宅が中心の住宅事情では、どちらの楽器も隣人たちに迷惑をかけずに練習することは極めて難しい。
私が子供の頃に比べて、楽器の世界は劇的な変化を遂げている。もちろん、電子楽器の登場のことだ。
ピアノは今でも、安くても数十万円はするが、デジタルピアノ(本物のピアノの音をデジタルサンプリングして、音源として再生する一種のシンセサイザー)なら、数万円からある。幼児が弾くのにも無理がないような小さく軽い鍵盤を持つものもある。
日本のような湿気の多い気候風土では、ピアノの調律を正しく保つのはかなり難しく、狂った調律のピアノが置かれているが、あれほど「子供の耳に悪い」代物はない。狂った調律のピアノを弾かせるくらいなら、きちんと調律されたデジタルピアノのほうがはるかにましだ。
(もちろん、玉木氏のような純正律推進派にとっては、正確な平均律はすでに「狂った」調律ということになるのだが、私が言っている「狂っている」というのは、そういう次元ではなく、平均律からもとんでもなく外れている単なる整備不良調律のことである)
打楽器にしても、本物の打楽器の音をサンプリングした電子楽器などがいろいろ売り出されている。本物の民族楽器を買いそろえるなどということは、普通にはなかなかできないが、世界の民族楽器をサンプリングした電子楽器を買い与えることはほんの数万円でできる。
生の(本物の)楽器の出す生音に比べれば、いくら本物の音をサンプリングをしているとはいえ、スピーカーから再生される音は所詮偽物かもしれない。それでも、現在では音楽はCDやMDというデジタルレコーディングされた媒体を通して聴くことが圧倒的に多いわけだから、デジタルサンプリング楽器を否定することは、CDで音楽を楽しむことを否定することと同じだ。手軽に楽器を楽しめるようになった技術革新を素直に享受すればいい。
こうした恵まれた楽器環境がありながら、なぜか多くの親は、未だに生のピアノやバイオリンにこだわる。
小学校に入学してからピアノを買い与え、バイエルをやらせるよりも、幼児期からお気楽なデジタル楽器を買い与え、さまざまな音楽を聴かせ、それに合わせて「音を出す」ことに馴染ませたほうがはるかに高度な音楽感性をつけることができるだろうに。
本物のグランドピアノは、もちろんどんなによくできたデジタルピアノよりも優れているだろうし、それでなければならない音楽というのもあるだろう。しかし、それは一握りのプロピアニストやマニアックな愛好家の世界での話であって、音楽を始める時期にデジタル楽器で始めていけないなどということはまったくない。
本当にピアノという楽器を好きになれば、その子は大きくなってから自然と本物のピアノに移行していくだろう。それは本人の選択に任せればよいのだ。
大切なのは、早く音を楽しむきっかけを与えてあげること。音楽を感じ取る環境を作ってあげることである。
自分たちの親の世代と同じように、いつまでもピアノやバイオリンの「クラシック音楽崇拝」の呪縛に縛られているのは、ビートルズ世代の親として、恥ずかしいことではないだろうか。
日本で、子供に音楽教育を授けるというと、なぜか、ほとんどの場合、近所のピアノ教室に通わせることを意味する。それだけ受け皿が多いということなのだろうが、私に言わせれば、この手の「ピアノ教室」に子供を放り込めば安心と考えるような親は、子供の音楽教育の前に、自分に対する音楽教育が必要だ。
ありふれたピアノ教室では、まず『バイエル』をやらせ、それを卒業すると『ツェルニー』、『ソナチネ』……と進んでいく。運指練習のために『ハノン』を併用するというようなバリエーションもありえるが、たいていはこのパターンだ。
教えているのは音大の卒業生が多く、彼らもまた、同じように『バイエル』→『ツェルニー』→『ソナチネ』……と学ばされてきた。つまり、自分が経てきた「演奏の訓練」を、次の世代に単純に再生産しているにすぎないのだ。
こんなピアノ教室に子供を放り込むのは、砂漠に投げ出して宝石を探せというに等しい。
すでに紹介した「バイエル32番」のエピソードにも書いたが、バイエル再生産型ピアノ教師には、この32番の練習曲がハ長調なのかト長調なのかなどということにさえ無頓着な人間が多い。音楽を教えるのではなく、単にピアノという楽器で譜面通りの演奏を再現させる技術だけを教えているからだ。
いい曲か悪い曲かなどということさえどうでもいい。
譜面に書いてある音情報を正しく再現できればよいわけで、教えている現場を見ても「違うでしょ。ミじゃなくてファでしょ」とか「もっとつっかえずになめらかに弾けるようになるまで、家に帰ってもう一度ちゃんと練習してきなさい」というような程度のことしか言わない。
つっかえずに弾ければ、「はい、よく練習しましたね。じゃあ、次の曲に進みましょうね。ところで今度の発表会には何を弾こうかしらね。これをやってみる?」というようなことの連続。こんなことを何年も続けていたら、子供には、単に楽譜を見てピアノが弾けるという優越感だけが刷り込まれるが、音楽の神髄からはどんどん遠ざかっていくだろう。
そもそも、バイエルなどという教則本を未だに使っているのは日本とオーストリアくらいで、バイエルの故国であるドイツでさえ忘れ去られている。
バイエルをやっていていちばん感じることは、とにかく「つまらない」ということだ。
どんなに単純なメロディーでも、歌心があれば楽しめるのだが、バイエルにはそうした「歌心」を感じさせるような佳曲が少ない。要するに、凡庸な才能の作曲家なのだろう。バイエルの中に、例えば小林亜星氏の『どこまでも行こう』のようなメロディーが入っていたら、同じ練習でも、全然心の満足度が違ってくるはずだ。
本当にピアノという楽器を愛するピアニストや、歌心を大切にする音楽教師なら、まずバイエルという教則本そのものに、一度は疑問を抱いてしかるべきだ。それをせずに、何の工夫もなくバイエル→ツェルニー→ソナチネ……。
教条主義の再生産をしているだけのような凡庸なピアノ教師に、大切な我が子を預けて「安心」しているような親なら、その先に待ちかまえているさまざまな教育問題に対する姿勢もおのずと見えてくる。
隣の誰かさんと同じにしていれば安心……そうした姿勢こそが、日本という国を住みにくく、つまらなくさせている。音楽という自由な宇宙にまで、そうした下品な姿勢を持ち込んでほしくない。
ピアノ教室はあまりにも教条主義的だから、うちでは最初から「エレクトーン教室」にしました、と、誇らしげに語る親もいる。
エレクトーンというのはヤマハの登録商標で、電子オルガンの変種である。松下や河合楽器も似たような商品を別名で出している。
いきなり偏見をぶちまければ、私はこの電子オルガンが大嫌いだった。
音色が大味だし、演奏のスタイルに品がない。
ズンズンチャッチャズンズンチャッチャという内蔵オートリズムマシンが機械的なリズムを刻み、足踏み式鍵盤がブーカブーカというベース音を再生し、音色を変えられる多段式鍵盤で、一見、色とりどり、豪華絢爛な演奏をたった一人で演奏できるのだが、発想がどこか大道芸的、雑伎団的で貧乏くさい。
この手の電子オルガンは、もはや使命を終えていると思う。
MIDI(デジタル信号で音楽の主要情報を伝える共通規格)が出てきてコンピューターと音楽が直結した今、電子音楽は人間が生演奏する必要はない。
また、デジタル技術の発達で、サンプリング音源の品質が飛躍的に向上した今、電子オルガン特有の下卑た電子音よりはるかに心地よい再生音を持つキーボード楽器が安価に手に入る。
しかし、エレクトーン教室という「市場」が確立されてしまったために、この楽器は根強く生き延びているし、音楽教育の一ジャンルとしての地位を揺るぎないものにしている。
ヤマハは、世界的に見ても極めて高い技術力と品質を誇っており、現在では、限りなく本物のピアノに近い音色と鍵盤タッチを持つデジタルピアノや、高品位な音源を内蔵するデジタルキーボードを生産している。これを使って、早期音楽教育にも意欲的に取り組んでいる。
エレクトーンも、高級機にはそれなりの高品位な音源が搭載されているが、なぜか、昔ながらのブースカ&ズンチャッチャ的な音が「エレクトーンらしさ」として認知されているために、わざとローファイに作っているのではないかと思われるふしもある。
もちろん好き嫌いはあると認めた上でだが、私なら、こういう時代にあえてエレクトーンは選ばないだろう。
もし、我が子に与える最初の楽器として、エレクトーンとクラビノーバ(ヤマハのデジタルピアノの商品名)のどっちにしようかと悩んでいるかたがいたら、私は迷わずクラビノーバのほうをお勧めする。あれは、世界に誇れる日本の工業製品の一つだと思う。
なお、デジタルピアノに関しては、ヤマハだけではなく、カワイ、ローランド、コルグ、カシオ、テクニクス、コロムビアなどが生産しているが、どこも、プロミュージシャン用のモデルと一般家庭用のモデルをはっきり区別して位置づけている。これは非常に興味深い。
プロ用のデジタルピアノは、ライン出力で録音したり、外部の大型PA装置に接続してそのスピーカーから音を出すことが多いので、内蔵のアンプやスピーカーはそれほど重視されていない。その代わり、鍵盤のタッチや音色、堅牢さなどは手を抜かない。また、MIDI信号をコントロールする司令塔としての機能も重視される。
一般家庭用は、内蔵スピーカーから直接音を出すために、その部分にそれなりの工夫がしてある。また、昔ながらの「ピアノは家具でもある」という日本人特有の見栄を満たすために、わざと木目パネルを使って箱形に設計するなどしている。もちろん、この部分は楽器の性能にはまったく関係がない。
家庭用のデジタルピアノは、本物のピアノと同じ売場で売られており、プロ用のデジタルピアノは、シンセサイザーやMIDI関連楽器の売場に置かれていることが多い。フロアが違うので、プロ用のキーボードにはまったく目がいかない人も多いが、基本的にはまったく同じデジタルピアノなのだから、購入の際には、プロ用のデジタルピアノも一度見てみることをお勧めする。
同じ値段なら、プロ用のほうが音源の品質などは1クラス上であることがある。また、将来、MIDIによる音楽制作などに進む場合には、プロ用デジタルピアノは、システムの核として使える。
また、生ピアノと同じ88鍵のモデルと、それよりも上下を少しカットした76鍵モデルがあるが、鍵盤に関しては、数よりもタッチや堅牢さを重視すべきである。
デジタル楽器は非常に便利だし、一般家庭での音楽教育を容易にさせてくれるありがたいものだが、それでも、厳然と「生のよさ」というものは存在する。
必要以上に「本物志向」になることはないが、できれば、子供の頃から、一つでも生の楽器を与えて、生の音を出すことの楽しさ、豊かさを学ばせたほうがよい。
高価で複雑な楽器である必要はない。簡単なパーカッション楽器とか(五百円のシェイカーでもいい)、ハーモニカとか、オカリナとかでもいい。
電子楽器の中に、一つでも生楽器が入ると、俄然音楽が生き生きした表情を見せる。
CDのデジタル音からは得られない、生の音への感触というものを、小さい子供のうちにこそ覚えさせるべきだ。
音感もついた、キーボードも弾ける、歌心のあるメロディーも作れるようになった。
でも、大人になってもデジタルピアノと本物のピアノの生音の差が分からないというのは、やはり問題だと思うのだ。
私はKAMUNAというギターデュオを結成しているが、最近では、生ギターをまったく知らないまま、いきなりエレキギターを手にする子供が増えていることに、少々不安を感じている。
エレクトリックサウンドが悪いということではない。
ギター本来の音色、生音の豊かさ、微妙な表情を指先で感じないまま、いきなりエフェクターをかけて歪ませ、大音量でスピーカーから再生されるエレキギターを始めてしまうということに不安を感じるのだ。
持ち運べて、どんな場所でも、意のままの音量で演奏できるというのがギターの長所なのに、エレキギターは最初から再生音を前提となっている楽器だ。
最近のロックバンドのヴォーカリストに極端な音痴が多いのも、このことと無関係ではないように思う。
大音量や刺激的な音は、若い脳には直接的な快感を与えるが、それは音楽の持つ可能性の中では、かなり特殊なものだろうし、他の要素に対する感性を麻痺させることも考えられる。
強く弾けば強い音が出るという体験よりも先に、ボリュームつまみを回せばでかい音が出るという体験の洗礼を受けることは、やはり危険なことだろう。
ギターならば、指の腹で弾いたときと、生爪で弾いたときと、ピックで弾いたときではまったく違う音がするが、エレキギターでは、ディストーションをかければ歪み、リバーブをかければ余韻がつくというような電子的な解決法が先に立つきらいがある。
エレキギターの達人として名を轟かせたギタリストが、後に物足りなくなり、ナイロン弦の生ギターを好んで弾くようなケースがよくあるが、そのときも、ラミレスのクラシックギターをピックで弾いているのを見たりすると、相当がっかりする。
第一章、第二章では音感というものを詳しく論じてきた。
結論は、ドレミのラベリングができないことを必要以上に悲観することはまったくないということだったが、では、幼児教育という観点からはどうなのだろうか?
幼児期の音感教育はまったく必要ないのだろうか?
私は、できることなら音感教育を授けたほうがよいとは思っている。もちろん、それは人間音叉的な絶対音感教育のことではない。
日本人はLとRの音が聞き分けられないとよく言われる。かくいう私もその一人で、メロディーのドレミは分かるが、LとRの聞き分けはできない。
聴覚のある部分というのは、幼児期に決定してしまい、成長してからでは訓練できないというのは、生理学的にもほぼ証明されている。
LとRが聞き分けられないのは、アジア人と欧米人というような人種的な差異によるものではない。子供のときから欧米語環境の中で育てば、アジア人でもちゃんとLとRは判別できる。
音楽に対する聴覚能力も、同じように幼児期でなければ身につかない部分というのは存在するだろう。
ドレミのラベリング能力は、もっとも分かりやすい効果なので、特に問題にされるが、このドレミのラベリング能力にもさまざまなタイプがあるということはすでにさんざん説明してきたとおりだ。
その中で、実音固定ドによるラベリング能力に対する疑問についても、繰り返し述べてきたとおりだ。
相対音感による固定ドラベリングにしても、今行われている音感教育では、どうしても長調・短調(教会旋法的に言えば、イオニアンとエオリアン)のみに特化した移動ド音感がつくわけだが、これが本当に望ましい音感なのかどうかは分からない。
長調・短調に関する限りは、どんなメロディーでも瞬時に移動ドで言えるから、比較的単純なメロディーなら、作曲したり、音楽を採譜したりする場合には有効である。ダイアトニック(ドレミファソラシド)以外の半音が含まれていても、隣接するダイアトニックから半音上か下かという判断をしていけば音がとれるから、ないよりはあったほうが便利なことが多いということも言える。
しかし、それが逆に足かせになって、テンションの多い旋律や、長調・短調以外のモードにのったメロディーを不自由に感じてしまうようなことがあれば、問題だろう。私の場合、移動ド音感のために、ジョビンの曲のような、調性感が曖昧なメロディーに対して「目覚める」のが遅かったようにも思う。
移動ドによるラベリング能力を身につけさせたほうがよいのかどうかは、意見が分かれるところかもしれない。
ごく幼い時期から、ドレミだけではなく、半音を含めたあらゆるモード音感のようなものをたたき込んだらどういうことになるのか?
これはちょっと想像がつかない。もしかしたら天才と呼ばれるような音楽家に育つかもしれないし、無理がたたって(?)、調性感が持てない、破壊的な音楽嗜好の持ち主になってしまうかもしれない。
ドレミのラベリングを別にすれば、音楽に対する感覚の多くは、成長してからでも、練習によって後天的に身につけることは可能である。リズム感などは、ドレミのラベリングなどに比べれば、大人になってからの練習が実を結びやすい分野だ。
また、ノンラベリング型の相対音感は、大人になってからでも十分に練習で伸ばしていける。音楽を演奏するという視点からは、ドレミのラベリングなどよりはそうした感覚を研ぎ澄ませることのほうがはるかに大切だ。
だから、音楽全般に対する「音感」がすべて幼児期に決定されると思いこむのも誤りだろう。
「プロになるにはもう遅いから」と言って諦める人がいるが、それは結局、本当に好きではないからだ。プロレベルの演奏家になる道は、ごく一部の恵まれた環境で幼児期を過ごした人たちの特権ではない。ましてや作曲や編曲などの創作能力はまた別のものだろう。
クラシックの世界では、とかく技術習得に関する神話がまかり通る。プロになるには安物の楽器を使っていたのでは話にならないとか、芸大の○○先生の下で最低○年間は個人レッスンを受け、一日八時間は練習をしなければ世界レベルはおろか、国内レベルでも一流の演奏家にはなれないといったような。
(ちなみに、最相氏の『絶対音感』は、かなり頑張って書いているとは思うが、結局は、こうした悪しき「神話」を最終的には肯定してしまっているかのような印象が残る。私を始め、多くの読者はその点をとても残念に思い、すっきりしない読後感を味わうことになるのだと思う。)
はっきり言うが、そうした「神話」はくだらないものだ。音楽の素晴らしさは、そんな俗物的な神話では到底語り尽くせない自由な広がりを持っている。
クラシック音楽演奏家の世界というのは、音楽という広大で深遠な宇宙の中における、ごくごく限定的な村社会での「方言」により成り立っていると言ってもいい。
それを愛する人はとことん愛し、努力すればいい。だが、それを至上の価値と見なすのは馬鹿げている。
まだ何にも染まっていない我が子に音楽教育を授けようとする場合、いちばん大切なのは、選択の自由度を広げてやることだ。後にその子がどういう音楽を好きになるのか(あるいは音楽以外の世界に、もっと大きな価値を見いだすのか)は、親といえども分からない。最初から選択肢を狭めて、これとこれとこれしか選んではいけないというような教育をするべきではない。
バイオリンとクラシックピアノに偏重した幼児期音楽教育というのは、まさにそうした「選択肢を最初から狭めている」教育ではなかろうか?
選択肢を広げてやるという意味では、なによりも多くの音楽を耳にすることが大切だ。
私の母は、音楽が好きと言うよりは、教養としての西洋音楽崇拝者のようなところがあり、自分がキリスト教系の教育機関で学んだことを何かにつけて自慢していた。
実父はギターを抱えたアマチュア演歌師で、地方ののど自慢大会などを荒らし回っていたそうだ。
二人の感性はまったく相容れず、結局離婚に至るのだが、その後、母親の影響下にあった私は、流行歌というものを聴かされずに育った。テレビのヒット歌謡番組を見ていたりすると「品がない」と怒られたものだが、これがどれだけ私の音楽的な「素養」にマイナスに働いたかを思うと、忸怩たるものがある。
親が、自分の好きなジャンルの音楽を子供にも聴かせようとするのは当然の感情だろうが、それが他のジャンルに対して排他的に働くのは、子供にとって決して幸せなことではない。
できれば、普段は自分が聴かないようなジャンルにまで手を広げて、名演とか名作とされているものを子供に聴かせてみるとよい。
教条主義的で無味乾燥なピアノ教室に長いこと通わせて、形の上ではピアノが弾けるようになったという子供よりも、楽器を何も習わせなくても、幼い頃からいろいろなジャンルの名曲を数多く聴いて育った子供のほうが、はるかに音楽的な素養は豊かになるだろう。そこで培われた「生きた音感」「自由な相対音感」こそ、成長してからの真の宝物になるはずだ。
音楽の世界におけるデジタル技術革新は、ハードとしては劇的な革命をもたらしたが、同時に、ソフトとしては、子供の聴覚を歪め、音楽の多様性に気づかせなくさせるようなマイナス効果をもたらしている。
コンピューター文化というものは総じてそうなのだが、技術の進歩に、人間の精神性がついていかない。
なんでもかんでもアナログなものがよいと言っているわけではない。問題は、技術革新というのは、下品なものを量産する危険性を秘めており、人間はどうしても、そうした下品なものを受け入れ、それに甘んじてしまう弱い存在なのだということだ。
努力しなくても、電子楽器とパソコンで、プロレベルの演奏をシミュレーションできてしまう。それは、一面では、オーケストレーションの世界を、ごく一部の限られたブルジョワから大衆へと解放してくれた。
かつては、どんなに優れた才能を持っていても、自分の作品をオーケストラに演奏させるなどということは、一般の人間には一生かかっても不可能だった。チャンスを与えられない不平等な世界だった。
ところが、デジタル技術のおかげで、それに似たことが疑似体験できるようになった。
レコードを作るなどということも、かつてはレコード会社やスポンサーの同意がなければなしえないことだった。ところが今では、その気になれば、メジャーレーベルのCDに勝るとも劣らないCDが、個人の家でできる。
デジタル技術のおかげで、かつては数千万とか億という単位だったプロ用の録音機材が、数万、数十万円のレベルにまで下がり、今ではプロのスタジオにある機材と同じものが一般家庭の部屋に置かれている。
現状を知らない人には、にわかには信じられないかもしれないが、実際にそうなのだ。
手前味噌でお恥ずかしいが、KAMUNAの二枚目のアルバム『アンガジェ』は、月刊ステレオという音響専門誌で、数あるメジャーレーベルのCDを押しのけて録音評価点8・5点(準優秀録音)に認定された。
四畳半スタジオで作られたインディーズのCDが、メジャーレーベルから売り出されるCDより高音質だと認定されたわけだが、こんなことは、かつてのアナログレコードの時代には考えられないことだった。
詳しい説明は省くが、デジタル技術革新のおかげで、今や誰でも高音質の音楽CDを制作できるようになった。
こうなると、問題は作品の中身であり、売っていくシステムだ。
市場システムの問題は簡単には改善されないだろう。音楽の現場に身を置く者はみな、どんどん悪くなっていると感じている。
しかし、本当によい音楽があちこちから誕生していけば、硬直した市場システムも変わらざるをえないだろう。
そういう時代がはたして来るのか……。
すべては、音楽というものが、もう一度豊かな感性の世界を取り戻せるかどうかにかかっている。
最相葉月氏が書いた『絶対音感』(小学館)という本が話題を呼んだのは1998年のことである。それまではこの「絶対音感」という言葉が、日本でこれほどまでに注目されることはなかったように思う。その意味では注目すべき「事件」だった。
しかし、同時に、多くの音楽家や音楽ファンが、「何を今さら絶対音感などという『死語』を持ち出したのか。しかもあのようなヴィジョンのない内容では、ゾンビを中途半端に生き返らせただけではないか」と苦々しく思ったのも事実である。
私は最初、この本を黙殺していた。
音楽家は理屈ではなく、心を揺さぶる音楽を紡ぎ出せばよいのである。よい音楽は、どんな理論にも勝る。
また、「よい音楽」は、聴く人によって違う。それを理屈でどうこう説いたところで、むなしさが残るだけだ。
しかし、今の貧困な日本の音楽シーンを見ていると、そうとばかりは言っていられない気になってくる。
現代はハードの面においては夢のような時代だ。デジタル技術の発達は、音楽の世界にも革命をもたらした。おかげで、誰もがその気になれば独力で音楽CDを制作できる時代になった。
このこと自体は素晴らしいことなのだが、逆に、ソフトの面においては、どんどん貧相に、下品になっていく気がしてならない。
優れた文化は、よいソフトがあってこそ育つ。ソフトが根本的に間違っていては、どんなに潜在的な才能があっても、開花しない。それどころか、可能性をどんどん狭めていくこともある。
よい機会なので、「絶対音感」という言葉を出発点として、そもそも音楽とはなんなのか? 私たちが豊かな音楽生活を享受するためには、どうすればいいのか、きちんとした検証を試みることにした。
その際の基本精神は、再現性よりも創造性、戒律よりも自由ということである。音楽の醍醐味とは、そうした能動的な方向にこそあると信ずるからである。
次の世代の子供たちが、私たちよりも、真に質の面で幸せな「音感」を身につけられるように祈りつつ、筆を置きたい。